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社会性否定が中心問題
下関中学生逮捕問題の本質
               自由主義教育改革が破産     2010年7月29日付

 下関の中学校の荒れに対する警察導入があいついできた。「生徒の反乱で打つ手ない中学校」という問題に続き、最近も夏休みを前にして教師のシャツを破っただけで逮捕、鑑別所送りになるという、生徒をはめて予防拘束するような問題が起きた。ここまできて教師や親、地域のなかで、この間の教育改革の破産が実感されるとともに、教育をどう立て直すかという議論が俄然沸騰してきた。この状況とともに、もう一段掘り下げて記者座談会をやり、論議を試みた。
 
 警察通報で荒れや不信拡大

 司会
 まずは教師のシャツを破って鑑別所送りになった事件の真相や、それに対する反響から出しあってみたい。
  16日の朝、母親がその生徒を学校に連れて行った約30分後の、午前九時前のことだ。1時間目の授業開始前に別のクラスに遊びにいっていて、教師から「教室へ帰りなさい」といわれ、他の子たちは散り、その生徒も、「自分は手を出さないから心配しなくていい」と約束したため、担任教師らも授業に向かった。しかし直後に53歳の男性教師が「お前なんか警察に送るのは簡単なんだ」といったのを、まわりの生徒たちが聞いていた。そして教師が腕をつかみ、生徒がそれを振り払おうとしてもみあいになり、教師のシャツのポケットが破けた。すると突然、その男性教師がどこかに走ったという。
 その後、担任の教師と校長がその生徒を校長室で落ち着かせ、「今から授業に行こう」と校長室を出ると、すでに警察が来ていた。男性教師が自分で通報していたようだ。生徒は現行犯逮捕となり、学校側はなんの対応もできず、担任の教師はショックを受けている。
 その4日前にも、別の教師がその生徒に腕を引っかかれたということで、診断書をとって被害届けを出したが、学校に警察が来たことに驚いた校長が「被害届けを取り下げさせた」ということがあった。それもあり母親も「絶対に手は出すな」と子どもにいい含めていたので、「なぜこんなことになったのか」と不信を抱いている。
 母親が鑑別所に息子に会いに行くと、息子が「たったこれだけのことでなぜ自分が今、鑑別にいるのかわからない」といっており、ご飯も食べず夜も寝ていなくてげっそりしていたという。母親はその足で学校に行き、校長と担任の教師に「子どもを引っかけるようなやり方をしている。そのことをはっきりさせてくれないと、今後も同じような子どもが出る。学校に安心して子どもをやることができない」といった。そのとき担任の教師は「現場を見ていた子どもたち(ワルといわれていない生徒たち)からも“逮捕された生徒だけが悪いんじゃない”という報告があった」とのべ、校長も「今回の対応について職員室でも話し合っていきたい」といったという。
 今回の事件について、学校はノーコメントで統一され、窓口は下関市教委になっている。市教委管理の事件なわけだ。市教委の教育研修室室長は、「今回の事例は市教委の方針にもとづいてやられたものだ」とはっきりのべている。今年2月16日、第3回下関市生徒指導推進委員会が、医者や大学教授、PTA会長、児童相談所、市の福祉部、臨床心理士、学校関係者などのメンバーで持たれた。そこで生徒の器物破損と暴行について「ゼロ・トレランス(寛容ゼロ)を導入する」と決めたという。胸ぐらをつかんだのは暴行であり、こうした場合すぐに警察に通報することを、新学期に入って口頭で校長会におろしたと話していた。今回のように現場の教師一人の判断もありうるのかと質問すると、「校長が学校にいてもすぐに捕まらない場合もあるし、不在の場合もあるから、個人の先生の判断でもやっていいことになっている」という話だった。今回、市教委の方針通り、忠実にやったわけだ。

 乱暴な教員人事への批判も 父母・地域の中で

 B 同じ中学校の教師のなかでも、非常にショックを受け無念の気持ちを持つ教師がいる一方で、「前の中学校でも警察を入れた。そうして線を引かなければ子どもにはわからない」と開き直る教師もいる。今回、警察に通報した教師は、前の学校のPTA関係者からは「やっぱり」といわれていた。親のなかでは、教師にも二つのタイプがあると見られている。
  市内の親や自治会長、補導員など地域の人たちのなかでは、嶋倉教育長が強引にやっていることへの批判が非常に強い。「服を破っただけで鑑別所送りとはひどすぎる。本当に予防拘束だ。教育長がやらせているのだろう」、と。そして共通して語られる一つは、教員の人事の問題だ。「地域との関係も持ち、生徒を理解していた生徒指導の教師を現場の実情も無視して勝手に動かして、どこも荒れがひどくなった」といわれる。今度の問題でも、新しく送り込まれた教師らが突っ走っている。古くからいる生徒指導の教師を異動させていた。教員人事もゼロ・トレランスの線で動いている。
  市内の退職校長のなかでも「嶋倉教育長はもうやめないといけない。それを残している中尾市長も悪い。教育改革は安倍さんがやったものだが、アメリカの真似ばかりで、アメリカで破産しているものを持ってきてやっている。警察をどんどん入れるのも、アメリカで学校に常駐しているスクール・ポリスだ」と話していた。前回の中学校には警察OBが常駐してきた。
  
