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転換点迎えた上関原発斗争
全県全国団結で国策を破る
                  豊北斗争に勝利の路線       2007年7月25日付

 中国電力の上関原発計画は公表から25年になる。豊北原発計画が打ち負かされ、上関に移した計画であるが、今、大きな転換点を迎えている。東京電力の柏崎刈羽原発は大地震によってぶっ壊れ、あわや日本壊滅の危機にさらした。地震だけではなく、ミサイルによる爆破すら現実問題になろうとしている。上関町では原発という国策が町をさんざんにつぶすものであったことが明らかになっている。このようななかで、町内の推進派勢力で踊るものはすっかりいなくなった。同時に、反対派の看板を掛けてきた議員など幹部集団もすっかり信頼をなくして瓦解状態にある。反対派の拠点である祝島では、山戸貞夫氏が漁協組合長を解任され、漁民の1部が推進派に転じる動きがあらわれている。しかし幹部が崩れたからといって住民の反対の力が崩れたわけではない。上関原発をめぐる情勢と勝利の展望について考えてみたい。

 鋭い問題意識が渦巻く祝島
 上関では9月に町長選を迎える。推進派の側は柏原氏が立候補を表明したが、選挙は2カ月後と近づいているのに「反対派」からは候補者の声も出ない状態が続いている。この間、推進派が力をなくし、町民の原発離れが加速してきたが、推進派と一緒に「反対派」幹部の裏切りも顕著となり、瓦解しているのだ。
 上関町内では25年にわたる経験をして、町民世論は様変わりしてきた。原発騒動が続いてきた間に人口は半減し、農業も漁業も商工業も成り立たなくなった。はじめ推進は「地域振興」のかけ声で商工業者が旗をふった。しかし、原発によって振興したのは推進派、反対派を問わず町長や議員ら一部のボス連中だけであった。町民は「推進派、反対派」で争わされ深刻な傷跡が残されてきたが、争わせた幹部はまるきり仲良し関係であったことが、暴露されるところとなった。「なんとか原発を終わらせ、町を中電から取り戻したい」との思いは全町で渦巻くところとなっている。
 反対運動の拠点となってきた祝島は運動の転機になっている。祝島では、漁協が県漁協に吸収され、県漁協が直接に管理する関係となっている。「祝島は推進になった」ともいわれてきた。しかし、住民の反対は崩れてはおらず、推進派に転じたのは漁民の一部で少数派である。原発の出稼ぎなどに出た経験を持って、はじめに反対の声を上げた農民をはじめ、長期のデモなどの行動をしてきた婦人、住民が推進に転じる理由はない。
島民のなかでは、これまでの運動を振り返って、どうして反対運動が衰退してきたのか、どうすれば勝てるのかが鋭い問題意識になっている。「25年がんばってきて、今さらしょうがないではすまされない」とどこでも語られる。そして「原発を推進したのは国であり県だった。国策でなければ中電だけではできないことだった」「しかし平井知事がきたとき(92、93年)、県に頼めばなんとかなると思って、行列をつくって歓迎した」「県の部長が神舞(祝島伝統の祭り)にもきて歓待した」「今考えたら悔しい」など語られている。
 また島のなかで「はじめの時期から、あいつは推進派だといって攻撃をしたが、一緒に反対しようといって団結しなかったことが間違いだった」「長島側もみな推進派のように思って銭ボイトになるなといって回ったが、一緒に反対するようにしなければならなかった」「みんなの団結が力なのに、そうでなかった」などが語られている。

 「原発やめろ」圧倒 推進で突っ走るブッシュ・日本も世界も
 原発は全国的、世界的に見て大きな転機にある。アメリカは70年代のスリーマイル島原発事故以後新規の原発立地がなかったが、ブッシュ政府は原発推進の号令をかけている。東芝がアメリカの原子力メーカー・ウェスチングハウスを買収し、中国やアジアなど世界的な原発建設に乗り出そうとしている。他方でチェルノブイリ事故の影響を受けて、ドイツは脱原発を進めている。日米の原子力メーカーとブッシュ政府は原発推進で突っ走ろうというが、他方で日本でも世界でも「原発はやめろ」がますます圧倒している。
 7年前には東海村の臨界事故が起き、作業員2人が死亡した。そのほかがどうなったかは隠して発表しない。そして新潟県の中越沖地震で、東京電力の柏崎刈羽原発がぶっ壊れた。チェルノブイリとくらべて数10倍、広島原爆の数万倍の放射能をかかえる世界最大の原発が、あわや大爆発の危機を招いた。それは日本国土の壊滅を意味する。こんな原発をなおも稼働させるというのは国賊のやることである。
 日本は地震の活動期に入っているといわれ、大地震が連続している。マグニチュード6・5以上の地震はないという想定でつくられている原発が、想定以上の地震に見舞われて、壊れるのは当たり前なのだ。柏崎刈羽原発では、3号機から火災が発生したが、消火体制はなく、2時間近く燃え続けた。また、使用済み核燃料貯蔵プールの放射能を含む水が海に放出されたり、排気筒から放射性物質が大気中に出るなどした。原発敷地内は、いたるところで地盤沈下が起こり、原子炉本体、外側のパイプ類などどれほど壊れたかわからない。
 中部電力の浜岡原発は東海地震の巣の上に立っており、もっとも危険とされているが、日本中の原発立地点すべてが地震の危険性があると専門家はいっている。上関原発も地震の重要監視地域のなかにある。これをあえて稼働させ、新設するというのは、国土壊滅を辞さないというもので、まさに日本社会をぶっつぶす亡国と売国政治の象徴といわなければならない。

