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力ある原水禁運動を発信
2007年原水爆禁止広島集会
           広島から全国・世界結ぶ   2007年8月7日付

  広島市民や全国から訪れた人人の共感を呼んだ原水爆禁止広島集会のデモ行進(六日、広島)

 原爆を投げつけられた広島・長崎市民の怒りを代表し、アメリカに核廃絶を迫る2007年原水爆禁止広島集会(原水爆禁止全国実行委員会)が6日午後1時から、広島市中区のアステールプラザでおこなわれた。広島市内ではまちづくり市民交流プラザでの「原爆と戦争展」、平和公園でのキャラバン隊展示とともに、1カ月間にわたる原水禁全国実行委員会による署名・宣伝行動が取り組まれ、今月からは「日本を米国本土防衛の核戦争の盾にさせるな」の宣伝カーによる訴えが響き渡り、広島市民、さらには広島を訪れた全国・全世界の人人の行動意欲を喚起してきた。集会には広島や長崎、下関など全国の被爆者、戦地、空襲体験者とそれを受け継ぐ若い世代、米軍基地撤去のたたかいをくり広げてきた岩国、沖縄の参加者、全国で原水禁運動を担ってきた人人、小中高生、飛び入りの市民、海外からの参加者もふくめて、500人が参集。原水爆戦争を阻止する広大な基盤をもった力ある平和運動再建の起点として、広島の地から全世界へ発信するものとなった。【特集】
 集会は原爆投下で亡くなった人人に黙祷をささげた後、川村なおみ事務局長が集会の基調報告【次号別掲】を提案した。「原水爆の製造・貯蔵・使用を禁止し、原水爆戦争をおしとどめる運動をこの広島から力強く発信することは、過去のどのときにもまして重要になっている」「平和運動を全世界に力強く発信しよう」と呼びかけた。
 その後広島、長崎、下関の被爆者が意見発表をおこなった。
 原爆展を成功させる広島の会の高橋匡氏は原爆で殺された先輩、同僚を助けられなかった悔しさとともに、アメリカが「原爆は戦争を早く終わらせるためだった」などと叫び、先制攻撃のための核開発を進めていることに怒りを表明。「日本の国土と国民がアメリカのための戦争に動員されようとしている今若者たちのエネルギーで岸総理を退陣に追い込んだように原水爆禁止、戦争反対、そして憲法九条改悪反対に立ち上がってほしい」「私たち体験者は生ある限り語り続けることを誓う」と力強く語った。
 原爆展を成功させる長崎の会の被爆者・青山照弘氏は長崎「原爆と戦争展」の大成功を報告し「若い人が原爆と戦争展をみて受け継いでほしい」とのべた。恒常的な運動を発展させるため長崎の会を発足させたことにふれ、下関や広島と協力し「いまからもがんばりたい」と決意をのべた。
 全国へ原爆展運動を発信してきた下関からは、原爆被害者の会を代表し大松妙子氏が発言した。2人の妹を広島で殺された痛恨の経験を語り、戦争の愚かさを断罪した。さらに原爆と戦争展のなかで空襲体験、戦地での体験を聞き戦争体験者はみな同じ思いだと知り、いっそう力をこめて学校を訪問し被爆体験を語っている。その矢先に起きた久間発言に怒りを表し「子どもを思う親の心がわからない安倍総理もこのさいやめてほしい」とのべた。
 つづいて長崎からかけつけた戦地体験者・島川秀男氏が発言。20歳のときに南方に派遣され、無惨に殺された戦友を目の当たりにした体験を語り「戦争で殺された犠牲のうえに今がある。地球がある限り平和でがんばろう」とあふれる思いをのべた。
 ここで海外からメッセージが届いていることが紹介された。
 つぎに前日から平和公園などで広島や長崎の被爆体験を学んできた、小中高生平和の旅の子どもたちが登壇した。この日のために、山口県や福岡県の各地で街頭カンパや署名をとりくみ、101人の団を組んで広島へきた。旅の成果を構成詩で報告した。「原爆のことを学ぶなかで今が戦争に近づいているし昔話ではないと実感した。被爆者の思いを伝えていきたい」とのべる、仲間とともに成長してきた姿に会場から大きな拍手が送られた。
 その後、原爆展全国キャラバン隊の富田浩史氏が、全国44地域で100回以上おこなってきた街頭原爆展の反響を報告。現役世代から「はじめて戦争の全貌を知った」との行動意欲が噴出していること、広島平和公園での原爆展では外国人が真剣に見入り35カ国からアンケートが寄せられたことを報告した。

 基地撤去斗争とも団結 沖縄や岩国から
 沖縄の野原郁美氏は、米軍の機銃掃射で肉親を殺された沖縄戦体験者とともに参加したことを紹介。先月開いた那覇「原爆と戦争展」で「沖縄戦とはなんだったか」が大論議となったことにふれ、これまで沖縄でふりまかれてきた「日本軍悪玉」論の定説でなく、米軍は沖縄を極東最大の基地にするために「鉄の暴風」と呼ばれる大殺りくをしたという認識を鮮明にすることで、沖縄戦体験者の真実の思いが引き出され「沖縄戦も原爆も戦争終結には必要なかった」との団結を促したと語った。「全県・全国で原爆と戦争展をやりまくり、戦争反対の強大な力をつくろう」とのべた。
 岩国から参加した佐々木仁氏は、米軍再編の住民説明会で「アメリカのために殺された」「安保も基地もいらん」と積年の怒りが噴出したことを報告し「岩国、広島湾一帯を核戦争の先制攻撃基地にし、日本がアメリカの原水爆戦争の盾になっていくことを阻止し、原水爆禁止の力ある運動を強く求めている。これにこたえていく」とのべた。
 ここで劇団はぐるま座団員が登壇し、原爆詩人峠三吉の詩『その日はいつか(抜粋)』を心を込めて朗読した。

