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明治維新革命顕彰の大論議を
高杉晋作から学ぶもの
               現代日本の閉塞打開の糧に    2008年3月19日付

 明治維新から140年がたつ。4〜5代まえのわれわれの父祖たちが、強大な権力で支配していた徳川幕藩体制を打倒し、外国の侵略支配をはねのけて、近代統一国家をつくった。これを成し遂げた原動力は、農民、町人・商人などの人民であり、それを指導したのは下級武士層であった。徳川幕藩体制の末期の閉塞状態のなかで、人民の力でそれを打開したのである。その中心となったのは山口県であり、高杉晋作はもっとも代表的な指導者である。この明治維新革命を成し遂げた経験は現代を生きるわれわれに、日本民族の歴史への誇りと確信を与えずにはおかない。140年がたった現在、日本は見るも無惨な植民地支配のもとにある。明治維新革命で権力を握った勢力は、国内では徹底した搾取と弾圧、そして侵略に次ぐ侵略をくり返し、第2次大戦で無惨な敗戦に導いた。すると今度はもみ手をしてアメリカに従い、日本社会をさんざんに破壊してきた。現代は明治維新の時期と同じような課題が目の前にあらわれている。このようななかで、高杉晋作と明治維新の事業に学ぶことはきわめて大きな意義がある。1966年に本紙の福田正義主幹が発表した『高杉晋作から学ぶもの』を紹介し、読者のみなさんのおおいなる論議を訴えたい。

 はじめに
 明治維新100年を記念し、維新の革命運動の真実を明らかにし、その中から現代に顕彰すべきものをひきだし、現代を生きるわれわれの学ぶべきものを学びとるということは、きわめて積極的な意義をもっていると思う。
 まず第1に、わずか100年ばかり前、一家にしてみれば3代か4代前のわれわれの父祖の巨大な歴史的なたたかいが、一方ではあまりにも明らかになっていないし、他方ではあまりにもゆがめられていることである。明治以来、外来文化一辺倒の風潮によって、とりわけ知識層の中では外国の歴史・文化には精通しているが、自国の歴史・文化には何の興味もないという状況が広範にあって、ごく1部の人々の研究にゆだねられていわば放置されているに等しい状態であった。もちろん、天皇制権力のもとで、歴史の真実が暴力によってゆがめられ、歴史について真実を語ることはそのまま獄につながっていたという事情も、それに輪をかけることになった。そのために、自国の人民の歩いてきた歴史、とりわけ現代に密接に結びついている維新史の研究は、まだまだ大衆化していないし、専門家の研究そのものも定説となっていないものがきわめて多いという状態である。一般にいえば、戦前に教育を受けたものは天皇制賛美の、真実とは縁もゆかりもない非科学的なつくり話を教えこまれたし、戦後に教育を受けたものは、ごく一部をのぞいては、日本の歴史からの遮断という状況におかれた。維新100年を記念するということは、自国の歴史、とりわけ現代へ密接につながる歴史を、皇国史観ではなくて人民の科学的な史観に立って明らかにするということで積極的な意義があると思う。
 第2に、維新革命斗争は、全国的にもそうであるが、とりわけわが山口県においては、幾千幾万の農民の一揆をはじめ、下層武士、郷士、農民、商人、穢多(えた)・非人といわれてさげすまれた人々も武器を持って立ち上がり、外国の侵略に反対し、徳川幕藩体制を打倒するという革命的スローガンのもとにたたかわれた。われわれは、この人民的な革命斗争のなかから発展的な要素を引き出しつつ、同時に、何が革命を裏切ってその後に絶対主義天皇制を仕立て上げ、ふたたび人民を圧政のもとにしばりつけ、外国の侵略に反対したはずのものが、反対に侵略につぐ侵略を重ねて破産するにいたった要因であるか、明らかにしなければならない。また同時に、維新革命の伝統は、その後どのように受けつがれてきたかを明らかにしなければならない。
