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祖父母に学び学生が行動へ
長崎・被爆者と若い世代交流会
               熱こもる被爆者の語り   2008年10月29日付

 長崎市中央公民館で26日、「被爆者と若い世代の交流会」(主催/原爆展を成功させる長崎の会)がおこなわれた。同会の被爆者、戦争体験者、社会人をはじめ、長崎大学、県立シーボルト大学、総合科学大学から12人の学生など約25人が参加。体験者の凄惨な体験と、「ふたたび戦争をくり返させぬ」という新鮮な怒りを共有し、世代を結んで長崎の地で運動を広げていく意志を固めあう厳粛で活気に満ちた論議となった。
 参加者の自己紹介の後、両親兄弟6人を原爆で失った永田良幸氏(75歳)、学徒報国隊として生き残った吉山昭子氏(79歳)が被爆体験を語った。
 最初に体験を語った永田氏は、「長崎には5つの被爆者団体があるが、宗教や政治に利用されるのがイヤでこれまで黙ってきた。4年前にこの原爆展に出会ったことから、純粋に真実を伝えることができると思い語りはじめた」と前置きして「亡くなった兄弟は3歳、7歳、15歳、20歳、父が74歳、母が44歳だった。兄姉の2人はいまだに行方不明で、職場からの死亡届もない。私の頭の中では原爆も戦争も終わっていない」と話しはじめた。
 「原爆でなぜこれだけの犠牲が出たか。当日は、広島も長崎も前の晩から続いた空襲警報、警戒警報が解除され、学生は学校に行き、動員学徒は職場に行く、家庭では昼飯の準備をはじめるという状況だった。午前11時。母が洗濯物を干していたので、私は親戚の3歳の女の子をおんぶしていた。友だちが学校へ行こうと誘いに来たので、“この子を受け取ってよ”という私に母が“あと2、3枚で終わるから”と話しているとき、突然ものすごい飛行機の爆音がした。後で原爆を投下したB29が全力で逃げる音だったと知ったが、外を見ようとした瞬間に耳が裂けるようにグワァーンときた。そのまま家に押しつぶされ、辺りは真っ暗でなにも見えなくなった」と被爆時の状況をのべた。
 倒壊した瓦礫からはい出して防空壕に避難すると、焼けただれて顔が般若のようになった母が死んだ妹を抱いて座り込んでいた。周囲は目玉が飛び出た人や皮膚が赤むけた人が群がる地獄図。目がつぶれた母は、3歳の弟に乳を飲ませようとしても弟は母の顔を恐がって泣くばかりなので自分が代わり弟に卵を食べさせようとしたが、弟はすでに死んで口を開かなかった。「マー坊は欲しがらんよ」と伝えると、母は「もう死んだとやろ…」と悲しげにつぶやいた。
 その後、「軍医のいる長崎大学の焼け跡に運ばれたが、チンク油を塗るだけの治療で母はどんどん弱っていった。14日の朝、母は洗面器をもって来させて私に自分の大便の始末をさせた。母はほんとうに辛かったと思う。そして“親戚の人を呼んで来い”というので、自宅から親戚のおじさんを連れて戻ると、脇に寝ていた人が、“お母さんはなにか一生懸命しゃべっていたよ”といった。母はもう泡を吹いて死んでいた。いまでも“間に合わないでごめんなさい”…もう少し早く連れて来れば遺言の1つもいえたのではないか…と悔やまれる。どうせ死ぬなら腹一杯の水を飲ませて死んでもらいたかった…」と、こみあげる涙をこらえながら話した。
 翌日、他の遺体といっしょに火葬される母に会いたい一心で、並べられた50体ほどの遺体の顔を1つずつ確認し、母と最後のお別れをしたことを語り、「いまでは原爆に対して、カッパを着ろ、傘を差せなどバカなことを政府がいっている。そして、親が子を殺し、子が親を殺すなど日本は完全に狂ってしまった。日本がアメリカの植民地になっているからだ。政治家ではなく政治屋が自分の金もうけだけ考えて、国民の幸せのことを考えていない。これを脱皮して、核戦争の起こらない世の中にするために若い人たちの力でどうすれば戦争が起こらないのかを話し合って幸せな日本をつくってほしい」と呼びかけた。
 参加者たちは目頭をぬぐいながら聞き入っていた。
 つづいて吉山氏が、三菱製鋼所に出ていた700人の学徒が原爆で亡くなり、生き残った家族や同級生も次次に原爆症やガンで亡くなった苦しみを伝えた。
 「1番下の妹は、2人の子どもを残して原爆症で亡くなり、長姉も乳ガン、皮膚ガンを患って何年も治療したが今年1月に亡くなった。6人いた兄弟のうち4人が原爆で死んでいる。生き残った者として、若い人たちに平和の大事さ、戦争、原爆の悲惨さをこれから語り続けたい。日本は食糧もまともにつくれなくなり、戦争をやれば必ず全滅する。戦争を起こさないために若い力を貸してほしい」と力を込めて訴えた。

