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高い意気込みの賛同者会議
長崎「原爆と戦争展」
                 戦争をいかに止めるか      2007年5月21日付

 長崎市茂里町のブリックホールで17日、6月10日から長崎西洋館で開催される長崎「原爆と戦争展」の主催者・賛同者のつどいが開かれた。地元長崎から原爆展を成功させる長崎の会の被爆者をはじめ、戦争体験者、自治会長、観光関係者、学生など14人が参加。下関原爆被害者の会、下関原爆展事務局もかけつけて今回の「原爆と戦争展」について意見を交流し合った。

 下関や広島からもメッセージ
 「被爆市民と戦地体験者の思いを結び、平和な未来のために語り継ぐ」をスローガンに開かれる「原爆と戦争展」は、これまで語られてこなかった原爆と第2次大戦の真実を明らかにし、再び原爆と戦争を繰り返させない市民の思いを1つに束ねる契機として期待を集め、また、伊藤前市長銃殺という被爆市民への圧力を排して市民の意志を示そうという気迫に満ちた論議となった。
 はじめに、原爆展を成功させる長崎の会の永田良幸会長があいさつ。
 永田氏は、「13歳の時に城山で被爆し、戦災孤児になった。両親含めて6人死亡し、いまだに帰ってこない兄も2人いる。これまで長崎では語りたくなかったが、3年前に峠三吉の原爆展をつうじて下関、広島の被爆者の会にめぐりあい、8月6日に広島ではじめて体験を語った。長崎の人はなぜ沈黙なのかとずっと思ってきた。昨年、下関からの助言によって長崎の会を発足することができた」と経過を振り返った。「伊藤市長が殺されたのは残念だが、私たちには、原爆、戦争がなぜ起こったのか、なぜ広島と長崎が被爆地になったのか真実を伝える責任がある。長崎型と広島型は種類が違い、モルモットとして実験台にされたのだと思っている。いままでアメリカに殴り込んで仇を討ちたい思いで生きてきた。わざわざ下関、広島の方からやっていただき、長崎市民も沈黙のままではいけない。成功のためにみなさんの力をお借りしたい」と熱を込めて発言した。
 つづいて、ともに主催する下関原爆被害者の会・伊東秀夫会長と、原爆展を成功させる広島の会・重力敬三会長のメッセージが代読された。
 伊東氏は、「核廃絶を訴え、アメリカの核政策を公然と批判してきた伊藤一長・前長崎市長が選挙運動中に殺されるという凶悪なテロ」に対して、「亡き市長の遺志を受け継ぎ、長崎市民のみなさんとともに核兵器廃絶のための運動を一層強める」決意と、先日、被爆者の会総会を開き、「長崎での“原爆と戦争展”の成功のために力を尽くすことを決めた」ことを報告。「伊藤前市長を銃殺するという平和と民主主義に対する暴挙を断じて許さない長崎市民の心意気を示すために、“原爆と戦争展”を大成功させましょう。長崎での大成功は、広島を含む全国を揺るがすにちがいありません」と激励の言葉を贈った。
 重力氏は、軍港といわれてきた広島市宇品や呉市で「原爆と戦争展」が盛大に行われたことを報告し、「長崎市長射殺事件は単に個人的な恨み」ではなく、背後勢力の仕業であり、この圧力に負けることなく平和運動を続けていくこと、今回の「原爆と戦争展」を通じての被爆地同士の連帯を強調した。
 次に、下関原爆展事務局の杉山真一氏が、「原爆と戦争展」の取り組みの経過と、今後の運営について提案し、参加者の自己紹介と意見交換に移った。