 行動へ踏出す現役世代 学生や労働者も
 その後、原水禁運動を担う現役世代の意見発表に移った。
 愛知県内で100カ所を超す地域で原爆展運動を地道に展開してきた愛知県原爆展を成功させる会の矢神繁氏は取り組みの教訓をのべた。「広島、長崎の被爆者の立場にたって米国の原爆投下の犯罪を明らかにしてきたが、それは原水禁運動の原点に立つことだ。戦前は暗く、戦後は明るくなったという戦後世代の一面的な見方もあり、アメリカの戦後日本支配があいまいにされてきた。峠の原爆展パネルは広範な日本人民の歴史的経験に基づいた根拠をもつものであるからこそ、保守か革新かという政治的色分けを超え全国的反響を呼んだ」と語り「日本人民の経験に足場をおき原爆展運動をおし進めていく」と決意をのべた。
 広島の自治体労働者・宇田浩規氏は、職場で被爆体験を学ぶ平和学習会が深い共感を呼んだことにふれた。「多くの者が貧困政治と戦争政治が表裏一体のものであることを感じ取り、労働者同士が広く連帯するとともに、もっと大衆のなかに入り大衆と結びついていく必要性を感じながら、具体的にどう実現していくか模索している。いまこそ広島・山口から全国・全世界へ広がっていった50年8・6平和運動や安保斗争などを学び、受け継ぐことで労働運動の新たな展望を見いだす必要がある」とのべた。「広島の労働者として、常に1歩前にでる勇気をもって平和な未来のために生涯奮斗する」とのべると期待の拍手が起こった。
 山口県の小学校教師・竹垣真理子氏は平和学習を取り組んだ経験にふれ「子どもたちに襲いかかる戦争の危機にたいし、何をなすべきか突きつけられた。被爆体験を聞いた子どもたちは真実を知ることを求めている」と発言。「被爆者は子どもたちを自分たちと同じ目にあわせようとすることへの深い憤りと愛情に貫かれている。ここに教師が立たなければたたかえない。学校のなかでウソを教えてきたのは深刻な問題」と語り、「真実を武器に戦争反対を第一義に掲げて、地域・校区の父母と結びつき奮斗していきたい」とのべた。
 つづいて青年・学生を代表して昨年の広大原爆展から運動に参加した広島大学の学生・佐々木惇氏が発言。「原爆・戦争体験者の平和への強い思いを次の世代が引き継ぎ、いつの日か実を結ぶことができるように今できることをやろう。今から平和を築いていけるかどうかは私たちの責任であるということを忘れずに行動していきたい」とのべた。
 最後に広島・長崎での原爆展運動に携わってきた山口県の青年・岡本太一氏が登壇。原爆展で行動を求める学生や青年、現役世代が続続と登場していることを報告し、多くの青年を結集し被爆者や戦争体験者とともに運動を起こすために奮斗する決意をのべた。
 会場からはオーストラリアから参加した男性が発言。「被爆体験や原爆の被害について本当のことを知ることができると思ってきた。皆さんとがんばりたい」と語った。
 その後、集会アピールが読み上げられ、基調報告、スローガンが満場の拍手で採択された。
 デモ行進では、小中高生平和の旅の子どもたちを先頭に峠三吉の詩を群読しながら、80代を超す戦争体験者までが道行く市民に訴えた。沿道からは元気のよいデモ隊に共感を示す市民の姿が目だった。

 被爆者の発言
 生ある限り語り続ける 広島・高橋 匡
 あの日から62年、今年も5000人を超す被爆者の戦没者名簿が慰霊碑に納められると聞く。はたして安穏な死であったのだろうか。
 地獄を見た修羅場であった。手立てが見つからず見殺しにした先輩・同僚の数を知らず、どうにか連れ出したものの業火に逃げ道をふさがれ、僅かな水を分け合いながら励まし合ったものの最後まで命を守りきってあげられず死なしてしまったことの悔しさ。かろうじて生き残った者も得体の知れない疾病により脱毛、発熱、斑点、出血と苦しんだ末数日で次次と逝ってしまった。放射能により62年経った今でも、もがき苦しんでいる被爆者は数多く存在している。昔話ではないのだ。
 今、世界には数知れない核爆弾が保有されているという。しかもその威力は、広島型原爆の200倍といわれ、使用された場合の被害を考えると、背筋の凍る思いである。とくにアメリカは核をなくすどころか、いつでも使える新型核爆弾を開発し、核による先制攻撃こそ生き残る手段だと放言。普通の生活をしていた無辜(こ)の老人、婦人、子どもを無差別に多数を殺りくしたことについての謝罪はいまもっておこなっていない。それどころか、原爆は戦争の早期終結のためだったといい続けている。
 日本においても国政にあたる閣僚が原爆の所有について発言したり、「原爆を落とされたのはしょうがない」など国民の感情を逆撫でするような行為が目立つが、原爆の残忍性、非人道的な武器であることについてなにも知らない輩であることが悲しい。そんな輩に国政を委ねていることの虚しさを覚える。
 今政府は防衛庁を防衛省に、自衛隊の海外活動を本来任務とした。さらに憲法改正に道を開く国民投票法を強行採決、戦争のできる国にしようと企んでいるとしか思えない。
 若い人たちにお願いしたい。日本の国土と国民がアメリカのための戦争に動員されようとしている今、原水爆禁止、戦争反対、そして世界遺産にも匹敵する憲法第九条の改悪反対に立ち上がって欲しい。岸信介総理が憲法改正に言及したとき、安保斗争の力、若者のエネルギーで退陣に追い込んだように若者の力に期待すること大である。そして戦争体験・被爆体験を次世代に引き継ぐために、私たち体験者は、生ある限り語り続けることを誓います。

