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轟いた「米国は核を持って帰れ」
09年原水爆禁止広島集会
              若い平和の力が登場    2009年8月7日付

 2009年原水爆禁止広島集会(原水爆禁止全国実行委員会主催)が6日午後1時から広島県民文化センター(広島市中区)でおこなわれた。「アメリカは核を持って帰れ!」を中心とするスローガンのもと、広島市内では第8回広島「原爆と戦争展」(まちづくり市民交流プラザ)、原爆展全国キャラバン隊による平和公園展示とともに、1カ月近くにわたる街頭原爆展、原水禁全国実行委員会による全市的な宣伝活動がくり広げられてきた。1週間前からは市内中を宣伝カーが走り、広島市民、全国、世界から訪れた人人の行動を喚起し、力を結集しようと呼びかけてきた。一連の行動は広島の地で、市民からの圧倒的な支持を得てきた。集会には小・中・高生や大学生などの若い世代をはじめ、広島、長崎、沖縄、下関などの被爆者・戦争体験者、原水禁運動を担ってきた人人、広島市民など約450人が参加。原水爆戦争を阻止する平和運動を全世界へ発信しようと、意気込み溢れる集会となった。
 集会では、はじめに原爆で亡くなった人人に参加者全員で黙祷を捧げたのち、基調報告が原水禁全国実行委員会の川村なおみ事務局長より提案された。アメリカは広島、長崎への原爆投下を謝罪しておらず、戦後の日本社会はアメリカの核兵器による支配のもとでさんざんに食い物にされる社会構造に「改革」されてきたこと、挙げ句の果てにはいつアメリカの指図で戦争に突入してもおかしくない状況になっていることを明らかにしたうえで「オバマ政府は口先で“核のない世界”といっているが、実際には岩国基地に核攻撃能力を持った空母艦載機移転を策動したり、日本全土にミサイル配備をさせるなど、アメリカ本土を防衛するための核攻撃の盾にするという、被爆国民にとって許し難い策動をしている。“アメリカは日本とアジアを再び核戦争の戦場にするな”“アメリカは核を持って帰れ!”は唯一原爆を投げつけられ、隷属を強いられてきた日本民族の怒りであり、もっとも切実な現実課題だ」「わたしたちは十数年来、原爆詩人・峠三吉が活動した時期の、私心のない全国民的規模の平和運動を再建することをめざしてきた。大衆的基盤に立った、政党政派を超えた力が登場することを確信している。広島の地から全国、世界の平和を愛する人人に大結集を呼びかけ、アピールを発信しよう!」と訴えた。
 劇団はぐるま座が「その日はいつか」(峠三吉)を朗読したのち、広島、長崎、下関の被爆者たちが発言に立った。

 力こめて被爆者が訴え 広島、長崎、下関から

 原爆展を成功させる広島の会の野間知枝氏は、64年前の8月6日の出来事を、克明に語った。学徒動員で出勤していた駅前郵便局で、朝礼をすませて職場に就こうと玄関を出た時、空襲警報が解除になったばかりなのにB29が不気味な音を立てて上空を飛んでいたこと、瞬間にピカッと閃光が走り、轟音とともにあたり一面が真っ暗になり、気付いたら瓦礫の下敷きになっていたといった。手の皮がズル剥けになった友人たち、瓦礫から助け出してくれた引率の先生たちのこと、腰がやられて動けない野間氏を担架に乗せて、地獄のような光景のなか火の手から逃げまどったこと、爆心地にいた父を亡くし、母の手厚い看護でその後回復していったことをのべた。「昭和4年に生まれ、日本が一番不景気な時に生まれた。満州事変、支那事変、大東亜戦争と、いつも平和な時代はなかった。いまは平和だが、また不況で戦争がいつ起きてもおかしくない状況です。二度と自分のような経験を若い人や子どもたちにしてほしくない」といった。
 長崎から来た吉山昭子氏は女学校2年生のときに16歳で被爆した。480人もの校友が亡くなり2人だけ生き残ったこと、「被爆後の生活は夜も昼もなく、原爆というのは本当に地獄の世界だ。わたしたちには年頃というのが一切なかった」と語った。そして「長崎で原爆と戦争展が開催されるようになり、それまでは語り部はしたくないと思っていたけれど、長崎のわたしたちがやらなければと思い、参加するようになった。今年で5回目の原爆展になった。キャラバン隊のみなさんと一緒にチラシも2000枚ほど一生懸命配り、2000人の人が見に来られるなど盛況だった」「今年の原爆展のまえに東本願寺長崎教務所というところに2万体の遺骨が預けられていることがわかった。これまでまったく知られていなかったことで、私も四百数十名亡くしているので“ごめんなさいね”といってお参りした。長崎では原爆の中心地が観光地のようになっているが、2万人もの方が眠っているところにこそお参りするのが本当だと思う。原爆展を通じて、長崎の歴史の真実、長崎の怒りが表に出てきたことが本当によかったとつくづく感じている」とのべた。
 下関原爆被害者の会の大松妙子氏は20歳のときに広島市の横川で被爆したこと、大切な2人の妹を失った忘れ得ぬ体験を語った。「生き地獄、あの悲惨さは広島、長崎の被爆者しかわからないと思う。被爆者は64年過ぎた現在でも原爆症で苦しんでいる。核が憎い、戦争をさせた人間が憎い、多くの若者が殺された。戦争の悲惨の愚かさ、核の永遠の恐怖、この残酷をいま伝えなければの思いで一杯です」と語った。また、1月に逝去した吉本幸子前会長が未来を担う若者、子どもに自分たちのような思いをさせてはならぬの信念で、私利私欲なく被爆者の使命を実行したこと、吉本氏の遺志を受け継いでいくことが供養だとのべた。「原水爆禁止、核の廃絶のためにたたかいます。平和な日本を取り戻すためにがんばりましょう」と力強く会場に訴えた。

