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      狙撃兵  子供が腹空かせた「美しい国」  2016年9月30日付

 「子ども食堂」といわず「老人食堂」も欲しいという声に混じって、「一人もん食堂もお願いします…」と男たちの遠慮がちな声まで聞こえてくる。50〜60代で病気を患ったのをきっかけに失職し職が見つからずに収入が途絶えたとか、親の介護を巡って家庭が崩壊してしまった等等、大人であっても一人一人に大変な実態がある。今や生活破綻は特定の世代に限ったものではなく、高齢者から現役世代、その子どもたちに至るまで全般に及び、何かのたがが外れたような時代が到来している。一事が万事カネがなければ子育ても病院通いも老後の心配もままならない世の中だ。そのなかで、せめて子どもの胃袋ぐらいは何とかしてあげられないものかという力が、地域や社会の愛情を体現した形で「子ども食堂」に注がれている。
 社会と個別家庭の生活は決して切り離れたものではない。一方で大企業や金融資本、多国籍企業の利潤は膨れあがっているのに、その結果として日本社会にもたらされた貧困なり個別家庭の抱えた問題になると、みな自助努力に委ねられているのが現実だ。労働力として社会のために尽くせるのはせいぜい20歳から60歳過ぎまでの40年程度。しかしその前後はみな個人の自己責任、自助努力に丸投げして社会保障が機能しない。税金をとるばかりで国民の面倒を見ない新自由主義政策が強まるなかで、そうした傾向はますます露骨なものになった。
 それで食事をまともに食べることができない子どもがいる。子どもだけでなく、何年か前には「おにぎり食べたい…」と書き残して孤独死した人もいた。社会から取り残されて栄養失調になっている高齢者の存在も社会的な問題だ。これほどの先進国で、また飽食の時代といわれながら、手元にカネがないことで孤立化して飢えなければならない人人が増え、どこそこで「子ども食堂が始まった」がニュースにまでなる。
 「政治の役割は二つ。国民を飢えさせないこと! 絶対に戦争をしないこと!」と叫んでいたのが俳優の菅原文太だった。海外の難民支援とか援助に何十兆円とばらまいてドヤ顔をする前に、飢えた子どもがいない国、子ども食堂などない国にすることが先である。「美しい国・ニッポン」を叫ぶのは、誰もが美しいと思える国になってからでいい。      武蔵坊五郎

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