トップページへ戻る

市政変える市民運動強める選挙
告示近づく下関市議選
             市民感覚なくす議員の姿    2011年1月19日付

  下関市議選は23日の告示まで残すところ数日と迫り、市民の関心は高まっている。安倍・林代理、山口銀行など金融機関による大型箱物や市街地開発、市外発注や大型店誘致といった略奪的な食い潰しの市政か、産業を振興し雇用を確保して市民の生活を守るかが鋭い対決点となっている。略奪政治の枠のなかで個別利害追求ではなく、その支配の枠と対決して下関市民全体がよくなるようにしなければならないこと、またすべての既存議員が市民のことなど考えるものがおらず、市政を変える力は市民の大衆的な世論と運動であること、など熱い論議がかわされている。
 選挙が近づくなかで、多くの市民のなかでは「こんな静かな選挙は見たことがない」と話題になっている。告示になるというのに候補者が回ってこない。豊北、豊田、菊川などの旧郡部では立候補者が1人か2人だけに制限する力が働いて、それぞれ当選した気分でお願いにも回ってこない。旧市内でも共通現象であり、「立候補者本人は必死になっている」という話は出ているが、市民のところから見たら「静かで誰も来ない」が多数意見となっている。「おかしな選挙だ」といわれる。
 この現象の一つの要因は、定数削減のなかで立候補者が制限され、落選者が少なく、落選しなければ当選だという構図がつくられていることにある。定数34議席のうち、立候補者は40人を超える程度で、落選争いの引き算選挙になっている。市民がしらけて投票率が下がり、組織票の有効度が強まるなら、反市民の飼い猫議員ができあがるという関係である。
 しかし、より大きな要因は、議員連中が回れば回るほど、その素性の悪さが知られて、人人は冷めていき、腹を立てていくというのがある。共通していることは、下関をどうしたいかは何もない、知り合いのつてを頼って「私をよろしく」だけ。「選挙はおまえの就職運動か」という怒りが広がっている。議員連中の頭の構造が市民の感覚とあまりにもズレてしまって、市民の方が改めて驚いている。「選挙は自分のために」であり、「市民のために」「下関のために」というのが、言葉の上でも形の上でも取る意識も能力も失っている姿である。

