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真珠湾から繋がる売国の系譜
なぜ320万人犠牲になったか
                  米国に屈服し「国体護持」       2016年12月28日付
 
 安倍首相が、日米戦争の発端となった75年前の真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、「和解に踏み出す」といってハワイを訪れている。アメリカは、「真珠湾への卑劣な騙し討ちを忘れるな」(ルーズベルト)と太平洋戦争に乗り出し、沖縄侵攻から都市空襲、さらには広島・長崎への原爆投下にいたる、なんの罪もない老幼男女の虐殺を正当化する常とう手段として、「リメンバー・パールハーバー」を持ち出してきた。それが、アメリカの単独占領から今日に至る日本社会の屈辱的な対米隷属、そのもとでの新たな戦争への道に連なっている。真珠湾攻撃はどのようにひき起こされたのか。日米戦争はどのような戦争で、なんのためにやられたのか。この機にふり返ってみる意義は大きい。
 
 国民の反乱恐れた為政者ども

 1941(昭和16)年12月8日朝(日本時間)、日本海軍の連合艦隊機動部隊が真珠湾に停泊していた米海軍太平洋艦隊と航空基地に対して、爆撃機や戦闘機、潜航艇などによる「奇襲攻撃」をおこなった。アメリカ側はこの攻撃を事前に察知していたが、無防備のまま開けて通した。そのため、戦艦アリゾナなど5隻が沈没、3隻が損傷を受けたのをはじめ、多数の艦艇や飛行機とともに、2200人をこす軍関係者が犠牲を強いられた。真珠湾を母港とするアメリカの空母2隻は、湾外に出ていたため無傷であり、その後の海戦や、沖縄戦、日本本土襲撃で大きな役割を果たした。
 ルーズベルト大統領が、日本への宣戦布告を議会に求めたのはその翌日であった。全米に向けた演説では、「日本は和平の継続を望むという姿勢を見せて、わが国を欺いた」というもので、日本からこれ以上の和平交渉ができないとの公式回答があったのは、真珠湾を攻撃した一時間後であり、「わが国に対しておこなわれた攻撃の卑怯な性格をけっして忘れることはない」と強調するものであった。
 アメリカ政府は以後、マスメディアを動員して「有色人種による卑劣な攻撃」を許すなと戦争熱を煽り、日本人は人間ではなく「イエローモンキー」であり、攻撃の対象を非戦斗の国民全体に向けて、虫けらのように焼き殺していった。
 一方、日本の天皇を頂点とする支配層は、真珠湾攻撃の大戦果を宣伝し「鬼畜米英」を煽ったが、実際にはアメリカに勝てるとは少しも思わず、日本の若者の命をみすみすアメリカに差し出した。そして、アメリカに制海権や制空権を完全に奪われたもとでも、「1億玉砕」を叫んで沖縄戦や空襲などアメリカの皆殺し作戦にさらしていった。そして、広島・長崎への原爆投下によるアメリカの単独占領によって、天皇を利用したアメリカの戦後支配を許すことになった。

