トップページへ戻る

被爆市民、戦争体験者が伝える魂の詩
  戯曲 峠三吉 原爆展物語  <1>  
                                        2010年2月10日付

 劇団はぐるま座の新作『峠三吉・原爆展物語』が3月20日、下関において全国初演として準備されている。この作品は、1999年から10年間にわたって全国各地でおこなわれてきた「原爆と峠三吉の詩」原爆展運動の記録である。それは原爆展運動のなかで語られた無数の体験をもとに、広島、長崎、沖縄、戦地の真実を描き上げ、とくに第二次大戦はなんであったのか、敗戦後の日本はどんな社会なのか、欺瞞のベールを引きはがし、多くの人人を行動させてきた。それと同時にこの10年の巨大な運動へと発展した確信を与えるものとなっている。基本的に完成した台本を紹介したい。その論議は長周新聞創刊55周年の総括運動のテーマでもあり、その論議の発展に役立てたい。

 プロローグ

 音楽とともに幕が開くと「原爆の子の像」を背景にして、朗読者の群像が浮かび上がる。峠三吉「すべての声は訴える」の一節を朗読する。

 朗読者 青空に雲が燃えていたら/アスファルトの道路が 熱気にゆるんでいたら/雑草や埃の匂いが 風に立ちこめていたら/戦後七年/決して明るくなってゆかぬ生活の疲労の中で/広島の人々は/ふとあの悲惨な日々の感覚に打たれることを/炎の中の 瓦礫の下の呼び声に憑かれることを/訴えどころのない憂憤に ひそかに拳をふるわして/耐えていることを/この詩集を手にするあなたに知ってもらいたい

 中島(解説) これは、広島の原爆詩人・峠三吉の詩「すべての声は訴える」の一節です。この詩をベースにした原爆展が、1999年から下関で始まって、山口県内各地、広島、長崎、東京、沖縄をはじめ全国数千カ所で開催されてきました。この原爆展パネルは、下関原爆被害者の会が、子どもたちの平和な未来のために被爆体験を語り継ぐことを使命として活動するなかで、下関原爆展事務局によって作成されました。
 谷口(解説) それは原子雲の外側からではなく、原子雲の下にいた人人の側から、時間を追って、どんな体験をしたのか、どんな思いを抱いていたのか、そしてなぜこんな目にあわなければならなかったのかを、写真と絵、そして峠三吉の詩と、峠が編纂した小中高生の原爆詩集などを組みあわせて作成したものです。
 上田(解説) 原爆展運動のなかで、各地の空襲体験、沖縄戦の体験、戦地の体験、そして戦後の苦労などが堰を切ったように語られました。それはあの戦争はなんであったのか、敗戦後の日本はどんな社会なのか、厚く施された欺瞞のベールを引きはがし、目からウロコが落ちるような体験の連続でした。
 中島(解説) またそれは、再び戦争に向かうことを押しとどめ、平和で豊かな日本を建設する確かな力が、日本民族のなかにあることを確信させる感動に満ちたものでした。今からごらんになるドラマはこの原爆展運動の記録です。
 2001年秋、広島平和公園。樹木の向こうに「原爆の子の像」が見える。

 解説 2001年、私たちは峠三吉の原爆展を広島で開催することにしました。毎週土曜と日曜日、山口県からスタッフ数十人が広島市民のなかに入って行き、チラシを配布し、ポスター貼りをお願いして回りました。

 スタッフが平和公園に集合してくる。

 中島 どうだった?
 上田 手ごわいな。「あのう、原爆について聞きたいのですが」といったとたん「お前たちは禁か協か」と怒鳴られた。戸をピシャッと閉めて「帰れ」だ。「体験してない者がなにがわかるか、夏になったら来て騒ぐだけじゃないか。8月6日は祭りやピクニックの日じゃない」って。
 谷口 「広島で原爆、原爆といって騒ぐ連中は原爆をメシの種にしている奴らだ」といわれたよ。なんだか怖いよ。
 中村 「孫がじいちゃん、ばあちゃんたちが悪いことをしたから原爆を落とされたと学校で教えられてくる。殺されたものになんの罪があるんだ。けしからん」とすごく怒っていました。「お前らもその仲間だろう」とにらまれて…下関から来て頑張っているのに…。(ひどく落ち込んでいる)
 上田 逆の意見もあったよ。被爆二世だという人が、「お前たちは加害責任の反省はしないのか」って。組合関係の人みたいだけど、激しいね。広島は真っ二つだ。
 中村 新聞では語り部の会も解散するとか、「被爆体験は風化している」といっているけど、やっぱりそうなんでしょうか……。
 中島 自分の側からじゃなくて、市民の側から自分たちを見てみようよ。原水禁団体とか被爆者団体というのが、市民からすごく嫌われているんだ。新発見だよ。彼らと同じと見られたらまったく相手にされないんだ。
 上田 「反省しろ」というのは原爆を投げつけたアメリカのいいぶんじゃないですかっていったら、態度がガラッと変わった。「そうだ。あれはアメリカの手先じゃ」といっていたよ。

