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市民の購買力減退が問題
下関あるかぽーと計画
               働く場を増やすことが先決    2006年2月23日付

 下関市の江島潔市長が関門海峡沿いの市有地に、大型商業施設を誘致するあるかぽーと開発を、市議会や地元商店会の一部執行部をだきこんでしゃにむに突っ走っている。初期投資で百数十億円という巨大な箱物プロジェクトで、周辺の商店街をのきなみなぎ倒す死活問題であり、地域経済全体にかかわる問題となっている。これ以上の大型商業施設を求めている市民はいないどころか、商店街がなくなればお年寄りは買物ができなくなる。地域経済は長期にわたり衰退したままで、市民のなかには失業、半失業状態が広がって、妻子もまともに養えなくなっており、購買力を上げる経済政策のほうが緊急となっている。

  市内の就業者数は大幅減
 下関市の就業者数(15歳以上)は2000年の国勢調査では11万8806人で、95年の前回調査と比べると、マイナス7000人と大幅減となった。下げ幅としては、戦後で最大規模であった。95年に登場した江島市政は、観光が目玉などといってきたが、実際は箱物づくりの利権事業ばかりで、雇用政策は無策に等しかった。過去25年間の推移は、
    80年 12万3751人
    85年 12万2963人
    90年 12万2927人
    95年 12万5744人
    00年 11万8806人
 就業人口の変せんを見ると、水産がさかんだった70年代はじめは、漁業者だけで約5000人おり、第1次産業で約1万5000人が働いていた。それが2000年で3分の1の約4500人となり、なかでも以西底引きやまき網など遠洋漁業の衰退で、漁業者は653人にまで落ちこんだ。水産業とともに発展してきた造船業や、機械器具などの工業も大きなあおりを受けて倒産廃業があいついだ。
 ところが失業者がふえるのを吸収してきた水産加工や食料品製造などの第2次産業と第3次産業が、2000年には減少に転じた。構造改革の影響により卸・小売業がたたきつぶされたため、3228人が職を追われ、事業所数で約1600もへった。製造業も2546人へった。江島市政は技術革新や生産力を上げるなど雇用にかかわる経済政策を、まったくサボってきたのである。賃金、俸給として市内の労働者や従業員に払われた市民所得は、97年の4333億円から2002年には3946億円と、5年間でマイナス9%となった。
 25年間でサービス業は倍加して3万1000人となったが、パート・アルバイトといった不安定なものばかりで、独り身か副業でしか就けない「女工哀史」のようなもの。また派遣労働の解禁により、最低賃金すれすれで社会保険などもない失業・半失業の労働者がふえた。就業人口1万2500人の建設労働者を見ると、10年まえには大工1人が1日1万6000〜1万8000円だったが、いまは半値の1万円まで下がっている。左官も1日1人当り2万円だったが、いまは同1万5000円前後。土木作業員はさらにひどく、同1万5000円前後が6000〜1万円と半値以下までたたかれている。江島市長は大型公共事業は市外大手に発注して、地元業者は少ない仕事でダンピングさせるなどして、市内で広がる奴隷労働づくりの旗振り役をしてきた。
  大工のA氏(30歳)は建設会社の下請をしているが、市内に仕事がないのでいまは宇部や山陽小野田に働きに出る。昨年、結婚してはじめての子どもが生まれたが、明日の仕事があるかわからない身の上で、「正直にいってビクビクしている」と肩を落とす。彦島の水産加工工場で働くB氏(22歳)は、薄給のため親の家から通勤するが、「これでは彼女ともいっしょになれない」と嘆く。タクシー運転手のC氏(50代)は、2人の子どもをかかえて、飲食店で働く妻と2人で必死で働く。朝から晩まで働きづめで、手取りが月16万〜17万円ではやっていけない。
 旧市内で1年間に生まれた赤ちゃんの数は、2003年調べで人口25万人のうち1912人であった。人口1000人当りの出生率7・7人は全国平均8・8人を下回っており、山口県の48市町村の平均8・1にも満たず、県下13市では低い方から4番目だった。過去の推移を見ると、1970年(人口25万8000人)には、4641人生まれており、出生率は17・4と県内屈指の勢いだった。とくにこの10年間の衰退はいちじるしく、ピーク時の半分以下になった。1995年から死亡総数に満たなくなり、全国より10年早い人口減になった。派遣労働者やトラック運転手など、すべての職場に低賃金の影響が広がっており、食べることがやっとで結婚や子どもを生むどころではないのである。

