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市民生活破綻を自慢する政治
            下関・江島市政10年でどうなったか  2006年11月17日付

 下関は、安倍首相代理の江島市政がつづいた10年余り、市民生活の破壊は甚だしいものとなった。労働者とくに若い人たちの現状はどうなっているか、また商店はどうなってきたか、実情を調べてみた。商店は、魚屋も野菜屋も、自転車屋や衣料品店、米屋や薬屋などすっかり減ってしまった。やめた人たちの多くが、借金を抱え、夜逃げをしたり、自殺をしていった。そして若者にまともに生活できる職がない。不安定で劣悪な賃金のもとで、結婚も子供をつくることもできない若い世代が増えている。子供が産めないことは、下関の将来を断絶させることである。江島市長は、何100億円もの箱物利権事業ばかり追いかけ、それを市外業者に流して、地元の企業はつぶして、働くものが生きていけないようにしている。市民生活をどうするかとか郷土下関を、どう発展させるかという考えは全くなく、むしろ食いつぶし、絞め殺す政治をすすめている。それを悪いことだという意識はなく、むしろ「アメリカ型の最新の政治」という調子で上に売り込み自慢する政治をしてきたのだ。これを市民が黙ってみておく訳にはいかない。

 小売業は844店も減 酒屋も米屋も大型店がなぎ倒す・夜逃げや自殺増
 商店 江島市政は12月市議会であるかぽーとに、市内で二番目の店舗面積となる4万平方bの大型商業施設誘致を採決しようとしている。大型店が時代の先端であり、商店などは時代遅れであって、つぶれるのが当たり前と、みなしているのである。この10年あまり、下関の商店はどうなってきたか、その実情を聞いてみた。
 ある酒店の経営者は、数年前に商売に行き詰まった同業者の中年夫婦が、細江町の岸壁から車ごと飛び込んで亡くなったことを、唇をかみしめながら語った。「亡くなる1週間前の会合に、送迎しようといって店まで迎えに来てくれて話したの      シャッターが目立つ茶山通り商店街
が、大きい取引先から無理をいわれるということだった。夜のことで本人も奥さんも助からなかったが、くやしくてやれない」とのべ、規制緩和への怒りをぶちまける。
 商業統計によると94年には市内の酒店は209店あったが、04年には130店にまで落ち込んだ。数年前には、べつの酒店の経営者が生命保険で赤字の穴埋めをするため、山陰の海に車で突っ込んだ悲劇も起こった。老舗の店主は、「大企業はよくなった、景気が好転したというが、地方は無茶苦茶ではないか。酒の協同組合は多いときは約300店あったのが、百数十店に減っている。私らが免許をとるときは、酒価格の半分は税金だからと、身内に前科者がいると取り消しと厳しかった。それがアメリカにいわれた途端に、量販店やコンビニでどしどし売らせるようになった。小泉・安倍政府のやり方はおかしい」と語った。
 米店でも10年間で夜逃げや廃業があいついでいる。94年に126店あった米店は、04年には83店となった。「家族ごといなくなった店や、1家離散でどん底に落ちたところもある。行方不明になったある米店の主人が、舞い戻ってきたが、まともな職がなくやっと就いた配達の仕事もまた切られていなくなった」とある店主はくやしさを語る。「コメ不足のパニックでタイ米を輸入して、お客さんがスーパーに走って買いに行ったころから、米屋の売上がガクンと落ちた」と別の店主は話した。食管法や規制緩和などと、国のやることは信頼ならないと語られている。

