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忘れえぬ徴兵制の記憶
戦地で200万人以上が死亡
             現代に警鐘鳴らす体験者    2014年7月9日付

 安倍政府が集団的自衛権の行使容認へと憲法解釈の変更を閣議決定したのを受けて、戦争体験者のなかで徴兵制の復活を危惧する声が高まっている。かつての大戦によって戦地で、また空襲や原爆で親兄弟を殺された痛恨の経験はぬぐいがたいものとして国民のなかに深く刻まれている。「お国のために」というかけ声で、一家の大黒柱はわずか1銭5厘(赤紙の切手代)で兵隊にかり出され、中国戦線をはじめ南方の島島など故郷から遠く離れた異国の地で、200万人をはるかにこえる兵隊が死んでいった。「貧乏になって戦争になっていった」当時の状況にそっくりになってきた今、再び戦争が起きれば、この超少子高齢化のなかで、徴兵制も遠い出来事ではなくなっている。子どもがいない安倍首相や最前線に立つ覚悟などない政治家たちが、アメリカのために他人の子どもを戦争に駆り出そうとしていることへの強烈な怒りが渦巻いている。
 
 他人の子殺した戦争指導者達

 広島市の90代の男性は、母が早くに亡くなったため、炭焼きの家に養子に出された。小学校6年生を卒業すると、それからは山仕事をさせられた。自転車がほしかったが買ってもらえないほど貧しかった。20歳で徴兵検査を受けたが、背が低かったため第二乙種となり、翌年の昭和17年に赤紙(召集令状)が来て、第1補充兵として広島の西部第10部隊輜重隊(輸送部隊)に配属された。
 上海事変で自爆して前線を突破した3人の若者が「肉弾3勇士」といって映画にもなり、いくら貧しくても「男なら戦果を上げれば有名になれる」と憧れる風潮が強まった。「このままではうだつが上がらない」と思って幹部候補生に志願し、神奈川県淵野辺の兵器学校で3カ月夜も寝ずに猛勉強をして西部第2部隊に編入。その後、伍長として広島城内にあった第5師団兵器部に配属された。「国のために死ぬことを教えるのが教育で、兵隊に行かなければ一人前とは見なされない。戦死者を出した家の玄関には“戦死者の家”という張り紙がされて国や地域の“誉れ”として崇められた。私の家も兄が戦死しているが、“戦死”の紙切れ一つでどこで死んだのかさえいまだにわかっていない。私の後から入ってくる召集兵はみんな年寄りばかりで、とても気の毒だった。40、50代が10代、20代の若者と集団行動をさせられるがついて行けない。しかもみんな2等兵で、息子のような年頃の上官に仕えるのだから哀れだった」と語った。
 「今はだんだんとあの時代と似てきている。とくに、安倍首相は口先では景気の良い話をするが、地元の下関を見たらまた軍事要塞にしようとしている。戦前も東条内閣になって戦時色が一気に増した。大企業だけ保護して末端は切り捨て、都会に集中して田舎も寂れさせて、ろくに食料も自給できない国になってしまう。こうやって国内が貧乏になればなるほど、欲望に任せて海外へ侵略していくようになる。だが、かつての戦争は結局“国のため”ではなかった。戦争は勝っても負けても国民が苦しむだけで、肥え太るのは軍人と大企業だけ。まして、今のように集団的自衛権でアメリカの盾にされたのでは日本は自滅だ。原爆を落とされた広島はあわれなものだったが、今度は前の戦争よりもっと悲惨なことになる」と危惧した。
 第1次大戦後のバブル景気がはじけて昭和恐慌に突入するなかで、飢饉にあえぐ農村では女子は小学校を卒業すると、口減らしのために製糸や紡績工場の寄宿舎に入って住み込みで働き、東北地方では娘の身売りもおこなわれた。農民一揆が2000件も起こるなど、国民の生活が困窮を極め社会不安は増していた。
 広島市の60代の男性被爆者は、こうしたなかで貧しい農家の次男、三男が生きる道を求めて満蒙義勇開拓団や軍隊へとかり出されていったことを語る。学校では教師から満蒙義勇開拓団の募集が呼びかけられ、「貧しい狭い農地で百姓をやるにも限度がある。満州では広い土地が与えられて手広く百姓がやれる」という誘い文句に、30人のクラスのうち4人が志願した。「みんな貧しい農家の3男坊、4男坊で引き継ぐ田畑もなく、新天地を求めて大陸へと渡った。小作農にとっては満蒙開拓は夢のような話だったが、よかったのは初めだけで、最後は集団自決や抑留など悲劇ばかりで、最終的に生還したのは一人だけだった」と語る。戦後、当時の担任が「いいことばかりいって苦労させた…」と謝りに来たという。
 「私自身、貧しい農家の4男坊だったので中学校には行けず、親に内緒で逓信講習所を受験して合格後に親を納得させた。19歳になると徴兵検査を受け、身体検査と所属する兵科を決められ、後は赤紙が来ればいつでも軍に召集される状態にされる。初めの頃は中年世代には召集免除の制度があったが、それも末期にはなくなり、どんな仕事をしていても赤紙一枚で戦場に引っ張られた。私が働いていた電信局からも男性は次次に出征し、女性ばかりになっていった」といった。
 周南市の80代の男性は、19歳から代用教員として小学校で働いていた。その前は中等学校に通っていたが、戦争で働き手がいなくなったため「早く働け」ということで4月の卒業を待たず、12月にくり上げ卒業になった。「20歳になるとみんな徴兵検査があり、甲乙丙を決められた。結核などの病気持ちは丙でそれ以外は甲か乙に振り分けられた。戦争が始まったころは乙は第1と第2しかなかったが、戦況が悪化すると第3乙がつくられ、以前は徴兵されなかったような、背の低い私のような者も出された。第3乙の者は青少年修練所で数カ月間訓練させられ、来る徴兵に備えた。赤紙が来たときには“とうとうきやがった”という心境だったが、そのような思いは絶対に出すことは許されなかった。そのころは近所一帯の若者はみな兵隊としてかり出されていたので、両親は“これでやっと人前に顔が出せる。よく兵隊に行ってくれた”と喜んだ。今考えると信じられないが、当時はそのような考え方があたりまえだった」と、当時の様子を語った。

