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  <狙撃兵> 体育偏重もやってみたら?        2010年8月27日付

 知育偏重はあるが体育偏重はない。人間はいくら頭がよくても体が弱くては困る。知育、徳育、体育のなかで体育が基礎であることは疑いない。子どもたちもまた、授業のなかで一番の人気は昔も今も体育である。ところが、運動会を削り、学芸会を削り、遠足を削り、音楽や美術を削り、学力ばかりに子どもを縛り付けて、そして九九も漢字もできない低学力になった。昔は、運動会や学芸会に熱を上げ、毎日遊びまくりながら九九のできない子はいなかった。知育偏重を通り越して点数偏重をやればやるほど低学力になっている。
 知識は体を動かし感じることから生まれる。人間の歴史が示すことは、自然界に働きかけて有用なものをつくる生産活動を基本にして自然の法則を理解し、また労働と生活の集団性の必要のために、言語も発するようになった。労働を通じて手や足の機能も、脳をも改造・発達させた。労働や生活という体を動かす社会的な実践こそが、疑いなく脳を発達させ、理数科や国語、社会科など知識の源泉である。親たちがやっており、自分たちもやることになる労働や生活に根ざしてこそ知育は生きてくる。この道理を転倒させたのでは学校がひからびるのは当たり前の話だ。頭だけくるくる回っている文科省の統率下で、学校が世間離れをし空中遊泳状態になって「くるくるパー」をふやしている。
 学力が低いので体育を削る。「学力の敵は体育」といわんばかりだ。人間の発達は目先の足し算や引き算だけで動いていると考えるのが文科省のバカ役人である。体育で、できないことをできるようになることが自信になり、集中力や忍耐力、自分を改造する努力の精神が強まって、知育でがんばる力にもなる。知育で突破することが、敗北意識を克服して自信になる。また美術や音楽などが精神を解放して体育や知育の発達を刺激する。そしてある時別人のように飛躍的に成長する。こういうことはよく経験していることである。いまや数値化ばやりだが、それは同一の質すなわち値段に換算し、商品に換算するものである。それは質の多様性を否定する画一化である。何が個性重視か! 学校は砂漠のようだが、時には体育偏重もやってみる価値がある。

                                       那須三八郎


 

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