 魚屋も肉屋も野菜屋も
 下関はかつて水揚げ日本1の水産都市を標榜してきたが、鮮魚店の減少は著しく、94年には165店あったものが04年には115店と3分の1が消えた。346店あった、30年前と比べると、3分の1というあわれなもの。市場関係者によると、「市内に流通する鮮魚の7割は、県外から量販店をつうじて持ち込まれたものだ」といわれており、恵み豊かな海で3方をかこまれた都市で、新鮮な魚介類が目と鼻の先にあるにもかかわらず、市民の食卓には地物がわずかしか揚がってこない。
 長門市場のある鮮魚店主は、夫婦2人で刺身の盛りあわせなど加工してなんとかやってきたが、客の通りがどんどん少なくなると嘆く。「10年前には、市場の1号棟だけでも20数店あったが、今はご覧の通りの歯抜け状態で10店あるかないかだ。あれだけ大型店が出たら、お客が寄らなくなるはずだ」とのべる。
 肉屋の減りようはさらにすさまじく、94年に79店あったが04年には49店と、4割が消えた。ある店主は「スーパーに入店したものをのぞき、商店街にあるものだけでは、市内に10店あるかないかで、組合もなくなった。そうしたらスーパーの肉の販売価格も上がってきた」と話す。
 この他の10年間の小売業推移を見ると、男子服店は94年・53店が04年・25店となり、靴屋は同47店が19店、野菜・果実店は同124店が80店、自転車・二輪自動車店は同20店が13店、書籍・文具店が同200店が144店、眼鏡店が同61店から49店となった。全般的に3〜4割は減っており、男子服店や書籍・文具店など大手が進出した分野は、たたきつぶされ方がいちじるしい。
 小売業全体で見ると市内には94年に3657店あったものが、04年には2813店と4分の1の844店が消えた。下関は古くから卸問屋の栄えた街として知られたが、10年間の推移を見ると94年は1107店あったものが、04年には865店になった。卸・小売業合わせた従業員数では94年は2万5720人から、04年は2万3239人と2000人以上の雇用先が奪われて、家族もろとも路頭に放り出された。
 下関市内にある大型店39店のうち、17店が大店法廃止と2000年の大規模小売店舗立地法の施行後に出店されたものである。大型店同士のダンピング競争が、既存の商店をたたきつぶしてきた。旧市の大型店占有率は、2005年で70%とみられ、県内でも有数の高さとなっている。小売業の全売場面積・約32万平方bのうち、売場面積2000平方bの大型店35店だけで、合計22万平方bを占めており、わずか1%の大型店が、売場面積の7割近くを占有して、ほかでは買えないようにしてしまった。

 長府商店街は67軒も減
 下関市内にピーク時であった31商店街のうち、3分の1にあたる地域が構成店が20店以下となり、商店街として維持できなくなった。この10年間で見ると、唐戸商店街は94年に130店あったものが、04年には83店と4割がシャッターに閉ざされた。長府商店街は同173店から106店、下関駅前商店街は同175店が132店、小月商店街は同77店から57店と、各地で大きく減らしている。なかでも、いちじるしいのは大型店が出店した地域である。また唐戸商店街や豊前田商店街、グリーンモール商店街では、市当局と下関署がグルになって駐車禁止の重点地域にして、市営の駐車場まで全面有料にしたことに、さらに疲弊を促進させるものとして怒りが語られている。
 江島市長は、「既存商店街は待ちの姿勢ではダメだ。下関の地域間競争が必要」と主張しており、肥塚観光経済部長は小売店面積がまだ足りないなどと、商店をしめ殺すのが、「正義」という立場をとっている。シーモール下関(5万4000平方b)やゆめタウン長府(1万8000平方b)、イオン長府(1万平方b)など、大型店が進出するたびに周辺の商店街は大きな打撃を受けて、地域の住民が不便になっていった。さらに江島市政は市有地あるかぽーとに、市内で2番目の巨大な大型商業施設(4万平方b)を誘致しようとしている。唐戸商店街をはじめ、豊前田、入江、グリーンモールなど、根絶やしにしてしまおうという計画である。