 市民驚かす候補の行動

 先日、市内中心部で老人会の会合があった。そこに「たまたま通りがかったのですが…」といって新人候補の一人があらわれた。「しばらくおらせて下さい」と15分ほどたたずんで、何もいわずに帰っていった。それを見て、居合わせた人人は「何しに来たのだろうか?」と首を傾げた。頭を下げて挨拶していくわけでもなく、何をしたいのかがわからない。
 別の候補の決起大会。冷め切った業者動員のなかで、「私が○○の道路整備をやった」「あれも私がやった」の自慢話がオンパレードで一時間ほどで散会。「自分で主張しないとみんなが“ワシの活躍ぶり”を知らないと思いこんで余計に熱が入っていた。市民の税金でやっている事業を、“ワシがやった”などと自慢する。頭がどうかしている」「下関の経済状況の悪さについて、みんなが困っている現状についてまるで心配していない。自分が当選することだけしか考えておらず、見ているだけで嫌になった。うんざりした」などと語り合われた。「下関のため」「市民のために」の言葉すら持ち合わせていない精神構造への違和感となった。「これでは演説すればするほど票は逃げていくだろう」の結果となった。
 別のベテラン候補の決起大会に参加した男性は、候補者から「お願いします」の言葉すらないのに唖然とした。「私がいなければ○○はできなかった」等のドブ板自慢から、しまいには「下関市は財政も厳しいのに、実情を知らない人人(市民)が世話ばかり求める」といった説教に急展開。「為政者の側から市民を見下す体質が染みついている。選挙なのに“お願いします”すらいえないほど、脳味噌がえらいことになっている」と呆れた。参加した人人が候補者本人に「なぜワシらが説教されないといけないのか!」「おまえは落選するぞ」と指摘するが、本人は馬耳東風で、むしろ「政治信念を貫くのが政治家」とのこだわりを近辺に披露する有様なのだといった。
 母親が熱心に「息子をお願いします」と依頼して回る陣営。女房・子どもを連れた挨拶回りをくり広げ、同情票狙いが見え透いて嫌悪される候補者。今になって地元自治会長を通じて後援会名簿の提出をさせる陣営。公明党は選挙前になると決まって商店に買い物にあらわれ投票依頼。後援会入会を依頼する返信はがきの50円切手をケチって、有権者一人一人に負担させる候補者。「28万人を背負うのだから、身が引き締まる思い」と当選した気になっている新人候補。「新しい下関」「輝く下関」「頑張る」「元気」といった幼稚なフレーズが並び、下関をどうするのか政策がまるでない。
 議員というのが、公のため、郷土のため、市民のためということがすっかり死語になり、自分のため、自分のビジネスのための飼い猫精神が板についてしまって、市民が思っている議員の概念とは別物になってしまった。市民のところへ行けば行くほど嫌われて、動けば動くほど票が減る。それがなぜだか本人自身にわからない。市民とのあいだで、対話ができる能力を喪失するレベルにまで議員の脳みそが劣化している姿が市民を驚かせ、怒らせている。こうして悲劇なのか喜劇なのかわからない選挙戦が展開されている。
 選挙戦開始ということで、すべての議員、立候補者が市民の目にさらされることになる。立候補者は自分の政治信念、議員としての姿勢を、嫌われようが好かれようが堂堂と市民の前に明らかにしなければならない。
 市民のなかでの政治的な関心は鋭いものとなっている。リーマン・ショックを境にして彦島の三井金属MCSでは1000人以上に上る首切りがやられ、神戸製鋼、三菱なども容赦なく下請や派遣切りを実施。元請の単価切り下げに苦しんできた中小企業や老舗の倒産も相次ぎ、かつがつ自転車操業しているところでも賃金未払いが続いたり、銀行から融資をストップされて破産するなど、深刻な状況が語られている。市内の中小企業のほとんどは赤字経営といわれる。人を雇う余裕もない。
 この間、新規離職者の数は毎年2万人に及び、春に社会に巣立っていく高校生たちの就職内定率も過去最低。親の介護のために下関に戻ったが何年も仕事がない失業者。若者に職がなく、その家族も含めた生活の困難さは言葉にあらわせないものとなっている。生活保護の申請が増え、児童扶養手当の受給者も右肩上がりであることが、市内の深刻さを端的に物語っている。
 「こういう時こそ行政が機能して雇用確保や市民生活の拠り所にならなければならないのに、中尾市長も議会も何の関心もない」「ただでさえ苦しいのに市外発注ばかり熱心で、大手が潤う駅前開発や市庁舎、人工島など箱物ばかりが目白押し。公共施設まで市外大手に運営させるなど論外だ。私らが税金を滞納するとすぐに差押えで、市民から奪い取るのが当たり前みたいになっている」「議員がドブ板をしたところで下関はよくならず、政治の構造を抜本的に改めなければ浮上できない。吸血鬼みたいなのが街の金を吸い上げていくから、みんなに回ってこないのだ」など、市民の怒りはうっ積している。
 下関では安倍・林代議士の代理人となった江島・中尾市政の16年で、市民の生活はさんざんに荒廃し、疲弊してしまった。少子高齢化が全国の同規模の都市と比較しても飛び抜けて進行し、若者が就労する場所がなく人口流出が止まらない。江島市政は、アメリカ渡来の新自由主義市政を全国に先駆けてやるというものであったが、それに対する市民の批判に乗っかって登場した中尾市政は、たちまち公約破棄をくり返し、超新自由主義の突っ走りをはじめた。公約破りの菅民主党政府の先を行っている。
 意識的な市外発注がくり返され、750億円かけた人工島をはじめ工事に関わった190社のうち十数社しか地元が仕事をもらえなかった社会教育複合施設、犬猫の安楽死施設に13億円、ペンギン御殿に二十数億円、梶栗駅のようなJR西日本利権への散財。あるかぽーと開発事業や、200億円かける新市庁舎建設、150〇億円の駅前開発、250億円もの過剰な浄水場整備、新博物館、沖合人工島の拡大などの巨大事業を目白押しに計画しており、市財政の破綻に向けてまっしぐらである。
 教育予算が極端に少なく、トイレットペーパー代まで父母負担というデタラメ。散財の傍らで行財政改革によって旧四町から切り捨ててきた。公共施設の相次ぐ民間委託(市外大手への発注)とそれに伴う前代未聞の行政サービス縮小。「効率化」を掲げた保育園や小中学校の統廃合。市立大学や中央病院の独立行政法人化。市役所職員は月13万円の短期雇用嘱託を900人も増やしている。市民生活の窮乏化によって市税収入が激減するなかで、市民を狂い死にさせるような差押えや財産没収がくり返されたり、保育料や水道料の値上げなど負担増。
 大型店の野放し誘致で商店街が疲弊しきっているだけでなく、生産者を買いたたき、高齢者を中心に買い物難民をつくる。利権優先で市街地開発を進めた結果、サブプライムのような土地が出現し、中心市街地では見るも無惨な廃屋だらけの地域が出現し、過疎高齢化が深刻なものになっている。農林漁業政策がないがしろで、基幹産業だった水産業だけでなく、農村地域の衰退が放置されていることなど、下関の危機的な現状がある。
 安倍・林代理の江島・中尾政治とは、まさに郷土食い潰しであったというのが市民の実感である。安倍、林事務所をバックにして、さまざまな色合いの飼い猫議員が「市民代表」といってサポートし、各種の政治勢力に支えられ、行政機構や警察、メディアなどもかかわった権力として下関市政がある。
 下関では新自由主義政治の典型として、植民地略奪政治がさらに輪をかけて強行されようとしている。このとき、市民の常識を持った議員がいたのでは困るのである。

 全市民の利益で団結へ

 選挙は、地域利益、企業利益、もろもろの個別利益のつながりでやられてきた。要するに議会政治とは利権政治であり、大小の利権の奪い合いなのだ。しかし、それで選挙をやってきた間に、大きな植民地的略奪政治があけて通され、下関の経済全体がつぶれ、市民みんなが困るようになった。大きな政治の枠組みを容認して個別利害の追求を優先していたのでは、市民の個人生活も成り立たなくなる。大きな政治の枠組みを変えるために、市民みんながよくなるために、市民全体が共通の大きな利益で団結することが求められている。
 選挙は腐った議員ばかりだから何をやってもダメではない。市政を変える力は議員のなかにはなく、市民のなかにある。市民の大衆的な世論と運動が市政を変える最大の力である。下関の権力者である安倍、林代議士も市民の支持を失ったら権力者の地位を維持できない。山口銀行も市内の産業をつぶしたら吸い取る源泉を失うわけで、自分がつぶれるほかはない。
 この選挙は、安倍、林代理の中尾市政と飼い猫議員の正体をあまねく暴露し、下関をつぶすか立て直すかの支配勢力と市民の政治的な対立点を鮮明にし、市政を変える市民全体の団結の輪をいかに強いものにするかが最大の問題である。選挙は市民の大衆的な政治斗争を強める機会として一番の意義があり、それによって市民運動を代表する議員をつくり、市民派議員の活動と結びついて市民運動をいっそう強いものにする。それが市政を変えていく力であり、その力をつくるのが今度の選挙の楽しみとなる。

トップページへ戻る