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福田正義主幹紹介へ



展望前後    福田正義 戦前の斗い 
    
     1,少年期の思い出/2,青年期の下関での活動/3,門司新報
     福田正義評論/4,経歴に関して/参考・下関の社会主義運動 

                                       
著者 福田正義 発行 長周新聞社 B6判 254頁 定価1500円(送料310円)


●展望前後        (一部掲載)
軍靴の重圧に抗した青年たちのロマン
       (1961年10月〜1962年3月、長周新聞連載)
 
昭和8年のいわゆる、〈長関共産党事件〉で、 下関を中心とする左翼勢力は、 壊滅的な弾圧をうけた。〈長関共産党事件〉というのは、 当時の新聞がつけた名称で、 実際には長府にも下関にも共産党の組織はなかった。 ともかく全協、 プロレタリア科学同盟などの労働組合、 文化団体から、 左翼の雑誌の読者まで根こそぎやられたわけである。
 下関貯金局のごときは、 ほとんど全員が警察に呼ばれて、 取り調べをうけるというほどの徹底ぶりであった。
 国鉄、 内務省 (いまの第四港湾) の港湾建設関係、 山電長府から東海製菓、 失対労働者、 街頭分子まで、 それこそ根こそぎである。 そして、 それは繰り返され、 ほとんど完全に活動分子はごう問と長い拘留生活ののちに街頭にほうり出された。
 その後も、 アジトをもって困難な再建活動はつづけられたが、 党の組織のない状態で、 中央組織からの連絡も切れ、 しだいに組織性を失っていった。
 どういう形にしろ左翼的な運動はきわめて困難においこまれていた。 しかし、 そういう状態がつづくうちに、 再び文学、 映画、 演劇などの愛好者たちと新しい接触がはじまった。
西之端の時宝堂という時計屋の前の食い物屋ばかりの露路に 「ゆかり」 という喫茶店があって、 (ここの経営者は水道局の長岡与之助氏であった) ここにみんな集まるようになった。 壊滅後の貯金局の木本太郎、 寿館の松浦修、 西郵便局の三輪秀槌、 関門毎夕新聞の桑野潜二などがいた。 長岡重助と私は、 こういう仲間といっしょに雑誌を発行しようという計画を立てた。
 当時は、 新聞にしろ雑誌にしろ時局問題を扱う場合には、 2百円くらいの供託金を納めねばならないことになっていて、 われわれ貧乏青年には、 絶対に時局問題に口をはさむことはできない仕組みになっていた。 2百円といえば、 まず半年以上は夫婦で食える金額で、 私がのちに新聞社で働くようになったときの初任給が25円であったことをみても見当がつこうというものである。
 だから、 内容は文学雑誌、 しいていえば文化雑誌というところでゆこうということになった。 同時にそれは、 左翼青年を公然と結集していくセンター的役割を果すことを基本任務とするものであった。 当時の弾圧後の厳重な監視のもとでは、 それは技術的にはなかなか困難をともなうものであった。
 雑誌の名称は 『展望』 と決めた。 これは私の発案であったと思う。 発行所は私の家にした。 私は当時本町8丁目の登り坂のかかりのところにいた。 ここに展望社の看板を上げた。
 印刷所は、 長岡重助の友人の竹崎の吉井印刷所に頼むことになった。 私たちは、 当時、 東京から出ている雑誌の活字が9ポであったから、 私たちもその活字を使いたかったが、 そのころ下関には9ポの活字をもっている印刷所はなかった。 また、 この周辺の印刷所では、 そういう雑誌などが刷れるほどの設備のある印刷所というものがなかった。 それほど、 言論出版というものが、 地方では発達していなかったわけであるし、 またそれを切望する貧乏青年には手のとどかないものであった。 吉井印刷所は、 別に、 活字をそろえているわけではなかった。 これは、 長岡重助に頼みこまれて、 吉井という印刷所主が好人物であったから、 6号活字をかなり無理をして、 われわれの雑誌のために買いこんでくれたものである。 世の中はずい分不景気のときで 「このごろは重病人がおると、 この辺でも死なん前から葬儀屋がうろうろするんどな」 といって、 吉井の主人が苦笑して私に語ったのを憶えていることからみても、 露路裏のこの小さな人手の少ない印刷所には、 ずい分迷惑をかけたことになったと思う。
  『展望』 創刊号の発行は、 昭和8年11月1日である、 11月に創刊されるまでの基本情勢については、 前号に書いたが、 昭和7年の秋から昭和8年の春にかけての思想弾圧からの立ち直りに、 それくらいの時がたってしまったのである。
 編集後記によると、 「予定の倍に近い増頁に伴う再編集、 経費の超過、 印刷能力の不足など、 一連の悪コンディションにたたられて、 発刊月余の遅延は云々」 とある。 してみると、 おそらく計画は9月ころにはじまり、 10月中旬には出そうということであったろう。
 長岡重助にいわせると、 ある日、 西之端の 「くるみ」 という喫茶店で長岡重助と私が、
  「とに角、 雑誌を出さねばならん」
  「それはそうだが、 金はない」
  「金があってもないでも、 やらねばならん」
 という会話をかわして、 とも角めくら滅法に出す、 ということに2人の間で話がきまり、 それから工作がはじまったようである。
 その頃、 本町8丁目で、 長岡重助と私は、 看板屋をやっていた。 看板屋とはいうものの、 昼から夜にかけてあっちこっちと知りあいの間を歩いてまわったりすることが多くて、 とくに夜はさまざまな仲間との会合に時間がとられて、 実際の仕事は真夜中にやるということが多かった。