 働く場作るのはさぼる
 江島市政は10年間というもの大型店誘致には熱心だったが、富を生み出す製造業や加工業を、振興したり誘致して雇用の場をつくることはさぼり続けてきた。給与所得等でいくらもらっているかを示す下関市民の人口1人当りの家計所得は、町村水準すら下回るという哀れな結果となった。2001年は下関市が1人当り310万円で、県内14市の平均同321万円より11万円も低く、町村水準の311万円すら下回ってしまった。2002年からは県統計すらとっていないが、市民生活の貧困化はさらに進んだ。また賃金、俸給として市内の労働者や従業員に払われた市民所得の総額は、97年の4333億円から2002年には3946億円と、5年間でマイナス9%となっている。
 このため小売業の年間販売額は10年間で94年3013億円、97年3043億円、02年2787億円、04年2795億円と1割落ちている。日本銀行下関支店によると、同支店から流出したお金は昨年度1年間で、2078億円にのぼった。県外大手の量販店出店などにより、本店に送金されたものなどが主で、お金の流出率を示す支払い超過比率は、27・8%と全国の33支店(合計0・9%)でダントツのひどさとなった。となりの北九州支店が受入超過となるマイナス0・3%で、福岡支店はマイナス12・7%であり、下関支店の流出ぶりが全国でも際立っている。ものすごい勢いで富を流出させて、東京などで外資などの投機に使わせるモデル市政とされているのである。
 ある薬屋は規制緩和による量販店のクスリ販売で、あと何年後かには後継ぎのいない薬屋から、一気に廃業していくとのべる。「私も何年かまえに、経営に行き詰まったときに自殺する1歩手前までいった。10年間で六〇〇人近くが、市内で自殺しているというが、予備軍はもっといるということだ」「ドラッグストアが市内に10店近くもできて、競争、競争と安売りをされたのでは、今まで以上に零細はつぶされていく。勝ち残ったところには、次のたたかいがまっておりサバイバルの戦争と一緒だ。こんな世の中がいいはずがない、消費者にとって本当に安いのかどうかはわからない」と吐き捨てるように話した。
 下関駅周辺のある精肉店は、「県外から大型店を誘致して、もうけをどんどん吸いとっていくことは、三菱商事に10億円も高い文化会館建て替えを落札させるような、デタラメ市政と一緒のものだ。市民に対して背任行為と分かっていながら、1部の政治家がバックマージンに動かされてやってきた。大型店ももうけだけ東京に持っていかれると分かっていてやっている。このまま好き放題を許していては、下関はもっとひどくなる」と怒りを投げかける。ある電器商は、「30年前に下関駅前に量販店の出店計画が持ち上がったとき、50人近くの商店主たちで市長室に詰めかけたことがあった。それくらいしないといけない」と意気ごみを語る。青果店の婦人は、「私たちは底辺を動いてきた人間だが、底辺がいるから社会が成り立っていることを、上のものに思い知らせてやらないといけない」と、来年の市議選や来夏の参院選に向けて、行動を求める論議は各地で高まっている。

 生活できる職ない 不安定な派遣や請負ばかり・結婚すらできぬ
 労働青年 “安倍総理のお膝元”下関は、全国平均の2倍の割合で生活困窮者があふれ、子育てに公的援助を必要とする家庭の割合は3倍にものぼる。自殺者はこの10年で590人と尋常でない数値となっている。近年、江島市政のもとで、構造改革特区に名乗りを上げたり、電子入札を全国に先んじて導入したり、さまざまな分野で国政の先取りがおこなわれてきた下関であるが、市民生活の貧困度は「全国最先端」の街になってしまっている。市民の生活実態はどのように変貌してきたのか。
 貧困化をもっとも端的にあらわすのは、生活保護世帯の割合だ。行政機関で「下関市は全国より10年先をいっている」といわれ、全国平均の約2倍と抜きんでている。近年ジワジワと伸び続け、【グラフ参照】05年末に3501世帯となっている(05年は合併にともない旧郡部も加わった数値)。人口1000人当りの保護率は04年時点で19・4。山口県全体の平均10・5と比較してもほぼ2倍だ。
 関連して、就学援助の受給率も近年伸び続けている。市教育委員会が把握している過去10年の数値を見てみると、児童生徒数の減少と反比例する形で、増加していることがわかる【グラフ参照】。
 文科省が発表した04年度の就学援助受給率(全生徒数に占める割合)の全国平均が12・3%。都道府県別で見ると、山口県は大阪、東京についで全国3番目に高い23・2%だ。そして山口県のなかでも際だって数値を引き上げているのが下関市である。04年度は30・7%、05年度は31・3%と、子どもを抱える家庭の3人に1人の子どもが就学援助を受けていることになる。県内で受給率が30%をこえるのは、下関市と光市だけで、全国平均の2・5倍以上となっている。
 なお04年度は菊川町8・5%、豊田町7%、豊浦町17・1%、豊北町11・7%、05年度は、菊川町10・3%。豊田町10・5%、豊浦町22・3%、豊北町14・8%で、旧下関市の数値は抜きんでた存在だ。子どもを育てる経済的な余裕がいかにないかを物語っている。
 また、出生率は1970年の人口1000人当り17・4人をピークに減少の一途をたどり、04年には7・8人にまで落ちこんでいる。同時期の全国平均8・8人、県平均8・1人と比べても低い。国勢調査の結果から「我が国は人口減少社会に転じた」と大騒ぎしているが、下関では約10年前から自然増加率はマイナスに傾いており、この地域の子どもを産み育てる経済的条件がいかに厳しくなっているかを反映している。