 先に攻撃させ国民煽動 スチムソンの文書

 戦後、真珠湾攻撃の真相は長期にわたって覆い隠されてきた。しかし、今日までアメリカの政府高官の証言も含めて暴露されてきた多くの事実は、真珠湾攻撃がアメリカが日本に先に攻撃させるシナリオにそってひき起こされたものであり、中国における戦争の敗北の窮地に立っていた天皇制軍国主義が、みずからの支配的地位を守るためにアメリカに身を委ねる契機となった事件であったことが明白となっている。
 当時、駐日大使だったジョセフ・グルーは真珠湾攻撃の11カ月前、1941年1月の段階で「日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している」「航空機の編隊で、米艦隊に奇襲攻撃をしかける」という情報を国務省に送っていた。
 米海軍情報部が日米開戦までに、日本側の暗号電報を傍受、解読していたことはよく知られている。アメリカはそのため1941年11月下旬、千島・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に、ハワイ攻撃にそなえる日本艦隊が集結した時点から、その動向を的確に把握していた。また、アメリカ政府はハワイの日本領事館に海軍から送られた工作員がいることも知っており、その電報のやりとりから日本側の攻撃目標が真珠湾であることもつかんでいた。さらに、オーストラリア政府が、日本の機動部隊がハワイに向かっているとの情報を伝えていた。
 こうしたなか、ルーズベルトは11月25日の戦時内閣で「早ければ12月1日ごろに日本が攻撃してくるかもしれない」との見通しを語り、「どのようにして、わが国にさほど甚大な被害を招くことなく、日本に最初に発砲させるよういかにして導くか」について議論していた。
 米陸軍長官・スチムソンは後に原爆投下計画の中心を担ったことで知られる。「真珠湾攻撃」の10日前には、ルーズベルトの指示に従って陸軍高級副官に当てた電報で「日本との外交交渉が中断することは明らかであって、日本の作戦行動が避けることができないのであれば、アメリカは最初に明白な行動をとるべきではない」と指示していたことも暴露されている。スチムソンは日記でも、「日本に最初の一発を発射させることにはリスクがあるが、アメリカ国民から全面的支援を得るには、日本にそれをやらせ、誰が見ても侵略者が誰なのか、少しも疑問を抱かないよう、はっきりさせることが望ましい」と書いていた。
 ルーズベルトら米政府中枢は真珠湾攻撃の14時間前には、日本の攻撃があることをはっきりとつかんでいた。しかし、そのような重大な事実に対して鉗口令を敷き、攻撃を受けるハワイの米太平洋艦隊に知らせなかったのは、日本に先に攻撃させるためであった。しかも、攻撃を受けた責任を、キンメル提督ら艦隊司令官に押しつけた。
 のちに、司令官らが前日の宴会で泥酔したり、ゴルフに興じていたという理由が事実でなかったことが暴露された。このことは日本政府が、アメリカへの開戦通告が遅れたことを駐米大使館員の責任にして、前日の宴会での泥酔や電文受けとり体制をとっていなかった怠慢にあったとこじつけてきたことと通じあうものである。最近、九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、本国からの通告の訂正電報を駐米大使館員が態勢をとって待っていたのに、外務省が攻撃後に届くよう遅らせて発信していた記録を、米国公文書館で発見したことも話題を呼んでいる。