 県内でも大話題に 「教育とは何か」巡り

  下関の中学校の問題は県内でも大きな話題になっている。学校関係者のなかでは、「担任の教師や生徒指導担当、校長にも相談せずに警察を呼ぶなどありえないことだ。教師間でもまた親ともよく相談をするものだ」とか、「学校には金持ちの子もいれば生活の厳しい家庭の子もいる。いろんな要因をつかんで子どもをのばしてやるのが教師だ。教師がやらずにだれがそれをやるのか」と話されている。
 A 市内のある中学校の教師は、「現場を知らない行政の考え方が大手を振るっているが、一時しのぎで警察に送っても解決しない」と、教育とはなにか、子どもとはなにかを深く考えていた。「下関は昨年のT中問題からはじまったが、市教委の対応はどうだったのか問いたい。県教委も教育をサービス業化して塾をもうけさせるようなことばかりしている。“学力テストは競争ではない”というが、テストの成績で藤井教育長が現場を怒鳴りあげている。親を“モンスター”“クレーマー”といって敵視するような見方がある。子どもを指導するには子どもを理解することがなければできない。学校生活だけではなく、家庭生活、社会生活を理解し、初めて指導ができる関係だ。教師が本気になって裸と裸で向きあってはじめて、子どもは心を開いてくる」と話している。
 D ある高校教師は「これほど警察、警察とやっているのは下関だけではないか。それで去年どころではない荒れ方になっている」という。そして「警察を入れても、警察には教育の論理はない。だからその場はおさまっても次の日からもっと崩れる」「日本の教育は教科指導と生徒指導を一緒にやっているところによさがある。乱暴だった子が優しい子になるというのがプロとしてのやりがいだし、喜びだ。そのために部活もやっている。アメリカのように教師は教科指導だけやればよく、生徒指導は監視カメラと金属探知器……というものとは違うんだ」と話していた。
  下関の場合は、教育委員会が上に抵抗する力を失っているということが論議になっている。他の市町村教委はまだ、文科省や県から指示がおりても「これはうちではすぐにできません」といって、選別しながらやっている。他の市町村は、警察を下関のようには学校に入れていない。下関は文科省課長が来て、全国先端のゼロ・トレランスだ。
   
