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真実知り行動始める学生達
広島大学で第11回原爆展
                現代と重なる問題意識      2016年6月10日付

 東広島市にある広島大学中央図書館の地域・国際交流プラザで2日から、第11回「原爆と戦争展」がおこなわれている。展示会場には連日、大学教員・職員や学生、一般市民が足を運んでいる。図書館入り口に掲示しているポスターを見て開催を初めて知り参観する学生も多いが展示を見始めると食い入るように見入り、会場の被爆者に自ら質問をしたり自身の意見をのべるなど積極的にかかわろうとする真剣な姿勢が今年はとくに際立っている。
 
 閉会後にも続く熱い交流

 7日(火)から10日(金)までの4日間、夕方4時30分から6時まで、「被爆体験に学ぶ会」をおこなっており、開催期間中の中心的なイベントとなっている。
 7日には、「知られざる広島の真実と原爆の実態」(ナック映像センター・広島市)DVDを上映した。原爆投下以前の広島の街並みやそこで営まれてきた市民生活を映像のもとに再現。同時に数多くの被爆者による被爆体験証言も盛り込まれており、学生や教員など十数名が参加した。参加した学生から被爆者に対して「オバマ大統領の訪問に対してどう思うか」と質問があり、原爆展を成功させる会の日高敦子氏は「初めの表情を見ていると神妙な顔をしていたが、演説で開口一番“空から死が舞い降りて”といった途端、“何をいっているのか、原爆を落とした張本人が”と腹が立った。あのような態度が許せない」と憤りを語った。

 林信子氏 看護学生の壮絶な体験

 8日から10日までの3日間は、原爆展を成功させる広島の会の被爆者が被爆体験を語っている。8日には林信子氏が、集まった学生や教員、留学生など十数人に被爆体験を語った。
 林氏は当時17歳で日本赤十字病院の看護学生であった。看護師も当時多くが戦地の野戦病院へ引っ張られており、戦況悪化につれて資格を持った看護師は少なくなり、学生が病棟の責任を持たされていた。
 6日の早朝、汚れたガーゼを病棟の一室で洗っている最中に強烈な閃光を感じ、頭上に医療器具などが降ってきて頭を打ち、しばらく気絶していた。昼過ぎにようやく気がつき、患者を地下室に移動させた後、寮へ向かった。そこでは建物が崩れて人人が下敷きとなっていた。大きな梁の下から引きずり出した友人は顔が潰れて亡くなっており、その顔を見て「はっ」と息を呑んだ。救出された人も気が狂って転げ回って叫んでおり、そこで見た恐ろしい光景には身震いを覚え立ちすくみ、なにもいえなかった。
 日が暮れて水を汲みに行くために外へ出ると、広島の街のあちこちで大きな火の手が上がっていた。水を汲み、病棟へ帰ろうと病院のロビーを通ると、真っ暗闇でうごめく人人が「水をください」と足にしがみついて地獄の底からうめくような声で水を求めていた。市内中から火傷を負った人人が助けを求めて避難してきていた。少しずつ水を分け与えながら進んでいったが、このときのうめくような声はいまだに忘れることはできない。しかし、夜が明けてロビーに様子を見に行くと、水を求めていた多くの人人はみな息絶えていた。
 病院には次次に負傷者が運び込まれてきた。次第に寝かせるスペースもなくなり、薬一つつけてあげることもできない。血みどろになった白衣を3日間着替える暇もなく、不眠不休で1週間ほどは病院の中庭の芝生の上で野宿しながら懸命に救護にあたった。しかし何の治療もできず、消毒も薬を塗ることも包帯を巻くこともできなかった。傷口にはウジがわき傷の中を動くから痛いというものではないが、それを訴えることすらもできない人がほとんどで、ピンセットでとることしかできなかった。しかしそれが「治療」になっており、「これが治療といえるのだろうか」と感じていた。
 火傷を負った人人が次次に運び込まれるが、トラックから降ろして寝かせることが精一杯だった。まだ幼顔の残る兵隊たちもいたが、みな1晩すれば翌日にはほとんど息絶えていた。遺体は火葬し、名前もわからないので一人ずつレントゲンの封筒に分けてお骨を拾った。
 林氏は最後に「私たちは病院の中でのことしか見てはいないが、怪我や火傷を負ってあのように苦しんだ人人が広島中にいたと考えると身震いする。今年は大統領が広島に来た。人種や生活が違ってもみなで手をとりあって平和にしなくてはいけない。大統領と被爆者が握手したり抱き合ったりしていたが、私はきっとぬくもりが伝わっていると信じたい。良い結果があらわれることを被爆者の一人として願うばかりだ。二度とこんな恐ろしいことが起こってはいけない。これから若い皆さんが手を携えて平和を守っていってほしい」と訴えた。
 その後、参加者は一人ずつ感想や質問をのべた。教育学部四年の女子学生は「来年から小学校で教師として働くことになる。教師として子どもたちに原爆や戦争について話さなければならないときがくると思うが、なにを一番子どもたちに伝えていけばいいか」と質問した。
 林氏は「戦争というものがいかにむごたらしく恐ろしいことであるかということを教えないといけないと思う。あの戦争でどれだけ惨めなつらい思いをしたか、戦争によって良い産物はなに一つ生まれない。政治的なことは今でもわからないことが多いが、幼い頃に、いかにして平和な暮らしをつくっていくかという根本的なことを考えるきっかけが必要。“二度と起こしてはならない”という気持ちがあれば戦争を止める力につながると思う」と語り、思いを託した。
 一通り感想発表が終わった後も質問があいつぎ、閉会した後も複数の学生や留学生が林氏に質問したり意見をのべた。林氏も「これほど真剣に質問を受けたのは初めて」と驚いていた。会場では熱い交流が交わされた。

