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下関を米掃海艦の母港にするな
            米国崇拝の江島市政      2003年2月25日付

 周防灘での日米合同掃海演習をまえに今月中旬、下関商港へ初入港した米海軍佐世保基地所属の掃海艦「パトリオット」(1312d)が、日米地位協定にもどづき25日にも再入港する。今月はじめには海上自衛隊の掃海部隊21隻が集結して、一大デモンストレーションをおこなっており、朝鮮半島に近い下関商港は、ふたたび軍港化がたくらまれている。まさに朝鮮戦争の軍事拠点にしようというのである。港湾業者などは港から排除され、行政から企業が米艦、自衛艦のために「勤労動員」される、有事法の先取りの態勢がとられた。軍港化は商港の発展をとざし、経済生活を縮小するものとしてあらわれている。それにたいして全国異例の歓迎セレモニーをおこない「ひきつづき受け入れたい」と米艦に屈従的な表明をおこなったアメリカ崇拝の江島市政にたいして、下関を平和の拠点にする全市民的な運動が望まれる。

 港湾業者を港から排除
 今月13日の初の米艦船入港は、東大和町の第一突堤北側の一部をコンテナで通行止めにしたうえで、拳銃を持った米軍兵士が出入口に立ちはだかった。水深13b、幅300bの下関商港でも指折りの大型船舶が停泊できる食料荷役が主の岸壁は、ものものしい軍事一色の米軍専有バースにかえられた。普段は穀物、雑穀、野菜、鉱石、インゴットなど国内外からの品物が行きかう民間倉庫の前は封鎖され、港は米日の掃海部隊で埋めつくされた。
 日米地位協定にもとづいた入港で、米兵以外は出入りが制限され、日本側の関係者や民間業者はまえもって伝えられたアルファベットの暗号を示して、警戒線内に入って作業をしていた。1997年秋の新「日米防衛協力指針(ガイドライン」策定により、民間業者でも協力を拒否すれば罰則となる。採算が合わずに条件が悪いものでも従わざるをえないもので、「ひどい条件で、ボランティアに等しいものだった」と関係者のあいだで語られている。
 港湾内からしめ出された民間運搬船の乗組員は、いつもの場所に停泊できずに、待ち合わせしていた納入業者と行き違った。「わしらは金を払ってここを使っているのに、よそから来た軍艦がなぜ大きい顔ができるのか」。ある港湾業者の現場責任者は、「通行もできなくて困っている。急きょということで米掃海艦が入ったが、もう来てもらっては困る」「普通であれば、とても仕事ができない」と訴える。今回は民間船舶の入港予定がなかったが、業務への支障があれば抗議するべきだと話した。半月もたたないうちに、第一突堤の同じ場所への米掃海艦の再入港が強行される。
 外務省は「米軍使用は日米地位協定により、使用拒否を要請することはできない」などと回答している。本来なら港湾施設の管理者であり、経済活動に支障が出ないよう危惧(ぐ)を示さなければいけないのは下関市当局であるが、米艦寄港に歓迎セレモニーまでおこなう全国でも異例の対応をおこなった。

 全国的にも異例の歓迎
 艦内訪問後、記者会見をおこなった江島市長は、「下関は三方が海で危険な船が入る可能性がある。すぐれた船に多く寄ってもらえる港になった方がよい」「掃海作業は関門海峡にとって重要。ひきつづき受け入れたい」と、積極的に入港歓迎をかかげた。米艦船の武器積載有無の調査については、「掃海艦なので必要なく、していない」としたうえで、今後は「そのときそのときで判断したい」などと答えた。
 市の発展のために平和産業を基礎に国内外の取引をふやすことを推進しなければならないのに、行政が積極的に軍港化をおこない海外の船舶が近寄らない港湾にしてしまい、下関商港を衰退させようとしているのである。
 下関沖合人工島をはじめ使われもしない港湾施設がふえつづけているが、軍港化を推進しているようなものであり、軍事優先のために民間に多大な迷惑を強いるものである。県営岩国港には新ガイドライン策定後民間船舶を排除して米艦船の入港が18回おこなわれているが、16回分の使用料は踏み倒した。同市内では国立病院や仕出屋にいたるまで、防衛施設庁による「業務調査」がおこなわれ、戦時協力体制がすすめられている。
 下関商港で輸出されるものは自動車、機械工業製品が多く、輸入では農水産物が多い。2002年の下関港貿易概況によると、輸出額が過去最高の3361億円(前年比17.4%増)で、輸入額は2587億円(同10.1%減)だった。国別で取引額がもっとも大きいのは「韓国」で、輸出額が全体の8割、輸入額は6割を占めている。北朝鮮も輸出で3位、輸入で7位となっている。朝鮮半島との平等互恵、平和共存にもとづいた貿易をすすめれば、さらに発展が望めるものであり、「平和産業を守れ」との声は経済界のなかでも強まっている。

 治安悪化に大きな影響
 市民のあいだでは軍港化による治安も懸念されている。10日より海上自衛隊の掃海部隊21隻が入港し、隊員約1000人が街にくり出した。歓楽街では「夜に大勢でどんちゃん騒ぎをやっていた」などと話され、心配が語られていた。米艦船の母港化で米兵が街にくり出すようなことになれば、治安が守れないといわれている。
 終戦後から約7年間、下関には米兵、ニュージーランド兵が進駐軍として入ってきたが、強盗、窃盗、婦女暴行など市内各所で犯罪があいついだ。63年にはLST上陸用舟艇(2700d)2隻が岬之町岸壁に入港し、米兵約900人が上陸した。停泊した3日間のあいだに各地で暴行などをひき起こし、接岸した艦上からは子どもたちへ投げ銭をおこなった。当時、「米兵帰れ」の市民世論がまき起こり、抗議をおこなわなかった市当局、市教委は突き上げられた。
 戦争体験者のあいだでは、下関がふたたび軍事拠点になることへの懸念が語られている。太平洋戦争中、米軍は日本各地の海路に約12,000個の機雷をばらまいて、船舶の通行を封じた。そのうち半分の6000個が関門海峡周辺に集中していた。日本近海で触雷した船舶は800数十隻といわれているが、そのうち関門海峡では292隻、周防灘で213隻と半分以上を占めている。
 「貴船町の長屋にあったわたしの実家の近くにも機雷が降ってきて、女学生のお姉さんが亡くなりました。関門海峡ではズドン、ズドンと船が機雷にふれて、爆発する音が聞こえていました。岸に流れついた臭くなった食料を食べていました」と、60代の男性はふり返る。大戦末期には沈没船が多くて、貨物船や駆逐艦のアンテナなどが海上から突き出し、船舶も通行できなくなっていた。
 日中戦争から敗戦まで、下関港は大陸侵攻の玄関口として、物資補給や休養地として使われた歴史を持っている。下関港がふたたび拠点として使われるとの危惧にたいし、海上自衛隊下関基地隊の総務課は、「上で決まることだから、わからない」と話している。今年の日米合同掃海演習は異例となる米海軍の参加のもとで、13日間の予定でおこなわれた。海上自衛隊掃海艇は湾岸戦争後には海外派兵され、イラク戦でもアメリカから派遣要請されており、朝鮮有事を想定したものと指摘されている。「平和産業」であるアジア諸国との平等互恵、平和共存にもとづく貿易や水産業を発展させ、市民の命と生活を守るためにも、アメリカに従属した戦争策動である、下関港の軍港化に反対する全市民的な運動が切実に求められている。

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