 長崎でも運動を起こす 長崎・青山照弘
 長崎では6月10日から17日までの8日間、現在広島でやられている原爆と戦争展を開催した。8日間長崎の代表として、下関と広島の原爆展を成功させる会の人たちと取り組んで私が1番感じたことは、下関の人たちが毎日交代で長崎に来られるのに対して、長崎はもっとしっかりしなければいけないということだった。
 累計8日間で2300人の参観者があったが、これは下関、広島、長崎で手を合わせてやったからだと思う。今回の展示には若い層の小中高校生、大学生が多数来られた。私は長崎としては大成功だったと思う。若い世代に伝えるためにはこういう展示を見てもらい、われわれの後を継いでいただきたいと思う。
 長崎は今回の原爆と戦争展を契機に会をつくることになり、7月21日に長崎の会を結成した。現在永田会長をはじめ16人の会員がいるが、下関や広島の会の方の援助をもらいながら、今後の展示については長崎の会として一生懸命取り組んでいきたいと思う。

 偽りのない真実伝える 下関・大松妙子
 広島の原爆展にはじめて出席させていただき、たくさんの資料や体験集が展示されて、広島の方たちが真剣に取り組んでおられることに感動しました。若い人たちがたくさん来場されていることも嬉しく思いました。再度日本が原水爆戦争の場にならないために展示を見ていただき、偽りのない真実をしっかりと受けとめて、平和な日本に築いていただく事を願うのみです。
 私は広島で原爆にあい、2人の大切な妹を失いました。女学校の3年生と1年生でした。3年生の妹はドームのそばにあった郵便局に挺身隊として勤めていました。炎天の中、親は捜し歩き、3日目に本川小学校の瓦礫の中、むしろの上で横になっていたとの事で、顔もきれいで無傷だったので安心して姉と私に頼み、ふたたび1年生の妹を捜しに炎天下を出ていきました。5日目に全身火傷で宇品におりました。足の肉はえぐりとられ、青カビがはえ、ハエが卵を産んでウジとなり、身をチクチクとさして、生き地獄とはまさにこのことかと思いました。
 上の妹は6日目ごろから髪に手櫛を入れると束になって抜け2人で泣きました。間もなくして、「気分が悪いから洗面器がほしい」との事で渡しましたら、牛のレバーと同じ赤黒い血の塊が喉に詰まるので手で引っ張り出し、洗面器がいっぱいになり、驚いて先生を呼びに行くと、見習いの大学生は「先生(軍医)はいない」と逃げられ、被爆者は死を待つばかりでした。
 被爆者の会に入らなかったら、何も知らないままです。戦争の愚かさ、核の恐怖、62年過ぎた現在でも原爆症におびえております。この恐怖は広島、長崎の被爆者しかわかりません。3年前より下関原爆被害者の会は、原爆展とともに下関空襲展を開催してきました。空襲・戦争体験者と手を合わせ、全国各地で続いた展示も1つ1つ成功しております。空襲、戦地での苦難の体験を聞かせていただき、2度と戦争のない、平和のためにたたかう皆さんの願いが共通で、本当に良かったと思いました。
 学校からの依頼があれば、今からの日本を担う大事な子どもさんたちに、平和の大切さ、戦争の愚かさを一生懸命話しておりました。そうしたなかで久間前防衛大臣の失言がありました。被爆者として許す事はできません。親の七光りで苦労なしのボン。子どもがいない、親として子どもを思う気持ちがわかっていない安倍総理にもこの際、辞めてほしいです。

 沖縄、岩国の米軍基地反対
 第二次大戦、沖縄戦の真実が怒りを束ねる力に 沖縄県・野原郁美
 沖縄戦を生き抜いてこられた大城静江さんといっしょに沖縄から参加している。まず大城さんの戦争体験に触れさせてください。彼女は昭和19年4月、12歳で晴れて県立第一高等女学校に入学。しかしその10月には米軍による本格的な空襲があり、毎日、高射砲陣地づくりに動員されていた。
 4月1日、米軍が大挙、上陸を開始した。「米兵に捕まったら殺される」と恐怖に駆り立てられ、着の身着のままで夢中で南の方に逃げた。たどり着いた場所には疲れ果てた避難民が大勢、ぎゅうぎゅう詰めに集まっていた。そこに戦斗機が3機機銃掃射の態勢で来襲。大城さんはとっさに「機銃、機銃!」と叫びながら石垣に身を寄せ、耳を塞いでうずくまった。パラ、パラ、パラッと弾が飛び散る。戦斗機が去った路上には、けがをして血だらけであえぐ人。叔母は太股を撃たれ、血まみれになって息絶えた。祖母も顔面に弾が当たり血だらけ。つづけざまに艦砲射撃が3発、ドカン、ドカン、ドカンと一軒家を直撃。火柱が空高く舞い上がり、「助けて!」と大声で泣き叫ぶ声、子どもの泣き声。大勢の命が奪われた。祖母も力尽きて息絶えた。
 福地から伊原へと、母は2歳の弟を背負い、5歳の弟の手を引いて苦しそうな足取り。とうとう母たちも艦砲でやられた。見失った大城さんは来た道を引き返したものの、戦車のキャタピラの跡があるだけで、涙も流れなかったそうだ。その後捕虜になり、母方の祖母と小さな従兄弟たちの親代わりになって働き、戦後は教職の道を歩んでこられた。
 沖縄原爆展を成功させる会は、先月はじめて大がかりな「原爆と戦争展」を那覇市のどまんなかで開催し、大きな成果を勝ち取ることができた。今も沖縄市と宜野湾市で開催中だ。「これまでの原爆展運動をもっと飛躍させよう!」という決意にたった試みだった。大城さんをはじめ、たくさんの戦争体験者の思いや底力に支えられ、激励され、学びあって得た成果だと思う。原爆と戦争をめぐるさまざまなイデオロギー斗争が激化、発展するなかで開催され、2000年からはじまった原爆展運動の過程で「沖縄戦の真実」を明らかにしていく認識の発展があった。
 62年前の沖縄戦とはなんだったのか。それは大城さんが身をもって体験したような壮絶なアメリカ軍からの「鉄の暴風」だった。アメリカ軍は、艦船1500隻、兵員55万人を沖縄に集結させ、3カ月にわたって海上から艦砲射撃、上空から無差別爆撃地上では機銃掃射、火炎放射、毒ガス投下などをやりまくり、原子爆弾以外のあらゆる近代兵器をもちいて、沖縄県民・本土出身兵士あわせて20万人もの人人を殺戮(りく)し、沖縄を破壊し尽くした。その目的は、ほかならぬ沖縄に極東最大の軍事基地をつくり、日本の占領支配と中国・朝鮮半島・アジア侵略の拠点にするためだったということは、今日の日本社会が証明している。
 この認識を鮮明にさせることによって、すべての戦争体験者の歴史的体験が大きく引き出され、これまで、「沖縄戦の定説」でいかに日本兵が残虐だったかという、日本軍悪玉論の陰にあって語れなかった被爆者や、満州引き揚げ者、本土に疎開された方方の真実の叫びが溢れるように語られた。「戦争を終わらせるためには原爆も沖縄戦も必要なかった」「2度とあのような戦争を起こさせない」と団結を促していくものだった。被爆者の方方に、ひめゆりや白梅、積徳の学徒や鉄血勤皇隊の学徒の方方はみずからのとりくみのようにチラシやポスターを持っていき、「久間発言にはあきれている。いよいよこんな時代まできてしまった。みんなで怒りの声を上げていこう」と会場に誘い合って参加していた。
 原爆と戦争展の会場は、戦争体験者の思いを語り合う厳粛な場となり、じっくり参観する若い人たちの姿が多かったのも大きな特徴だった。老若男女を通して共通するのは「このままで日本はいいのか? アメリカの植民地ではダメだ」というものだ。
 私たちはもっと人人の戦争体験、戦後の占領支配の体験を学び、アメリカに対する怒りを束ねていくこと、それがあらたな原水爆戦争を阻止し、対米従属の腐った社会を変えていく力になると確信することができた。全国で原爆と戦争展をやりまくっていきましょう。だれが戦争を引き起こしてだれが犠牲になるのかを、人人の体験から明らかにし戦争反対の大キャンペーンを張っていきましょう。