 犠牲者の無念を無にできぬ 溢れる体験者の思い
 参加者からは、伊藤前市長銃殺をめぐる思いや、これまで人前で語ることのなかった被爆や戦争体験があふれるように語られた。
 長年、連合自治会長を勤めてきた男性は、伊藤前市長銃殺事件に触れて、「市民平和大行進の2年ほど議長を務め、市長と行動を共にしてきた。銃撃される1週間前に、選挙で家にこられ、握手をしてわかれたのだが、あのように殺されたのは非常に残念」と悔しさをにじませながら、「私も兵隊として四国へ行き、原爆投下の10日後、焼け野原になった長崎の自宅跡に帰ってきた。戦争の悲惨さと平和の大切さはつくづく身にしみている。よろしくお願いしたい」と取り組みへの意気込みを語った。
 3年前から長崎市民原爆展に参加してきた男性被爆者は、原爆で家を壊され、友人や親族が殺されたこと、「道ばたでは腹をパンパンにふくらませた黒こげの死体が転がり、それをイワシのように並べて焼いていた」と脳裏に焼き付いた情景を語った。さらに、「いまの政府は、憲法を変えようとしている。私の兄は航空隊としてミッドウェー海戦で戦死して骨もない。なぜ、いま平和憲法を変える必要があるか。満州事変のころは仕事がなく、貧乏人が開拓団として中国に送られていったが、いまも失業者が多くなり、自衛隊が海外に出ている。また戦争をするというなら、あのメザシのように焼かれた人たちは何のための犠牲なのか!」と抑えきれない思いをのべた。
 昨年8月に広島市民原爆展に参加した男性被爆者は、「私も三菱電機の特別消防隊員として毎日のように死体を鉄板にのせて焼いた。名前も分からない遺体を積み重ねて、骨は穴を掘って埋めた。はじめていった広島原爆展では、ものすごい大勢の人とその熱気に驚いた。下関では空襲の体験を受け継いで、若い人もチームワークをもって活動していた。長崎でも、広島、下関に負けない運動をつくりたい」と意気込みを語った。
 市内老人会顧問の90歳の男性は、「原爆と戦争は切っても切れない。私は原爆は知らないが10年ほど兵隊として戦地にいった。だんだん経験したものが減ってきて、また戦争が現実的になっているなかでじっとしておれない」と高齢をおして参加した思いを語り、「被爆した家内は昭和64年にわけのわからない病気をし、病院でも原因がわからないまま亡くなった。長崎ではわけのわからない病で亡くなっていく人が多いが、最近は“高齢のためで、被爆とは関係ない”と片付けられ、原爆に対する認識が薄れてきている。これは若い人が、今後また起こるであろうことを認知して、大いに運動して欲しい」と期待をのべた。
 また、「戦中も、戦後も国を愛するということが間違って教えられている。国の幹部に勝手な行動をさせないためにも、このような犠牲を思い起こして国民自身が反省していかなければいけない。国は戦争中、国民がこれだけひどい目にあっていることも情報機関を使ってウソを教えていた。また、芽生えようとしているこの芽を潰してしまわなければ、また国全体を覆ってしまう。みなさん、大いにがんばりましょう」と、戦争体験者としての切実な問題意識を語った。

 市民の手で運動を作る意欲 熱こもる論議
 次第に論議にも熱が入り、はじめての参加者からも、原爆で両親兄弟を亡くし親戚に育てられてきた経験や、戦地に出征した父親がマラリアで亡くなったことなど、これまでいうにいえなかった戦争による苦しみと平和への思いが語られ、長崎市民の声として伝えていく運動への意気込みが高まった。
 民生委員を25年勤めてきた婦人被爆者は、「殺された伊藤一長市長とは深くおつきあいし、まるで片腕を亡くしたように悲しい」とのべ、学徒報国隊として三菱兵器製作所にいき、原爆で600人近い同級生を失ない、生き残ったもので毎年慰霊祭を続けてきたことを語った。
 「原爆でひどい目にあっていながら、長崎では“悲しいことは沈黙を守る”となり、原爆に対する活動はされてこなかった。私の妹も2人の子どもを残して白血病で死んでいる。生き残った私たち姉妹も被爆のために“カタワができる”といわれ結婚できなかった。去年初めて原爆展に参加し、山口県や広島の人が一生懸命やっていることに驚き、心動かされた。こうした運動は長崎から起こらないといけない。いまからは私も参加したいし、市民がもっと前面に出てやらないといけません」と力強く呼びかけた。
 また、戦争体験者からは「長崎では数数の被爆者団体があるが、看板を上げているだけで何もしない。原爆反対を繰り返すだけで、マンネリズムしている。この原爆と戦争は繋がっているし、これから先に大事な問題だと思う。これは市民の手で市全体に知らせないといけない」と、既存の団体への不信感と市民による新しい運動への期待も語られた。
 最後に、「原爆と戦争展」最終日の6月17日に、会場で長崎、広島、下関の被爆者の交流会を行うことが確認され、参加者はそれぞれ地元で宣伝するためのポスターやチラシを手に会場を後にした。

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