 原爆展チラシを手にした男性被爆者・坂井勇吉がやってくる。

 坂井 わしゃすぐそこに住んどるもんじゃが、このチラシを持って来たんはあんたらのグループか。
 上田 そ、そうですが……なにか。
 中村 (見覚えのある顔にはっとして)あ、さっきの……。
 坂井 (中村に向かって)あんたじゃったか。さっきは怒鳴ってしもうたが、よう読んだらなるほどと思うことが書いてある。こりゃ、あんたの熱意にカンパじゃ。(中村の手にカンパを握らせる)
 中村 あ、ありがとうございます。
 坂井 峠さんはこの辺りを下駄はいて歩いとった。ようみんなから話を聞いとった。
 上田 峠三吉さんをご存じなんですか。
 坂井 ああ。あの頃はのぅ、風呂屋へ行ったらみなヤケドの痕を見せおうて、何時間でも原爆の話をしとったんじゃが、一歩外へ出ると話すことはできんじゃった。プレスコードいうて占領軍が禁止しとったからの。峠さんらはそういう時期に、市民の思いを代弁してくれた。ところが、最近の八月六日はどうか。原爆を語って金をせびったり、市民が慰霊をしよるところで、大音量で叫んで、ゴミばっかり散らかして帰る。こうやって一軒一軒チラシを持って市民の話を聞いて回るところは他にない。しっかりやりんさいよ。(去っていく)
 上田 ありがとうございました。(頭を下げる)
 中村 風化なんかしていないんだ。原爆について語らせない大きな力が働いているということですね。
 谷口 うん。旧日銀広島支店を借りたり教育委員会の後援をとるのも簡単じゃなかったらしいよ。教育委員会や原爆資料館の専門の職員がズラッと出てきて、展示パネルに細かいチェックが入ったって。著作権は問題ないか、差別用語がある、と。
 上田 差別用語?
 谷口 パネルのなかにある、チンバ、めくさり、ハゲ、どかちん、精神薄弱者、未亡人などはダメ。放射能は「吸った」ではなく「浴びた」ですとか。80項目にもなったらしい。
 上田 えーッ。それじゃ、原爆のパネルをつくったり、展示することなんてとてもできないじゃないか。
 中村 お年寄りなんか、人前でものをいったら、いちいち叱られるんかね。広島ではみだりに日本語を使ってはならないの?
 上田 検閲じゃないか。文句はいったんですか。
 中島 それがおもしろかった。その指摘を全部聞いて「これは教科書検定と同じですね」といったら、思わず向こうがクスッと笑ったんだって。「これほど点検してもらったら原爆資料館監修のパネル、広島市教委検定済み教科書副読本と印刷できますね」といったら、向こうが泡食って「それは困る」「いいものにするために親切でいっているんです」だって。(笑い)
 谷口 大げんかして門前払いになるのが、お決まりのケースだけど、こっちの目的はケンカすることじゃなくて、パネルをたくさんの人に見てもらうことでしょ。
 中島 教育委員会の後援がないと学校がとりくみにくい。この検定意見というのはおもな内容に影響はないんだ。折り合いましょうといったら、向こうもホッとしたらしいよ。
 谷口 それで、差別用語は峠三吉の原爆詩のなかに多いんだって。「峠三吉の原爆詩集は人に見せられないんですか。愛情がこもっているじゃないですか」といったら、「これは、まぁ古い時代に書かれたものですし、芸術作品だから仕方ありません」となったって。
 上田 広島を代表する原爆詩人の峠三吉が、人権に反する差別詩人だって。市民が怒るはずだ。
 中村 市民のなかでは峠三吉への親近感はすごくあるよ。
 中島 だからこそこっちは断固として峠三吉の時期の原点に返った運動をつくるんだ。「加害責任の反省」とかいう勢力とは全然違うこと、アメリカの犯罪にはっきりした態度をとること、市民の意見を徹底的に学ぶ姿勢で行くこと、これで行ったら市民に受け入れられる。確信持って入ってみよう。ポスターは3000枚、チラシは10万枚あるんだから、一軒一軒を訪問して話を聞いて回ろう。そしたらすごいことになりそうだ。
 全員 うん!