 戦後アメリカ支配へ岩国市民の揺るがぬ斗い 岩国市・佐々木仁
 岩国市民は、米軍再編と米空母艦載機部隊の移駐に反対し、政府と二井県政らの権力と金力をふりかざしたさまざまな妨害やかく乱や圧力があろうと、平和で豊かに発展する郷土と日本の将来を思う愛国正義の揺るぎないたたかいを堅持している。
 今年に入って早早に、岩国市の住民説明会が市内10カ所であり、多数の住民が参加した。戦争体験者や被爆・空爆体験者や遺族など年配者たちは、説明会にのこのこやってきた防衛施設局に対して、「アメリカの駅前じゅうたん爆撃で身内四人が殺されたのだ」「朝鮮戦争のときに米軍の爆弾で身内と近くの三歳児が殺された」「アメリカのために殺された者の気持ちが、のうのうと生きているお前らにわかるか」「住民投票、市長選で示したのがわしら市民の意志だ」「“安保”も基地もいらない。アメリカに持って帰れ」と、積もり積もった怒りをつきつけた。説明会は国とたたかう直接の場となった。
 70代の農民は「アメリカは広島、長崎に原爆を落とし、全国で大空襲をやって何10万もの非戦斗員を殺した。戦後の日本はそのアメリカに占領され、米軍と基地が居座り、陸も海も空も奪われ経済も吸いとられている。百姓も厳しくなってきている。政府のアメリカ一辺倒がこういうことになっている。これが大問題だ」と糾弾した。60年「安保」をたたかった年配の男性は「日本はアメリカの植民地だ。政府は“アメリカに守ってもらっている”といって売国的なことをやってきて、今では日本はアメリカの盾になって戦争をやろうとしている」ことを強調した。
 二井県政が赤字を口実にして破たんさせた愛宕山開発事業用地に、安倍政府と二井知事が結託して、米軍住宅を建設するという問題が浮上してきた。「とんでもない話」「二井は住民を無視し、勝手に決めて許せん」と住民の怒りは加速した。自治会連合会はただちに反対決議をあげ、百合ヶ丘自治会は集会などを開き、団地の出入り口に「米軍住宅建設反対!」の横断幕をかかげた。愛宕小児童と保護者でつくる愛宕地区子供会育成連合会も米軍住宅建設に反対して動いた。
 牛野谷町の年配男性は「沖合“移設”は基地の拡大だった。そのためにバラ色に描いて住民をだまし、愛宕山を削りとってむちゃくちゃにした。そして厚木から移転させる筋書きだったことが見えてきた。岩国基地を極東最大の米軍基地にして瀬戸内海を原水爆戦争の火の海にするものだ」と追及した。門前町の年配婦人は、「この上側の方に米軍住宅はとんでもない。今でも女性は暗くなるとタクシーで帰る状態だ。昭和40年代だったが、ベトナム戦争で荒れた米兵が土足で上がり込み、若い母親と3歳くらいの男の子が殺された事件があった。10年近く前には南岩国の方で女子生徒が襲われた。米兵は日本人をバカにして殺人や強姦、強盗、窃盗など犯罪は数かぎりないほどだ。交通事故も酔払ってよく起こしている。私らは米兵も基地もいらない。アメリカに持って帰ればすむことだ」と語気を強めて語った。平田の年配男性は「アメリカの空襲で興亜(陸燃)がやられたが、戦後生まれの安倍はそんなことを知っているのか。原爆のことも忘れて、いまやアメリカ合衆国の日本州になって日本民族としての魂がぬけている。日本国の岩国市をとりもどさんといけない」と力強くのべた。
 この平田地区、牛野谷地区で最近、「原爆と戦争展」が被爆者や自治会長の支持、協力のもとでおこなわれた。戦争や原爆、空襲体験などと結びついて大きな交流の場となり、第2次世界大戦の真実の問題とともに、原水爆禁止や原水爆戦争をおしとどめる問題などで論議になっている。
 住民説明会のなかでは、青年の多くが現役世代とともに新たに登場してきている。30代の男性は、「滑走路の沖合“移設”といって愛宕山を強引に削りとった。今度は、赤字といって米軍をもってくる。こんなことが許されてよいはずはない。国が住民の反対を押し切って強行してくるなら、青年は体をはってでもたたかう」と力強い斗争宣言を発している。ある若い婦人も「戦争の体験者が国の説明はまるで大本営のようだといっていたが、戦争をやるために押しつけているのは国の方ではないか、アメリカではないか」と堂堂と批判した。また「なんのための原爆投下だったのか。第2次世界大戦の真実をもっと知りたい」とのべた30代の婦人は、職場でアメリカに謝罪を要求する原水禁の署名活動をとりくんでいる。
 岩国市民は、今度の米軍再編が、岩国、広島湾一帯を核戦争の先制攻撃基地にし、日本がアメリカの原水爆戦争の盾になっていくことをなんとしてでも阻止し、原水爆禁止の形をもった力ある運動を強く求めている。