  すすむ市民の貧困化 物価だけ上昇
 下関市全体の購買力が低下した要因は、市民の貧困化にある。下関市にある小売業約3000店舗は、年間商品販売額は横ばいから下降に入った。
    91年 2923億円
    94年 3013億円
    97年 3043億円
    02年 2787億円
と、02年は前回調査からマイナス8・4%。この五年間でとくに衣料や履きものが22・7%も売上を落としており、燃料小売業が19・2%減、自動車・自転車が13・4%減、書籍・文房具が11・7%減とのきなみダウン。市民の家計が衣食住のうち、食をのぞいたその他を切りつめた、きびしい台所事情をあらわしている。下関市の人口1人当りの家計所得は2001年が310万円で、県内14市の平均321万円はおろか、町村水準の311万円すら下回るという哀れなものだった。2002年からは行政が統計をとることをやめてしまったが、現在の値はそれ以下とみられる。
 県内でトップ水準なのは、物価の高さである。なかでも食料が上がっており、2000年を基準として5年間で102・4%に上がった。主食のコメをふくむ穀類は107・7%となり、果物は112・5%となった。本場のはずの生鮮魚介は、市内の鮮魚店数が118店(2002年)と、30年間で3分の1にへり、105・7%とアップしている。山口市が同期間に食料全体で99・4%、岩国市が食料全体で97・4%と下がっていることと比べてぬきん出ている。
 大型店の販売力が圧倒したことで、市場による価格形成ができなくなったと市場関係者は語っている。大型店は鮮魚や生鮮野菜など、これまで1箱2000円でとっていたものでも、“特売日をうつから、600円にしてくれ”などと強引にいってくる。できなければほかにやれるところがあるから、これからは取引停止というのもあたりまえ。「乾いたタオルをしぼる」といわれ、生産現場をズタズタにしてきた。そのつぎは消費者をカモにして、ボッタクリをしようというのである。

 大型店出店で地域荒廃
 下関市の大型店の売場面積占有率は、2002年で70%前後とみられ、県内14市でも3位の高さであるのに比べて、山口市と岩国市はともに11位と13位である。大型店が安売りをするのは、シェアを広げるまでのわずかな期間ということで、下関市民はいやでも高いものを買わされる先進地とされた。市内の大型店占有率は小売業の全売場面積・約30万平方bのうち、売場面積2000平方bの大型店35店だけで合計20万平方b。わずか1%の大型店が売場面積の7割近くを占有して、ほかで買えないようにしてしまった。
 一方で地域の商店街のなかには、シャッターをおろす店があいついでいる。下関市内の小売業商店はピーク時の1979年には4667店あったものが、2002年には2949店と、この間に1718店も減少した。また下関市内にピーク時であった31商店街のうち、3分の1にあたる10商店街は消滅してなくなった。
 2000年に倒産した竹崎町のスーパーマルシンや、2002年にザ・ビック東駅店(イオングループ)が撤去した直後の周辺ではお年寄りが日常の買い物にも困るようになった。しょうゆ1本、砂糖1袋でも、弱った足でバスに乗らなければ買えない人もいる。大型店は集中豪雨的な出店で中小商店をなぎ倒すこともさることながら、撤退するときも地域住民のことなどまったくお構いなし。そのやり方は開発途上国でおこなわれる焼き畑農業と似て、地域をむちゃくちゃにしてしまう。
 市民が求めているのは消費だけの大型商業施設でなく、生産して富を生み出すような人人の働く場である。あるかぽーと開発で大型商業施設を誘致して、さらに地元経済を衰退させる江島市政への怒りとつながり、まともに食える市政を要求する世論は、商店街と市民の共通の課題となっている。

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