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「平和教室」、「平和の旅」運動へ

広島に学ぶ小中高生平和の旅
被爆者の人生に学び成長
十七校の子がすぐに団結
                                      2001年8月9日付
 広島に学ぶ小・中・高生平和の旅の一団は5日から6日にかけての1泊2日の日程で原爆都市広島の地を訪れた。一昨年から発展している原爆展運動のなかで「2度と原爆を使わせないために、若い人に受け継いでほしい」と語られる被爆者たちの思いを受けとめた青少年たちは、これまでの原爆展運動や各学校での平和教育でつかんできた内容を多くの同世代の仲間とともに広島現地に行って深めようと旅を企画し、下関市内や県内に呼びかけてきた。旅を成功させるために子どもたちが連日街頭に立ってとり組んできた署名は総数にして2129人、カンパは総額55万7185円寄せられ、被爆者や多くの市民から支えられ、熱い期待を背負って広島の地を踏みしめた。下関市、美祢市、山口市、宮崎県の17校から、下は小学2年生、上は高校3年生までの総勢42人の元気な子どもたちに人民教育同盟の教師たちが引率した。

  交流を深めながら広島へ
 1、なぜアメリカによって罪のない何十万もの人が殺されたのか、なぜ原爆は落とされたのか、なぜ戦争は起こるのか考えよう!
 1、被爆者の方の思いを真剣に学ぼう!
 1、被爆者の方たちの思いを受け継ぎ、平和な未来のために行動しよう!
 1、各地から参加する小中高校生と仲良くなろう!
 結団式でみんなでつくった旅のしおりには、こうした目的といっしょに、「すべての行動は指揮に従う、挨拶は元気に大きな声で、大きい子は小さい子の世話をよくみる、小さい子は大きい子のいうことをよくきく」などの注意がしっかりと書きこまれていた。
 下関市役所前を出発したバスは各地で参加者を拾って乗せながら、山口市に来た頃にはメンバー全員が揃った。各地から集まってきた子どもたちは初対面の緊張の面持ちも見え隠れするなかで、用意され配られたおやつを口に頬張りながら次第にうち解けていった。広島へ向かうバスのなかでは、高校生の司会で“青い空は”の歌を練習したり、峠三吉の“8月6日”の詩を群読した。恥ずかしさに照れながらまだ声もまばらであったが、広島の地に馳せる気持ちを乗せて歌声が響いた。
 また、バスのなかではいっしょに同乗した下関原爆被害者の会の藤田則子さんから体験を聞いた。9歳のとき、校舎の下敷きになっていたところを助け出された藤田さんは、友だちの多くが下敷きになったまま炎に包まれ死んでいったこと、両親など家族全員が原爆で殺され、祖母に育てられた経験などを語りながら、「いつも自分にまけない心の葛藤があった。苦しみでもあります。それはこれからも生涯続くことになるでしょう。苦しい時、わたしは両親の写真を見て乗り越えてきた。原爆で亡くなるまでの父と母を手本にして、目標にして生きてきた」と語った。それまで騒いでいた子どもたちも一変して真面目に話に耳を傾けた。小学4年生の男の子の1人は「足のケガはどうなったの」と同じく9歳の自分と重ね合わせて心配していた。
 午前中のうちに広島についた一行は、爆心直下の島病院、被爆建物である旧日本銀行広島支店の跡地などを訪れた後、日赤病院横を通過し、御幸橋を通ってABCC(現在の放射線影響研究所)などの建物を見た。日本銀行跡地では、この日のために警備員の男性がパネルを自ら作成して子どもたちに話してきかせた。
 比治山展望台で当時焼け野原となった広島市内、現在では原爆ドームすら見えないほど建ち並ぶ高層ビル群を見渡して昼食をとった後、今回の旅の重要な目的であった平和公園での被爆体験の聞きとりへ移動した。
 原爆の子の像前にはすでに広島在住の被爆者たちが子どもたちを待ってくれていた。広島市内や原爆展をとり組んだ府中町などから5人の方たちで、手には自分で書いた詩や絵本をもって出迎えた。「よろしくお願いします」と元気よく挨拶を交わしてから、5人程度の班ごとに分かれて公園内の木陰に散らばっていった。

 広島の被爆者に学ぶ  平和公園やアパートで 人生に深く共鳴
 府中町から訪れた西村一則さんは3編の詩を携えてきた。56年前の原爆の経験を振り返って筆をとったものだ。これまで人前で話したことはなかった。「今日がはじめてです」と前置きしたのちに語り始めた。
 家屋疎開に出ていたときに被爆した西村さんは建物に足が挟まったがなんとか抜けだし、2人の友人に肩を支えられ痛む足を引きずりながら逃げまどったこと、ドロドロにとけた皮膚を垂れて逃げまどう獣のような人の群れ、道端で失敬したトマトが美味しかったこと、しかし顔が火傷でただれて口の開かぬ友人はトマトを口に入れることができず「わしは死ぬるんかのー、わしは死ぬるんかのう!」と泣きじゃくったこと、自分を捜しに市内に入った親は1ヶ月後には髪が抜け、鼻血を出して死んでいったことなど忘れられない経験を子どもたちに話して聞かせた。