 教育を否定し排除 新自由主義と対応した教育改革

 E 警察は排除の論理だ。教育は育てる論理だ。警察が入るのは教育の否定だし、敗北ということだ。実際上、学校内は信頼関係が崩壊し、収拾がつかなくなる。この中学校の通報した教師は、二学期がはじまったらつらい目にあうことが予想される。
 学校も信頼回復するのが大変だ。これは「ゼロ・トレランス」まできた文科省直伝の嶋倉教育長指導の破産を物語っている。手柄を上げて文科省に帰ろうという主観的動機だろうが、客観的に見るとこの間の教育改革の破産を立証するために下関で暴れているという関係だ。
 教育改革は1980年代の中曽根臨教審から始まった。「教育の機会均等」を建前上でも取っ払った。90年代に入ると新学力観、「個性重視」の学習指導要領となる。教師は「指導するのではなく寄り添わなければならない」といい、「努力しなくていい」「そのままの君でいい」といって、子どもの好き勝手な自由主義をあおった。学校は放し飼いの動物園状態、サファリ状態になった。そして九九や分数や漢字がわからないまま中学校を卒業する子が増え、大学に入学した者も東大を筆頭に低学力、自己中心で、社会に出ると役に立たない者が増えた。
 「知育偏重はいけない」といって「ゆとり教育」といわれたが、知育もない点数偏重になった。学力テストの点数、生徒も教師も数値評価ばやりだ。体育や徳育は、明らかに切り捨てられたが知育も崩壊した。そして暴れる生徒への警察の武力鎮圧まで来て教育改革の全面崩壊だ。
 教育改革というのは、アメリカを中心にした新自由主義の改革だった。新自由主義というのは物事をあまり考えないというのが特徴だ。後先を考えず、自分の目先の利益のために他と争って突っ走る。木を見て森を見ない、事物が別の質に変化するなどとは考えない。ブッシュの対テロ戦争が失敗し、なによりもアメリカの金融自由化という自分の目先の利益だけが関心で大がかりな金融投機の詐欺で世界の金を巻き上げるという自由市場経済が破綻した。教育改革もその一環として破産している。
  社会の根幹である経済は、構造的な金融詐欺をやってきた。支払い能力のないアメリカの低所得者にローンを組ませて家を建てさせ、その債権をハイリターンの証券にして世界中に買い込ませる。そして保険会社が保険をつけ、格付け会社が高い評価を与えてだます。バブルがはじけたら世界中の金融システムがパンクした。金融詐欺の支配は、労働者にとっては地獄となった。ヘッジファンドが大がかりな株投機をやり、企業買収を商売の道具にする世界の略奪だ。企業は目先の株価至上主義となり、非正規雇用を増やし、その結果生産現場の技術継承もできなくなってどんどん衰退する。さらにギリシャ危機などが起きたら、ヘッジファンドが国債の空売りをやって暴落させ、国債の下落分をもうける。労働者も一国の国民経済も、社会全体もどうなってもかまわぬ、自分だけがもうけるのが唯一のこと。それを恥知らずにやるのが規制緩和であり新自由主義だ。新自由主義とは反社会だ。教育改革は、自由主義を称揚して、社会性を否定するのが根幹だ。
  この問題は根が深いと論議されている。教育にも「お客様のニーズにもとづいて」という考え方が持ち込まれた。「市場原理」「消費者原理」という自由市場主義だ。教育改革の問題であるが、社会全体と関連した大きな力でやられてきたという問題意識が強まっている。
 F 規制緩和、構造改革の基本的な特徴は、個人のカネもうけの自由だ。そしてもうけているのは金融投機集団だ。教師を含めて一般のサラリーマンが株や証券に投資しても巻き上げられるためにやるようになっている。そういう金融投機集団の金儲け、略奪の自由のために社会的な規制を撤廃する。労働者は不安定な非正規雇用だし失業だ。そして社会的に保障すべき医療、介護、福祉などは民営化、営利化だ。図書館とかも金儲けの民営化だ。知育が崩壊だが学問が崩壊している。地方自治体を営利企業のようにする。教育改革はそういうものの一環としてやられた。そして教育の当たり前の姿が破壊されていく。
  
 現実の社会と遊離 特徴は短絡思考

  社会科の教師にひどい教師が目立つといわれる。それは新自由主義による学問の崩壊が関連しているのではないか。社会科学というものが崩壊し、自分の興味・関心で好きなことをいっていればいいとなった。社会科の教師のなかに、新自由主義の影響が強い。社会科の教師こそもっとも社会性がないと困る。
  大学では理系の教員の方が、日本の基礎学問の崩壊を憂えている。大学の市場原理改革批判でも、物理学など理学系、農学とか水産学とか実学的な分野の教員のなかで、真っ先に批判の声が上がっている。人文系、社会科学系の沈滞が目立つ。60年安保斗争の頃は経済学部などが拠点になっていたのに。
  現実社会に立脚して、現実を理解することから出発するというものが崩されている。観念論だ。そして現実をより深く解明する、事物を目先の現象だけではなく経過をたどり他との関連のなかで、変化発展するものと見るというのができない。子どもに対しても「暴れた。敵だ! 警察だ」としか見ない短絡思考だ。アメリカの金融資本が大がかりな金融詐欺の仕掛けをつくって荒稼ぎをした。しかしバブルが崩壊するのを計算に入れずにパンクした。ブッシュが対テロ戦争だと息巻いてアフガン、イラクに攻め込んでにっちもさっちもいかなくなった。安倍元首相も北朝鮮制裁一本槍で、結局相手にされなくなり外交カードをなくして手も足も出なくなった。嶋倉教育長の警察による武力鎮圧も、かえって破産をひどくするもので短絡思考の典型だ。
 A 嶋倉教育長は、40代で校長らより若い身だが、文科省の課長だから、市の部長級とか県の教育長よりかも役人世界でははるかに格上のランクらしい。法律知識などはすらすらで切れるともいわれる。しかし本当に賢いのかどうかだ。その辺の価値観が分かれ目だ。就任早早に在日朝鮮人の人たちが朝鮮学校のことで相談に行ったとき、「朝鮮侵略の歴史はなかった」と言い張って、連日の抗議を受ける羽目となった。東行庵問題でも、ここだけは民営化の流れに逆らって市立記念館にしたが、やっているのは高杉晋作の改ざんという大胆なことだ。役人としてエライ人といって突っ走るが、下関の実状や教育現場のことはなにも知らない。2学期がどうなるか考えずに突っ走ったとすると浅薄な思考ということだ。
  大胆なことはやらせるが、自分は隠れて人前にでない。幼稚園統廃合の説明会は、子どもを持つ母親が集まれない夜七時から開始した。逃げる姿勢が本当の心情ではないか。「朝鮮侵略はなかった」と発言したときも、退教協のヨボヨボ爺ちゃんたちが教育長室に入っていったら「警察を呼ぶ!」といって大騒ぎした。そんなに恐れなくてもいいのに、人前にでる自信がないようだ。
  小学校の統廃合問題のとき、嶋倉教育長は向井小で住民からものすごく抗議された。すると向井小の説明会には二度と行かなかった。
  中学校のPTA関係者も「教育長は下関の学校現場のことを全然知らない。いろんな会合のなかで一般的、抽象的に報告するだけ」という。石川教育長ぐらいまではよかったという。その後、県から松田教育長が来て無気力・無関心の小役人路線をやって沈滞と荒廃が広がり、その上に文科省課長の嶋倉教育長が来てひどくなった。校長のなかで自分の立身出世や保身しか考えない無責任なヒラメが増え、教師のなかでも非教育の突っ走りが増えた。
   