 経済封鎖し戦争へ誘導 米国の周到な計画

 当時、ウォール街と軍需企業をはじめアメリカの財界は、ニューディール政策の失敗から戦争を求めていた。しかし、国民の反戦世論は圧倒的に強かった。
 したがってルーズベルトは「お父さん、お母さん、あなたたちの息子たちをヨーロッパ戦線に送ることは決してない。わが国が攻撃されないかぎり外国と戦闘することはない」と公約していた。
 アメリカ政府中枢がはりめぐらせていた謀略は、ドイツ潜水艦にアメリカの艦船を攻撃させて犠牲者を出すことと、ハワイに艦艇を停泊させ日本海軍に攻撃させることであった。日本については日本を政治的経済的に極限まで追いつめ、やむを得ぬ形で戦争に誘い込むことであった。それは、「裏口からヨーロッパに参戦する」というアメリカの目的の一環でもあった。
 実際にドイツとの関係では、1941年9月から10月にかけて米軍艦が大西洋でドイツの潜水艦と衝突したとき、ルーズベルトは「アメリカが攻撃された」といったが、実際に挑発の発砲を加えたのはアメリカの軍艦の方だった。また、イギリスへの武器貸与ではその護衛もしており、実質的に戦争に加担していた。
 日米開戦1年前に当時の米海軍情報部極東課長・マッカラム少佐が起草した対日戦略文書は、アメリカから宣戦布告するのではなく「日本に明白な戦争行為に訴えさせることができる手段」として、対日経済制裁を強め、日米交渉が決裂し、日本が戦争に出ざるをえない状況をつくるための具体項目を提起していた。
 アメリカは、マッカラムの文書をもとに日米通商航海条約を破棄し、在米日本資産の凍結から航空用ガソリン、くず鉄の対日輸出禁止などの経済制裁を加え、全面禁輸、さらには近衛文麿からの太平洋協議提案を拒否し、「最後通牒」となったハル・ノートの手交まで、そのシナリオ通りにことを進め、日本の真珠湾攻撃を引き寄せ太平洋戦争へと乗り出していった。
 この作戦は、アメリカがすでに日露戦争後から周到に練っていた「オレンジ計画」といわれる日本侵攻作戦を継承するものであった。
 アメリカは早くも日本との協調を唱えていた日露戦争の直後から中国市場の争奪をめぐって、いずれ日本との戦争は避けられないと見て、米海軍によって日本との戦争を想定した作戦を練りあげていた。それは、「日本が先制攻撃で攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」という構想を基本とするものであった。
 そのもとで、1909年から大規模な海軍基地建設を進めたハワイを起点に、いったん日本軍が侵略するであろうミクロネシアの島嶼(しょ)を、艦隊戦力をもって飛び石伝いに占領しながら反攻していき、グアムとフィリピンを奪回するという作戦もシミュレーションしていた。
 マッカラムの文書は、日本軍の不利な点として「アジア大陸での消耗戦に150万人が投入されている」「中国の主力軍隊が今なお日本と戦い続けている」と中国の抗日戦争によって敗北状態にあることをあげていた。その一方で、「(アメリカの)海軍及び海軍航空隊は現在、この地域で長距離侵攻作戦を実施する能力がある」など、アメリカが「きわめて有利な立場」にあると見ていた。
 アメリカのこうした情勢評価は、スチムソンが40年6月までに『ニューヨークタイムズ』に送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記し、そのために日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていたことにも示されていた。
 11月26日付の米政府の対日覚書(ハル・ノート)は、日本との協議の機会を閉ざす意図をもって高圧的な態度で日本に突きつけた「最後通牒」であった。その最大要件は、満州を含む中国全土から「すべての陸海軍、兵力と警察」を引き揚げることであった。アメリカは、日本の支配層がこれを受け入れることはできず、交渉を断念し、アメリカとの戦争に突入することを確実視していた。

