トップページへ戻る

小学校の低学力化の実情
人民教育同盟教師座談会
                努力させるなという指導     2009年11月18日付

 下関市内のいわゆる「暴れる中学生」が警察に逮捕され学校から排除されている問題で、その原因の解明を進めていくなかで、そうした子どもの多くは九九や分数がわからない、漢字が読めないなど、小学校の低学年のころから授業についていけず放置されてきたという実態が明らかになってきた。また、「成績のいい子」も実は学力レベルが極端に下がっており、実社会に出たら使いものにならない場合が多く、深刻な問題になっていることもわかってきた。この現状は日本民族の危機だと、相当の問題意識が広がっている。本紙では山口県と福岡県の人民教育同盟の教師たちに集まってもらい、この20年で日本の教育はどうなってきたか、小学校の実情を出してもらうことを中心に論議を深めた。
 
 九九や読み書きできない子が増加
 
 司会 この間の紙面で展開してきた学力問題について、学校現場での反響などから出してほしい。
 A 小学校の同僚は第一声、「生活科の次は99か」「やっぱりそうよね。私たちも責任重いよね」「中学校の先生は苦労しているだろうね」といっていた。小学校でも学力というのは大きな問題だ。
 99は2年の算数で習うが、5年生になって筆算が出てくると99が絶対にいる。しかし99を覚えていない子どもがいて、問題を解きながらその子が「6×8はなんぼ?」とあっけらかんと叫び、だれかが「48」と答えると、それを聞いて計算している。それをきっかけに「僕もわからない」「私もわからない」ということになり、99の表を全員の机に貼ることになった。「自分は99の6の段が苦手だ」「4の段を知らない」という子どもが結構いて、きちんと覚えるまで徹底してやられてきていない。以前では考えられないことだ。
  私の小学校でも、同僚とよく「これは中学校に入ると不登校になるのではないか」と話になる。そういう心配な子どもが増えている。五年生でも一応座って授業を聞いてはいるが、ほとんどわかっていない状態で、九九ができず、漢字が読めず、ちょっとした熱で学校を休む。1年生では「5を2と3に分ける」のがよくわからず、今からくり上がり・くり下がりの足し算、引き算が始まるとお手上げ状態だ。昔はクラスのなかにこんなにたくさんわからない子がいたかなと思いながらやっている。
 また、ひらがなを読むのが、言葉として読まず一字一字読むので、何回読んでも何が書いてあるかわからない。教師が「黒板の方を見てね」といっても全然見ないし、同僚とも「どうしたらいいのかね」と毎日悩みの種だ。
 だけど教科書は予定通り進まないといけないというプレッシャーもあり、勉強がわかる子もいるから、わからない子だけに対応して授業をやっていくわけにもいかないということで、置いていかれることになる。九九や分数がわからない生徒が中学校で暴れているという記事を読んで、心が痛んだ。
  北九州のある中学校で、不登校が合計30人近くいることがわかった。ずっと来ない子もいるし、来たり来なかったりという子もいる。なかには遅刻してきて早く帰って行く子もいる。何人かが教え子だが、その子たちは六年生のとき、不登校ではなかったが学力が低かった。99だけは覚えさせて卒業させたが、5年生までは12時ごろ学校に来て、給食を食べて5、6時間目だけ授業を受けて帰っていた。六年生を担任したとき、「勉強なんかするか」というものがあったが、無理やりにでもさせた。基礎的な学力がつかないまま中学校に行っているから、なじめなかったのではないかと思う。最近は、99は覚えたにしても、それを計算に運用できないという子もいる。また、6年生で暗算ができない。同僚とも「中学校だけの問題ではなく、小学校から学力の問題もある」と話になった。
 編集部 今回の暴れる中学生の問題は、暴れる子を警察に売り飛ばしたという問題としてあらわれたが、その原因を調べていくと、学力問題がかなり根源的な問題としてあることがわかり、それが大分世論になってきた。小学校のころは「個性重視」「興味関心」で「遊んでおけばよい」という調子だったのが、中学に行くと進学第一で競争が表面化する。授業がさっぱりわからない子どもが暴れるのは当たり前だろうと、みんなが思った。そして家庭的に困難を抱えている子どもが多い。つまり塾に行かせていない。例外はあるだろうが、共通した現象としてそうなっていた。99をはじめ読み書き計算のできないまま、子どもが義務教育を卒業しているというのだから、親や地域にとっては驚きだ。「今ごろの学校はどうなっているのか」と年配者はすごい問題意識だ。

