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下関市の店舗数20年で半減
大型店出店規制法廃止から7年
        大型店の野放し出店がつづく  2004年2月7日付
 
 大型店出店を自由にするための大店法廃止から7年が過ぎたが、中小零細商店の倒産、廃業があいついでいる。出店攻勢と安売り競争によりなぎ倒されて、1つの商店が消滅してしまうという事態も起きている。アメリカの要求ではじめられた弱肉強食丸出しの“自由競争”規制緩和によって、中小零細業者のしめ殺しがやられている。大手の流通支配は、輸入商品売りさばきを拡大し、国内の農漁業をはじめ産業を破壊し、国全体を荒廃させることと結びついている。下関市で起こっている実情を見てみた。
   
 商店街も3分の1が消滅
 下関市内では現在、大型店が進出、増床ラッシュをかけている。昨年末には長府才川にホームワイド(イオン九州)が開店。一昨年に東大和町に開店したディックワンをぬいて、店舗面積は7521平方bで、地域トップの広さとなった。つづけて国道二号線沿いのホームプラザナフコ長府店が、現在の5700平方bから1.7倍の9621平方bとする増床計画を届け出ており、地域トップにむけ8月ごろのオープンをめざしている。
 ホームセンターの出店競争は全国的にも過熱化しており、このほかラッシュとなっているのはドラッグストア、家電安売り店である。昨年4月には武久町にヤマダ電機が、4180平方bの下関店をオープンさせた。三年まえに3`先の駅前に出店していたデオデオ下関店、シーモール駐車場新館(家電)と安売り競争をはじめた。このうちベスト電器山の田店は、現在の2倍以上となる2376平方bに増床する計画を立てて、まき返しをはかっている。
 薬の安売り店ではサンキュードラッグが、上田中町3丁目に新規店を建設したのをはじめ、数年のあいだに市内各地にチェーン店を展開している。不況下で全小売業種が対前年比売上を下げているなか、規制緩和と医療費の負担増加で勢いをつけたドラッグストアは売上をのばしている。また江島市長が「あるかぽーと」に計画する複合型商業施設など、行政が地元の反対を押し切ってすすめようとしているものもある。
 一方で地域の商店街のなかには、シャッターをおろす店があいついでいる。下関市内の小売業商店はピーク時の1979年には4667店あったものが、2002年には2949店と、この間に1718店も減少した。このなかには大型店の増減もふくまれているため、中小小売業だけで見ると差はもっと大きくなる。
 また下関市内で、ピーク時の31商店街のうち、3分の1にあたる10商店街は消滅してなくなった。このうち茶山商店街はピーク時の二十数年まえには59店舗あったが、昨年10月時点で18店舗にまでへり、20店以上の商業集積基準を下回った。終戦直後の1949年には市内でもいち早く商店組合をつくるほど、買い物客が多い商店街の一つだった。

 無責任な安売りに憤り
  「土日は人がとおるのもやっとで、商売は忙しいというものではなかった。税金だってたくさん納めてきた」と、元洋裁店の店主はふり返る。シーモールのオープンにはじまる大型店ラッシュに加えて、茶山通りは一方通行の狭い道路のまま車社会からとり残され、シャッター街になったと語られている。
 電器商を営む商店会長は、「ある70代のお客さんが、パソコンにつなぐプリンターをヤマダ電機で買ってきたが、動かないといってきた。ヤマダ電機は“出張費の1万5000円かかります”というから息子が出かけて動くようにしたが、そんなことが多多ある。安売りだけでアフターサービスもない店ばかりがふえていいのだろうか」と、安売り一辺倒で、あとは野となれ山となれの大型店に疑問を投げかける。「シーモールができてから小さな商店はみんなさびれるようになった。大型店など開発する力があるところは、もうけだけ吸ってよそへ持っていく。大きなところ以外の商店は、死ねということなのだろうか」と、金だけの世の中に危機感を訴える。
 ある商店街では、昨年に衣料品店主人が自殺したことが人ごとでないと語られた。本業だけでは食べていけないからと、いろいろ挑戦したが破産を早めてしまい、妻と学校にかよう娘を残して、みずからの手で命を絶ったと痛みをもって話されている。「1年間で自己破産が24万件、この意味がわかるか」、酒店の店主は怒りをこめて話す。
 「いまやられている自由競争は、負け組になったら受け皿はまったくない。身ぐるみひきはがされたうえに、親類など縁者にまで債権とり立てがくる。とくに中小小売業の場合はそうで、破たんした人をサラリーマンで雇ってくれる会社などない。情報化社会でブラックリストも全国に流されるから、再生することもできない」「ディスカウントにしても大手の方は二四時間営業で、パート・アルバイトで人件費を抑えて安売りを仕かけてくる。やっとメシを食っているような小さな業界にまで、もうけをとるために手をのばしてくる。アメリカ流の弱肉強食の資本主義は、中小が生き残れない世の中にしてしまった。自殺者は3万人、ホームレスがふえつづけている原因だ」と声を荒らげて語った。
  