 第3に、維新革命をたたかったものは、血を流して外国の侵略から国を守り抜いたし、非妥協的に徳川幕藩体制を打ち倒した。すでにアジアのほとんどの国が西欧資本主義諸国によって侵略されていた時期に、わが維新革命斗争をたたかった英雄たちは、徳川幕藩体制の打倒と新しい近代統一国家の建設を展望しつつ、それと一見矛盾する攘夷のスローガンをかかげ外国侵略に徹底的に反抗し、たたかい抜くことを統一してたたかった。馬関戦争で連合国艦隊に敗北したのちの講和談判においてすら、高杉晋作らはついにイギリスの彦島譲渡の要求を完全に一蹴した。われわれは、今日、国がどのような状態におかれているかということを、維新革命斗争の教訓から学んで眼をすえて見る必要がある。維新革命斗争の裏切り者たちとその亜流は、絶対主義天皇制をでっち上げ、維新革命をきわめて不徹底なものにして圧政と戦争へ国をかりたてただけでなく、それが破産し敗戦するや、こんどは外国帝国主義にもみ手をして膝(ひざ)を屈し外国帝国主義と一緒になって自国人民を支配し収奪し、あげくのはてはアメリカのアジア侵略計画の一部を担って、日本を新たな侵略戦争に投げ込もうとしているのである。アメリカの一駐日大使が、ホテルの昼食会で「日本の外交政策は自主的なものにしなければならない。単なるアメリカへの順応はよくない」と語ったというので「これは日本の外交政策への重大な示唆である」と大騒ぎをするような政府を持っていることを、維新の英雄たちの思想と行動に照らして考えてみなければならないだろう。
 いま、維新100年をうたい文句に、歴史の流れとは何の関係もないこま切れの「史話」をならべたり、荒唐無稽な物語を仕組んで映画・テレビ・新聞・雑誌などにはんらんさせている。これらのさわぎの舞台裏には、今日のアメリカの要請によるベトナム戦争への参加、アメリカのアジア侵略計画への加担を急ぐ日本の反動勢力が軍国主義復活を公然と大規模にすすめるために、維新をゆがめて国民思想大動員の道具にしようとする、まさに反維新的なたくらみがかくされている。同時にまた、これらの反動的反民族的な政治家どもが、維新をゆがめて「顕彰」することによって、あたかも彼らが維新の正統な継承者であるかのように、国民に見せかけようというのである。
 われわれは、わが民族の歴史を偽造し、われわれの父祖の栄光を泥沼にしずめようとする彼らのつくり話を粉砕しなければならない。そのために、民主勢力が先頭に、維新革命斗争の顕彰を積極的な運動としなければならないと思う。

 高杉晋作
 高杉晋作は、1867(慶応3)年4月14日、数え年29歳、満27年8カ月の生涯をおえた。それは明治維新の前夜であるが、維新革命がめざした徳川幕藩体制の打倒の基本的条件ができあがった時期である。高杉自身は幕府の打倒を見ることはできなかったが、すでに大勢として打倒はもはや時間の問題であった。その年の12月、いわゆる「王政復古」の大号令が発せられ、その翌年が明治元年となるという経過がそれをよく物語っていよう。
 高杉は萩に生まれたが、下関とはまことにゆかりが深い。高杉の遺骸は彼自身の遺言にもとづいて、下関吉田の清水山に葬られ、分骨されて生誕地の萩にも墓がある。下関の吉田を永眠の地としたのはほかでもなく高杉の全政治的軍事的活動と切っても切れぬ関係のある奇兵隊の本拠があったところであることにほかならない。
 高杉が松下村塾に入門したのは安政4年、高杉の19歳のときであるが、その翌年の5月には江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に入っている。松陰が殺されたのが安政6年の10月であり、その間、松陰との師弟関係の折衝はあったとしても、当時のことであるからそれほど密接な関係は保ちえないはずで、結局、19歳から20歳にいたる1年ばかりの間の松下村塾での学問が、高杉の思想形成上決定的な影響をあたえたということができよう。その後の約10年間、とりわけ、1862年上海留学(24歳)をして帰って以来の6年間が、高杉が革命家として、日本的な規模で奔放自在に波らんにとんだ活動をする時期である。
 それは、もとより1人の高杉晋作の活動ということではない。一方では、徳川幕藩体制による封建主義の矛盾が、農民、商人、下級武士、ならびに王朝公卿などとの間で抜きがたいものとして激化の一途をたどり、農民の蜂起は全国いたるところに燃えひろがり、他方では、外国先進資本主義諸国の侵略の波が重なりあうようにわが国におしよせ、これにたいして幕府が屈従的な条約を結ぼうとしているという、きわめて切迫した情勢のもとに日本はおかれていた。それは、革命的な激動期であり、古いものと新しいものとの根本的なたたかいの時期である。このような革命的な激動期は、つねに無数の英雄たちを生み出すが、高杉晋作は、このような革命情勢の中での傑出した革命家の1人として若い全生命を風雲の中にささげたのである。
