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植民地的愚民化生む人文系廃止
人類の文化遺産継承を否定
                社会繁栄の基盤崩す愚行      2015年11月4日付

 安倍政府が国立大学の人文社会科学系学問の廃止・縮小に突っ走っていることが、大学人はもとより各界から大きな批判を浴びている。それは「大学改革」の名で、人類が積み重ねてきた文化的遺産を足蹴にし、自然科学を含めた学問研究の発展に対抗する無謀で馬鹿げた行為だからである。今日、「大学の知的劣化」が叫ばれるなか、大学は企業が求める人材を手軽な商品として市場に送り出す職業専門学校化へと向かい、日本の最高学府としての面目を失いつつある。この問題は大学人のみならず、繁栄か亡国かという日本社会の存立と将来展望にかかわった全国民的な課題となっている。
 
 国立大学学長ら批判相次ぐ

 大学における学問領域は、人文科学・社会科学・自然科学の三つに分類されてきた。人文科学には哲学、倫理学、論理学、文学、語学、芸術学、美学、宗教学など、人間の内面を探究する学問とされる。社会科学に分類される学問としては経済学、政治学、法学、歴史学、地理学、社会学、教育学、人類学など、人間社会の真実とともに人類社会にとっての有益性を探究するものである。人文科学と社会科学は相互に浸透しその境界は明確でない面もあり、人文社会科学系(文系)として、物理や化学などの自然科学(理系)と大きく区別されている。
 人文社会科学系の廃止・縮小が今日のように大きな社会問題となった直接のきっかけは、文部科学省が6月、全国86の国立大学に向けて教員養成系学部・大学院とともに、人文社会科学系学部・大学院の「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」という通知を出したことである。
 これに対して、「幅広い教養と専門知識を備えた人材を育てるためには人文社会系を失ってはならない」(山極寿一・京都大学総長)、「戦時中の文系学生の学徒動員や高度成長期の理系偏重をほうふつとさせる」(佐和隆光・滋賀大学長)など、全国の国立大学の学長らの批判があいついだ。
 日本学術会議(自然科学者を含む2000人以上の学者で構成)は、「現在の人間と社会のあり方を相対化し批判的に省察する、人文・社会科学の独自の役割」を強調するとともに、文科省のやり方が「大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と批判する声明を発表した。
 さらに先月、文科省が全国33の国立大学が来年度以降に人文社会科学系の学部・大学院の「組織見直し」を計画していること、横浜国立大学など九大学が人文系の「組織の廃止」や「募集停止」をうち出していることを明らかにしたことで、大学人の憤激にさらに火を付けることになった。
 国立大学17大学人文系学部長会議は10月26日、「教育研究における人文社会科学の軽視は、わが国における人的基盤を根底から揺るがしかねない」とする抗議声明を文科省に提出した。そこでは「人文社会科学の学問は社会の基盤形成に寄与するものであり、教育研究における人文社会科学の軽視は、わが国における人的基盤を根底から揺るがしかねない。また、全国的な高等教育の機会均等の観点からも、地方国立大学の存在意義は大きい」として、強い抗議の意志を表明している。
 文系、理系を問わず学問研究に携わる学者は共通して、人文社会科学系学問の軽視・切り捨てが「人間社会の基礎となる主体的で批判的な洞察力と、自然科学に由来する客観的視点」、つまり複雑に入り組む客観世界の真実を探究する学問を排除しようとするものであり、ひいては自然科学そのものの発展をも阻害することを強調している。
 人類の歴史は、あらゆる学問研究が、人類の存立にかかわる生産活動と社会を進歩発展させる原動力としての人間形成の必要から生み出されてきたことを教えている。また、そのような学問研究の蓄積を踏み固めたうえで批判的に継承発展させてきたことを跡づけている。物理や数学は農耕や狩猟、治水に必要な測量術や天文学、気候学とともに発展したが、それは語学、美学、美術と一体のものであった。哲学はそのような客観世界を科学的に認識する必要から生まれ、論理学、倫理学は人間同士の相互の心の通いあい、真理を探究し虚偽を正す思想形成と無関係ではなかった。哲学者のデカルトやカントは宇宙の真理を探究する自然科学者でもあった。
 社会はそのようにして連綿とつながる学問によって得られた知識の蓄積なしには存立できなかったし、人類の文化遺産を批判的に継承する社会的な努力、営みを切り捨てて、社会の進歩発展を語ることはできない。中世ヨーロッパで、コペルニクスやガリレオが先人の学問的な蓄積のうえに天動説を批判し、当時絶大な支配力をもっていたキリスト教的世界観を批判したことが、その後の自然科学、人文社会科学の発展、さらには社会を革命的に飛躍発展させる基盤を築いたことはよく知られている。
 血と汗を流して働きたたかった先人たちの経験は、社会的な学問研究によって共有された成果を瞳のように大切にし、科学的な根拠を持って真理は真理、ウソはウソと主張する学問の自由な発展を保障することが社会の存立基盤をうち固め、くたびれた政治体制を批判し新しい時代を開くカギを握っていることを教えている。
 そのような壮大な学問の流れに知性の片鱗も持たぬ為政者が逆らうほど滑稽なことはない。それは、第2次世界大戦時の美濃部達吉の天皇機関説、京大・滝川事件などの弾圧や、京大・滝川事件はもとより、先の「安保法制」をめぐる憲法学者の科学的根拠をもった主張に対して安倍晋三や安保法制局長らが煙たがり、詭弁を弄して否定しようとうろたえた姿にもはっきり示された。

