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世論動員した大新聞の犯罪
「暴支膺懲」叫ぶ権力者援護
               現代も繰返す大本営発表    2015年2月27日付

 「積極的平和主義」「邦人保護のための集団的自衛権の行使」を唱えて憲法解釈を変更し、武力参戦を首相が叫び、「明確に日本の立場を主張するのは当然。政府が右といえば左とはいえない」とNHK会長が放言する。政府の言動と「不偏不党」が建前のマスメディアの一体化が目に余るものとなっている。それは、戦前・戦中に情報を統制し、他民族への憎しみを煽って国民を戦争に動員し、破滅的な敗戦に導いたかつての大本営発表を彷彿とさせる。二度とあのような戦争をくり返させないというとき、かつての戦争で政府やマスコミがどのように国民をだまして戦争へと誘導していったかを見ないわけにはいかない。『朝日』を先頭にした当時の新聞報道と照らしあわせて検証したい。
 
 第二次大戦でなにをやったか 「邦人保護」「自衛権」と煽動

 戦前から戦後にかけて、国民にとって主要な情報源は『朝日』『毎日』『読売』などの商業新聞であった。なぜあのような戦争を食い止めることができなかったかということを考えるとき、支配権力の軍隊、警察、裁判所、官僚機構など、天皇を頂点とする独裁的な弾圧体制の凶暴さもさることながら、大新聞による連日にわたっての国民への洗脳や宣伝の努力、反戦的な勢力を攻撃していった努力を抜きにして考えることはできない。彼らは戦後、「軍部の圧力によってものがいえなかった」といういいわけのうえに、まるで平和主義者であったかのように振る舞ってきたが、戦前から戦後にわたって言論統制の積極的な推進者であった。
 戦争体験者の多くが「気がついたら戦争だった」「ものがいえなくなっていた」といわれるように、満州事変以来、太平洋戦争に突入し、そして無残な敗戦を迎えるまで国民の心をもっていくために、『朝日』をはじめとする大新聞はその世論形成に細心の注意を払った。あたかも国民世論を反映しているかのように見せかけつつ、実際は戦争遂行に都合のいい世論をつくりあげ、国民のなかに流れている真実の世論を圧倒的な活字と紙の量でかき消すことに努力を惜しまなかった。
 とくに商業マスメディアが、その権力のプロパガンダとしての本質を露わにしたのは、1931(昭和6)年の「満州事変」であった。
 当時、日本は日露戦争でロシアから得た権益を守るため中国東北部に軍を駐留させ、満鉄をはじめ半官半民の国策会社を進出させ、『商祖権』の名目で25万町歩に及ぶ土地を買収するなど植民地支配を拡大させた。
 国民に対しては徹底した皇国史観の教育で、「神国日本」「大東亜の盟主」との意識を植え付け、満州における「五族共和」(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を協調させる)の責務があるとし、不況にあえぐ国民には「王道楽土」のスローガンの下、理想郷のような宣伝で移住を促した。これを「国土略奪」として中国現地で抗日世論が活発化するなかで、日本企業や邦人「保護」のために軍隊を駐屯させてこれを押さえつけた。
 そして、9月18日、ついに奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近で満鉄線路の爆破事件をでっちあげ、それを中国側のしわざとして本格的な軍事侵攻を開始し、以後15年にわたる中国との戦争へと突入した。
 即日、国内で連続的に発行された号外では、「暴戻なる支那兵が満鉄駅を爆破し我守備兵を襲撃したので我守備隊が応戦」「日本軍は奉天居住邦人の安全を期するため奉天城内のみならず城外にも兵を進め…支那軍の東大営も攻撃することに方針が決定した」との電通特電とともに「日支兵衝突交戦中/東北軍の殲滅を期す」「城内の居住邦人は付属地への避難不可能」「激戦で我兵一九名戦死/負傷者廿二名を出す」(『大阪朝日』)などの見出しが躍った。
 翌日の各紙朝刊では、「奉軍満鉄線を爆破/日支両軍戦端を開く/我鉄道守備隊応戦す」(『東京朝日』)、「奉天軍の襲撃から/日支両軍遂に交戦/我軍北大営の一部を占領/更に奉天城を攻撃」「両軍衝突の原因/支那軍満鉄線を爆破/わが守備隊を砲撃」(『毎日』)など、各社一斉に「中国側のテロ行為」という同じ図式でこの事件をセンセーショナルに報道。政府や軍部の圧力でやむなくというものではなく、判を押したような論調が示し合わせたように一斉に報じられている。