 生活貧困は全国最先端
 市内に住む27歳のAさん(男性)は職安に通い続けている。下関には仕事があまりないので北九州の職安に行くようになった。求人票にあった中小企業に行って面接を受けたものの、月給13万円といわれて断った。将来を考えたときに、とても生活できないと思ったからだ。派遣や請負は街の求人情報誌などに溢れている。しかし社会保険に入れてもらえないといったケースもザラだ。いっそトヨタの期間工にでも出稼ぎに行くかと考えたが、“渡り鳥”のように一時しのぎをしてもしょうがないと思い、地元で長く就ける仕事を探すことにした。
 非正規雇用が拡大するなかで、「手っ取り早く稼ぐなら期間工」とか、製造業への派遣に飛びついて肉体的にボロボロになってしまうといった例も少なくない。市内にある大手企業の製造現場でも派遣・請負の割合は増えていると現場労働者のなかでは語られており、それだけ安い賃金で働く人人の割合が増えている。下関の新規求人に占める正社員の割合は50%前後(請負もふくまれる)を推移。派遣やパートといった雇用形態がその他の50%だ。まともに食っていけるだけの賃金・職がないという声は大きい。
 長府の某工場に勤める23歳のBさん(男性)。高校を卒業して正社員として就いた仕事は、皆勤手当などすべてついて、手取りが15万円という。ボーナスはケーキ1つのこともあって愕然とする。過酷な肉体労働を1日中こなす現場で、体力がもたずに辞めていく同世代も多い。「親と一緒に生活しているからなんとかやっていける。給料は車のローンと携帯代ですべて飛んでいく。高校時代に思い描いた理想とは違いすぎた。1人暮らしすらできないのに、結婚なんて……」といった。
 市内に大型店の出店ラッシュが続いているが、働いている人は多くが契約社員。大手電器店のフロアで働くCさんもその1人だ。「店長だけ正社員。その他のみんなは契約社員で、ボーナスもない」という。大学を卒業してようやく就いた仕事だが、将来設計が描きにくい。「製造現場だけじゃない。大型店が増えても就労形態としては契約社員で、低賃金の人が増えるだけではないか」といった。
 市内の工業高校には近年、請負の求人まで寄せられる。卒業生の産業別就職者数の変化として特徴的なのは、製造業などは横ばいなのと比較して、地元建設業への就職者が減っていることだ。土木建築科がある下関中央工業高校の記録を見てみると、平成8年度に29人、9年度は34人、10年度34人、11年度29人、12年度26人、13年度20人、14年度26人、15年度13人、16年度18人、17年度14人と、ここ数年の減り方は著しい。箱物利権に大盤振る舞いの市政が、地元業者を排除していることとかかわって、影響が及んでいると思われている。

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