 「個性」掲げ努力させず

  20年前に文部省から「新学力観」が出る前は、基礎・基本をすべての子どもたちに確実に身につけさせるために教師は奮斗していた。だから身につけていない子どもがいたら、教師はすごく心が痛む。しかし最近では「授業中に子どもが集中しない。遊んでばかりでダメなんだ」といいながら、とてもじゃないが今の体制の下では変えることはできない、「頑張っているんだ」「仕方がないんだ」という感じであきらめてしまっていると思う。心ならずもそれでずっとやってきたところに99や漢字の問題が出されて、はたと教師が気づく。
 B 「できないのも個性」といわれ、頑張らせようとしても子どもが嫌がって泣き出すと「ちょっと置いておこう」となる。結局、覚えさせなくても九九の表を机に貼ってやればいい、五〇音の表を貼っておけばいいとなり、子どもが覚えようとしない。社会に出れば計算機があるし、そこで悩んだり苦しませてはいけないというムードがあふれている。
  文房具屋の店主が、最近は小学生にノートが売れなくなったという。昔は漢字などノートに何度も何度も書いて覚えていたが、それを使わなくなっていると。
  合理主義がはやっている。漢字を書けない子の捨てゼリフが「どうせパソコンをうてば出てくるじゃないか」だ。自分が苦労して身につけなくてもいいという発想が多分にある気がする。教師の側がそれを開けて通している。
  今は教科書に「これは計算機でやりなさい」というマークがついている。ちょっと難しい割り算にはすぐついている。「先生、計算機マークがあるんだから、計算機を使ったらいいじゃないか」と子どもらがいう。教科書自体がそうなっている。
 A 99を覚えるという作業は、計算の基本を覚えるということもあるが、毎日練習して、その努力というのがくり返しやられて、最後までやり通すという力をつけるものだと思う。終わりまできつくても頑張るとか、みんながやっているのだから自分も頑張ってみようとか、みんなで頑張って覚えた喜びとか、そういうところを目指すというのが九九を通じて力になる。
 しかし、最近の子どもの傾向として終わりまで粘り強く頑張るとか、一つのことをやりきるとか、みんなで一生懸命やってみるという経験が乏しくなっている。だから勉強でちょっとつまずくと「これは苦手なことになっている」と子どもがいう。給食も苦手なものが出たら「甘い物は身体に悪いからダメということになっている」といって、嫌なことから逃げる。
 持久走をやらせても、何周も走るのに泣き出す子がいたり、「今日はここでやめる」といって途中で勝手にやめる子がいたり、「なんのために走るんですか」と走りながら質問する子がいたりする。99も持久走も忍耐力がいるし、それは「覚えなくてもいい」「頑張らなくていい」ではできない。それを開けて通すと、図工でも絵を途中であきてやめたがるとか、仕上げないで終えるというように、いろんな場面で共通して出てくる。 