 教育立て直す転換点 警察と教育は相いれず

  この間の生徒逮捕学校について、警察を入れたからおさまったという評価なのだろう。その「確信」で今年度は「ゼロ・トレランス」で突っ走る。しかし各中学校の実状を聞くと、実際は現場の教師が頑張っているからなんとか安定している。
  現場の先生たちのなかでは、ここまできて「このまま突っ走ったら大変なことになる」「警察と教育は相容れない。警察には教育的視点はなく法律にもとづいて逮捕して処罰するだけ。それでは学校は崩壊する」ということが、明るい表情で語られるようになった。警察は捕まえて排除する方だが、教育は子どもたちを成長させる側だ。絶対に相容れないものだ。警察が管理する学校が、学校になるわけがない。
 D 補導員のなかでも「子どもがなにもしていなくても、ショッピングセンターなどにたむろしていたらすぐに警察に通報せよ」という市教委の方針には強い批判がある。かえって悪くなるし、なにも解決しないんだと。夏休み対策の会議でも、「すぐに警察に通報するのでなく、まず子どもの話を聞こうじゃないか」と意識的に論議されている。
  いくら警察を入れても、「アフガンと一緒だ。タリバンが増えていく」という記事を喜んでいた。「もう抑止力にもならない」といっていた。ある教師がアメリカに視察に行ったとき、ゼロ・トレランスをやっていて、中休みは生徒全員を校舎から出して中庭に集めて、まわりを警察がパトロールし、教師は教科を教えるだけだったという。「教育ではない。そんなことをして子どもがどうなるのか」といっていた。文科省はゼロ・トレランスを「アメリカの最新の方式」といって導入したが、いかにバカげているかと語られていた。
 E 嶋倉教育長の姿は、文科省のなかの変人じゃないと思う。文科省ではあれが普通なんだと思う。中央省庁のなかでは文科省の役人が一番のバカだといわれているらしいが、文科省というのがいかに程度の悪い非教育かを下関で証明して見せている関係だ。元外務官僚が「官僚というのは国民をクズみたいに思っている人種なんだ」と書いていたが、下関の子どもや市民を相当見下しているのは事実だ。それで失敗ばかりしている。教育基本法や教員免許法を改定し、少年法を改定した「安倍先生がいるところだ」という思いのようだが、それが中学生や市民のなかで通用するはずがない。
  だれもが下関の教育はこの2年でおかしくなったという。PTA関係者がいっていたが、「下関を知らないのだったら、メモを持って現場に行って勉強したらどうか」と。
  教育改革の大破産という現実に立って、どういう教育をうち立てるのかが、切迫した問題だ。そういう大きな転換点にきていると思う。下関の中学校の現実が教育改革の破産を物語っているが、大きく社会との関連で見ると、日本社会全体が市場原理、新自由主義でつぶれるような事態になってきた。その一環として教育の破産もある。働く者はまともに生活ができず、将来のめども立たない一方で、年収九億円もとる経営者がいる。「個人の自由だ」というが、首をつるのは自分の自由だというような世の中になっている。
 A 教師のなかで、「生徒を理解するか指導するかが対立として論議されている」と語られている面がある。「教師は指導するのではなく寄り添うのだ」というのが、教育改革であり、暴れる状況にすすむ前哨戦だった。大衆迎合、好き勝手な自由主義で、組合活動家などが称揚したブルジョア民主主義イデオロギーだ。それは破産した。「指導する」というとき、「学校秩序に従え」というだけでは「警察に渡せ」と区別がない。生徒たちの家庭生活、学校生活、社会生活についてよく理解することを基礎に、悪いことはしかり、正しいことは称揚するという関係なのだ。そこで子どもたちに対する愛情があるかどうかだろう。
  
