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   狙撃兵   受け入れ難い前提            2017年5月5日付

 米朝の軍事的な緊張激化を受けて、日本国内では新聞やテレビが「北朝鮮がミサイルを発射する」「Xデーはいつか」と連日のように煽った。政府はミサイルが発射された際の避難方法を広報し、真に受けて避難訓練を実施する自治体や、誤報を流して住民を脅かす自治体まであった。東京では地下鉄が止まった。こうした過剰反応に世界の国国は「日本は騒ぎすぎ」と呆れていた。一連の過程で見過ごせないのは、ミサイルが飛んでこないようにどう対峙するのかが抜け落ちて、もっぱら「飛んでくる」ことを前提にしてすべての話が動いていたことだった。恐怖を煽るばかりで、ちょっと待て! と疑問を投げかける動きも乏しかった。
 なぜ狙われるのか? それは米軍基地や関連施設を132カ所も抱え、日本列島が東アジア地域において米軍の不沈空母の役割を果たしているからにほかならない。そのおかげで国民の生命や安全が脅かされるという時、まず政府なり統治機構がすべきは「アメリカを支持する」と表明することではない。主権国ならば「東アジアで戦争の危機を煽るな」「なぜアメリカのおかげで日本が狙われないといけないのか」とはっきりもの申して、それこそ国民保護を最優先して動くことだったはずだ。日本列島にミサイルが撃ち込まれるという危機が本当に差し迫っているのなら、まず撃たせないことに全力を傾けるのが当たり前であり、フィリピンの大統領や中国以上に緊張緩和や自制を促す対応に奔走するのが自然な行動だ。ところが狙われていると騒いでいる当事国にそのような努力はなく、いきなり撃ち込まれる前提で「逃げる練習」をさせていたのである。物事の判断が「狙われて当たり前の日本列島」から出発し、米軍の盾にされることについて受容したところから始まっているのである。あるいは、ミサイル攻撃などないことを初めからわかっていて、ここぞとばかりに有事への地ならしをしていたと見なさなければ説明はつかない。
 米軍の盾にされることは日本社会にとって当たり前なのか否か、私たちはそのような運命を受け入れるのか、対米従属の現実を直視して考えなければならない。「逃げましょう」の前にすべきことがある。                                  武蔵坊五郎

 

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