  空洞化した全教科 恐竜になり興味引く教師も

 F 全教科が生活科的になり、内容が空洞化して学問でなくなっている気がする。算数もそうだ。教育改革が始まってから、単元の最初に必ず一時間、「子どもの興味・関心を引き出す導入」というのが出てきた。例えば九九でも遊園地の絵があって、「眺めてみよう」というのでジェットコースターに乗っている絵とか、二人観覧車に乗っている絵などがある。99も「かわいらしく」「楽しく」といって、興味を引くようにやる。
 この20年の研究授業のはやりがその導入の部分だ。一度研究授業を見に行ったとき、教師が怪獣の絵や装置などをつくってすごく時間を割いて、2の段を教える。子どもは怪獣に目が行って、99の仕組みを覚えるというより、遊園地の感覚だ。6の段になると自分で力をつけて覚えて応用していかないといけないのだが、遊園地感覚ではそれがさっぱりお手上げとなる。また、三角形の面積の問題で、恐竜の身体を布でつくって、四角形や三角形をその布に貼りつけて、教師がそれをかぶって出ていき、「この1時間で形を強烈に覚えればいいんだ」という。当時、異議をのべたが、「これで子どもを引きつけるんだ」「新学力観なんだから」といっていた。最初のころはかぶりものがはやって本当にひどかった。こうしたものに私もすごく影響を受け、開けて通してきた。
 そして、落ちこぼれた子を放課後に残して教えようとするが、4時半になると管理職が見回って「残してはいけない。子どもを帰してください」「保護者がいいに来ますよ」とものすごく厳しい。徹底的にわからせる、みんなで最後までやり遂げさせるのが教師の仕事と思ってきたところが本当に崩されてきた。
  昔は、子どもが「勉強は楽しくない」というと教師は「勉強は苦しいもの、辛いものだ」といっていた。今は楽しくないと勉強じゃないという雰囲気だ。振り返ると、昔は2年生の担任になると教室の入口にかけ算を貼って、九九をいわないと教室に入れないようにしていた。後ろから出ていく子がいると後ろの入口にも貼っていた。「先生、トイレもれそう!」とかいいながらやっていた。今はそういうクラスはないなと思う。
  だから子どもが面倒くさいことを嫌う。筆算の足し算が出てきたとき、ある子が「こんな面倒くさいものが書けるか!」といって暴れ出した。そして「ものさしを使え」といっても面倒くさいといってできない。粘り強く鉛筆で書いて勉強していくというのが我慢できない。
  今は手がすごく不器用になっている。コンパスで円を書くのに、立ち上がって自分の体を回している子どもがいた。
  小学3年のときから暴れ出す生徒を担任していたがその子も99など勉強がわからない。しかし対応としては、その生徒を暴れさせないために「クールダウンの部屋」に連れて行く。その部屋にはおもちゃやパソコンもあってそこで遊ばせておけばその間は教室も安泰ということだ。しかしその子に勉強を教えるどころではなくなる。教師も、勉強を教えようとしたら暴れるし、「この辺で妥協しよう」となる。今、中学生になっているが、だいたい授業中は寝ているという。
 E もう一つの問題は学力の格差だと思う。塾に行っている子はものすごく先の勉強をしている。2年生でも4年生の勉強をしていたりする。99などバカバカしいという感じで、「わかっているから次に行け」という。昔、そんなに塾がはやっていないときはみんなで教えあおうというのがあったが、格差が激しいからできない子は本当に苦しんで置いていかれる。クラスのなかでも教えあう集団をつくって学習を組んでいくのが難しくなっている気がする。塾に行っている子は「五年生の勉強知っとるもん。こんなところはもうとっくに終わった」といい「偉そうなことをいうな」としかるくらいだ。

 生活実感と切り離す 教科書は遊び感覚

 編集部 知育と徳育は密接な関係にあると思う。知育で遅れるということは徳育面では敗北主義になるし、努力しないというものとつながっていく。勉強は辛抱して努力しないと身につかないのに、新学力観で「努力しないでいい」「楽しくやればいい」とやってきて、知育自体もメチャクチャな破壊となった。教える内容を子どもの生活実感と切り離された体系にしてしまって、おもしろくもないものになっているのではないか。
  教科書の内容がメチャクチャになっている。
  小学校1・2年の理科をなくして遊びのような生活科にし、地域の生産労働を学ぶことも少なくしておいて、そこに小学校3年の社会科で全国の都道府県名を覚えろというのがおりてきた。学校の校区の地名もわからないような子にいきなり「山形県はどこですか」といってもわからない。
 A 2年生の算数の教科書の表紙が楽しい迷路になっていて、子どもたちは勉強時間にひたすら迷路をして遊んでいる。「気をつけ 礼」といったら、そのまま顔を上げずに迷路に吸い寄せられている。子どもは「何回やってもおもしろい」という。子どもが勉強しようという気になる教科書ではない。最後にはちぎって形をつくって遊ぶ付録がついている。だから今年は教科書禁止にした。
  国語の教科書も「レポートの書き方」とか「討論の仕方」が半分以上になっている。今までは教材文となる例文がきちんと教科書に載っていて、物語にせよ説明文にせよ、あるべき文章の姿のお手本が載っていた。しかし今は会話とか討論といって途中で終わっている。作文にしても同じだ。教科書がお手本にもならないから役に立たない。巻末に付録教材として昔、教科書に載っていた「一つの花」や「手ぶくろを買いに」などの名作が少しつけてあるが、それは教えなくていい教材だ。
 C だから子どもは作文がなかなか書けない。日本独特の短歌や俳句がつくれない。それなのになんで小学校から英語を必修にするのかだ。
 A 10年、20年前に比べたら、テスト自体もレベルが低い。授業を聞いていなくても、問題を読んだらそのなかに答えがあるとか。
  選択のようなものばかりだ。漢字できちんと書くものではない。うろ覚えでいい。確かな学力とは全然違う。
  全学年の算数の教科書に「ドルフィンの魔法学校」というのが出ている。単元の終わりに文章題とか思考力の問題といって、すごく難しい問題が漫画で急に付け足しみたいに出てくる。結局、実生活とかけ離れたところに勉強があるから、子どもにとって必要性もわからないし、それと「できないのも個性」といって興味を持って楽しければいいという指導があいまって、意欲を失わせている。だからときどき「勉強しろ!」といわれると、子どもは爆発する。「おもしろくないものをだれがやるか!」といって逃げ出す。
   