 戦地体験者の発言
 地球のある限り平和を 原爆展を成功させる長崎の会・島川秀男
 私は長崎から来た83歳の島川です。私は南方に3年6カ月間行き、20歳で復員して広島の宇品港に上陸し日本に帰ってきた。
 昭和17年4月20日、相浦海兵団に入団し、3カ月間猛訓練で叩かれ気合いを入れられて、門司から12杯の船団を組み東シナ海の沿岸を航行していた。むこうから魚雷が来て、ブリッジに交代で見張りを立ていた。命令が下り船は方向転換で船団がばらばらとなって、われわれの船は台湾の高雄に入港した。1週間から10日間そこで仮入隊し、シンガポールに行く便があるとのことでそれに乗り、シンガポールのジョホールに行った。
 ジョホールは文明が進んで開けていた。兵舎は10階建てで、兵舎の中に冷蔵庫やクーラーが付けてあり、トイレも水洗だった。そのころむこうは自動車、日本は人力車や大八車で日本とは文明の進み方が比べものにならなかった。口に出すと憲兵隊からやられるが腹のなかで「これでは戦争をするのはちょっと無理だ」と思った。
 ジョホールからショーナンの町まで汽車の線路があったが、その両サイドには木の墓標がずっとあり、シンガポール攻略のときには相当な犠牲があったのだと思った。
 アメリカは自動車会社を航空機会社に変え、あれだけの飛行機をバンバン造った。やはりいろいろな作戦や頭の切り替えが日本とは違うと思った。
 それからシンガポールからジャワのジャカルタの本隊に行った。私は整備員で志願していたが、搭乗員で行っていればもう死んでしまっていた。1機に8人から10人乗って攻撃に行っていた。トラック島が玉砕寸前で、艦砲射撃だけで玉砕せずに済んだが、戦斗機が応援に行っていた。トラック島には湾が四つあり、湾のなかには軍艦や商船などがたくさん入って作戦がくるまで待機していた。船も軍艦も大分沈み、人間も相当な人員だったが全部死んでしまっていた。
 その犠牲になった人たちの上に立ってわれわれは平和でこんなにいい生活を暮らさせてもらっていると思う。犠牲者の方方のために、無駄にしないように地球のある限り平和で頑張っていきたいと思う。みなさん、頑張っていきましょう。

 原水禁運動の原点に立つ 愛知県原爆展を成功させる会・矢神繁
 この6年余り、名古屋や豊橋などで峠三吉の原爆展をくり返しおこなってきた。街頭での展示も含め、のべ100カ所を超えている。今年に入ってからは、原爆展のなかで新たに作成された「第2次大戦の真実」パネルもあわせて展示している。地道な、また小規模なとりくみだが、一連のなかで戦争反対の世論を呼び起こし、平和の力を束ねていくうえで少しばかりでも役割を果たしてきたのではないかと自負している。この間の原爆展のとりくみを支えてきた力について発言したいと思う。
 峠三吉の原爆展パネルが作成されたとき、全国で多大な反響を呼び起こした。それは広島、長崎の被爆者に心を寄せ、その悲しみや苦しみ怒りを改めて明らかにし、その立場からアメリカの原爆投下の犯罪性を明らかにしてきた。これは原水爆禁止運動のもっとも基本的なことで、なにも目新しいことではない。原点に立ち返ったということだ。
 しかし、私もそうだが戦前と戦後の歴史が断ち切られ、戦前は暗く、戦後は明るい社会となったかのように見る戦後世代の1面的な見方もあったし、これまで様様な政治勢力の党利党略によって、核心ともいえる問題、とどのつまりアメリカの戦後日本支配があいまいにされてきた。ことの善悪の判断がつかないような風潮さえはびこるなか、峠の原爆展パネルは純粋な原水爆禁止運動の在り方を示す、画期的なものとなった。広範な日本人民の歴史的な経験にもとづき、根拠をもったものであるからこそ、保守か革新かといった従来の政治的な色分けの範疇(ちゅう)をこえて広島、長崎はもとより全国的な反響を呼んだといえる。
 愛知県のどこの原爆展の会場でも共通しているが、戦争体験者がせきを切ったように自らの痛切な体験を話し出している。空襲体験者が初めて話せる場に出会ったといいながら、時間も忘れて話し込む姿も見られる。そして、2度とあってはならないことだと戦争反対の思いが語られ、小泉から続く安倍政権のアメリカ追従の戦争政治への激しい批判がくり返し出されている。また、次はどこでやるのかと原爆展運動の発展に賛同が寄せられている。
 今年作成された「第2次大戦の真実」パネルの展示も始めている。戦地の体験者や沖縄戦、空襲体験者など、それぞれの体験が1つながりとなり団結と交流を促している。あわせて、先の戦争についての決着をつけたいとの思いが強まり、戦争をおし進める戦後の支配構造をあきらかにしながら、平和の力を強めている。「原爆投下はしょうがない」と事の善悪も、日本人の気持ちもわからない久間前防衛大臣への怒りは激しいものがある。引き続く参議院選挙での自民党の大敗北も、日本をアメリカの盾にして戦火に巻き込むことへの強い反対があったからだと思う。
 引き続き日本人民の経験にしっかりと足場をおきその力に依拠した原爆展運動をおし進めていきたいと考えている。戦争を阻止する力を強大なものにしていくために、共に頑張りましょう。