 末期になると40代も 武器なく丸腰で

 中国へと侵略した日本軍は、抗日戦争の前にさんざんに敗北し、41年当時、100万の日本軍の主力は中国大陸に釘付けにされる状況であった。日米開戦時点で、戦死者はすでに18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。こうしたなかで日本の支配層は日米戦争へと突き進み、戦争末期には40代の家族持ちや病気持ちの人人まで、戦場へとかり出された。「家族を置いて戦地に来ている40代の補充兵は本当にかわいそうだった。10代の若者なら身軽に動けるが、敵が来たときに“伏せ”といわれても呆然とみている。それでたくさんの補充兵が犠牲になった」と語られる。
 また「出発前に武器を渡されたが、本物の銃を持たされたのは5人に1人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹で、腰に巻く弾倉は形だけで空だった」など、ろくな武器もなく丸腰で輸送船に乗せられて南方の島島へ送られ、多くが途中で撃沈されて戦地に着く前に犠牲になった。
 下関市内に住んでいる90代の女性被爆者は、兄弟4人がすべて戦争へ連れて行かれた。一番上の兄は志願だったが、あとの3人はみな徴兵検査で兵隊にとられた。「次男は八幡製鉄所に勤めていたので最初は徴兵を免れていたが、戦争が激しくなると召集がかかった。3番目の兄も結核だったので乙種だったが、やはり召集がかかり中国に行った」と話す。一番下の兄は小倉から輸送船に乗ってシンガポールに連れて行かれ、一番乗りで突撃し、肋を撃たれた。「動けなくなりもうだめかと思ったが、次の日に味方のトラックが捜しに来て、必死に茂みから這い出して助かることができたという。負傷したので日本に帰ってきて広島の陸軍病院に収容され、体内に残っていた銃弾をとるために肋骨を一本とった。そんな体なのに戦争が激しくなると再び召集された」。しかし奇跡的に4人とも生き残って日本に戻ってきた。「男子は徴兵検査を受けて兵隊になるのがあたりまえだった。みんな戦争で傷つき、原爆で傷ついた。兄の戦友は中国で突撃のときに、誤って背後から戦友に撃たれて亡くなった。戦争というのは本当に哀れなものだ。二度とするものではない」と痛恨の思いを語った。
 父を戦地で亡くした長崎市の被爆者の女性は「17歳のときに父が2度目の召集を受けて出兵した。一番下の妹はまだ生まれて1週間だった。1度面会に行ったとき冬なのにみんな半袖の軍服を着ていた。父は“たぶん南方に行くことになると思う”といって私に切った爪と髪の毛を渡した。そしてその後硫黄島に送られて玉砕した。父の戦死の知らせを受けて、白木の箱に入れられて日本に帰ってきた。私が首から下げて父の実家まで持っていった。あまりにもゴトゴトいうので骨壺を壊してはいけないと慎重に慎重に歩いたのに、実家について箱をあけると位牌がひとつ入っているだけだった」と語った。
 戦時中に軍港となった宇品の造船所で働いていたという80代の男性は、「宇品港は、日中戦争のころから全国から集められた兵隊が戦地に送られていたが、最初はたくさんの人が見送りに来て“○○君、万歳!”と盛大にやられていたが、最後には出征そのものが軍の機密になり夜中にこっそりと宇品まで連れてこられ、どこに行くのかさえ知らされなかった。兵隊には銃も帯剣もなく、2bほどの孟宗竹を1人1本持たされていた。船が沈められたときの浮き輪代わりだった。木造貨物船の船底に人が乗れるように壇を作り荷物と一緒に兵隊を積み込んでいた。魚雷でも当たればとても逃げれるものではない。粗末な船しかなく“轟沈型”と呼ばれていた。わざわざ死にに行かせるようなものだった」と怒りを込めて語った。
 広島の野砲隊第六部隊に通信技術兵として入隊し、その後、西部軍管区兵器部に行っていた80代の男性は「町工場から廃品のヤスリを持って帰らせて、別の技術兵には手裏剣を作らせていた。それだけ物資が無かった。軍服や軍靴も傷病兵や戦死者の使い古しのものを被服廠へ集めて血のりは洗い直し、破れたところは繕って新兵に支給していた。だから服のサイズがまったく合わなかったり、軍靴も右と左が違うなどはザラだった。銃も数人に一挺くらいに減りそれも日露戦争で使っていた三八歩兵銃。腰に差している帯剣(銃の先につける剣)は竹光だった」と当時の日本がもはや戦争などできる状況ではなかったことを強調した。
 17歳のときに海軍に志願した男性は「日本は明治のときから徴兵制が始まった。しかし、戦争が大きくなって徴兵では兵隊が足りなくなり、だんだんと志願兵を募るようになっていった。徴兵でとられた兵隊も2年では復員させてもらえなくなり、復延といって何年も軍隊に残されるようになった。だから年数的には下士官くらいの上等兵がたくさんいた。あのころはお国のためにと兵隊になるのが当然という空気だった。今“お国のために戦争に行け”といっても誰が好きこのんで行くものか。戦争になれば確実に徴兵制が始まる。当時も、終戦間際には40代の兵隊がたくさん送り込まれてきたが、そんな人たちが戦場に来ても役に立たない。だから、飯炊きや運搬を担っていた。今はもっと技術が進んで武器を使いこなせなければ使い物にならない。だから、訓練を受けた自衛隊はみんな連れて行かれる。そうなると後方部隊の人員が足りなくなる。徴兵で連れてこられたような人たちがそこで働かされる」と話した。
 1銭5厘の赤紙、今でいえば52円の葉書1枚で国民を召集し、「おまえたちは馬より安い」(当時馬は800円)といって、戦場で虫けらのように人人の命を扱った。戦地だけでも250万人もの国民を殺したのがかつての大戦だった。看護婦も兵隊と同じで、赤紙が届けられるとどんな小さな乳飲み子を抱えていようが、強制的に従軍看護婦として外地の野戦に送られ、資格を持った看護師は国内にほとんど残っていなかったため看護学生が切り盛りしていた。働き手のいなくなった分を補うために、国内に残った婦人や子どもたち、また朝鮮や中国から連行された人人が軍需工場や炭鉱での労働、農作業を担っていた。