 上田満子氏 母親と弟を失った憤り

 9日には文学部の授業で上田満子氏が17人の学生の前で被爆体験を語った。上田氏は当時女学生だったが、戦況が悪化の一途をたどるなかで女学生らしいことはなに一つできず、連日学徒動員で働いていた。
 6日の原爆投下当日は休みの日で、家で母と3歳の弟と一緒にいたときに被爆した。
 2階建ての家がペシャンコに潰れて3人は下敷きになった。穴からはい出して瓦の上に立つと広島の街が見渡せるほど全て潰れてしまっていた。潰れた家の中から抱き上げた弟の顔は火傷によってサッカーボールのように腫れ上がり、母も髪がざんばらで顔は右半分が腫れ上がっており、それを見た瞬間「お化け」と叫びそうになったのをぐっと堪えた。
 その後、治療のため、トラックで府中小学校へ運ばれた。8日の朝からは自分しか火傷に油を塗ってもらえず、母と弟に対しては「死ぬような病人に塗る薬はない」といわれた。薬ではなく油だが、それすらも塗ってもらえる状況ではなかった。
 あるとき突然アメリカの飛行機が低空飛行してきたがなにもしない。「こんちくしょう」と思い睨むと、操縦席のパイロットがニタッと笑って3、4回旋回して去って行った。原爆の威力や被害がどれほどのものであったかを調べに来ていたのだ、とのべた。
 23日には弟が家族みなの名前を1人ずつ呼び「きれいなまんまんさま(仏様)が見えたから、僕はいくね」といって息を引き取った。1人息子を失った母も容態が悪化し、29日に「桃が食べたい」といいながら、最後にはものもいわなくなり、全身に小豆色の斑点ができて亡くなった。「なぜあんなむごたらしい死に方をしなければならないのか」と話した。
 遺体は他の遺体とともに校庭で火葬した。父は、火が消えるまで遺体の傍で見守り続けていた。
 戦後は父の故郷の田舎で暮らしていたが、そこでは被爆者であるためにひどい差別を受け、乞食同然の扱いであった。しかし、「絶対に生き抜いてみせる」と強く誓って懸命に生きてきた。
 今の安倍首相は、何でもかんでも「国民のため」といって実際は国民をさらに危険にさらしている。憲法九条があったからこそこれまで日本は戦争に加わることはなかった。また、他国に大金をばらまいたり好き放題をやっている。今は平和で好きなように勉強もできる。これから皆さんはしっかり学んで、次世代へ伝えていってほしいと思う、とのべた。
 話を聞いた学生は積極的に質問した。文学部2年の男子学生は「アメリカでは今でも原爆投下は戦争終結のために必要であったと話されていることもあるが、どう思うか」と質問した。それに対して上田氏は「“日本がなかなか戦争をやめないから原爆を使って戦争を終わらせた”というのは口実に過ぎない。実際にあれだけ多くの非戦闘員を一度に殺した。日本との戦争にロシアが首を突っ込む前に早く原爆を使いたかっただけだ。これはひどいことであるし許されない」と強い口調で語った。