 米軍基地撤去と固い絆 岩国や沖縄も発言

 米空母艦載機移転反対をたたかっている岩国基地の沖合拡張反対連絡会議の森脇政保氏は「空母艦載機部隊の岩国移転計画が明らかになったのが5年前の夏だ。この間、アメリカ一辺倒の自民党政府は、権力・金力、あらゆる組織をかり出して襲いかかったが、子や孫のため、岩国と日本の将来を思う市民の決起を押しとどめることはできない」とのべた。今年初頭におこなわれた愛宕山への米軍住宅化反対の署名は目標の2倍を超える11万人が短期に集約されたこと、こうした市民の立ち上がりは戦中、戦後の苦難と屈辱の歴史に根ざしたものだと語った。「岩国基地の大増強は、広島湾岸一帯を極東最大の核攻撃基地にし、再び廃虚にするものだ。今日、わたしたちがなすべきことは、歴史の真実を学び、若い世代に受け継ぎ、人人のなかにある独立と平和への願いを束ね、国民的大運動を巻き起こすことだ。それが戦争で無念の死をとげた320万人の御霊にこたえる唯一の道だ」とのべた。
 沖縄から参加した野原郁美氏は、原爆展運動の取り組みを報告。沖縄戦を体験した高齢婦人たちが積極的に運動を担ったエピソードを語った。八八歳のある婦人はパネルを見ながらブーゲンビル島で戦死した兄を思い、「まるで虫けらだ。遺骨として帰ってきた白木の箱には石ころしか入ってなく、母の嘆きは見るに耐えなかった。夫の弟も沖縄戦で伝令の途中爆撃にあって死んだ。新婚の叔母夫婦も海軍壕の構築に志願した末に、水攻めで亡くなった。なぜあんなにたくさんの人人が死ななければならなかったのか」と悔しい思いを抱えてきたことを語り、会に参加した。「沖縄戦や第二次大戦の真実はなんだったのか知りたい、戦争の体験を語り、受け継がねばという思いは、緊迫感を持っていると感じる。若い世代の参観も多く、戦争や現代社会の問題、生き方を真剣に考えている」とのべた。
 その後5日に平和公園で被爆者から体験を学んだ小中高生平和の旅の子どもたちが登壇。この日にむけて山口県下や福岡県など各地で街頭カンパや署名をとりくみ、大学生や引率教師ら含めた100人の旅団で広島にやってきた。旅で学んだ成果を構成詩にして報告した。被爆者たちの思いを受け止め、「被爆者、戦争体験者の方から体験を学び、受け継ぎ、次の世代に伝えていくことを誓います」と元気よく発表する姿に、会場から温かい眼差しが注がれた。