 長崎の地で運動広げる 世代こえ固い絆
 長崎大学経済学部のグランドが毎日のように死体が運び込まれて火葬場になっていたことやたくさんの学生たちが一瞬にして灰になったことなど学生たちはメモを取りながら真剣に聞き入り、活発に質問や意見を投げかけた。
 とくに、原爆投下の目的についての質問に、被爆者たちは「アメリカは戦争を早く終わらせたと主張するが、広島と長崎には二種類の原爆を使った。これは大量殺人であり、市民はモルモットにされた。この事実を私たちは死ぬまで忘れることができない」「三菱兵器工場では、昭和19年からヤリの穂先や日本刀をつくっていた。そんなもので原爆と戦わせた軍閥の責任は大きい。そこまで知っていて女、子ども、老人の頭上に原爆を落としたアメリカは鬼だ」と親兄弟を殺された経験を交えて語った。久間元大臣の「原爆はしょうがない」発言や、岩国での米軍再編の強行、米軍への無償給油、原子力空母を入港させている日本の植民地状態につながっていることが指摘された。
 海軍経験者の男性は、「昭和19年に、制空権も制海権もない台湾やシンガポールに送られて3500人が戦死し、その遺体を焼いてジャングルに埋めて帰った。軍隊も生き地獄だった。負けると分かっていた戦争に“勝つ”と信じ込まされ、犠牲になった340万人の上に私たちは生かされている。もっと早く戦争をやめておけば特攻隊も広島も長崎もなかったはずだ。戦争は絶対にさせてはいけないし、2度と騙されてはいけない」と痛恨の思いを伝えた。
 長崎大学の女学生は、「“放射能の光と影”という講義のなかで原爆投下は人体実験だったと知った。アメリカは自国の兵隊までも核実験の実験材料にし、広島や長崎では治療はしないのに被害データだけを集めた。私はモルモットにしたのだと思う」とのべた。
 長崎出身の女学生は、会に参加するにあたって、被爆した曾祖父の墓参りをしてきたことを明かし、「亡くなった後になって、身近に被爆者がいながらなぜもっと勉強してこなかったのかと後悔している。これから原爆について真剣に学んで、祖父母の思いを大切にしていきたい」と厳粛に思いを語った。
 愛知県出身の女子学生は「原爆について学ぼうと思って長崎の大学に来た。愛知では8月9日にNHKのニュースで報じられるだけで、まったく原爆に触れることがなかった。卒業後は地元で原爆のことを広げていくために勉強したい」と意気込みを語った。
 また、「直接体験者が減っていくなかで、どのように原爆の記憶を長崎に残していくべきか」(総合科学大学・男子学生)、「これだけは伝えて欲しいという思いを教えてほしい」(長崎大学・男子学生)などの質問も出された。被爆者たちは、「若い人が体験者の話をたくさん聞いてほしい。受け売りではなく、生の被爆者に聞いてほしい」(被爆婦人)、「私たちが原爆を忘れたら、また核戦争になり、女、子どもが犠牲になる。痛みがないから罪のない人を簡単に殺す。相手がアメリカだろうが、総理大臣であろうが、犠牲になる人を思いやって正論は正論、悪いことは悪いとはっきりいわないといけない」(男性被爆者)と懇切に思いを伝えた。
 最後に、今後の活動について、長崎大学の男子学生から、11月に長崎大学構内での「原爆と戦争展」と被爆体験に学ぶ会をおこなうことが報告され、被爆者と学生との共同のとりくみとして成功させることで一致した。お互いの健斗と再会を誓い合い3時間におよぶ交流会を閉じた。

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