 外国人の留学生も衝撃

 パネルを見た海外の学生も強い関心を持って参観するとともに、初めて知る真実に衝撃を受けている。
 中国からの男子留学生は、「歴史を学ぶ理由はただ一つ。悲惨な歴史を二度とくり返さず、できる限り防ぐためだ。日本軍による中国での残虐な行為で多くの一般人も亡くなった。しかし、過去はもう過ぎ去っていったから、私たちはもっと将来へ向かうべきだ。過去の過ちを防ぐために、今は何をすれば良いのかということこそ大事だ。中国人の私の祖父の叔父は日本軍による侵略で殺された。しかし、私が日本に留学すると祖父に告げたとき、“過去は過去、今は今。もし中国と日本の交流がもっと強ければ、中国と日本の戦争は最初から起きなかったかもしれない”といった。重要なのはこれからの私たちの行動だ」とアンケートに記した。
 パキスタンからの留学生男子は、パネルを見た後、被爆体験を聞き、「アメリカは今でも世界各国で戦争をしている。日本はアメリカに原爆を投げつけられていながら今でも従い、アメリカに対してNOといわなければならない状況でもそれができないことに非常に疑問を感じている。確かに日本は、世界各国でアメリカ主導でおこなわれている戦争に積極的に参加してはいない。しかし日本はアメリカが多くの国国を侵略し、無実の人人を殺すのを止める役割を果たしていない」と語った。
 期間中を通して、パネル展示を参観したり被爆体験を聞きに来た学生たちのなかで、被爆者と直接語りあい、これからの自分たちにどのような思いを託しているのかを必死に学ぶ姿勢が強まっている。また、他の多くの同世代の問題意識についても関心が強く、感想交流や質疑応答のさいには、他の発言者の話す内容をメモする学生が何人もいた。
 大学職員も「このようなテーマは普段から気軽に話せる内容というわけではない。被爆体験を聞くだけでなく、多くの人と意見に触れて共有できる場は貴重。もっと多くの学生に参加してもらえるように呼びかけたい」と話していた。
 8月に広島市内で開催される原爆展のスタッフを希望して名乗り出た学生も複数人いた。先月の修道大学でのスタッフ希望者と合わせて相当数の学生が、戦争体験を純粋に語り継ぎ、全広島、全国、世界の多くの人人と交流していく活動に自らの問題意識を重ね合わせて行動意欲を高めている。
 広島大学での原爆展は15日までおこなわれる。

アンケート

 ▼戦争体験を聞いても、僕がいくら想像力を働かせても、状況を再現した映像を見ても、すべてを理解することは難しいことかもしれません。しかし、そのようなことがあったという事実を知ることはできるし、何よりも今日のこの気持ちだけは確かなものです。平和への願い、人の強さとはかなさ、未来への希望、過去の絶望、さまざまなことがよぎっているけど、この気持ちの本質は人の善なる心だと思います。林さんは自身の体験をいとうことなく話してくださり感謝したい。その反戦・平和の精神を受け継いでいきたい。  (文学部4年・男子)

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