 自衛隊だけでは足りず 超少子化の現代

 戦争するとなったとき、69年前よりも兵器が発達し、戦闘方法が変わったにしても、現在の二十数万人の自衛隊で足りるはずがない。しかも超少子化社会で人手不足は深刻である。徴兵制がより早く導入され、「30〜40代まで引っ張られる」状況が以前よりもスピード感を持って迫ってくることは疑いない。高齢者は山ほどいるが、若いピチピチの兵隊の絶対数が以前とは比べものにならないほど少ないからだ。
 集団的自衛権の行使や改憲を迫ってきたのは米国で、イラク戦争以前からずっと日本政府に対して自衛隊の出動を要求してきた。米軍そのものが人手不足で、国家財政にとってもその維持費が重荷になっているなかで、日本をタダで戦争に引きずり込み、米軍の指揮系統で動かす駒として利用していくものにほかならない。米軍任務の外部発注で、コストをかけずに属国の若者を動員するものとなっている。
 最近になって、自衛隊がテレビCMを流したり、ツイッターで情報を配信したり、各地の祭りにくり出したり、宣伝を強めているのも特徴になっている。一方で高校を卒業して就職先のない若者が自衛隊に入隊する数も増えている。長男を大学にやったら次男や3男は経済的に進学させることができず、彼らが手に職をつけるために自衛隊に入ったとかの話は絶えない。非正規雇用ばかりでまともな仕事がなく、自衛隊に入った方が手取りがはるかに良いのも事実で、しかも資格が取れるといって入隊する若者もいる。そんな若者たちが「アフリカ行ってこい!」「イラク行ってこい!」と米軍の鉄砲玉として世界の紛争地帯に駆り出され、命がけで米国や多国籍資本の海外権益を守らなければならないところへきた。
 「お国のため」、「産めよ増やせよ」といって他人の子どもを問答無用で引っ張っていった挙げ句、ボロ雑巾のように戦場で酷使し、大切な親兄弟を殺していった。戦争指導者どもの犯罪は忘れ去られるようなものではない。戦後69年が経過したなかで、戦犯の孫が米国の機嫌取りのために有頂天になって集団的自衛権の行使に道を開き、手柄をたてようと暴走している。戦争を阻止するたたかいを全国各地で組織して束ね、日本社会の未来をかけた斗争を挑む情勢が到来している。

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