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新作『原爆展物語』舞台化へ
劇団はぐるま座
              来年3月に下関初演    2009年9月11日付

 山口市に本拠地を置く劇団はぐるま座は、全国公演中の『動けば雷電の如く―高杉晋作と明治維新革命』に続く新たな作品『峠三吉・原爆展物語―広島、長崎、戦地の真実 独立と平和をつくる確かな力』の舞台化に向けて準備を進めている。この作品は、1999年から10年間にわたって全国各地でおこなわれてきた「原爆と峠三吉の詩」原爆展の発展をまとめ上げ、日本全国で盛り上がってきた平和と独立の力強い人民世論を描きだす内容となっている。広島、長崎の被爆者をはじめとする全国の人人からの援助を受けながら台本が基本的につくりあげられた。年内に、舞台美術、音楽、ポスターなども完成させ、さらに現実に入りながら演技創造も深めて、来年三月に下関における全国初演を目ざしている。
 この10年来の原爆展運動を通じて、あの第2次大戦はなんであったのか、敗戦後の日本はどんな社会なのか、厚く施された欺まんのベールを引きはがしながら、まさに「目からウロコが落ちる」ような新鮮な経験を重ねてきた。この作品は、その運動のなかで戦後長きにわたって体験を語らせない構造的な力が働くなかで沈黙を守ってきた全国の被爆者、戦争体験者の心底の思いを歴史の表舞台へと引き出し、広島・長崎の様相が一変させていった経過を、それを援助してきた活動家の教訓も含めて生き生きと描き出している。
 以下、あらすじを紹介する。

 あらすじ
 広島での旧日銀原爆展 二〇〇一年秋

 舞台はまず、2001年秋、はじめて広島で開催される旧日本銀行での「原爆と峠三吉の詩」広島原爆展の準備のためにキャラバン隊スタッフたちがチラシをもって広島市内を1軒1軒まわり、平和公園に集まって市民の反応を口口に語り合う場面からはじまる。
 「手ごわいな。“あのう、原爆について聞きたいのですが”といったとたん、“お前たちは禁か協か”と激しく問いつめられた」「戸をピシャッと閉めて、“帰れ”だ」―広島市民から激しく追い返された体験が語り合われる。
 「原爆を体験していない者になにがわかるか、夏になったら来て騒ぐだけじゃないか。8月6日は祭りやピクニックの日じゃないんだ」「広島で原爆といって騒ぐ連中は原爆をメシの種にしている奴らだ」「孫がじいちゃん、ばあちゃんたちが悪いことをしたから原爆が落とされたと学校で教えられてくる。殺された者になんの罪があるのか」など、広島市民のなかに既存の運動への激しい嫌悪感が渦巻いていることがわかってくる。一方では、組合関係の人などからは「被爆者は加害責任の反省をするべきだ」「語り部の会は解散するし、もう被爆体験は風化している」などの意見も出されるなど、まっ2つに割れている現状が明らかにされる。
 会場である旧日本銀行を借りたり、教育委員会の後援をとりにいっても、教育委員会や原爆資料館の専門職員がズラッと出てきて、「著作権は問題ないか」「峠三吉の詩の中に“チンバ、めくさり、ハゲ、どかちん、精神薄弱者、未亡人”など差別用語がある」など80項目ものチェックが入るなど、まるで「教科書検定」のよう。
 ここでも、スタッフの中は「大げんかをさせて門前払いになるのがよくあるケースだが、こちらの目的はパネルをたくさんの人に見せることだ」と市民に奉仕する立場を貫いて1つ1つクリアしていったこと、広島を代表する原爆詩人の峠三吉が「人権に反する差別詩人」という扱いを受けたり、差別用語といって自由に体験を語ることすらできないという抑圧構図の中で「断固として峠三吉の時期の精神でいくこと、“加害責任の反省”などという勢力とは違い、アメリカの犯罪にははっきりした態度をとること、市民の意見を学ぶこと」という姿勢で一致して入っていくと、市民からはまるで古い友人があらわれたかのような歓迎を受けることになる。
 全市民の協力のもとでおこなわれた旧日銀広島支店原爆展は、「広島のものが本音を語りはじめたら日本は変わる」「市民の力で成功させ、広島の面目を一新させよう」と意気ごみ高く開幕する。
 入場してきた市民たちからは、「はじめて私たちが語れる場所に出会った」とこれまで胸に秘めてきた凄惨な被爆体験が激しく語られる。戦後も後遺症や差別に苦しみながらも「原爆に負けてたまるか!」と生きてきた力強い生き様が描かれる。峠三吉が編纂した子どもたちの原爆詩集『原子雲の下より』の詩を執筆した婦人は、「あのころの運動はもうなくなったと思っていたが、ここにあったんですね」と深い感慨をこめて思いを語る。
 峠三吉がアメリカ占領下の中でも断固として市民の思いを代弁したことへの尊敬の念や、その後の原爆の子の像建立運動の伝統などが語り合われ、「峠三吉の時期の運動は市民の中に脈脈と流れていることを確信させるもの」となる。