 社会性否定に問題 現場で役に立たぬ「できる子

 編集部 学校が教科書の内容も含めて現実社会から遊離してしまっているという基本問題があるのではないか。親からも地域からも切り離し、学校という密室で遊びをさせている。学校時代は勉強ができないワルだったが、土建屋なり漁師になって、そこからなにをどう勉強すればいいか初めてわかって本気になって勉強したといった話をよく聞く。子どもたちが大人になって社会に出て、どんな仕事にしてもそれを頑張ってやることで人の役に立つし社会の役に立つ、そうしてこそ自分の生活も成り立つのであり、そのためには勉強しないといけない。学力低下の根源は、こうした社会性を否定して、「好きなようにやりなさい」という自由主義だ。だから基準がなくなり、規制するものがなくなってしまう。
  小学校は「楽しく」でやっているが、中学校になるともう進学一色だ。小学校のときにその気になって遊びほうけていたら、ひどい目にあう。一方通行の授業も中学校になるともっとすごいらしい。
 編集部 そうしたなかで成績のよい子はどうかというと、今ごろは就職してくるエリートが使いものにならないというのがどこでも話になっている。山口県庁でも市役所でも製鉄所でも造船でも、大学出ほどマニュアル人間で、現場で使えないと話になっている。大学の教員に聞くと、大学の低学力も大変なことになっていると話している。
 D 最近は大学出のエリートが教育実習で現場に出るが、もうそれでやっていけないというので教師を目指さない人がかなりいる。
  新採の教師が、学級が崩壊して1年でやめた。その教師はいわゆる“お友だち感覚”で子どもとつきあっていて破産したのだが、頭はよくて教員採用試験も市役所の試験も通っていく。
 司会 教員採用試験のペーパーテストでいい点をとった若い教師が、現場に来たら人間関係が結べず、親とトラブルを起こしてたいへんという。
 C ある有名国立大卒の校長だが、「私のところに嫌なことは持ってこないでください」といって、すべての嫌なことから逃げ、教師から総スカンを食っていた。頭のいい子は自分のことしか頭にない。他の人のことを考えない。嫌なことから逃げてかかわらないとなっていく。損か得かと、パッパと計算する。エリートといってもひ弱だ。ただ偏差値が高いだけだ。
 編集部 エリートが、人をまとめて引っ張って行くリーダーでない。自分だけエリートだ。それは資本主義で行こうというとき、労働者をまとめていかないと生産もできないが、そういうリーダーをつくろうとしていない。それでは日本社会は持たない。

