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市民同士の交流論議に
長崎原爆展6日目
             激しく語る被爆市民   2005年7月2日付

 6日目を迎えた長崎原爆展は、約1500人の市民が参観に訪れ、400枚をこえるアンケートと、10万円をこえるカンパが寄せられている。訪れる被爆者は日に日に数を増し、パネルの前で見ず知らずの被爆者がおたがいに、思いを語りあう姿も見られるようになっている。長年沈黙をよびなくされた長崎の被爆市民が激しい感情をあらわしている。
   
 1500人の市民が参観 アメリカの犯罪行為許さぬ
 16歳で被爆したという男性は、「8月9日は具合が悪くて動員先の三菱兵器を休んでいて、穴弘法の山手の方にあった自宅で被爆した。左腕はやけどし、厚い皮がはがれて指先から垂れ下がった。背中にはガラスの破片がいっぱい突き刺さった」といまも腕に残るやけどのあとを見せながら語った。警防団の人たちに助けられて大学病院に運ばれ、それから新興善国民学校に運ばれたという。「帰ったのは9月24日で、それまでまわりの状況はまったくわからない。1歳下の弟は同じ兵器に行っていて帰ってこなかった。いまだにわからないままだ」と語った。「市長たちもアメリカに行ったけど、相手にされないで帰って来た。アメリカは自分が原爆をたくさん持っていて、好き放題している。自分が率先してなくせばいいんだ」といった。「脳梗塞をやって、当時のことも思い出せないことがある。自分の体験を書いておかなければと思うが、早くやっておけばよかった」と悔しそうに語った。
 友だちと連れだって訪れた70代の婦人は、「立山で防空壕を掘っていて被爆した。一糸まとわぬ姿で男も女もお化けのような格好で逃げ、浦上川には水を求めて何千人という人が重なって死んでいた。ほんとうに地獄そのものだった」と被爆の惨状を訴え、「防空壕に避難すると、つぶされた家の下敷きになった父親を見捨てて逃げて来たと母娘が泣きながら語っていた。焼けただれてうずくまる人、すでに蛆がわいている人…、まともな人は1人もいなかった。あの惨状はどうにかして後世に伝えたい」と声を荒げた。
 家が焼けて防空壕で暮らしながら「浦上川でアサリを拾い、池に浮いたフナ、雑草も食べた」こと、かよっていた新興善国民学校の教室はけが人の病室になったので晧台寺で授業を受けた戦後の苦労を語り、「最近、長崎の先生も原爆のことを知らない。長崎の子どもに教えたい」といって、賛同協力を名のり出た。
 三川町(爆心地から3`)のイモ畑の草とりをしていて被爆した70代の婦人は、「爆風で体が飛ばされ、ふりむくと金比羅山のむこうに灰色、赤、白など異様な光を出しながらものすごい雲が上がっていた。三川町はかやぶきの家が多かったので数十軒が焼けた。父は3日目にズボンがボロボロに裂け、腕時計のベルトだけつけた姿で帰ってきた。死体で道がとおれなかったので川をのぼってきた」と語り、「アメリカはつぎからつぎに戦争をしている。なぜ、こんな人殺しをする必要があったのか」とこみ上げる怒りをぶつけた。
 国分町の造船所で作業中に被爆した80代の男性は「港と香焼の方面からB29が飛んで来たが頭上をとおり過ぎたので安心していたときに、ピカッと光った。とっさに海に飛びこんで岸まで泳いだ。その後、防衛召集がかかって救護の死体処理などの任務で医科大学まで行ったが、やけど患者を防空壕に入れても片っ端から死んでいった。肉親捜しの家族から“このなかにお袋がいる”“兄弟がいる”といわれて、死体の山の中から引きずり出したが、つかむとズルリと皮がむけて手がつけられなかった」と身振りをまじえて話した。
 また、兵役で満州からシンガポールに送られた経験を語り、「外地でも日本の敗戦は目に見えていたし、原爆を落とす必要などなかった。長崎にローマ法王が来て“人を殺せば赤い血が出る”と仰仰しく日本人に説教するが、原爆を落としたアメリカに行って説教しろ! といいたい。自分の信徒が戦争をやりつづけているのにほかに説教する権利はない」と語り「長崎では被爆資料がなく、体験をしゃべれといわれてもしゃべれるものじゃなかったが、この展示をやるときは参加したいので教えてほしい」と連絡先を記して行った。