 50数年過ぎたいまでも
 思い出すと恐ろしい
 だから思い出したくない
 思い出したくない
 しかし 何ごともなかったかのように忘れ去ってよいのだろうか
 平和な社会に生まれ育った今の子どもたち
 戦争のほんとうの実態はなかなか理解し難いと思う
 決してあやまちをくり返してはならない
 愛する未来のために
 美しき日本のために
 大好きな広島のために
 これ程の大きな犠牲を払っての代償である
 語らなければ 伝えなければ
 この悼みを この悲惨さを

 西村さんは詩を詠みながら「これから平和を担っていくあなたたちにしっかり体験を受け継いでもらいたい。ほんとうに可愛い君たち、ほんとに可愛い君たちに平和のためにがんばってもらいたい」と愛情溢れる眼差しで話しかけた。「いまミサイル防衛計画など論議されているが、56年たったいまでも世界では核兵器が日々進化していっている。20〜30年後にはどこまでいくやらわからない。許されることではありません」「平和の活動をする人たちのなかで自分のことばかりいって、人のいうことを聞かない人も多い。いいたいことはお互いにいいながら、自分の気持ちを大切に、そしてそれ以上に相手の気持ちを大切にして平和のためにがんばってほしい」と気持ちを伝え、「平和のために若者よ、スクラムを組んでがんばってください!」と話を終えた。
 同じく府中町から訪れた田中武司さんはタクシー運転手をしていて県外から訪れた若者から「広島は原爆が落ちて戦争が早く終わってよかったですね」といわれた経験などを語り、若者の歴史認識が無茶苦茶になっていることを感じ、「これは話をしなくてはいけない」と2、3年前から語り始めたと語った。「アメリカ外交はペリーの時代から変わらない。日本はアメリカの属国になるな。わたしはアメリカに対して一矢報いたいと思っている。この日本を平和の世の中にすることこそアメリカに対して一矢報いることだと思う」と熱をこめて語った。子どもたちはペンも走らないほど一生懸命に話を聞いていた。
 被爆者の方から「ひろしまのピカ」の絵本を頂いた班もあった。午後からはじまり夕方4時までつづいた被爆体験の聞き取りでは、事前に連絡をして来てもらった被爆者だけでなく、原爆によって殺され亡くなっていった霊を慰めに訪れていた被爆者たちに「話を聞かせてください」と子どもたちはお願いしてまわった。平和公園の木陰やベンチなどにひっそりとたたずんでいた被爆者たちも子どもたちの願いに応じた。
 市内南区から灯籠流しの申しこみに訪れていた73歳女性は「人に話したことはないからうまく話せるかどうかわかりませんよ」といいながら話しはじめた。子どもたちはベンチに座ったおばあちゃんを囲み、見上げながら話を聞いた。「戦争は絶対にやってはいけないんですよ。みんな仲良くしてね。自分さえよければいいという気持ちでいじめがやられるんです。戦争と同じです。みんなのことを考えて、真っ直ぐに生きて。次の世代のためにがんばって。よろしくお願いしますよ」と未来を託した。
 聞き取り活動では8班あったうちの2班は市内の公営アパートを訪ねた。事前に高校生たちが広島を訪れ、知り合いもないなかで「話を聞かせてもらいたい」と被爆者を探し、体験を話してもらうことを了承してもらっていたものだった。
 今年82歳を迎える加藤たまさん(仮名)は、25歳のときに家の中で赤ん坊を抱いていて被爆した。家がつぶれ挟まれた右腕を肩から切断した。赤ん坊はやせ細り、なんの傷もなかったのに原爆病で死んでいった。戦後は残った左腕だけで裁縫を練習し、裁縫1本で生計を立てれるまでに20年かかったという。「ぎりぎりの線で生きてきたからいままでやってこれた。厳しいことに直面したときにも、新しい気持ちでやってきた。絶対自分に負けちゃいけない。いまの若い人は困難なことや辛いことがあると避けて通るのが惜しい。本をもっと読みなさい。勉強は学校だけじゃない。一生やらないといけない。どんなことをやるにしても命がけでやりなさい。目標をもってがんばりなさい。わたしは被爆した木が芽吹いているのを見て、いつも勇気づけられてきた。がんばって生きてきていまが一番幸せ」と戦後の困難のなかでも負けることなく生き抜いてきた誇りを子どもたちに話した。
 どの子どもも被爆者が話しはじめると周囲が驚くほど真剣な表情を見せていた。
 最年少参加者の小学2年生の男の子は、1年生のときに担任の先生からパネルを見せてもらったのが印象に残っていた。「どうしてもいきたい」と主張して今回、6年生のお兄ちゃんといっしょに旅に来た。被爆者のおばあちゃんの話を聞いて「なんで昔は原爆落ちたんじゃろうか。なんでいま落ちんのじゃろうか」とどうしても疑問だという表情でいう。若干8歳の男の子の頭のなかはパネルを見た頃から疑問で仕方がなかったその答えをずっと追いかけている様子だった。
 親を説得して旅に参加した中学3年生の女子生徒は、「被爆者の方の思いは戦争のない世の中にするためにがんばってほしいということ。わたしたちは未来のためにがんばっていきたい」と語った。「つらい体験をしたのにわたしたちのために思い出して話してくれた。わたしたちは貝本(被爆者)さんのいってたように戦争が2度と起こらないようにがんばろうと思う」(中学生女子)。「“正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとはっきりいえないといけない。こういう戦争をくり返してはいけない”といわれていたのが心に残った」(中学生男子生徒)など、旅に参加する動機ともなった被爆者の気持ちを受け継ごうとする気持ちが常に感想となっていた。
 それぞれの子どもがしっかりと被爆者の思いを受け止め、自分のなかでの疑問や「僕だったらとても同じようにはできないと思う」など、いまの自分の境遇と重ね合わせて感じるものが多かったようだ。