●張学良兵変の歴史性  (1936年12月17日〜23日、門司新報連載)
(一部掲載)
 支那人民戦線派の勝利今や必至
 ときが経過するにしたがって、学良の要求条項は全支的に拡大しはじめた。これは必然的な趨勢であり、これを引きとめることはいかなる力といえどもできないのである。これをもし引きとめる力がありとすれば、歴史の歯車を後へ引き戻す反動力にしかすぎない。そしてそのような反動的な力が、人類の歴史をつうじて、かつて勝利を貫徹したことはないのである。すなわち、最初からのべたように、学良のクーデターは、一張学良の「思いつき」でもなければ、かれの政権獲得の手段でもなく、現在の支那に生起し澎湃として全支をおおいつつある人民戦線の勢力が、学良という1人の男によって、中央政権との対立を具体化したものであり、したがってこれは下からの叫びであり、力である。かりに学良がこのような兵変を起こさなかったら、と人はいうかもしれない、が、かりに学良が兵変を起こさないとしても、蒋介石を代表とする中央政権は内部からすでに崩壊しはじめていたのである。学良の蜂起はこの内部崩壊を早めることになったにすぎない。澎湃たる人民戦線の波は、蒋介石のいかなる弾圧にも、いかなる仮装的統一にもかかわらず、窮極において反蒋的であり、反中央政権的である。このようなたとえが許されるなれば、徳川幕府の崩壊はその封建制度の内部的崩壊であり、徳川政府いかに反封建的なものを弾圧したところでいかにもなりがたく、つぎからつぎへと崩れ、ついに勤王派の蜂起によって、完全に覆されてしまった、そのようなものであるともいえよう。これは歴史の流れであり、時代の推移であり、これを後へ引き戻すことはできないのである。勤王派のだれとだれが武力的に強かったからとか、佐幕派のだれだれが弱かったから、というような偶然論的な問題ではないことは周知の事実である。したがって登場人物の力とか、その他いろいろな偶然的な理由がもっと違った形であらわれたら、倒幕の時日は少しばかり前後したかもしれないが、けっしてそれは3代将軍や4代将軍あたりではけっしておこなわれなかったであろうと同時に同様、明治末期まで遷延するようなこともありえないのである。学良兵変を明治維新に比敵することはたぶんに語弊を招く恐れがあるが、そのような歴史的流れとして、ここに列挙したにすぎないのである。
 学良が強力であるか、用兵が上手であるか、ということはこの兵変の運命のうえに重大なる関連を持つであろう。しかしただそれのみによって事態を認識することはできないと同時に、以上になんらの関係を持つことなく、蒋介石および中央政権が崩壊することは時日の問題であり、否定できない事実なのである。かりに学良がまったく敗北をきっすることがあっても、かならず第2第3の学良によって中央政権は倒されるのである。現段階の支那はまさにそのような地点に立っているのであり、ここにこそ学良兵変の不可避的な歴史的事大性が横たわっているのである。
 人は支那という国は理解できぬわけの分からぬ国である、というが、それは支那をまったく知らないことを証明するにすぎない。支那といえども日本と同様に世界の1つの環として歴史とともに流れ、時代とともに変遷することに変わりはない。ただそれぞれの国の経済的歴史的特殊性によって、どのような相貌をもっているかの相違にしかすぎないのである。
 
