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  <狙撃兵 祝島の山戸氏が島を去る          2011年10月31日付

 30年にわたって上関原発建設とたたかって、ついに終わりに追い込んだ最大の原動力は祝島の婦人、住民たちであった。この祝島で、反対派組織・島民の会の山戸貞夫氏が会長を辞任した。理由は糖尿病治療の入院のためということだが、それだけなら会長を辞める必要はない。
 祝島島民の話では、昨年末頃から指導部でよくもめていたとか、一人暮らしでよく酒を飲んで荒れていたと語られている。昨年は、県の農林水産部が再々乗り込んで補償金の受けとりを策動したが、最後的に拒否され、二井知事の埋め立て許可の無効が確定。町内に押し寄せていた原発業者がみな引きあげ、中電が形ばかりの工事再開の騒動をしている頃であった。
 漁業権変更の失敗で上関原発が振り出しに戻ったところに、福島原発事故で上関原発は一巻の終わりとなった。原発反対のリーダーが、原発がなくなったら荒れた気持ちになり、島を去る。喜んで町の立て直しに意欲を燃やす町民とは対照的となった。
 島における山戸氏の権力を保障していたのは平井元県政であり、二井県政であった。県の商工労働部長や水産部長と酒を飲みかわす関係で、水産加工場をつくったり、道路を県道に格上げして整備したり、深い水深のところに埋め立てをしたりしてもらい、94年の漁業権書き換えの際には田ノ浦地先の共同漁業権を放棄して、推進の弾みをつけるのに貢献した。
 「日共」集団といい、旧社会党といい、雑多な新左翼勢力など諸勢力、また労働組合といい、「左」と称してきた連中がのきなみ「右」になって大衆の側に襲いかかるのが当節の流行となってきた。民主党の仙谷や枝野も新左翼出身でいまでは右翼。80年代に中曽根政府が国鉄民営化をやると手も足も出なくなり、90年前後にソ連、東欧の社会主義が崩壊すると一目散に右旋回をはじめた。この時期に祝島に戻った山戸氏はその流れを象徴する存在であった。しかし終幕はあまりにもみじめである。大衆こそ偉大であり、いまや一時代はびこったイカサマ勢力を乗り越えて大前進をはじめているのだ。

                                   那須三八郎

 
 

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