  学んだ事を構成詩に 受け継ぐ熱意に溢れ 疲れ吹き飛ばし練習
 1日目、日程が予定より遅れたため、宿泊所となった江田島青年の家に到着したのは陽も暮れかかる頃だった。食事、入浴もままならなかったほどだったが、休む暇もなく昼間の聞き取り活動の各班報告と、翌日に控える広島集会で、学んだことを伝えるために構成詩の制作と練習をはじめた。強行軍で子どもたちはさすがに疲れは隠せなかったが、人民教育同盟の教師で、引率代表の今田一恵氏らの厳しい指導のもと、「声が小さい!」「やり直し!」など大きな声が飛ぶ中で短時間で声を出し、群読のみんなの声を合わせていった。また出し物のなかにその日に聞いてきた被爆者の話と感想を入れようと、各班でまとまって班長のもとで一気にまとめた。早いスピードで仕上げていった。消灯までのギリギリの時間帯までがんばって練習した。
 教師たちは「全く知らないよその先生にいきなり怒鳴られ、それでも子どもらははぶてることなく、必死に食らいついてきた」「学級で声を出させるのもたいへんななかで、初対面の子どもらが、被爆体験を聞いて、それを受け継いでいこうと1つになって出し物を作り上げる気持ちがあった。急速に集団が団結してまとまって成長していった」と子ども集団の成長に目を細め、驚きや喜びを感じていた。
 翌朝。施設の掃除や出発準備も予定時間より早く済ませ、悠々と広島平和公園へ向けて出発した。2日目になると子どもたちは、大きい子は小さい子の面倒をよく見て、小さい子も大きい子のいうことをよく聞いてついていっているといった感じで、行動にもまとまりができてきた。大きい子を中心とした縦系列の子ども集団が次第にでき上がっていった。なによりもみんながみんな仲良くなっていたのが特徴であった。
 移動のバスのなかは構成詩の練習、練習。平和公園、原爆の子の像前での構成詩の練習でも恥ずかしがることなく、班ごとにお互いの声を聞いてチェックしあった。最年少の男の子がしっかりと声を出せるかは上の学年の心配でもあったようだが、大きな声を出せると大きな喜びになった。頭を撫でられ「よっちゃんがんばれ!」と声がしばしばかけられていた。

  
生涯を平和に尽くす 広島集会で堂々と発表

 原水爆禁止広島集会では子どもたちは基調報告のつぎに壇上に上がり、堂々と構成詩を披露し、広島で学んだことを参加者や会場に訪れた被爆者の方たちに報告した。
 「わたしたちはいつまでもかわることなく平和を愛し、戦争を憎み、2度とあの戦争をくり返すことのないように全生涯を平和のために尽くすことを誓います
 この地球から戦争をたくらんでいる者、戦争のための武器、核兵器をなくすまで戦争反対の運動を続けることを誓います
 被爆者、戦争体験者の方から体験を学び、受け継ぎ、次の世代に伝えていくことを誓います」。多くの人たちの前で宣言した。子どもたちの成長に広島や下関、全国から参加した被爆者たちも「これで日本は大丈夫だと思った」と喜びを表した。
 広島に学ぶ小・中・高生平和の旅。子どもたちは旅のなかで被爆という苦しみや悲しみを受けとめ、被爆者の思いに心を寄せ、自らが成長して仲間と団結していった。多くの人人の期待に応えるため、平和な未来の担い手になるための努力をした。帰りのバスの中、仲良く遊ぶ姿、別れに涙する姿からは「いじめ」などとは無縁の、被爆者や戦争体験者の思いを真剣に受けとめ期待に応えようとする子ども集団に成長したことが感じられた。

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