 明治維新以後の日本の歴史は、維新革命がきわめて不徹底なものに終わり、その後に絶対主義天皇制を生み出し、内に向かっては人民にたいする前近代的な収奪と弾圧をかさね、外に向かっては侵略戦争につぐ侵略戦争をかさね、わずか80年にして全面的な敗戦にみちびくことになったことは誰でも知っているところである。われわれは、維新革命が広範な人民の斗争にもかかわらずなぜそのようになったかということについて今日、科学的に明らかにしなければならない。同時に、蟻のはい出るすきまもないほど武装権力でうち固められた幕藩体制がどうして崩壊したか、それを崩壊させた人民の英雄たちのたたかいの中から教訓を引き出さなければならない。
 いま、高杉晋作の没後100年を記念して、東行百年祭が行われている。わたしは、高杉晋作のような人物について没後100年を記念して、研究し顕彰し普及するということに大いに賛成である。しかし、それは、あくまでも、高杉晋作が日本の歴史を前進させるうえで果たした役割についてされねばならないし、それが、今日の日本の歴史を前進させるうえでわれわれに教える珠玉(しゅぎょく)のような教訓を学ぶという観点からなされなければ、何の意義もないだけでなく高杉晋作そのものを冒とくすることに終わると思う。
 高杉が、維新革命斗争の指導者として、奔放自在に活動したことには、誰でも深い親近感をもっている。とりわけ、「肉食(にくじき)の士」はものの用には立たないとして、農民、商人や穢多非人といわれて差別された人人まで平等の立場で奇兵隊ならびに人民諸隊に組織し、日本を侵略しようとする外国軍隊と正面からたたかい、また、幕府が全国の藩に号令していわゆる長州征伐を2度にわたって仕掛けてきたのを、奇兵隊ならびに人民諸隊を中心にして粉砕したことにたいして、言い知れぬ尊敬と親近感をもっている。毛利藩政府が俗論党によって占められ、尊攘派の家老はじめ重臣たちが殺され、藩をあげて幕府へ屈服しようとしているとき、奇兵隊を先頭にして、俗論党の降伏主義者を実力で粉砕して正しい方向に藩論を団結させて征長軍をうち破った英雄的行動と戦斗性に、深い痛快感をともなった尊敬と親愛の情をもっている。これらの高杉の行動は、民族の独立と繁栄のうえに立った革命的な山口県民の父祖の行動と深く結びついているがゆえに、いっそう県民に親しまれているのである。明治元年後とりわけ3年から4年にかけて、明治政府の中枢に座った木戸孝允らによってやられた奇兵隊をはじめ人民諸隊に結集した戦斗的人民への血なまぐさい裏切りによる弾圧と無縁であることがいっそう高杉への尊敬と親近感を深めているのである。
 わたしは、このような県民の高杉晋作への尊敬と親近感はまったく当然のことであると思う。そのような尊敬と親近感が、東行百年祭に結集していると思う。しかし、同時に、高杉にたいする県民の正当な尊敬と親近感を利用して東行百年祭にしのびこみ、およそ高杉の思想や行動や人間性とまったくうらはらな連中が、高杉の思想や行動や人間性をあいまいにして高杉の延長線のうえに軍国主義復活があり対米従属のぶざまな現実があるかのように見せかけようとしているのを見逃しておくわけにはいかない。そういう観点からわれわれは、高杉の何に感動し、何に教えられるかを明らかにしていかねばならぬと思う。

 高杉の攘夷論
 高杉晋作が熱烈な攘夷主義者であったことは知られているとおりである。
 1862(文久2)年、上海留学から帰ってきた年、久坂玄瑞、井上馨、品川弥二郎、赤根武人など同勢11人で、日にちをきめて横浜にある各国の公使館を襲撃するという計画を立てる。これは、世子定広から待ったがかかって決行できなくなるが、それから約1ヵ月のち、同じ顔ぶれで品川御殿山に新築中のイギリス公使館を襲い放火している。
 彼が有名な奇兵隊を組織するのはその翌年であるが、奇兵隊ならびに人民諸隊の役割は、倒幕のためのものでもあるが同時に、下関を中心にして通過する外国商船・艦隊と実力をもってたたかうためのものであることは、事実が示しているとおりである。
