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<論壇>推「反」談合選挙構造への信任か不信任かが注目点 2006年2月11日付

 上関町議選挙は奇妙きてれつな様相となっている。候補は走るが町民は表に出てこない。これは過去に見られない空気である。選挙カーが来たら逃げる町民、はじめから家に鍵をかけている町民、内輪ではぼろくそに非難している町民など、水面下の非難は渦巻いている。こうして各候補は岩を相手に「お願い」をくり返すような様相になっている。「落ちるのは1人だけで議席は安泰なのだ」と思って気をとりなおすが、やはりこのような町民の反応は胆を冷やさせている。ひょっとすれば落ちる1人になるかもしれないし、とおるのはとおっても、100票そこらのみっともない結果では先がなくなるのである。
 候補はみな、町をどうするか、町民のことをどう心配するかはなく、「お願いします」の連呼だけ。それがまずいとなると「原発ができると町がよくなる」で統一。二四年聞かされてきたワンフレーズのくり返しに、町民の怒りはさらにつのっている。
 つぶれてきた町への責任はどうか、この町をどうしていくのか、町民の生活をどうするのかなどは関心はなく、「ワタシの食いぶちを」とはいわないが、そのために「お願いします」のくり返しだけ。「反対派」候補も、反対派の敗北を意味する祝島の漁業権放棄などにどういう態度をとるのか、など全町、全国関心の肝心なことでは口をつぐんでいる。選挙は、町民を代表するという形もなくなり、年収300万円プラス「いいこと」の、高給生活保護受給の争奪レースだとして非難を買っている。
 注目されているのが、推「反」談合の枠外から出た候補。本人は人に会っても「お願いします」をいわず、選挙カーでも回らず、ポスターに訴えを書き、それをはりかえてはみんなに読んでもらっている。各候補は、その動かぬ姿を確認して安心しているが、町民のなかでは「それがむしろ新鮮」との話題も広がっている。
 今度の選挙は、祝島漁協の漁業権放棄という政治的な激変のなかで、推進派側としては町内反対派壊滅のチャンスであった。しかし結局9対5の推「反」談合の無投票仕かけに落ち着いたのは、祝島をはじめ町民の側の力が思いのほか強く、中電・推進派の側が現状維持の逃げをうったことをあらわした。新しく立候補するものには、金と力でたたきつぶすという仕かけがあることはすべての町民が体験してきたことである。町民がいかに騒いでも議会の現状は変えさせないというものである。
 「原発ができたら町はよくなる」といって、漁業、農業をつぶし、地元に根づく商工業はやっていけないようにして、若者が帰ってきて生活するのにも困難だが、年寄りが生鮮食料を買うのにも、病院にかようにも困難なようにし、町の合併・解体の身売りにさらしている。漁業を中心とした地元の産業を守らなければ町民の生活は成り立たないし、漁業をつぶして原発をつくるなら町はつぶれるほかはない。万葉の昔からの歴史を刻む上関町が、廃村、無人島となり、町民の子どもたちは帰るふるさとのない流浪の民になる危機にさらされているのである。
 このようなときに、町民のものであるはずの選挙は丸ごと中電に奪いとられた姿をさらしている。選挙は議員生活者のポスト争いとなり、町のことも町民の生活のこともくそ食らえで、「稼ぐが勝ち」のホリエモンの先を行く状態。そしてかぎりなく無投票に近い選挙があてがわれた。
 このような仕かけをなくさなければ、立候補の自由も、町民の選択の自由もとりもどすことはできない。今度の選挙の選択は、あてがわれた候補のなかからだれがよいかといわれても、利権に無縁な町民にとってはしらける以外にない。しかし中電が管理してきた上関の選挙は、常識をはるかにこえている。この常識はずれの選挙にたいしては、町民の側も常識をこえた対応をせざるをえない。
 今度の町議選は、推「反」談合のオール推進選挙そのものと町民の主権が対立する形になっている。町民の方をむかずに中電や県の方ばかり見て、町民のことなど関心もなく、高給の生活保護を求める推「反」談合の選挙構造そのものが信任されるか、不信任されるかが重要な注目点となっている。落ちるのは1人だけで、14人がとおるのは明らかだが、とおっても恥ずかしい結果になるなら、かれらを懲らしめ、町民の力を思いしらせることになる。それは町政刷新の若手が登場できることを確信させることになり、中電の手足を縛り、町を町民の手にとりもどすうえで重要な意味を持つことになる。

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