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   <狙撃兵> 当節の権力者のぜい弱さ    2005年3月26日付


 下関市長選のてん末は、市民の目を大いに開かせている。「市民が食っていけない」と市長の市外業者への発注に怒っている選挙で、「行政の効率化になる」といって開き直ったが、選挙のポスターまでも東京の業者に発注していた。「ゴミ袋の値段が高い」と婦人たちが怒って10万人をこえる署名を集めたが、選挙では「全国もやがてそうなるので安心してください」という。学校給食で犬猫以下のアルマイト食器を使わせていることに怒ると、はぐらかして「宇宙飛行士を呼んだり、野球場の電光掲示板をつくって夢を与える」などという。市民の批判にたいしては、選挙のときこそ、意地になって自己主張をし、「愚かな市民」に理解を迫る。このような人物が10年も市長をしていた。
 政治は、進歩的な政治であれ反動的な政治であれ、大衆の支持を得て、大衆を動かすというものでなければ役に立たない。進歩的な政治家はもちろんだが、いかなる反動政治家も、選挙というものがあって、この洗礼によって、大衆性が鍛えられる。有権者が票を入れなければ市長にはなれず、人人を働かせなければ税金の収入はない。いわんや戦争をやろうかというのも、人民をその気にする政治が動かなければどうにもなるものではない。「主権在民」といおうがいうまいが、本当のことをいうにせよだますにせよ、人民を自分の目的に協力させることができなければ、いかなる支配者もなり立たないのだ。
 当節は、わがまま放題で育った世間知らずの代議士の坊っちゃんが、ミコシに乗って権力者のポストにつく話が多い。流行のようにアメリカの学校に行って習い事をし、マスコミにのせられるだけでわかった気になって、人がなにを怒り、悲しみ、喜んでいるのか、どうすれば喜ばれ、どうすれば嫌われるか、理解する能力がないのである。権力者とはしもじもを搾り、締め上げるだけだと心得ているのである。人人は、これを「バカ殿様のご乱心」といい、「三代目で店はつぶれる」といっている。古今東西、人人が「世話になっている」と思っているあいだしか、その支配者はなりたたないのだ。
 下関市長選はたいへん興味津々の情勢となってきた。しもじもの市民の声が響きあって、怪物のように立ちあらわれ、選挙陣営の恐怖心を駆り立てているのである。かれらが恐れることはしもじもにとっては楽しいことである。下関の主人公はだれがなんといっても勤労する市民である。
                                       那須三八郎

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