 どこも残虐な空襲体験 二〇〇四年から全国へ
 次に、2004四年からキャラバン隊が北海道から、沖縄まで全国で原爆展をした様子が映し出され、参観者から語られた空襲体験が紹介される。東京大空襲では、B29の編隊が深夜にやってきてガソリンをまき、市街地を取り囲むようにまわりから焼夷弾をばらまいて逃げ場をふさぎ、都内を火の海にして焼き殺したこと、その阿鼻叫喚の渦の中に「グラマンの操縦士がニタニタと笑いながら機銃掃射を浴びせた」事実などが激しい怒りとともに語られる。一方で、皇居や聖路加病院、東芝、三菱などが無傷で残された事実も浮き彫りにされるなか、「民家はすべて軍需工場だ。これを焼き払ってなにが悪いか」と居直る米軍爆撃司令官・ルメイの発言が対置される。

 沖縄戦の真実明らかに 2004年夏
 2004年夏、キャラバン隊は沖縄へ飛ぶ。沖縄ではこれまで、「日本兵による集団自決の強制」「本土の捨て石にされた」という日本軍の責任を問う側面だけが強調され、アメリカ軍はあたかも「沖縄県民を助けにきた解放者」という風潮に覆われていた。キャラバン隊員は「ドキドキしながら」沖縄県内での原爆展をはじめる。
 沖縄南部の公設市場では、「平和、平和というけどよ…これまで本土からやってきて、高級ホテルに泊まって大酒を飲んで、平和が大事、命が大事、沖縄の人が可哀想だと、バカ騒ぎをやっている連中にろくな奴はいなかった」「虫唾が走る思いがしてきた」など広島と同じような反応が返ってくる。
 ところが、原爆展をみた県民から語られるのは、語るもおぞましいほど凄惨な沖縄戦の体験だった。「広島、長崎と同じさ!」といいながら、目の前で米兵にあごの骨をうち砕かれて殺された肉親、艦砲射撃や、火炎放射器などの火砲によって女子どもも区別なしに「皆殺し」にされた沖縄戦の真実を激しく語り出す県民たち。
 また、艦砲射撃に追いつめられた住民が山の上に避難していると、本土から飛んできた特攻機があらわれて集落の頭上を旋回し、真っ逆さまにアメリカ艦船に体当たりしていった話や、壕の中で日本軍の隊長から「自分たち軍人は沖縄の石となり、土となる覚悟だが、君たちは必ず生きて日本の将来を見届けてくれ」と、食糧を渡されて送り出された経験、戦後は県民の手によって数万体もの日本兵の遺骨を集められて慰霊碑が建てられ、供養してきた思いが語られ、沖縄県民の中には虫ケラのように殺された日本兵への深い哀惜の念が流れていることを痛感する。「沖縄県民を殺したのは日本軍で、アメリカ軍は解放者」などという定説は、戦後、アメリカによってつくられた欺まん宣伝であることがはっきりと確信されていくのだった。
 また、広大な土地を基地として接収し、強盗や強姦をしても「無罪放免」など占領者として横暴に振る舞うアメリカ軍と沖縄県民が正面衝突したコザ暴動では、これまで我慢に我慢を重ねてきた外人バーのマダムやホステスたちがビールの空き瓶を運んできては米軍車両に投げつけていたことが誇り高く語られる。「ヤンキーゴーホーム!」「生まれてはじめて、本当にいいたいことをいってやったよッ!」と泣きながら叫ぶ娘たちの姿が浮かび上がる。
 県民1000人から聞いた沖縄戦の真実はキャラバン隊員にとって「沖縄の人人の顔つきから風景までが、これまでとはまるで違って見える」衝撃的なものであった。