 90年代から始まる改革 「すぐに役立つ」学問

 日本の大学における人文社会科学系の廃止・縮小の方向は今に始まったものではない。文科省は1991年に「大学設置基準」を大綱化(自由化)して以来、国立大学のなかに「文理融合」の学部や大学院への転換をはかってきた。それまで、4年生大学では2年間、教養部で専門外の学問を含めた一般科目を学んだうえで、専門課程に進むことが定められていた。だが各大学で教養部や教養学部の廃止があいつぐなかで、そこに所属していた教員や校舎を新しい学部などに配置していった。
 92年の名古屋大学大学院の人間情報学研究科(生命情報学専攻と社会情報学専攻)の設置を皮切りに「情報」「生命」「健康」「環境」「国際」などの名称を冠した学部、学科の新設に拍車がかかった。
 この過程では、たとえば哲学・倫理学の専門学者の大学における専任教員のポストが閉じられ、いくつかの大学を兼任する状況が生まれた。さらに、生命倫理などの「すぐに役立つ」研究・教育がなかば強要されるようになった。
 それは、心理学の分野においても基礎的な学問よりも、医学と結びついた臨床心理に重点が置かれるようになり、学生が臨床心理士などの資格をとれる大学に交付金や科学研究費が傾斜配分されることと共通するものであった。
 実学の分野は必要であり、それを一般的に否定することはできない。しかし、大学人の間ではこうした過程で、それが学問研究の歴史的な蓄積を崩す方向で作用したことが大きな問題になっている。
 学者が専門領域で先人の研究を踏まえて批判的検証を加え、新しい見地や学説を発表する場として各学問領域の学会が存在する。たとえば、哲学専攻者は哲学学会や倫理学会に、経済学者は経済学会や経済理論学会などに所属して研鑚を積み、その学会の研究成果を共有して学問を発展させている。
 これまでは、大学にはそれに対応する文学部(哲学科や倫理学科)や経済学部が存在し、そこでの学生に対する授業の場での教育を通して、人文知を次代の研究に継承発展させることが保障されてきたといえる。しかし、「文理融合」のもとで、学会が積み重ねてきた学問内容を継承するに値する大学の学部、学科が失われるなかで、とくに人文系で蓄積された専門的知識の継承が困難になっている状況に強い危惧(ぐ)が語られている。
 大学人が警鐘を鳴らすもう一つの問題は、こうした文科省の「大学改革」によって、以前は全国どこの大学でも学ぶことができた人文社会科学系の学問を学ぶ機会均等が崩壊することである。
 文科省は早くから国立大学に対して、@世界最高水準の教育研究、A強みのある分野で全国的世界的教育研究、B人材育成や課題解決で地域活性化の中核的役割ーー の3つに役割分担し、「競争力と付加価値を生む大学」に転換するよう求めてきた。また、その方向で、財界・企業が直接使える人材を育成することができる大学を優遇してきた。たとえば、東京大は「世界トップをめざす最先端の研究」に、新潟大は「イネの育種やコメの高度利用」を売り物にするという具合である。さらに、文学部など人文社会科学系は、そのような要求にそぐわないとして縮小・再編し、教育学部などは教員養成に特化させることも既定のコースであった。
 このたび、文学部などの「組織見直し」を明らかにした大学の一つ、滋賀大は二〇一七年度には、経済・教育両学部の定員を減らして「文理融合」のデータサイエンス学部を新設する。その内容は統計学と情報工学などを使ってビッグデータを解析し、「新たな価値を創造する人材を育てる」というものである。
 また、千葉大が16年度に新設する「国際教養学部」は人文社会科学、自然科学、生命科学の学問分野にまたがるもので、定員の90人を教育学、文学、理学、工学、園芸の各学部を減らして捻出するとしている。一方で、教育学部のスポーツ科学課程・生涯教育課程と、中学校教員養成課程のうち総合教育・教育心理・情報教育の3分野の募集を停止する。
 このたび、国立大学の組織廃止と学生の募集停止を明らかにした九大学はいずれも、教員養成系学部のなかにある教員免許の取得を卒業条件にしない「新課程」の廃止を決めている。たとえば、横浜国立大は17年度に新課程の「教育人間科学部人間文化課程」を廃止し、教育学部(仮称)に組織改編することを明らかにしている。
 ここでいう「新課程」は、いわゆる「ゼロ免課程」といわれ、全国の教員養成系学部に設置された人文系学問の課程で、定員を増やしてきた経緯がある。だが教員を輩出するための実学優先で、免許と結びつかない学問は不要だとして廃止するというのである。
 政府・文科省は「グローバル人材の育成」を掲げて、文学や語学の分野でも、日本文学の研究やドイツ語やフランス語の研究や教育を後ろに追いやり、英語教育一辺倒の道を突っ走っている。その英語教育も会話や実務偏重による職業教育の一環に組みこまれ、人文系学問の発展継承を途絶えさせる力が作用している。