 たった1%の超大型店 6割こす売場独占
 現在、下関市内の小売業商店の全売場面積に占める大型店店舗の占有率は、1982年の44%から最後の統計となった1997年の60%をへて、70%前後までふえている。全売場面積の約30万平方bのうち、店舗面積2000平方bの32店(増床予定もふくむ)が約19万平方bを占めている。全小売業商店の1%ほどの超大型店が、6割以上の売場面積を持っていることになる。さらに1割ほどを2000平方b以下の大型店、3割の土地に2800の中小零細商店がひしめきあっている。
 全小売業商店の1%しかない超大型店が、根こそぎよそへ持っていけるような事態が、どうしてつくられたのか。89年からの日米構造協議で、アメリカが自国製品の売りこみにじゃまとなる「非関税障壁」の代表例として、大店法の撤廃を求めたことからはじまる。1997年に大店法の廃止が決まり、それまで大型店出店が地元小売業者を極端にしめつけることがないよう設置されていた、商工会議所内の調整協議会が廃止された。それまで大型店出店にかけられていた規制がとりはらわれ、無政府的な出店攻勢がはじまった。
 下関市内でも大型店32店のうち、3分の1にあたる10店が1997年以降に出店されたものである。すさまじい出店攻勢と安売り競争は、中小零細商店をなぎ倒していっただけでなく、大型店同士のたたきあいで撤退、破たんとなって新たな問題をひき起こした。2002年8月には東駅の大型店ザ・ビッグ(イオングループ)が閉鎖撤退したために、とくに車を持っていない高齢者などが、日常の食料や生活必需品の買い出しにも事欠くといった問題が起きた。すでに周辺の小売業は淘汰(とうた)されてさびれてしまっており、おじいさんやおばあさんがバスに乗って唐戸地区や山の田地区まで、買い出しに行かなければいけなくなった。

 地域の流通形態も破壊
 地元消費といった流通形態もズタズタになったと指摘されている。地元市場に水揚げされた鮮魚は、おもに街の鮮魚店に並べられて市民の食卓へと運ばれていた。1977年の下関市内には、352店の鮮魚店があった。それが大型店の出店攻勢や景気低迷をへて、20年後の1997年にはわずか130店にまでへり、222店が消えていった。唐戸のある仲買人は「市民が口にする鮮魚のうちで、地元市場をとおったものは三割で、あとの7割が大型店などをつうじて輸入物や他都市からのもの。よその大型店だから、福岡、北九州、広島など、大きな市場に頼ることはしかたがないが、地元の漁業もすたれていく。地元市場の荷を引く力も弱くなっていく」とのべる。
 60年代から70年代にかけて水産都市を誇った下関だが、「いまは下関の沿岸で漁師がとる鮮魚でさえ、小倉の市場に水揚げされる。もう一度、海を渡ってからやっと下関の市民の食卓に並べられる」と語られている。地元野菜も同じような事情で、大型店にあわせたロットが大きい輸入物や大生産地のものが優先され、新鮮な地物があるのに市民の口には届かない。とりわけいっきにすすめられた輸入物の氾らんによって、日本の農漁業がズタズタにされていくことに心配がされている。
 市内のある肉屋の50代店主は、「アメリカ産牛の狂牛病が見つかって、ストップされただけで牛丼チェーン店がメニューを出せなくなったり、牛スジが消えて卸値が倍にはね上がった。食糧を他国に握られているということは、国として危機ということではないか」と訴える。きわめて略奪的な商売で、日本全体がアメリカの植民地にされてしまいかねない状態と心配されている。
 酒屋の店主は、「安売り店ができるのは、パートやアルバイトがこき使われているからだ。デフレ以上に賃金切り下げがやられるから、安売りを求めていく悪循環になって、経済がメチャクチャになっている」と、働く人が手をとりあっていかなければいけないと強調する。規制緩和の一貫としてすすめられる大型店出店、中小零細商店つぶしは、国民経済を守るたたかいとして全市民的な課題となっている。

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