 日本舞台の核戦争想定
 さらに大きな問題は、国民保護計画といって核ミサイル攻撃を想定した避難訓練を全国市町村にやらせていることである。日本を戦場にした核戦争を政府は想定しているのだ。原発は攻撃対象として米軍基地につぐ要防衛拠点とされており、真先にミサイル攻撃の標的にされているという問題である。すでにニューヨークテロ事件以後、日本各地の原発沖には巡視船が常時配備されて監視活動に入っている。アメリカの戦争のために自衛隊を参戦させるとともに、アメリカの核戦争の防波堤に日本をするという狂気じみた政治をやっているのである。
 とりわけ上関に隣接する岩国基地が、厚木基地の空母艦載機を移転させ、また空母も接岸できる軍港にして、核攻撃基地として大増強しようとしている。上関に原発ができるなら基地機能を麻痺させる絶好の標的となるのは明らかである。
 さらに国策として原発を持ち込まれた上関は、農漁業をつぶし、地方生活ができないようにする政治の典型であったことを示している。全国的にも山口県的にも、市町村が合併されてたちまちにして町がなくなり、農協も漁協も郵便局もなくなり、学校は統廃合、若者も子どもも住めなくさせて、病院も店屋もなくなり、年寄りだけが難民のように取り残され、集落が消滅するという問題が広がっている。人が住めなくなる無人島化政策というのは、上関だけではなく全国的な問題である。
 日立や東芝や三菱などが、「国策」として原発を推進するという実態は、国民はどうなろうと独占大企業だけが儲ければ勝ちというものである。食品もインチキ、自動車も欠陥、鉄道は大事故、ホリエモンや村上ファンドは詐欺商法で、原発は最大の欠陥商品である。
 「稼働しているすべての原発を停止させよ」の世論が沸騰しはじめているなかで、新規の原発を建設するなど気違い沙汰である。それは祝島一島、上関一町だけの問題ではなく、全県、全国の根本的利益である。