 音楽高まり、暗転。躍動的な音楽。

     (2)

 中島(解説) 延べ数百人のスタッフが広島市内を歩き回ると、市民が次次に賛同してくれました。「広島では被爆体験が語りにくくなっている」「下関から来てやってくれるのはありがたい」と、まるで古い友人があらわれたような歓迎を受けました。
 中村(解説) 下関原爆被害者の会と、原爆展を成功させる広島の会が主催して、有名人や原爆専門家ではなく、自治会長さん、商店のおじちゃん、おばちゃん、お医者さんなど一般の市民が賛同者となって市民の信頼が広がりました。
 中島(解説) 「広島の者が本音を語り始めたら日本は変わる」「市民の力で原爆展を成功させ、広島の面目を一新させよう」と意気込み高く原爆展は開催されました。

 場面は2001年11月、旧日銀原爆展会場にかわる。「これより開幕式をおこないたいと思います」の声。下関の被爆者・吉村孝子、広島の被爆者・重岡市三が、スポットに浮かび上がる。

 吉村 私は、下関の原爆被害者の会です。下関で始まった原爆展が広島でできるなんて、こんなにうれしいことはありません。私も、原爆のことは自分の子どもにも話していませんでした。でも小中学生が話してくれというので思わず話しました。不安だったんですけど、帰りの車に子どもたちが駆け寄ってきて、きらきらした目でありがとう、おばあちゃん元気でね、といってくれました。そして感想文を送ってくれて、私がいいたいことをしっかり受け止めてくれていました。最近の子どもはしっかりしている。日本も見捨てたものではないと思いました。同情を引くためや自分のためだったら話したくないけど、自分たち被爆者しか語れる者はいない、子や孫たちを二度と戦争で苦しめるようなことがあってはいけないと思って語り始めました。会のなかでは、お金をもらって楽しく遊んだらいいじゃないかという人もいました。でも被爆体験を語り継ぐ、被爆者の使命で団結する。党派を超えた純粋な運動をしていこうと頑張ってきました。
 重岡 被爆地広島でも原爆について語ることはできませんでした。あれほどの体験をしながら、なぜおとなしいのか、このまま黙って死んでいくわけにはいかないと悔しさを抱えながら生活しておりました。下関のみなさんのご協力で、広島の面目を一新することができました。原爆で亡くなった多くの人たちが安らかに眠れるように、核兵器によって同じ不幸がくり返されないように、平和運動を展開することが私たちの使命です。この原爆展を通じて、平和の心を伝えていくことを決心しています。(拍手が鳴り響く)

 会場に市民が入場してくる。パネルを食い入るように見る被爆者たち。そしてスクリーンに廃虚と化した広島の町が浮かび上がり、朗読者(被爆市民)にスポットが当たる。

 朗読
 「八月六日」 峠三吉
 あの閃光が忘れえようか/瞬時に街頭の三万は消え/押しつぶされた暗闇の底で/五万の悲鳴は絶え/渦巻く黄色い煙が薄れるとビルディングは裂け/橋は崩れ/満員電車はそのまま焦げ/果てしない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島

 やがてぼろ切れのような皮膚をたれた/両手を胸に/崩れた脳漿を踏み
/焼け焦げた布を腰にまとって/泣きながら群れ歩いた裸体の行列

 石地蔵のように散乱した練兵場の屍体/つながれた筏へ這いより折り重なった川岸の群れも/灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり/夕空をつく火口の中に/下敷きのまま生きていた母や弟の街のあたりも/焼けうつり

 兵器廠の床の糞尿のうえに/のがれ横たわった女学生らの/太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の/誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば/すでに動くものもなく/異臭のよどんだなかで/金ダライに飛ぶ蝿の羽音だけ

 三十万の全市をしめた
/あの静寂が忘れえようか/その静けさの中で/帰らなかった妻や子のしろい眼窩が/俺たちの心魂をたち割って/込めたねがいを/忘れえようか!