 行動開始する教師 日本の将来のためにと

  教師のなかから「目前の対症療法だけではダメだ」という意見が大分出てきた。目先の現象に振り回されるだけでなく、中学生を見るときも、小学校のときどうだったか、幼稚園のときどうだったかと、流れを追って問題を解明しないといけないとか、家庭生活もこう変わっていることをつかんで、そして本質的原因はなにかと見始めている。
  荒れた中学校で、今年初めて夏休みに補習を始めたという。
  幼稚園と小・中学校の現場教師たちが連携をとって、意見を忌憚なくいいあう場を持ち始めている。そういう動きが出てきている。
 F 退職校長らも「なにかやらないといけない」と論議になり、子どもを集めて塾や寺子屋をやろうという動きも出てきた。行動的になっている。
 D 現場教師のなかで、子どもたちの将来についてどう愛情を持って望むかだろう。子どもたちは現在の生活のなかで非常に過酷だ。親たちが失業しているし、生活が困難だ。片親の家庭も多い。この子たちが困難に負けずにどうやって生きていくか、その力になるのが教師の使命だし誇りなはずだ。しかも子どもたちが巣立っていく社会はどうか。社会崩壊になろうとしている。アメリカを見ても、警察導入、スクールポリスのあとは、軍隊の勧誘だ。そして帰還兵士は障害者になり、精神病になり、ホームレスになって捨てられている。そのようなものに負けないよりよい社会をつくる人間にどう育てるかが切実に迫られているということではないか。
  教師のなかで、そういう新しい時代意識に立った確固とした教育理念を持った力をどうつくっていくかが求められている。教師のなかでも、教育改革の破産という現実に立って、新自由主義の影響を脱皮することだ。それが生徒を苦しめているけど、教師自身を苦しめている。出世主義の教師、個人安住願望の教師がおり、組合活動家なども自分が文句をいって安住する自由のために組合を利用するというのがある。
 教師が自己チューでは子どもたちの現実のなかで破産するほかなくなっている。自分のために教師をやるというのではなく、生徒たちの将来のため、ひいては日本社会の正しい発展のため、世のため人のために力を尽くすというのが教師の誇りだし、使命だろう。卒業してのち、いつまでも「先生のおかげで教えられました」といわれるのが教師冥利だし、喜びのはずだ。「子どもからは嫌われたが出世してよかった、年金がもらえてよかった」ではむなしい限りだろう。時代はそういう選択を迫っている。
 F 新自由主義改革によって自己チュー、個人主義、利己主義がはびこった。学校現場もだが社会全体にはびこった。それは働く親たちを苦しめ、生徒や教師を苦しめてきた。それは社会性を否定するものだ。そして新自由主義というものは、個性重視とか個人の自由、人権などといわれたが、要するに金融詐欺師が好き勝手に世界を略奪するものだった。そのようなものを憎み、みんなが団結して社会のためになることをする、みんなが協力しあって人の役に立つもの、社会のためになるものを生産するのが労働者の精神だし、働く親たちの精神だ。このなかによりよい社会、未来を開く発展的な力がある。これを蔑視するのでは教師は破産するだろう。下関の生徒たちのなかで、「俺は支配階級の子だ」というのは、ほとんどいない。みな働く勤労父母の子どもだ。勤労父母、地域と団結してどう育てるかということだ。
  こういうことは教職員組合が教師を団結させてやるべきことだ。教師がバラバラではできないからだ。しかし日教組はこの間の教育改革に対して、「文部省とのパートナーシップ」でやってきた。「自由、民主、人権」路線の旗振り役にもなってきた。組合活動家の学級崩壊が多いのも特徴だ。そして民主党政府になったら政府与党になって攻撃的にもなっている。自分の利益のために教育を利用し、組織を利用するという組合主義が排外主義になっているんだ。「日共」系になるともっと欺瞞的でひどい。
 E 新しい時代意識に立った強い教師集団を、学校を基礎に地域的に結びつき、全国的に結びついてつくることが重要な課題だ。


 

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