 この点では、彼は徹底した攘夷主義者である。しかし、彼は、いわゆる封建主義にもとづく鎖国主義者ではない。封建支配階級は、自分たちの特権を守るということが中心でそれをおびやかすものとしての欧米にたいして抵抗はするが、民族の独立を防衛するということではなくて、自分たちの地位・特権を守るということであった。だから、その目的のために鎖国主義の立場に立ち、攘夷を主張もするが、いったんそれが守りきれないとなると、つまり、自分の地位・特権がおびやかされるとなると、外国侵略勢力にたいしてもみ手もするし膝も屈する。同時に外国侵略勢力にたいして断固としてたたかおうとする自国人民にたいして容赦のない弾圧もするのである。だから、鎖国主義は、外国侵略勢力の圧力の中では、まさにあえなくついえさる。鎖国主義はそのまま開国主義になるのである。
 高杉の攘夷は、それとは根本的に異なっている。彼の師の吉田松陰は、外国勢力の圧力による開港に徹底的に反対したが、同時に外国艦船に乗りこんで密出国することを2度にわたって計画している。高杉も、上海にいって、上海が英・仏などの植民地同然になっていること、またそうであるにもかかわらず当時太平天国の農民革命戦争にたいして、清朝政府が英・仏にたよって農民革命の鎮圧をはかっている状況を見て、彼は、これは清朝滅亡のもとだ、と日記に書いている。そして、それと同じ状態をわが国に現出してはならないということを痛感し、そのためには外国の日々新たに発展する学問・技術・文化をとり入れなければならないと考えているし、清朝政府当局が固陋(ころう)で、そういう先進的な学問をとり入れようとしていないことを強く批判しているのである。高杉が2ヵ月の上海遊学から帰ってきて、長崎で外国から軍艦を買い入れる交渉をほとんど藩にたいして独断でやっていることにあらわれている。その彼が、その同じ年に、各国公使館襲撃を計画し、実際にイギリス公使館の焼き打ちをやってのけるのである。また、実現はしなかったが俗論党打倒ののちの外遊計画にもそれはあらわれている。
 これは、一見、矛盾しているように見えるが、そうではなく、高杉においては、開国による日本の統一国家としての発展、日本の国際的交流による近代的発展の問題が積極的に考えられているのである。しかし、それは、たとえば井伊直弼のような、鎖国主義から外国屈服の開国主義へのひっくりかえりや、毛利藩の長井雅楽(うた)のような、国内矛盾をそのままにした妥協による公武合体・開国論などとは根本的に異なっている。民族の独立の基礎のうえに立っての開国主義であり国際交流である。したがって、それは、近代的な統一国家をめざしての徳川幕藩体制の打倒と結びつかざるをえないし、高杉の開国主義は、外国先進諸国が、日本を植民地従属国にしようとして武力で圧力をかけてきている当時の状況のもとでは徹底した攘夷主義とならざるをえないのである。
 高杉のこの考え方は、当時の進歩的な活動家に共通したものであったが、高杉においては、とくにこれが強く統一されて貫かれていたことが特徴である。それは、高杉が獄中にあるとき四国連合艦隊の馬関攻撃を受け、高杉が講和使節として派遣されたときの交渉においても、相手方を唖然とさせるほど自国の根本的な利益を守り抜きついに敵側の〈彦島開港〉の要求も蹴ってしまった事実にもあらわれている。
 この高杉の考え方と実践は、幕末の危機の情勢の中できわめて重要な指導的な役割を果たしたということができるし、それはまた、幕藩体制の打倒を貫いてゆくうえでも重要な役割を果たすことになる。長州が、国内的にはいわゆる幕府の征長令を受けて朝敵の名のもとに全国的な攻撃を受け、国際的には四国連合艦隊の一斉の攻撃を受け、さらに藩内的には俗論党の台頭による尊攘派の一斉弾圧という条件の中で、同時的に、俗論党を倒し、征長軍を破り、四国連合艦隊との戦争を屈服的でなく片づけていったそのやり方を貫くものである。
 攘夷の斗争は、一高杉だけによってやられたものでないことは当然である。また、当時の情勢のなかで、近代的な兵器をもった諸外国勢力との戦争で一局面で勝利できる状況でなかったことも当然であろう。しかし、馬関戦争などに示された戦いの輝かしさは、これらの戦いが一局面の敗北にもかかわらず、全体としては人民の決起した力で外国の侵略を許さなかったという事実である。