 日本は中国で敗北必至 革命恐れた為政者

 当時、中国本土に投入された日本の陸軍兵力は138万人で、陸軍動員総兵力の65%に達していた。中国侵略を拡大していた日本の軍隊は、抗日勢力が強大化するなかで主要都市とそれを結ぶ鉄道、つまり点と線を維持するのに精一杯で、もはや侵攻作戦を続ける余力をなくすまでになっていた。41年の末時点で、戦死者はすでに18万5000人を数えていた。日本軍国主義の中国戦線における敗北は決定的となっていた。
 国内での過酷な抑圧と搾取によってみんなを貧乏に追いこみ、恐慌から中国侵略戦争と国民を動員してきた天皇制軍国主義にとって、ここで中国の権益を放棄し撤退することは絶対にできない相談であった。
 それはなによりも「国体」(天皇を頂点にした支配体制)を揺るがしかねなかった。為政者たちは中国で苦難を強いられている夫や兄弟を心配する家族に対して、「勝った」「勝った」の大本営発表とともに、「兵隊さんの苦労に報いる」ために痛みを分かちあうことを強要してきた。また農村の疲弊を打開するために、「王道楽土」の満州への開拓団の投入を国策として遂行してきた。そこに、中国から軍隊を全面撤退させて中国革命を促進し、大量の不満兵士を復員させ、開拓団を引き揚げさせれば、なによりも国内の治安を悪化させ、革命を引きよせることになることは容易に想定できた。
 すでに、1940(昭和15)年7月、枢密院議長の近衛文麿が組閣し、仏印(インドシナ)、蘭印(インドネシア)への武力進出「南進政策」をうち出し、9月には日独伊三国軍事同盟を締結していた。そして、アメリカの蒋介石への戦略物資の支援ルートを断つ方向へと進んだ。その行きつく先はアメリカとの戦争であることは明白であった。
 このことは、天皇をはじめとする支配中枢がアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。昭和天皇はこの時点で「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、すでにアメリカとの戦争での敗戦を想定していた。
 日本の戦争指導者で当時、アメリカと戦争して勝てると思うものは、だれ一人としていなかった。
 真珠湾攻撃を指揮した山本五十六・連合艦隊司令長官は、アメリカとの戦争を持ちかけられて、「それはぜひやれといわれれば、初め半年か1年ぐらいは暴れてみせる。しかしながら2年3年となればまったく確信はできぬ。三国条約ができてしまったのは致し方ないが、こうなった上は、日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」と答える状況であった。また、「アメリカと戦争するのは、ほとんど全世界と戦うことだ。ソ連などあてにならぬ。自分は最善を尽くして長門の艦上で討ち死にするが、その間に東京は3度丸焼けにされる。近衛なんか気の毒だが、国民から八つ裂きにされるようなことになりはせぬか」と吐露していた。
 海軍の永野修身軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至と見なしていた。
 このように天皇制軍国主義が初めから負けるとわかりきっているアメリカとの戦争に突入したのは、アメリカとの戦争を回避し中国からの撤退にともなう国内の反乱よりも、アメリカに日本民族の利益を売り渡して敗北する形を望んだことから来るものであった。そのことは、近衛文麿が日米開戦時の企画院総裁・鈴木貞一の「開戦は国内政治である」という言葉を引いて「なかなか含蓄あり」といっていたことにも示されている。
 その後の事態の進展は、昭和天皇が近衛文麿、吉田茂らの宮中グループを抱えて、日本の単独占領支配を狙うアメリカに敗北することを待ち望み、最終的に320万人もの国民を殺りくするにまかせ、塗炭の苦しみを強い続けたことを教えている。

 相通じて皆殺しを実行 民族的利益売り渡す

 アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、戦時情報局のライシャワー(戦後の駐日大使)が、「天皇を利用した間接支配」を提言したことを受けて、「天皇を象徴(シンボル)として利用」することを対日占領政策として公式に定めた。そして空襲においては、皇居の攻撃を禁止することを厳命した。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈への工作や、ザカリアス大佐のサンフランシスコからの短波放送を通じてその方向を貫いた。また原爆投下や空襲では年寄り、女、子どもを無慈悲に焼き殺す一方で、三菱や軍事、金融関連などアメリカの戦後支配や財界の利権がからむ施設を露骨に保護していった。
 こうしたことは、戦前からアメリカ支配層と天皇や皇室、財閥との間に密接な人脈が築かれていたことによって可能であった。対日戦略文書を起草したマッカラムは、キリスト教宣教師の両親のあいだに長崎で生まれ、少年時代を日本の諸都市で過ごした「日本通」とされ、昭和天皇が皇太子のときに「駐日アメリカ大使館」でダンスを教えたことで知られる。グルーは天皇や秩父宮、ザカリアスは高松宮と昵懇の関係にあった。
 昭和天皇は戦後、原爆投下について聞かれたとき、「広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない」と公言した。
 そこには、側近の木戸幸一が「陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたというのであった」と語ったような原爆投下への本能的な感謝の気持ちが充満している。
 海軍大臣であった米内光政も広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、「原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」と言明していた。
 日米戦争の最後の9カ月の間に89万7000人、すなわち78人に1人に当たる日本国民が殺された。そのほとんどが非戦斗の市民であった。ちなみに、アメリカ人は3万2000人が死んだ。
 これは戦後対日占領支配をたくらむアメリカと、天皇を中心とした日本の支配層が主従の関係にありながら、日本国民が社会の主人公として新生日本を建設することを阻むために、へとへとに疲れさせるという点で互いに結託していたことを教えている。
 真珠湾攻撃と日米開戦は、そのような米日支配層の親分子分の関係を確立し、戦後の対米従属支配につなげていく起点でもあった。その内実は、安倍晋三が自慢する「日米同盟」にしっかりと受けつがれている。

 

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