 歴史との断絶も特徴に

  小・中・高校と社会の真実が教えられていない。大学で原爆展をやったとき、学生が「初めて知りました」といって、どんどん友だちを連れてくる。空襲があったのを知らないというのも結構あるようだ。「おじいちゃんがキライをつくっていた」という生徒が「機雷ってなんですか?」と聞く。歴史の断絶も一つの特徴だ。だから今、もっと聞いておけばよかった、もっと学びたいというのが学生のなかにもすごくある。
 E 1学期の学校原爆展で被爆者2人に体験を学んで、広島への修学旅行に行った。帰ってくると、それまでかけ算も漢字もできなかった子どもがものすごく頑張った。被爆者の人たちが「親を大事にしなさい」「友だちを大事にしなさい」「勉強を一生懸命やって人の役に立ちなさい」といったとき、それが子どもの琴線に響いて、子どもたちが頑張ろうとしている。それまで置き去りにされていた子どもたちに響くものはなんだったのか。そこを教師が学校現場でやれているかどうかだ。
 編集部 勉強しようと意欲を持ち興味・関心を持つ源泉は、やはり親たちの生活だ。親たちの生産活動だし、社会生活だ。読み書き計算ができなかったら人とのかかわりもできないし、仕事もできない。学校がそこを切り離しているのが一番基本ではないか。知識の源泉は人間の社会的実践だ。自然に働きかける生産活動で、自然界の法則を理解する。そこに数学があり理科がある。また人間関係を結ばないと生産活動はできない。そこに言語、国語があり、社会がある。全部そこが基盤であるのに、そこと断ち切ったら基準がなくなるのは当たり前だ。
 社会全体を見ても、市場原理主義で、日本にモノづくりはいらないとやってきた。金融詐欺師のホリエモンのような人間がエリートで、あとは勉強がわからなくてもよいと切り捨てる。しかし労働者のいない資本主義というものは成り立つはずがない。だから生産現場ではそれが大矛盾になっている。
 この低学力の状況は、日本社会の最大の危機として、多くの人が深刻な問題意識を持って見ている。日本には徳川時代にも寺子屋があって識字率は世界一といわれ、30年ぐらい前は日本の学力は世界一だった。それをガタガタにして、バカばっかりつくる意図的な教育破壊をやってきている。それは社会全体で見ると、日本を農業や漁業のない国にしていくし、労働者は結婚することも子どもを産むこともままならず、勤労人民の後継ぎが育てられない。こうした社会全体の植民地的崩壊に照応した教育崩壊ではないか。これでは日本はつぶれる。日本をどうするかという斬新な教育運動が求められている。

 教育立て直す運動へ 未来担う子育てるため

  教師が、そうした社会的実際から離れたところにいることが問題だ。
  本当に切り離されてきた。教え子の親と飲んだとき「最近はこういうふうに先生と飲んで、ぶっちゃけていいあうこともなく淋しい」という。今は「学校のなかのことはいってはいけない」「守秘義務」といわれ、親と飲んでも意識してしゃべらないようにしないといけない。教員評価制度とあいまって、がんじがらめで、ものがいえなくされている。自由な教育活動がだんだんできなくなる。「自由化」「規制緩和」といって、実際はものすごい教育統制だ。
 C これだけ日本の学校が低レベルになってきたというのを、親や地域に明らかにしないといけないと思う。これは深刻な問題だ。
 編集部 子どもたちが暴れるのは、文科省の教育改革が大破産したことのあらわれだ。問題を自分のところだけから見て、「自分は頑張っている」といっている間は解決方向は見えない。中学校では「小学校から落ちこぼれていた」といい、小学校では「自由保育が問題だ」といい、保育園では「親が悪い」といって、人のせいにして相互の状況も余り知らない。大きく見て、中曽根臨教審以来の二十数年で、教育の機会均等を破壊して、こうした状況を構造的につくってしまったということだ。
 だから何もできないのだといっても、目の前に低学力におかれ荒れた子どもたちがいる。これをまともに育てようという力が勤労父母や地域の中にある。勤労父母の生産労働の価値観にたち、社会性を持ち、真理、真実を愛する、未来を担う子どもたちをどう育てるか。文科省の教育政策はその邪魔になっている。教師はいかに構造的な抑圧であっても、それが子どもたちの教育のためにならないのなら、それを突き破って、子どもたちのためにどう役割を果たすかだ。
 幼稚園から小・中・高・大学までの教員が、自分たちの担当する子どもたちに直接に責任を持つことを基盤に、教師全体が結びつき、親や地域と結びついて、日本の教育を立て直す全社会的な運動を巻き起こす、広い視野に立つことが必要だと思う。
 

トップページへ戻る