 全国キャラバン隊報告
 全国各地44地域で展示渦巻く戦争阻止の世論 原爆展全国キャラバン隊・富田浩史
 昨年夏以来、原爆展全国キャラバン隊は、街頭原爆展の活動を東京でおこない、今年は大阪から活動を始め、広島、長崎、山口、岡山、福岡、宮崎、兵庫、愛知、香川などの44地域で、100回以上の街頭展示をおこなった。パネルの観点でおおいに論議を起こし、「戦争を阻止するためになにかしなければ」という人人に行動を呼びかけ、220人の協力者が生まれた。
 長崎では、伊藤市長の銃撃事件という重圧をはねのけ、「こういう時だからこそ、市民1人1人が平和の声を上げなくては!」という思いが、キャラバン活動のなかでも大きく発揚され、長崎「原爆と戦争展」の成功へと結びついていった。
 香川県丸亀市では、市役所の清掃作業労働者の職場で「原爆と戦争展」をおこない、特攻隊の生き残りの方にも来ていただき、「戦争体験を語る会」を取り組んだ。予科練の同期生294人のうち、生き残ったのは54人という壮絶な体験と、「このままでは戦争になる! 日本が独立して国を栄えさせていくにはどうしたらいいか」という訴えに、50人の労働者が聞き入りました。
 丸亀の清掃労働者は「組織や自分の利益ではなく、市民・住民の利益を担ってたたかえる運動をつくっていくことが、今私たちに望まれている。戦争に反対することは、もっと広い意味で多くの人人の運動にすることだ」と語りあい、今日の集会にも参加している。また広島県下をはじめ、愛知、兵庫、岡山などの各県から、キャラバン活動のなかで結びついた方方が参加している。
 広島市では、7月1日から「原爆と戦争展」の街頭展示を続けてきた。あの戦争を体験した人人は「戦争指導者たちは、負けるとわかっていたアメリカと戦争をやったのか」「どうして若者から40代の家族持ちまで、武器も食料も持たせず輸送船に乗せるなど、わざと死ぬようなことをさせたのか」さらに「アメリカはなんのために日本全土を空襲で焼き払い、人類史上もっとも凶悪な殺人兵器である原爆を投げつけたのか」という問題意識を、だれもが抱いていた。
 怒りと衝撃で言葉が出ず、大粒の涙を溢れさせて絶句する人もいた。「アメリカの世界支配の醜い野望、そして天皇はじめ日本の支配者たちの保身のために、原爆だけでなく、戦地に取り残された兵隊たちが餓死したり、沖縄戦や全国の空襲でもこんなに酷いことになっていたとはなんたることか」「原爆投下はしょうがなかったなどというばかたれは生かしておけんほど憎い」「いつまでもアメリカの好き放題にさせてたまるか!」と語られた。
 現役世代の人人は、「これまで部分部分の体験や写真などには触れてきたが、父母や祖父母が体験したあの戦争の全貌と真実が、初めてわかった」「日本人の心がわからない自民党が選挙でボロ負けしたのはあたりまえだ!」「国を動かす力を持っているのは国民なのだ!」と額に汗して働く人人の巨大な力への確信が、火山のマグマのように噴き出してきている。「日本をアメリカ本土防衛の盾にする核戦争を阻止するために原爆と戦争の真実を多くの人人に伝えていこう」と、賛同・協力の申し出が相次いだ。
 アメリカはじめ世界各国の人人も、強い問題意識を持って広島を訪れている。サングラスを外し、涙を拭いながら展示を見る外国の方方がたくさんあった。世界からの参観者は、聞いただけでも35カ国におよび、100数10枚のアンケートが寄せられた。
 被爆市民と戦地の体験者が共通の思いで結びあい、私たち現役世代が真剣に学んでいき、かならず核戦争を阻止する現実的な、大きな力をつくりあげてゆくために、ひき続き全力をあげて奮斗する決意です。

 力ある原水禁運動創る決意
 50年8・6等に学び労働運動の展望を開く 広島県、自治体労働者・宇田浩規
 私は広島県の職場で働いている公務員です。職場においては仕事と組合活動をしながら、原爆展を成功させる広島の会の活動もしている。
 現在広島県の職場では、人員削減が進み余裕のない体制の中で、精神面に失調をきたし休職する職員、またその予備軍が増えている。電算化がすすみ様様な新システムが導入されるなかで、パソコンを通じて情報の共有化が進む反面、職員同士が会話を通じて情報を共有化する機会が奪われている。変化の多いなかで将来への展望が見いだせず、閉塞感が漂っているのは、県の職場も例外ではない。
 しかし、そのような状態をなんとかしたいとの思いが、職場のなかでだんだんと強まっていることも伝わってきている。先日職場で開催した平和学習会の参加者は、広島の会の被爆者から今の日本についての思いを聞き、それを真剣に受けとめていることが、アンケートから伝わってきた。学習会終了後、「自分のために、子どもたちのために」と言いながら被爆体験集を求める参加者もいた。多くの者が、今の日本政府がおこなっている貧困政治と戦争政治が表裏一体のものであることを感じとり、子ども達の未来に危機感を募らせている。
 そのなかで、労働者同士が広く連帯するとともに、もっと大衆のなかへ入り、大衆と結びついていくことの必要性を感じながら、具体的にどう実現していくかを探し求めている。今こそみんなで、50年8・6平和運動や安保斗争など、広島・山口から全国・全世界へ広がっていった運動や、先輩方がおこなわれたかつての労働運動について学び、これらを受け継ぐことで、労働運動の新たな展望を見いだしていく必要があると思う。
 原爆展活動についても、次につながる活動を目指し取り組んでいきたい。昨年の秋に「第2次世界大戦の真実パネル」が完成し、かつての日本がどのようにして戦争に突き進んだのか、どんな戦争だったのか、その後どうなったのか、戦争全体の流れが分かるとともに、そのなかで沖縄戦と全国空襲、広島・長崎への原爆投下が、アメリカの日本単独占領のために、一連の計画のなかでおこなわれたことが浮き彫りになった。現在まで、原爆展がさまざまな地域や学校、職場で広がっているのは、大勢の人人が、アメリカに従属する日本が生まれるもととなった先の戦争は何だったのか、その日本がふたたび戦争に向かって突き進んでいることを肌で感じ、どうしたら戦争を阻止できるのか、などについて本当の答えを求めているからだと思う。今後も広島の会の仲間とともに、被爆体験に学ぶ交流会も含めて、1人でも多くの方に戦争の真実を伝え、一緒に考えながら行動していく輪を広げ、ふたたび日本が戦争することがないように、アジアの国国との連帯を通じてアメリカとの今の関係を断ち切れるように、平和の力を高めていきたい。
 広島の労働者として、労働運動と市民運動により自分を高めながら、常に1歩前にでる勇気を持って平和な未来のために生涯奮闘することをみなさんに誓って、発言を終わります。ともに頑張りましょう。