 大学を職業訓練の場に 米国型市場原理主義

 大学の知的崩壊を促す人文社会科学系の廃止・縮小はまた、大学を学問・研究の場ではなく職業教育の場にとって変えるものである。国立大学の関係者は共通して、この間のグローバリズム、市場原理を導入した独立法人化が、50年、100年先の将来を見通した社会貢献ではなく、目前の産業界の要請や国家、地方行政の下請研究・教育機関として「役に立つ」よう国家統制を強めてきたこと、とくに「ローカル大学」がそのための職業人を育成する専門学校に変質させてきたことを強調している。
 安倍晋三が昨年5月のOECD閣僚理事会で、「学術研究を深めるのではなく、社会ニーズを見据えた、もっと実戦的な職業教育をおこなう」とあけすけに演説したが、その方向で今年度から、各大学は地元企業への就職率を数値目標として確約することが義務づけられている。
 大学の人文社会科学系の廃止・縮小はこのように、一時的な現象ではなく、アメリカ型市場原理導入による「大学改革」として、長期に計画・推進されてきた国策として進められている。戦後、人文社会科学系の学問は、第2次世界大戦の深刻な反省のうえに「学問の自由」を合言葉に、いかなる権威にも屈せず真理を探究する立場から、幅広い学問分野を着実に発展させ、日本社会の進歩発展に貢献してきた。日本の自然科学の領域で、ノーベル賞受賞者をあいつぎ生み出す水準を築いてきたのも、このことと深くかかわっている。
 人文社会科学系の学問を切り捨てる行為は、こうした日本の学問における優れた伝統を破壊するものであり、真理真実を明らかにすることを好まぬ輩の策動にほかならない。そうして、人類社会の歴史を正面から継承し、腐敗し衰退する政治、経済、文化の現状を批判し打開する人文社会科学の学問的な機能を抹殺しようとするものである。そこに見るのは、日本民族の凛とした魂を蝕む植民地的な愚民化である。
 このことはまた、小学校をはじめ日本の公教育やマスメディアが、青少年がこの腐敗しきった社会を批判し、戦争体験者や勤勉に働く父母に学び、仲間と団結し独立した平和な日本社会の担い手として育てることを押しとどめ、安保法制とつなげて平然と人殺しをする土壌を形成してきたことと深くかかわっている。
 壮大な人類の文化遺産の批判的継承の営みは、過去そうであったように今からも、未来に向かって途切れることなく続けられるもので、何びとも押しとどめることはできない。人文社会科学系の学問の巨大な成果は歴史に逆行するそのような愚かな為政者のみじめな行く末を、無数の事例で教えている。

 


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