 しばしばわたしののべ来たった学良の歴史的本質性は、ときとともに混沌たる時局のなかに姿を押し出しつつある。人民戦線の波濤は、学良の兵変を一学良の兵変に終始させるわけはないのである。第3章でも書いた廣西派の学良支持、中央政府反対の声明をはじめとして、15日には上海の学生救国会もまた、
 学良討伐絶対反対
 政府の改組断行
 対日即時開戦
 容共連ソ政策の実行
等等学良の主張と軌を1つにした決議をしたし、全国救国会においても同じく大会を開いて同様の決議をなした。そしてこれらが、積極的に学良支持運動のなかにみずからを投じている。その他上海、北平の支那の二大文化の中心地においてこれと同様の運動が積極化し、学生インテリの指導的層がほとんど全市人民戦線の旗幟を鮮明にし起ち上がりつつあるのである。支那インテリゲンチャが学良側につくということは、ただたんに反中央であるがゆえではなく、学良とイデオロギーを1つにするにほかならない。そしてこれらの指導層が学良支持、反中央であることは、中央の運命をいよいよもって明らかにするのである。しかも肝心の中央は2つの対立によって、その対立は分裂の危機に直面している。中央の内部にすら蒋介石一派の現状維持派と孫科、馮玉一派の人民戦線派が、ときの推移とともにその対立を深めつつある。何応欽を現在の代表とする蒋介石直系は、宿命的に学良討伐を急ぎつつあるが、討伐が積極化した日には、必然的に孫科、馮玉らの人民戦線派の巨頭連がその旗幟を鮮明にし学良側に立つことは必至である。その他閻錫山、廣西派の活動が積極化すれば、現在の中央の力は、民衆の支持なき無力を、現実にまざまざと見せつけられるであろう。民衆の支持なき政権はいかなる時代、いかなる国においても健全でなく崩壊の運命を持つものである。
 事態が急速なる回転をはじめると同時に、すべての中間的介在は許されなくなる。全世界の各国が対立の摩擦とともに、おのれの進むべき運命に向かって急ぎ、赤か?黒か?の2つの陣営に積極的に参加しつつあるように、一支那の国内においてもこれの例外であることなく、2つの戦線に積極的に移行するのである。そして現在の支那の経済的政治的必然性において、わたしは人民戦線派が勝利を得ると考えるのである。
 わたし自身は蒋介石、何応欽については新聞紙上に発表された経歴以上に知らない。同様に張学良についてはそれ以上に知らない。が、歴史は個人によって動向するものではない。1つの国家の流れは、その国の内包する諸矛盾の対立と相剋によって、1つの必然の道を歩むものである限り、支那人民戦線の勝利を否定することはできないのである。ここに学良の妥協案を中央が容れると容れないにかかわらず、また中央が討伐を最後までつづけるかあるいは学良と妥協するかに関係なく、学良をふくめての人民戦線派で勝利を占めることを予想する理由があるのである。
 

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