 父母や地域と団結して戦争阻止の運動進める 山口県、小学校教師・竹垣真理子
 今年度、6年生を担任し、修学旅行を中心に「受けつごう戦争体験、伝えよう平和への願い」をテーマとして1学期間の平和学習を進めてきた。私たち教師にとっても、子どもたちに襲いかかる戦争の危機を目の前にして「教師としてなにをなすべきか」を考えさせられるものだった。
 子どもたちは戦争を過去のことではなく、今の問題として考えており、「戦争を阻止する」という課題を具体的に実感していることを強く感じた。「原爆にあった人、戦争に行った人の話を聞きたい」「戦争はいけないということをみんなに知ってもらいたい」「どうしたら戦争をとめられるか」という意識を持っていた子どもたちは、広島の被爆者から被爆体験を学び、被爆者の願いに答えようと決意し、実践していった。
 被爆体験を聞いた子どもたちは、「被爆者がどんな気持ちでいたのかを深く知ることで、どれだけ戦争がいけないのかがわかる」「戦争を起こしたものの勝手で多くの命が奪われたことを伝えたい」と、真実を伝えることが戦争反対の力になると確信している。
 修学旅行前に学習した「第2次世界大戦の真実」のパネルは、子どもたちをひきつけた。アメリカによって仕組まれた戦争であったこと、戦地での厳しい体験、1部のもののために多くの命が奪われたことへの怒りは、子どもたちの真実をつかもうという意欲、戦争を許さない、みんなで阻止できるという思いを高めた。
 今、教育改革によって学校の教育機能は破壊され、子どもたちは自分勝手と競争、「勝つか負けるか」に投げ込まれ、腐敗と汚濁の社会にあって、人人を震撼させる犯罪にまで追いこまれている。こうした状況に心を痛め、なんとかしたいと多くの教師は奮斗してきた。しかし、やってもやっても、いいえ、やればやるほど子どもが育たない、親や教師が求める教育ができなくされているというのが実感となっていた。そして、あっというまに教育基本法が改悪され、憲法も改悪にむかい、教育再生会議の出現によってますます教育破壊は進み、とうとう久間発言まで出てきた。職場でも「すべてが1つのものとして結びついた」と声があがった。アメリカのためにふたたび日本を原水爆の戦場にし、子どもたちを戦場へ送り、虫けらのように殺そうとしていることに、今度こそ許さない、という怒りでいっぱいだ。
 修学旅行で被爆体験を語られる被爆者の姿に強く感じたことがある。被爆者の方の原爆投下者アメリカに対する怒りは、自分が被害を受けたことの何倍もの大きさで、新たな戦争を進め、子どもたちをふたたび自分たちと同じ目にあわせようとしているアメリカと安倍政府にむけられている。この、子どもたちを犠牲にしてはならないという深い愛情と平和な社会を子どもたちに託す大きな信頼と期待は、すべての子どもたちにむけられている。教師がこの立場に立たなければ、子どもたちを戦場へ送る企みと真向からたたかうことはできない。
 そこから見ると、教師として長いあいだ戦争の真実を知らされなかったとはいえ、子どもたちにもうそを教えてきたということは深刻な問題だ。被爆者、戦争体験者に学ぶことをせずに学校の中だけ、真実とは離れた本の中で教育をしてきたということだ。歴史と社会の実際に学んで、真実を教える本当の教育に踏み出していくこと、そして、真実を武器に父母、地域の人人といっしょに戦争反対を第一義にかかげて、校区、地域での運動を進めていきたい。