 朗読者が消え、原爆展会場に戻る。パネルを凝視する人人。見守るスタッフ。老婦人・古川敏江がスタッフに声をかけてくる。

 古川 あのぅ。うちの妹は高等女学校の一年生でね。朝、土橋あたりに建物疎開に出ていったきり、いまだに行方がわからんのです。もしかしたら、このなかに手がかりがないかと思うて…。
 中村 そうなんですか……。ほかのご家族は?
 古川 うちの家族はピカで死んだ。父も母も兄も妹もみんな。うちはその日は仕事が休みで観音町の家におったんですけど、朝ご飯の後片付けをしているときに、突然ピカッときて家が崩れて下敷きになったんです。一瞬のことでなにが起こったかもわからんし、昼間なのに辺りは真っ暗。すぐ近くに爆弾が落ちたって思うたけど、次第に晴れて、あたりを見渡してみれば瓦礫の山。建物もなにもかも吹っ飛んで、広島の街がいっぺんに消えてしもうとった。父は即死で声もせん。家の下から母を必死で引きずり出したんじゃけどが片足がちぎれてブラブラさがっとるから、私が背負って防空壕まで逃げたんです。「もう、ええ。うちをおいて逃げぇ」いうんじゃが、母親でしょうが……(声を詰まらせ)そんなことできますか。でも、防空壕に着いて苦しみながら死んでしもうたんです。「原爆のおかげで戦争が終わった」という人もいますが、そんなものじゃない。私は今でも原爆が憎い! 戦争が憎い……本当に父や母を返してほしい……今になって母親に孝行してあげたくても孝行できんのがくやしい!(涙が込み上げてくる)
 中村 ええ。(涙をこらえてうなずく)

 目頭を押さえながらパネルを見ていた男性被爆者・坂井勇吉が、アンケート箱などが置かれたテーブルの椅子に腰をおろす。上田がそっと声をかける。同じテーブルでは男性被爆者・津村信治が一心にアンケートを書いている。

 上田 いかがでしたか。
 坂井 こんなに堂堂と展示してくれて、私たちが語れる場所に出会いました。私は、爆心地から直ぐ近くのビルの中で被爆したんです。猛烈な炎と煙の竜巻に襲われ、呼吸すらできなかった。必死で救援作業をしたが、分厚いモルタルの壁の下から手首だけを出して、必死に私の名前を呼ぶ女の子がいた。しかし、一人ではどうすることもできんのですよ。「すまんが、後から助けにくるから待っとれや!」といって、助けを求めに行ったが、見る人見る人が血まみれやヤケドを負った人たちばかりで人を助ける余裕のある人は一人もいなかった。……あとから行ってみれば、女の子はその場で白骨になっとった。私の言葉を信じて、助けを待ちながら焼け死んでいった苦しみを思うと今でも心がかきむしられる。どうして、あのとき、せめて名前でも聞いておかなかったか……この思いは60年経っても消えるものではありません。
 津村 私も同じですよ。「水、水」と叫んでいた友だちに水をあげることもできず、助けることもできなかったことが頭から離れません。だけど生き残った者の戦後もつらいものでしたよ。私は全身にヤケドを負ったため、就職先もなかった。いつ原爆症が出てくるのか、生まれてくる子どもに影響はないか、いつもおびえながら暮らしてきたんです。原爆は今でも私たちをむしばんでいる。こんな残酷な兵器がありますか。何度も自殺を考えたが、原爆に負けてたまるか! と生きてきたんです。

 パネルを見ていた被爆市民が子どもの詩を朗読する。

 朗読
無題 広島市南観音小学校五年 佐藤智子
 よしこちゃんが/やけどで/ねていて/とまとが/たべたいというので/お母ちゃんが/かい出しに/いっている間に/よしこちゃんは/死んでいた/いもばっかしたべさせて/ころしちゃったねと/お母ちゃんは/ないた/わたしも/ないた/みんなも/ないた

