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商業新聞の教育現場攪乱
下関川中中学校問題
              教師・父母の論議を妨害    2005年5月28日付
 
 現場を基本に立て直しを 無責任教育長はやめよ

 下関市の川中中学校で、女子生徒が自殺するという痛ましい事件が起きてから1カ月以上が経過した。この事件は川中校区の父母や地域だけでなく市内全体の子どもを持つ親や教師などに人ごとでない問題として強い関心がむけられている。川中中の教師や多くの父母はこのような事件が二度と起こらないようにどうすべきか、のびのびとできる学校にどう立てなおすか願っている。父母、地域の住民と教師の腹を割った論議が求められているが、商業マスコミの無責任な報道と、教育委員会の無責任が、自由な論議の障害となっている。このままでは学校崩壊はますます深みに入り、さらに深刻な事件すら起きかねないと危惧されている。
   
 原因作って結果を責める
 一人の女子生徒が学校で命を絶った。これは、校長をはじめ教師にとっては責任を感じないわけにはいかない。子どもたちも、友人関係について深刻に考えないわけにはいかない。これは不幸な事件であるが、この事件が学校を立てなおす機会になりうるし、そうすることが、不幸にも亡くなった生徒の供養でもある。
 ここで怒りを買っているのが商業マスコミである。「真実の究明」という顔をして、「いじめ犯人の摘発」「担任など教師の責任追及」で、ものがいえない状態をつくっている。
 この事件が起こってすぐに『読売新聞』が飛びついて、その枠にはずれたら袋だたきにあうという心境になっている。事件から約1週間後の4月21日には「長期間いじめられていた」と大大的にとりあげ、その後学校や市教委が「いじめは認識していない」という態度をとったことに、「いじめ摘発、犯人捜し」報道に乗り出した。そして、「いじめ研究者」を登場させ、いじめた子を突きとめ、いじめた親子を指導することが望ましい方法であるとした。
 この1カ月半、生徒も教師も新聞社に追いかけられている。記者があたりかまわず生徒をつかまえたり、部活の試合会場や教師の自宅まで押しかけたり、夜中まで学校にはりついたりした。いま「とくに3年生の保護者は口をつぐんでしまっている」という。「いじめ」の犯人捜しとなれば、自分の子であれ他の子であれ傷をつけかねない。また、記事を目にした生徒が「まえは担任の先生だったが、今度は校長先生がやられている」とか、「顧問の先生は、どうなるのだろうか」などと動揺している。取材された生徒が、「先生が責められることをいったのではないか」と心配したりしている。
 市内の教師は「本来学校でこのような事件が起これば、こんな状態で1カ月半もなにもないことの方がおかしい。今回問題をまったく別の方向にしたのはマスコミだ。このままだと絶対にいい方にはいかない」と深刻な面もちで語っている。「いったいなにがしたいのか、なんの解決になるのか」「いい加減にしてほしい」と学校関係者、父母はマスコミの現場攪乱に悔しさが語られている。
 ひじょうにハッキリしていることは、いじめの実態は解明されなければならず、いじめ状態の学校にさせた教師集団はその責任において事態を解決しなければならない。しかし、その事件のきっかけとなったいじめがあったとしても、それは自殺のきっかけにはなっても原因にはならない。ある意味で、それも学校崩壊の結果にほかならない。
 だれもが指摘している川中中の学校崩壊は、昨年春の商業マスコミによる「体罰報道」でひどくなったという事実である。部活の熱心な教師が、かかわっている生徒や父母とは信頼関係があるのに、マスコミが表面づらだけ見ておもしろ半分に報道した。それが、教師にものをいえなくさせ、挫折させて、昨年の学校崩壊の引き金になった。今度の事件にかんしていじめがあったとしても、そのような状況をつくった原因はマスコミの無責任な教師いじめ報道であった。
 今回の商業マスコミの報道姿勢は自分たちの責任を転嫁する卑劣きわまりないものである。そしてこれは、いじめに反対する顔をした、新しい教師と生徒いじめである。
   
 かん口令敷く市教委 小役人行政に怒り
 もう一方で教育委員会の無責任である。今回学校関係者にたいしては「他言はするな」とかん口令を敷いた。この事態にたいしてなんの対応もとらずマスコミから「真実解明」を騒がれて、全生徒を対象に「聞き取り調査」を実施させた。
 川中中が学校崩壊状態になったのは、マスコミの体罰報道とともに、クラスを解体して教科を勉強するだけが学校という教科教室を押しつけ、子どもをほったらかさせて研修で教師を縛りつけ、意にそわぬ教師は人事異動でほうり出すという、教育委員会の行政的な措置が重要な要因であった。教科教室は、河村文科大臣の手柄の道具として、また江島市長がハコモノ利権に執着するなかで、その顔色を見るヒラメ教育委員会が、子どものことなどそっちのけでごり押ししたものであった。
 マスコミと教育委員会が川中の学校崩壊をつくったのである。自分たちがつくったいじめをふくむ、学校崩壊の結果だけをとりしまるというのは、教育をやる意志も能力もないという証明である。商業マスコミの現場責任報道が、教育委員会の無責任と責任転嫁を助けている関係になっている。
 市民からは松田雅昭教育長の無責任ぶりを追及する声が起こっている。「学校で生徒が命を絶つという事態が起こり、教育長が頭を下げて回らないといけないのになにをしているのか」「教育長が全責任をとるから現場は思いきって学校の立てなおしにあたれといわなければならないのに、現場責任のような顔をしている」と、教育者にあるまじき小役人根性への怒りの声がまき起こっている。
 また下関にも教育委員というものがいる。「教育委員は今回の事件についてどう思っているのか、なにも聞こえてこない」。ちなみに、教育委員は松田雅昭教育長、隈田忠、志満順三、中丸輝顕、水木誠子の各氏である。下関の教育がどうなろうと江島市長の顔色だけ見る「名誉職」だけの存在であるのか、これらの態度について、下関の学校崩壊の責任が問われなければならない。
 父母も教師も、今回の事件が、もっと根が深いと考えている。学校もそうだが、社会全体がいじめの構造で成り立っており、もっと根本的な原因を究明して、その解決にあたらなければならないと考えている。
 一人の子どもがみずから命を絶ったが、自分の命であれ、他人の命であれ、生きていくことの喜び、目標というものがあまりにも乏しいことこそ根本的な問題である。子どもたちにとって、学校が魂に響くものがなく、おもしろくないのである。
 子どもたちの精神は、学校ではぐくまれるが、もっと基本的には家庭生活ではぐくまれている。家庭生活をつうじても、また社会そのものの反映でもある。最近では、ゲーム、テレビ、ビデオ、インターネット、携帯、また雑誌などをつうじても、深刻な影響を受けている。「読売」をはじめ商業メディアは、その批判者ではなく、推進者になって子どもを痛めつけている側にいる。
 子どもたちの精神を規定している最大のものは、家庭生活である。働く親たちの生活のなかに、自分たちの将来がある。そこを教師が知ることなしに、子どもたちの魂にふれることはできない。しかも、市場原理と称する弱肉強食の資本の論理とは異なって、働く親たちのなかに、みんなが協力し団結して、ものを生産し、生活していく、真に未来を代表する力があることを教えなければならない。それは、働く親、地域と教師が、心をかよわし、同じ立場に立ってできることである。
 商業マスコミの卑劣な介入を撃退し、教育委員会の無責任な小役人行政を改めさせることが第一に必要であり、そのために全市的な世論を喚起することが求められている。教育は子どもの精神を解放することが第一であり、お上の都合でなく現場が基準とされなければならず、教師の自由が保障されなければならない。

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