 戦地体験者も語り出す 第 2 幕
 第2幕は、砲声や銃声が鳴り響くなか「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の…」という兵士たちの歌声が流れる戦場場面から幕が開く。
 「死にとうナカ」「茶碗で米の飯が食いたい」「帰りたい、帰りたい、日本へ帰りたい」と遠い異国の地で飢えと病気で倒れていく兵士たち。「あまりにも哀れなその死に様はとても遺族にはいえなかった。200万人もの兵隊が外地で死んだが、その骨はいまも取り残されたまま」という生き残った兵士の思いとともに、サイパン島ではまだ戦斗中にもかかわらず大本営から「全員突入玉砕せり」との無線が打たれ、兵隊が見殺しにされた事実や、「ミッドウェー開戦で勝つ見込みがなくなり、サイパンが陥落し東条内閣が倒れても戦争をやめず、最後の一年間で戦死者が増えた」ことなど、兵士たちが渾身の思いで告発する。
 下関「原爆と空襲展」会場へと場面は移り、戦争体験者たちが「おかしな戦争だった」「不思議でたまらない」と拭い切れぬ思いをスタッフに語る。「広島の師団司令部の兵器部にいたが、伝票はきても武器はなかった。竹で銃剣をつくって、くず鉄を集めて手裏剣をつくっていた」「宇品から毎日のように船に積み込まれて出ていく兵隊も丸腰で、家族持ちの3、40代だ。わざわざ死ぬために連れて行かれたようなもんじゃ」。
 中国湖南省の長沙、マニラ市街戦での米軍の無差別爆撃が日本軍の責任にすり替えられていることや、撃沈されて海に投げ出された戦艦大和の乗組員に対してグラマン機がやった情け容赦のない機銃掃射についても暴かれる。
 終戦末期の昭和20年2月、天皇側近の近衛文麿によって「敗戦はもはや必至であるが、米英は国体の変革を望んではいない。もっとも恐るべきは革命である」との上奏が出され、国民には「一億総玉砕」といいながら、「どんな降伏をしたら国民の反抗をかわして自分たちの地位が守れるか」考えていた日本上層部の意向が浮き彫りになる。戦後は、軍部にみんな責任をかぶせ、天皇も財閥も政治家も官僚も新聞も、みんな平和主義者のような顔をして占領軍にこびへつらっていったことへの激しい義憤。
 「そんな戦争指導者たちに責任がなくて、どうして赤紙で強制的にかり出された兵隊に加害責任というのか」「こんな植民地のようなぶざまな日本になり、このままではアメリカの戦争の弾よけだ。それでは死んだ戦友たちに合わせる顔がない。黙っているわけにはいかない」と、長年、被爆者と切り離されてきた戦地体験者たちが原爆展運動の戦列に加わってきた姿を描き出している。

 立上がる長崎の被爆者 2005年以後
 そして、2005年、戦後はじめて長崎で峠三吉の原爆展が開催される。「怒りの広島、祈りの長崎」という先入観をもって長崎に入ったスタッフたちは、「長崎は教会ばかりと思ってきたが、お寺だらけじゃないか」「“祈りの長崎”といったら市民はみんな不機嫌だ。メディアで振りまかれる長崎のイメージは相当に実際と違っている」と衝撃を語り合う。
 はじめは、目を背けるようにして去っていく人や黙って下を向いて行く人が多いなど「圧迫感」を感じるなかで続けた街頭原爆展は、しだいに「乾いた砂が水を吸い込むように」長崎市民に受け入れられ「日1日とまったく違う町に出向くような感覚さえ覚える」ものとなってゆく。
 長崎が「祈りと反省」のおとなしい町などではなく、広島と同じように「怒り」であること、永井隆などを使った「祈り」の宣伝は、原爆投下を正当化し、長崎市民の中にある原爆投下への怒りを封じ込めるアメリカの戦略であったことを明らかにすると、激しい共感を集めていった。第1回目の長崎原爆展は大成功をおさめ、市民によって「原爆展を成功させる長崎の会」がつくられてゆく。
 2009年の第5回長崎「原爆と戦争展」は、迫力に満ちた長崎市民自身の運動となり、平和公園にある力道山をモデルにした平和祈念像ばかりが知られる一方で、東本願寺教務所に安置された2万体の遺骨が影を潜め、しかも、その寺ごと目立たないところへ移転させて「26聖人の碑」が建てられたこと、同時に明治維新で倒幕戦争に参加した長崎振遠隊の招魂舎まで抹殺された事実も市民の証言によって明らかになる。「知らん間に大きな政治が動いて、長崎にはウソがはびこっとるとか」「私たちはあの日亡くなった人たちに生かされている。だから怖いものはなにもない。残りの人生をかけて原爆のことを語り継いでいきますよ!」―長崎の被爆者たちは全身全霊をかけて立ち上がっていく。