 朗読者が消え、原爆展会場の人人が光の中に浮かび上がる。こぎれいな服装をした婦人・佐伯尚美が友人と連れ立ってみている。

 佐伯 (パネルを指して)あのね……これは私が書いた詩なんよ。
 友人 えっ? そうじゃったんね?
 佐伯 うちは、母が原爆で亡くなって孤児になったんよ。母は全身真っ黒になりながら、最後の力を振り絞って建物の下敷きになった私を助けに来てくれて、黙ったまま私を抱えて牛田の救護所まで連れて行ったんよ。黒こげの人たちが隙間もなく寝かされているところで動けんようになってね。母を助けたい一心で、毎晩空き缶にわき水を汲んできては母に飲ませたけど、三日目になってものをいわんようになった。母は他の人と一緒にキャンプファイアーのように積み重ねられて焼かれたんよ。まだ私も五歳じゃったから、呆然として涙も出んじゃったけど、やっぱり母がおらんいうのはつらいですよね。似島の孤児院に連れて行かれるところを親戚のおじさんに引き取られて育ててもらったけど、つらいときは少ない小遣いでお花を買ぅて母のお墓に一日中いたこともありましたよ。
 友人 ほうね……(涙をぬぐいながら)長いつき合いをしてきて、あなたがそんなつらい体験をしとったなんて知らんかった。ごめんねぇ。
 佐伯 いいえ。ここに来て初めて語ったんですから。
 友人 だけど、どうしてあなたの詩が?
 佐伯 小学生になって、峠さんと親しかった先生の指導で原爆の詩を書いて、それを『原子雲の下より』という原爆詩集に載せてくれたんよ。峠さんは広島中の子どもたちに原爆の詩を書かせたの。峠さんと一緒に朗読会にも出たこともある。それから、原爆で親を失った子どもたちが集まって「原爆の子」という劇もやっていました。そこに行けばみんな同じ境遇で、だれもが心の傷をさらけ出して、本当の思いが語れるあったかい場所でした。あの頃のような運動はなくなったと思うとりました。それがあったんですね。

 上田が会場に入ってきて中島に声をかける。

 上田 管理者の方から、展示パネルのパンフレットを売るなといってきた。だれかが市に文句をいったみたいだ。計画している区の原爆展も、公民館を貸せないといっている。パネルに使っている原爆詩は著作権で問題があるといっているらしい。
 中村 はぁ? それを編纂した代表者は下関の大学にいたとき、下関原爆展の賛同者になって大いに紹介してくれと文章を書いてくれてたじゃないですか。
 中島 何者かが姿を見せずに原爆展を妨害しているんだ。

 男性1がスタッフに声をかけ、参観者が次次に語り始める。

 男性1 私は「原爆の子の像」の運動にかかわった一人です。広島の小中学生が全国にも呼びかけて、再び子どもたちが犠牲になることがないように運動したんですよ。こういう伝統も今の子どもたちに伝えなくちゃいけません。これは大切に保管していた当時の資料です。ぜひ役に立ててください。
 中島 貴重なものを。展示させていただきます。
 男性2 学生運動に参加していた50年代当時が蘇りましたよ。『きけわだつみのこえ』と一緒に峠三吉の原爆詩集は必読文献だった。それがいつの間にか消えて、平和運動は力がなくなってきた。新鮮な怒りを忘れてはダメですよね。
 婦人 私は峠さんと親しくしていた者です。峠さんは原爆反対の口火を切った1950年の8月6日の斗争にすごく感動していました。『平和戦線』という新聞が非合法のなかで初めて原爆の惨状を写真特集しました。「八月六日」の詩は、その紙面に発表されたんです。街頭でも写真展示がされ、黒山の人だかりとなりました。朝鮮戦争が始まって、戒厳令のようななかで、非合法の街頭集会と駆け足デモがやられたんです。語り尽くせぬ思いを抱いていながら声を上げることのできなかった広島の人たちをどれほど励ましたか。
 中村 そうなんですか。
 婦人 峠さんは翌年の8月6日に原爆詩集を発表しました。ヨーロッパの平和集会にも持ち込まれ、世界的にもすごい反響になったんです。原水爆禁止運動は第五福竜丸事件を契機にした杉並の署名からという人たちもいますが、その前に広島から始まっています。峠さんは実名で原爆詩を発表したことで警察からもつきまとわれ、生活が脅かされることに怒っていました。それでも原爆詩を書き続けたんです。亡くなったあとも、いろんな誹謗中傷がありました。でもこうして50年たって蘇り喜んでいることでしょう。
 中島(解説) 日銀原爆展は4000人が参観して大成功しました。広島市民のなかには、峠三吉の時期の平和運動の伝統が脈脈と流れていることを確信させるものとなりました。

 前進感のある音楽高まり暗転。
(つづく)


トップページへ戻る