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   <狙撃兵>  体罰はダメで刑罰はよい?       2009年10月19日付

 先日も下関の中学生3人が友だちを殴って鼻の骨を折ったというので、警察がある日まだ寝ている早朝自宅にあらわれて手錠をかけ警察に引っ張っていった。傷害罪というのである。この中学生は学校で「ワル」と呼ばれる生徒である。この学校ではこの間、何人もの暴れる「ワル」を鑑別所送りなどして、「いい学校になった」ともいわれている。
 「教師は体罰をしてはならない」というのが、文科省もマスコミも警察も一致して強制してきたことである。怒鳴っても体罰、さわったらセクハラという具合で、指導してはならないというのである。ところが体罰はダメだが、刑事罰をやるのはよい、という実態が進行している。どうして、警察に差し出す前に、体罰といわれようと何といわれようと、正面から向き合ってしかったり、叩いたりして、学校で教育として教えないのか。これは親たちみんなが思う常識である。
 現在の教育委員会の学校指導は暴れる生徒は学校から排除せよとなっている。教師を殴ったら警察、友だちをケガさせたら警察で、こういう事件が起きたら警察につきだして排除するチャンスと見なす傾向すらある。教師に体罰禁止をいいながら、刑事罰奨励を指導しているのである。それは欺瞞である。この子たちの多くは、早くから排除されている。学校は塾に行っているのを前提にして授業をする所が多いが、貧乏人の子ほど遅れていく。毎時間、何年もさっぱりわからない授業をジッと座って聞いているのは拷問と同じである。補習などしてわからない子にわかるよう教えろという教育委員会の指導はない。自己責任といって授業排除なのだ。
 この子らの多くが、親から捨てられたり、片親であったり、貧乏であったりの不遇な子が多いが、要するに下層で労働をしている親たちの子が多い。暴れているのは学校だけで、地域では小さい子と遊んでやったり、いい子と評価されている場合が多い。学校が勉強ができる子だけがよいという成績基準で、教師の成績もそれで評価されるのをよしとする。そして下層で苦労している家庭とその子どもの心情を理解する能力を著しく欠いた方向に進んでいる。貧乏人の蔑視から敵視の感情すら持つ流れもある。
 世の中は「成績のいいエリート」だけでは成り立たない。貧乏ながらも労働をする多数のものがいるから成り立っている。働く貧乏人に対応できないエリートは、社会の指導者になれるわけがない。働く貧乏な親たちの持つ率直で健全な精神が理解できない学校は、まさに教育の崩壊をあらわしている。
                                         那須三八郎

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