 実践的革命資質
 高杉が政治情勢を大胆率直にとらえ、情勢を変革してゆくうえで奇想天外とも見えるほど大胆で機敏な行動をとっていったことは、誰も認めるところである。それが「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」という伊藤博文の形容となり、それが青年高杉の強い魅力となっていることも事実である。
 しかし、高杉をいわゆる講談調の〈風雲児〉としてだけ見ると、高杉の革命的な政治家としての側面を見失うことになるし、彼の実践をうらづけている緻密な計画性と大胆な行動性の統一という現実性を見失うことになるだろう。
 高杉が吉田松陰の影響を強く受けていることは前にもふれたが、高杉の場合は、松陰より一歩進んで、幕藩体制の打倒と攘夷が強く結びついていること、つまり近代的統一独立国家の実現とその上に立っての開国であり、それを実現してゆく手順が実践的にきわめて明確であることである。
 いろいろの波はあったとしても、長州藩としては全体として尊攘の路線で動いているのであるが、また、高杉は誰もが認める長州尊攘勢力の先頭に立つ指導者の1人であるが、高杉が、奇兵隊を組織し奇兵隊を中心とする人民諸隊を、この武装革命斗争の根幹としたという事実は、奇兵隊の人民武装部隊としての画期的な特徴とともに高杉の実践家としてのすぐれた面をよくあらわしているということができる。
 奇兵隊そのものの性質についてはのちにふれるとして、ここで強調したいことは、高杉が虚名のうえにあぐらをかいたり、空論をこととして悲憤こうがいしたり、というようなタイプとまるきり異なっているということである。高杉は奇兵隊について
 奇兵隊の義は、有志の者相集り候につき、陪臣・雑卒、藩士を撰(えら)ばず、同様に相交り、専ら力量をば貴び、堅固の隊に相調へ申すべしと存じ奉り候。
 といっているが、「専ら力量をば貴び」というのは、毛利藩の正規の武士団の最初のフランス艦隊との戦争におけるだらしなさから発想されたものでもあるが、奇兵隊という名称でも明らかなようにそれは正規軍ではなくて武装遊撃軍である。この「堅固」な遊撃軍が、彼にとっては、徳川幕藩体制の打倒と外国侵略軍との戦争という一大斗争過程全体をつうじて基本的な重要度をもっているのである。しかもこの遊撃軍は、農民、漁民、医師、庄屋、商人からいわゆる賎民までふくんで、それは人民と深く結びついているのである。このことは、維新革命の原動力となった長州で、さらにその原動力として決定的に重要な瞬間に奇兵隊と高杉が結びついて作用していることによくあらわれている。
 高杉は、江戸、京都でもずい分動いているが、京都周辺をうろうろして悲憤こうがいすることをこととしたり、公卿まわりをして点をかせごうという空論的な尊攘派を心から軽蔑している。彼はそういう連中を「功名勤王」と名づけて、見下げ果てたやからとみている。それは、実力に裏づけされないたたかい、虚名のうえに空転するものとは真反対の資質を示しているということができる。
 京都の情勢が悪くなった1863(文久3)年8月18日のクーデター以後、7卿をむかえた長州は、来島又兵衛などを先頭にして遊撃隊の京都進発論が高まり、それは勢いのおもむくまま、ついに翌1864(元治元)年7月の蛤門における長州藩兵の敗戦にまですすむが、進発論がますますひろがるなかで、彼はつぎのように書いている。
 拙者は御割拠も真の御割拠が得意なり。進発も真の進発が得意なり。ウハの割拠は不得意なり。ウハの進発は聞くも腹が立つなり。
 高杉自身は、来島又兵衛を説得すべく三田尻に行き、来島が説得に応じないので、そのまま大坂、京都方面に無断でゆき、そのために、蛤門の敗戦、四ヵ国艦隊の馬関攻撃、幕府による第1次長州征伐という時期を萩の野山獄に投じられ、長州藩の最悪の危急存亡に赦免(しゃめん)されて大活躍することになるが、以上の点はすぐれた革命家がもっているきわめて重要な資質であるということができよう。
(次号四面につづく)

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