 全国の平和勢力大結集 2009年広島
 そうした全国の平和勢力を大結集した2009年の広島。全国各地から多くの人たちが第8回となる広島「原爆と戦争展」会場に詰めかけてくる。広島の会の被爆者、市民、学生たちが主人公となって受付、案内などの運営を生き生きと担う姿は10年前の広島とは様変わりである。秋葉市長や原水禁、原水協などの既存団体は「オバマ賛美」の大合唱をするなかで、広島市民の本音を代表した「峠三吉の原爆展」は名実ともに広島全市民の運動として定着している。
 展示を見ていた労働者たちが語る。「貧乏になって戦争になっていく。いまがまったくその通りだ」「非正規雇用は、在庫整理と同じように首を切られるんですからね」「若い者をわざと食えないようにして兵隊にするつもりなんですね」「今の日本はアメリカの属国ですよ。それが原爆投下から始まっている。国民は貧乏にさせながら、アメリカのイカサマ証券や国債を買わされ、米軍再編には三兆円…アメリカに貢ぐために日本があることがよくわかりました」。
 教師たちが語る。「女や子どもを追いかけて機銃掃射したグラマンのパイロットがニタニタ笑っていたというのは、今の子どもたちと似ているんです」「興味と関心の教育だ、人権だというが、自分の人権だけで他人の人権は攻撃する、人殺しまでする。教育改革は、意図的に兵隊をつくる教育ではないでしょうか」。
 「戦争は“さぁ、いまからやりますよ”といってはじめるものじゃない。気づいたときには戦争になって、がんじがらめになっている。敵基地の先制攻撃などしたら、いまの“平和”なんてあっという間に吹き飛ばされるんですよ」「労働者を動員しなければ戦争はできません。自分たちの目先の損得だけで浮かれている場合ではない。貧乏も失業も戦争もない独立した日本社会をどうつくるか」―被爆者、戦争体験者たちと若者たちとの熱のこもった交流が繰り広げられる。
 市内を走る「アメリカは核を持って帰れ」の宣伝カーの声が聞こえてくる。「オバマ賛美」は色あせ、「加害者論」や「アメリカとの和解」などという風潮もまったく見あたらなくなった広島。外国人からも共感を集め、原爆投下の犯罪性を真正面から明らかにすれば、全世界が団結できることを証明するものとなった。

 10年間の活動を振返る 最 終 場
 最終場では、原爆展をやってきた活動家たちが10年間の活動を振り返って語り合う。
 「“広島の面目を一新する”といったけど、ほんとうにそうなった」。ブッシュのテロ戦争、北朝鮮のミサイル問題など緊張した時期もあったが、「暴支庸懲の失敗を繰り返すな」とやったら市民の大歓迎を受けた。長崎の伊藤市長銃殺事件では、「殺し屋を雇った背後勢力はだれか」と号外を撒いたら市民が緊張から解き放たれていった。
 「大衆の力はすごい。みんなたたかう力をもっている。それを抑えつける力を取り除いたらみんなの本音が表に出てくる。広島、長崎、沖縄、戦争体験者もみんなそうだった」「自分たちの主張を頭から説教して回るというのではなく、何十万という市民の中に入り、意見を集めて、何を求めており、何が障害になっているのかを整理し、それを市民に返していく。そんな活動をしたらだれも押し潰すことはできない。それがまたたくさんの人を励ますんだ」「大衆の中にある1つ1つの松明を集めて、大きな灯台にしていく。1人1人の大衆を、人民全体の共通利益で結びつけて全国的な団結を作っていく。世界中の平和愛好勢力と団結する。そんな集団が全国的に結集していったら、日本は変わる。明るい展望が開ける」。なにもないところから大衆の中から大衆の中へ入り、大衆とともに巨大な運動を作ってきたことに確信を深める活動家たち。最後に、峠三吉の「墓標」の1部が朗読されるなか幕が下りる。
   ○………○
 劇団はぐるま座は、作品を来年3月に下関での初演を皮切りに、広島、長崎で上演することにしており、多くの人人からさらに学びながら舞台化にむけて発展させていく事にしている。

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