 行動開始した若い世代 大学生も発表

 その後、引き続き意見発表に移った。
 原爆展キャラバン隊の川森大輔氏(劇団はぐるま座)は、6月は長崎、7月からは広島の平和公園内で街頭展示をやってきた経験から、人人の反響を明らかにした。広島市民だけでなく、全国、全世界から訪れた人人が参観し、感想を語り合う場となった。「どうしたら戦争を押しとどめることができるのか、と行動を求める若い世代が峠三吉の時期の運動に関心を示していた。海外から来られる人も多く、丁寧にパネルを見て行った。キャラバン隊には広島の大学生や大学院生たちが通訳ボランティアで参加した。外国の方からも300枚近いアンケートが寄せられた。“自分自身もサポーターの一人だ。できることはなんでもするべきだ”と熱烈な支持を寄せる人もいた。被爆市民、戦争体験者の思いを全国に伝えていきたい」とのべた。
 原爆展を成功させる広島の会の女子大学院生は、大学での展示会に立ち寄った際、被爆者の男性会員が熱心に体験や会の活動内容を説明してくれ、「あなたの力を貸してください」といわれて参加した、一年前からの自身の経験を振り返った。「戦争が自然に起きるのではなく、社会の仕組みに原因があることが分かってきた。いまもジワジワ戦争に向かっているのではないかと感じる。いったん戦争がはじまれば、かつての戦争がそうであったように、罪のない一般市民が犠牲になる。だからいまこそ過去の戦争から学んで、二度と同じことがくり返されないよう訴えていくことが、わたしに出来ることなのではないかと思う。そのためにも仲間を増やすことが必要。大学での展示会ではポスター貼りやチラシ配りを仲間と分担してやり遂げた。仲間を増やすことは容易ではないけれど、大学内でも活動を応援してくれる教官や職員が見つかり協力したいという大学生もあらわれた。袋町で開催中の原爆と戦争展、平和公園の街頭展示にも仲間の学生たちが何人もスタッフとして協力してくれている。模索しながら確実に前進している。自分自身が訴えかける側に立って積極的に行動していきたい」とのべた。
 山口県で小学校教師をしている佐藤公治氏は、学校でとりくんだ原爆展や修学旅行で被爆者の話を子どもたちに聞かせた様子を報告した。「教育崩壊にたいする危惧がかつてなく高まっている。自分のことしか考えず、友達と心が通じ合わない。衝動的で気に入らなければ人に危害を加える。突然歩き回ったり、奇声を発するなど、子どもたちが動物化している現状に教師は心を痛めている。教育改革の方向でこのまま育ったら、戦場の人殺しになるのではないかという危機感がある。そうさせないために、わたしたちは子どもたちにしっかりと歴史と社会の真実を伝え、人の心がわかり戦争のない平和な世の中の創造者としての自覚を高めようと、教師集団で取り組んだ。子どもたちが真剣に耳を傾け、成長している姿に喜びを感じる」とのべた。
 原水禁実行委員会の安村直行氏は、各地でおこなわれた原爆と戦争展のなかで「みんなが貧乏になって戦争になっていった」というパネルの前で論議がはじまることを紹介。そこで「どうして労働者が生活できないでたらめな社会になったのか」「目先のあれこれではなく社会を根本的に変えなければどうにもならない」と現状打開の意識が戦後社会の総括とかかわって出されているとした。そして、「この十数年、日本と世界の原水禁運動の源流となった1950年8・6斗争、峠三吉の時期の被爆市民の声を代表する私心のない原水禁運動を再建することを目指してきた。被爆者や戦争体験者、教師、青年など運動が年年広がりを持ってきたなかで、戦争を阻止し、独立と平和を勝ち取るたたかいは労働者を中心とした運動を発展させることにかかっている」とのべた。

 沿道の市民が強く共感 市内で堂堂とデモ

 意見発表ののち、集会宣言が読み上げられ、基調報告、集会宣言(広島アピール)、スローガンを採択して、市内のデモ行進へと繰り出した。繁華街の中心である本通りから出発したデモ隊は中心市街地の大通りを1時間かけて原爆ドームへと向かった。子どもたちは峠三吉の詩をみんなで群読して歩いた。今年のデモ行進は、かつてなく沿道の反響が大きかったのが特徴で「がんばれ!」と声をかける市民や、拍手する人人、行進に途中から加わる市民もいた。オフィスの中から見守る人人も多かった。沿道で拍手していた年配男性は「“アメリカの言いなりになるな!”(プラカード)がよい」と共感していた。美術グループあらくさが作成した「アメリカは核を持って帰れ!」の縦断幕や幟なども目を引いていた。
 集会参加者の男性は「今日は元気をもらった。この勢いで衆院選で必ず自民党政治をやっつけなければ!」と意気込んでいた。別の婦人は「これだけの人人が全国から参加して、同じ思いでやっていることに確信がわいた。もっともっとまわりの人に伝えていかなければ」と意欲を語っていた。

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