 原爆投下の責任を隠す潮流に憤り
 会場で出会った婦人といっしょにパネルを見て回り、「沖縄戦の真実」のパネルの前で論議していた70代の男性は「原爆は子どもまで犠牲にするんだ!」と怒りをぶつけるように体験を語りはじめた。爆心地から1・8`の畑で被爆し、家に帰ってみると家も牛も吹き飛ばされていたという。電車の吊り輪を握ったまま死んでいる人や、近所の人たちも歯がぬけたり、血が出たりして亡くなっていった。母親が営んでいた菓子屋に来ていた子どもは即死したという。
 「みんな天皇陛下万歳というけど、天皇は自分の地位を守るために人を犠牲にした。子どものころ、奉安殿に毎朝最敬礼しなければならなくて、忘れて走っていき、先生にビンタされたことがある。そこには天皇の写真と教育勅語が置いてあるだけだ。その天皇が自分を守るためにみんなを犠牲にした」と語った。
 「佐世保も仕事がないからみんな基地に働きに行ったが、沖縄とまったく同じだった。アメリカは日本を植民地にするために来た。皇居も京都、奈良も日本を抑えるために大事なところは残した」と激しく語り、最終日3日に予定されている広島の被爆者との交流会に参加することを約束していった。
 1950年代から峠三吉を知っているという男性は、峠三吉の詩集を買い求めた。そして、長崎ではアメリカの占領下で、永井隆だけが原爆のことを書くのを許されたこと、本を8冊出版し、全部ベストセラーになったことを語り、「永井は原爆投下は神の摂理であるという、原爆投下の責任をあいまいにする論を書いたからアメリカにとっては都合がよかったのだ。ヘレンケラーが来日したときも永井に会わせて、それをマスコミが大大的にとりあげた。天皇のときはさすがに如己堂までは行かなかったが、大学病院まで永井隆を連れてきて、会見した。それも大きくとりあげられた」と語った。そして「いまでも修学旅行に来る子どもたちは永井隆の“この子を残して”を読んできて、如己堂に行きたいという。それがはがゆい」と永井隆が長崎の代表のようにあつかわれることへの悔しさを語り、「この展示は原爆投下の責任がはっきりと書いてあってよい」といった。
 姉がゼロ歳で被爆したという被爆2世の婦人は、姉は結婚したが子どもが生まれず、調べてみると子宮がまったく成長していなかった経験を語り、「なぜ原爆を投下したのかパネルを見てはじめて知った。なぜ子どもたちがこんなに犠牲にならないといけないのか。天皇が最近サイパンに行って“平和を祈るだけだ”といったが、祈りじゃない! といいたい」と語った。
 さらに佐世保に米軍が入って来ると、大きな体をした米兵がたむろし、アメリカのようになること、大村の自衛隊がイスラムの格好をしてイラクに行く演習をしていたことを語り、「なぜ原爆を落としたアメリカのためにイラクに行く訓練までさせられなければいけないんですか」と語った。そしてなにかしたいと3日のチラシを友だちも誘おうと持ち帰った。
 「会場で語られた被爆者の声」のパネルをじっくり読んでいた男性(20代)は、「長崎出身なのに、原爆についてテレビなどでつくられた外側からのイメージとしてしか伝わらなかった。はじめて知ることばかりだったが、アメリカへの怒りの激しさが伝わってきた。長崎ではこうした実際の体験者の声が表に出ることがない。原爆投下は結果的に戦争を終わらせたからよかったという考え方も聞くが、実際体験者の思いはまったく違う。アメリカも戦後、また戦争することをにらんで原爆を使っている。衝撃だった」と話した。
 ボランティアで被爆遺構ガイドをしている二人連れの婦人たちも、峠三吉の詩にはじめてふれ「長崎の原爆資料館には“悲しみ”と“祈り”しかないが、この詩には怒りがある。“長崎の怒り”を伝えないといけない」と語って、峠詩集を買い求めていった。

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