 次代を担う青年の発言
 平和な社会実現のため体験者と共に奮斗する 山口県、青年・岡本太一
 被爆62年の今年、6月には長崎で、そして今月2日から広島市内で開催されている「原爆と戦争展」には多くの市民や全国からの参観者が訪れ、被爆者、戦地体験者、現役世代から学生まで世代を超えて交流の場として定着している。両被爆地市民の運動は、全国、世界へ強い影響力を持つ力をもって発展してきた。
 4月末、アメリカの核政策を名指しで批判してきた伊藤一長・前長崎市長が選挙中に銃殺されるという事件が起き、市民にものをいわせぬ不気味な圧力が覆うなかでとりくまれた長崎「原爆と戦争展」は、その抑圧を突き破って被爆地の意志を示そうという長崎市民の積極的な行動をともなって、2500人の参観者を集め、「祈りと沈黙」といわれてきた長崎の様相を一変させるものとなった。
 広島でも、アメリカの原爆投下によって親、兄弟を焼き殺され、心身に深い傷を負いながら長い間口を封じられてきた被爆者、有無もいわさず武器も食料もない戦場に引っ張られ多くの戦友を失いながら、戦後は「戦争加害者」として排除され、その怒りを深く胸にとざして来られた戦争体験者の方方が、「2度と戦争を許さぬ」という共通の願いにたち、積年の思いをほとばしるように語られている。
 久間前防衛大臣の「原爆投下は戦争を早く終わらせたのだから、仕方がない」の発言をはじめ、戦後62年たった今、日本の首相から大臣、議員に至るまでアメリカの代理人になり、国民の犠牲には目もくれず、日本本土をアメリカ防衛の為の盾にしようとしていることに被爆地の怒りは激しさを増している。先の参議院選では安倍自民党政府に鉄槌を下した全国の世論とも結び合って力強いものとなっている。
 それは、すでに敗戦が決定的であった段階で本土への無差別空襲や、原爆投下をおこなったアメリカと、そのアメリカに自分の地位を守ってもらうため、国民をだまし、武器も食料も持たせずに戦地に送り飛ばし、日本全土を焼け野原にさせるに任せた日本の支配層の政策の延長であり、戦後60年たった現在国を目を覆いたくなるような植民地的な荒廃におとしこめながら、またも戦争の火の中にたたき込もうという企みを絶対に許してはならないという切実さをもって語られている。
 また、これまで「平和」を唱えながら「兵隊が悪いことをしたから原爆が落とされたのだ」とか「被害より加害責任だ」と騒ぎ立てて体験者同士を分断し、その口を封じてきた潮流は、原爆投下者を助けるインチキであり、いまや浮き草のような存在となっている。原爆を投下したアメリカを縛りつけなければ、平和は実現できないというのは、被爆地の揺るぎない真実だ。
 そのなかで、学生や親、現役労働者など若い世代がこの被爆市民の運動に積極的に参加してきたのが大きな特徴だ。
 就職難や働いても食べていけない現状にぶち当たっている多くの青年は、原爆と戦争の真実に触れるなかで、それがただ自分だけの問題ではなく、日本を再び焦土にする戦争へつながっていることを学び、戦争のない展望ある社会の実現にむけて行動を求めている。
 広島では、広島の会によって、広島大学や修道大学などで原爆展がとりくまれ、被爆者たちの訴えに多くの学生が共感し、その意志を受け継いで行動に参加している。労働者のなかでも職場で原爆と戦争展が開かれるなど、市民に学び市民とともに労働者がその役割を果たそうという動きも始まっている。
 次代を担う世代を代表し、戦争阻止と平和な社会の実現のため、体験者の方方とともに、また多くの青年とともに奮斗することを決意して、意見とする。

 学内原爆展契機に参加平和を築くために行動 広島大、学生・佐々木惇
 私が峠三吉の原爆展に参加するようになったのは、昨年夏に大学内でおこなわれていた原爆展をを見に行ったことがきっかけだ。長崎で生まれ育ったということもあり、核問題には少なからず関心があったが、実際になにか行動を起こすということはなかった。パネルを見ていくことで、実際に被爆体験をした人、戦争に動員された人、しばらくのあいだ核について考えたことがなかった人、初めて写真などを目の当たりにした人、それぞれがいろんな思いを抱きながら戦争・核問題について真剣に向きあうことができるというのはとても貴重なことだと思う。私が被爆体験者の方方の話を聞いてきたなかで、たまたま違う場所にいたから助かった、同級生のほとんどが死んでしまった、という話を多く聞く。そのたびに、この人も原爆で亡くなっていたのかもしれないのだなという、現実としての原爆の恐怖が押し寄せてくる。
 今、日本は大事な局面に立たされている。いまだに米軍基地は各地にあり、実態として日本人はアメリカの核の傘の下で生活している。日米にかぎらず、国際的枠組において安全保障を進めることは今後の国際社会に必要だ。しかし、外国の軍隊を国内に駐留させ続けるのはとうてい対等な協力体制とはいえない。米軍の訓練等にともない苦痛を感じている人人は、日本人が日本に住んでいて、なぜ外国の軍隊に生活をじゃまされなければならないのかと怒りを感じていると思う。加えて有事のさいには在日米軍が攻撃対象になり得るということからも、いまだに日本はアメリカの影響を強く受けざるをえない外交的後進国であるといえる。今世紀に入り、世界はテロとのたたかいの時代に入った。テロの理由はさまざまなものがあるが、テロは武力で消滅するものではなく、武力により増殖するものだということは共通している。固定観念から脱却して、議論を重ねたうえでの相互理解へと意識を転換しなければならない。
 日本はまずアメリカとの関係を対等なものへと修正するべきだ。そして日本がアメリカの核の傘から抜け出たあとにこそ、日本国の核廃絶へのとりくみは本物となり、被爆国として大いにはたすべき役割を担えるようになる。人類の手でつくり出した核兵器は人類にしかなくすことができない。核兵器を持っている国・核兵器を持つことが大国の証と思っている国・他国の核兵器の力に頼っている国・これらの国国は1度広島・長崎に来てみればいい。そして原爆症で苦しんでいる人人を見て「こんなに効果的な兵器をぜひ持ちたい」と思うか、「一生にわたり本人・家族・地域・国を苦しめる兵器は持つべきでない」と思うか、しっかり考えてもらいたい。
 私たちができる核廃絶へのとりくみは、関心のない人に問題意識を持ってもらい、核兵器が人類に必要なものなのか考える機会をもってもらうことから始まると思う。「私は核問題なんて関係ない」といったところで、核爆発は自分を避けてくれないということを自覚してもらわなければならない。1人1人が真剣にむきあえば、社会はかならずかわる。私は、いつか核兵器を持つことが恥じであるという意識が世界中に広まることを望んでいるし、そうあるべきだと思う。一朝一夕にはいかないが、核兵器の恐怖を将来に引き継がせないように、平和な社会で暮らせるように、原爆・戦争体験者の平和への強い思いを次の世代が引き継ぎ、いつの日か実を結ぶことができるように、今できることをやろう。これから平和を築いていけるかどうかは、私たちの責任であることを忘れずに行動をしていきたい。

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