 展望示す豊北路線 上関原発阻止へ・全県全国の問題
 上関原発をやめさせる運動の再編が大きな問題となっている。これは祝島、上関町だけの運動の問題ではない。上関原発は国策として中電が進めるものであり、それは全県、全国の人民の問題である。
 山口県では上関原発に先立って、豊北原発計画があり、現地豊北町をはじめ全県、全国団結のたたかいとなってものの見事にうち負かした勝利の経験がある。上関原発に反対する運動の指導路線として当初から、この豊北型の勝利の路線と対立するものが持ち込まれた。それが反対派の内部に中電が背後からしくんだものであり、長期に尾を引くこととなった。反対のふりをして運動を内部から破壊することで、中電の下働きをしてきたインチキ潮流が、あるいは公然と推進派の看板にかえ、看板は反対派でもペンキがはげた状態になっている根拠である。
 上関原発計画が公然化したのは1982年であった。その4年前の78年、山口県では中国電力が国、県、自民党など権力、金力を総動員して推進した豊北原発建設計画を、現地豊北町の漁民を先頭に、全町、全県人民の団結で、完ぷなきまでにうち破った。それは、国策を打ち破った偉大な人民勝利であった。
 豊北でうち負かされた中電、国、県が、上関に乗り込むにあたり最大に重視した点は、反対運動を内部からつぶす仕掛けを施すことであった。真先に反対に立ち上がったのは、祝島島民であった。祝島島民の行動は純粋であり、戦斗的であった。しかし奮斗すればするほど、それと反対に全町、周辺の反対運動がつぶれていく結果となった。
 祝島のなかで、9割は反対派だといわれ、推進派は1割といわれていた。豊北町ではこれを聞いて、「どうしてみんなを反対派にしないのか。できるはずだ」といわれていた。祝島では反対運動に賛成しない、もしくは考えさせてくれという人たちに、やみくもに「推進派」のレッテルを張り、デモで攻撃をした。全町では「親兄弟の葬式にも行けない祝島のようになってはいけない」との世論となり、全町が一緒にやれないためらいとなり、推進派においやる要素となった。団結できるすべての人が団結できるようにするというのでなく、持ち込まれた路線は分裂主義だったのだ。
 そして上関原発は中電だけが推進しているのではなく、直接の代理人として自民党吹田代議士が先頭に立って、平井県政が国策としてバックアップしたものだった。祝島では、それらの推進派の親玉よりも、島の中の推進派こそ憎いという要素があおられた。それは90年代平井元知事が祝島を何度も籠絡のために訪れたが、それを反対派の仲間であるかのように歓迎したことにつながっていった。
 原発をめぐって敵は誰か、友は誰かという問題について、指導路線の側からねじ曲げがあったのだ。そして団結すべき人人と争い、たたかうべき敵に幻想を持つという指導路線があった。それでは勝利することはできない。
 豊北では、はじめは漁民の生活問題としてあらわれた。しかしそれだけではおわらなかった。原発は漁民など直接の権利者だけの問題、現地の住民の生活の問題と限定させるならば、それでは「国のため」とこられたときにたたかえない。それは日本中に高速道路ができ、新幹線ができたことでも証明されている。原発は環境破壊問題だけでなく、軍事利用・核武装の問題であり、さらに全産業的な合理化のてこでもある。したがって現地の漁民の問題だけではなく、国策に反対する全県、全国の人民の重大問題だとなっていった。
 全県勢力のなかでは、単なる現地の応援団になってはならず、自分たちの問題であり、全県の自分たちの持ち場でたたかわなければならないということが大論議された。そして現地に隣接する下関で全県民的な原発反対集会をやり、豊北原発阻止山口県共斗会議を結成した。平井知事が「機は熟した」といって環境調査に乗り出そうとした際には、山口市職労が原発・減反・合理化反対のストライキを打った。「現地でないものが本気でたたかう」ということが、現地の漁民のたたかいが自分たちだけの問題ではなく、原発に反対することは全県的全国的な利益なのだという確信を深めさせた。
 この全県のたたかう戦線が崩れていたのが、上関斗争に際しての大きな変化でもあった。上関斗争では、自分たちの持ち場で自分たちの課題としてたたかうのでなく、祝島にいってほめそやし、酒、魚の接待を受ける応援団に堕落していた。

 大衆みずからが主人公
 豊北町では原発反対に勝利させた英雄は、誰かの幹部ではなく、町民自身となった。それまでの生活では、こういう政治の問題は万事幹部に任せてということになっていた。しかし原発問題ではそういうわけにはいかなかった。大衆自らが主人公になり、敵と味方の動きを不断に見極めながら、団結できるすべてのものを団結させ、一握りの敵を孤立させてたたかうという努力がされていった。
 極めつきは78年の豊北町長選である。その後祝島をほめ殺しにしようとした1部の「ハイカラ派」は当時、「藤井町長候補は自民党安倍派だから支持してはだまされる」と主張した。町民はおかまいなしであった。町民が下からたたかう態勢をとっていたら、自民党であろうと何であろうと町民のいうことを聞くということを確信していた。そしてその通りになった。祝島、上関の反対派の場合、それとは様相が違った。反対運動も幹部次第という流れが長くつづいた。そして幹部が推進派に取り込まれていった。大衆が縛り付けていなければ、どんな幹部も議員などになったら取り込まれるのだ。議会第一主義ではダメで、大衆運動が主導で議会も動かすというのでなければならないのだ。
 原発問題をめぐる上関町は、25年をへて、明らかな転換点にきている。国策とたたかって原発をやめさせる力は全県的にも全国的にも圧倒的に強まっている。岩国の市民は米軍基地増強に対して、「米軍が日本を守るわけがない」との確信に立って、安倍首相が先頭に立った理不尽な攻撃をものともせず、何度選挙をしても圧勝している。広島では、久間発言に代表される自民党政府が、日本をアメリカの核戦争の盾にする売国政治に、とりわけ岩国を中心に広島湾岸一帯を原水爆戦争の大拠点にする屈辱に怒りが沸騰している。そして上関原発阻止の強い思いを抱いている。全県的に市町村合併などでさんざんに地方生活を破壊する政治に尋常でない怒りがある。そしてそれらの全県、全国の人人が、上関原発に反対して農漁業を守り地方生活を守る上関町民のたたかいを支持し期待している。孤立しているのは推進派であり、全国的には絶滅危惧種といってよい。
 上関町内で中電と国、県がつくってきた推進派と反対派の政治構造は崩壊し、大きな転換点を迎えている。反対派の指導部は崩壊したが、幹部が崩壊したので町民の反対が崩れたのではない。豊北型の勝利の路線での再編が進むなら、豊北につづく勝利への転換点となる。

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