 『大阪朝日』の社説「日支兵の衝突」では、「曲(不正義)は彼れ(中国側)にあり、しかも数百名兵士の一団となっての所業なれば、計画的破壊行為とせねばならぬ。断じて許すべきでない。そもそも満鉄はわが半官半民の経営幹線なりといえども、わが国の利益のためのみに存するものでない。世界交通路の幹線である。万国民の公益擁護のうえから、これが破壊を企つものは、寸尺の微といヘども容赦はできない。わが守備隊が直ちにこれを排撃手段に出たことは、当然の緊急処置といわねばならぬ」と断言。
 さらに、それまで満州では「馬賊匪賊」などの「殆ど人類と認めがたき野獣の被害」を受け、「やむをえず在留邦人の生命財産保護にも自衛の施設」をつくるなど、堪え忍びながら「交通機関の保護」や「両国民のため治安維持」にあたってきたが、「世界交通路の一大幹線を破壊するの暴挙」は分秒も許しがたく、「破壊者の排撃を敢行したのは蓋し当然の措置」「内外に向かって真相を声明すべき」とくり返し強調している。
 また、9月22日付では、「満蒙問題早わかり」とする編集部の時局解説を大きく掲載し、「満蒙はわが国の生命線であり、日本外交の枢軸」とし、国際条約によって日本が満州に保有する諸権益として「@日本人の満州における生存権(居住、営業、土地租借権)、A工業原料の保有搾取、B領土に関するもの、C鉄道に関するもの、Dこれに附属する駐兵権」をあげ、「いずれも支那のために無視せられ、我が権益の不法に蹂躙された事実は枚挙にいとまがない」と正当性を主張した。
 「証拠は歴然! 支那兵の満鉄爆破」とする現地特派員のルポ(『大阪朝日』)では、「散乱するレールや枕木・逃走の足跡を示す血痕・我兵に撃たれた三つの死体」などが、関東軍の「支那によるテロ行為」という証言を裏付けるものとしてまことしやかに描写されている。これらがすべて日本軍による自作自演であり、それを政府もマスコミもみな知っていたことは、戦後明らかにされたことである。
 それ以降、「頻々繰り返された満鉄運行の妨害/支那側の深い企みは明瞭」「帝國軍隊の行動は正当な権利擁護のみ」「自衛権の行使で交戦にあらず」(『大阪朝日』)などの見出しが毎号の紙面に躍り、「南支、長江の邦人不安」として「重慶の邦人は軍艦に避難す/沙市でも避難準備中」「邦人商店に投石暴行/香港の反日運動」「保護付きで登校/上海日本小学生」「全力あげて日本人を保護」など、「平和的秩序の安定」のために献身してきた現地邦人がいかに迫害され、軍による保護が必要とされているかを強調して、軍の侵攻を側面から補完した。政府とマスコミが一体となってつくり出したこの事件を引き金に日本軍は満州全土を占領し、翌年には傀儡政府による「満州国」をでっちあげた。
 満州国には、終戦までに国内各地から27万人に及ぶ開拓民を国策として移住させ、新興財閥ながら政府要請で進出した日本産業(日産)コンツェルンをはじめ、三井、三菱、住友、大倉などの財閥グループが銀行、石油、食料、化学、パルプ、セメント、交通などあらゆる分野の企業を進出させ駐留する何十万人もの関東軍や警察の庇護を受けながら巨万の富を手にした。
 米英などの国際連盟が満州事変に異議を申し立てたことに対して、『東京朝日』の社説「事変の正解を望む」(9月25日)では、「満洲の日支関係困難であったとはいえ、支那兵の満鉄線爆破なかりせば、日本守備兵は動かなかったであろう。しかしてこれは自衛権の当然なる発動に外ならぬ」「これには“在留臣民の生命財産の保護”も一理由たり得る場合あるを忘れてはならない。然るに南満鉄道は、第一、日露戦争の成果の一として幾多条約によって日本の手にあるもの、普通の財産を以て目すべきではない。第二、満鉄は万国通商の公路であり、一刻の障害も許すべきものではない。支那官兵もしこれが破壊を企つる如きことあらば、自衛権の行使は当然過ぎる程当然であらねばならない」とした。
 「満蒙は日本の生命線」であり、「自衛権の範囲内」であることを強調している。

 今と酷似する内容 中国の爆破事件を捏造

 80年前のこれらの主張を、現在の安倍首相の発言と比べてもなんら違和感がない。最近だけみても、「海外邦人の保護」といって集団的自衛権行使を容認する閣議決定をしたのをはじめ、「この海域を守ることはわが国にとって死活的に重要であり、国際社会の平和と安定、繁栄に不可欠」といってソマリア沖での海賊退治にも自衛隊を派遣した。自衛隊に機雷除去に行かせる中東ホルムズ海峡について「日本にとって死活的に重要な地域であり、集団的自衛権の範囲内」と強調しているのもうり二つである。
 「イスラム国」による人質事件でも、人質がいることを知りながらアラブ諸国を歴訪して「イスラム国壊滅のために空爆を」「2億j支援」と挑発し、わざわざ人質を殺させる口実を与え、いざ2人が殺されると「非道なテロ」「罪を償わさせる」と叫んで、今度は「邦人保護」といいながら国民全体をアメリカの戦争に巻き込む「安保」法制の整備を急いでいる。
 また、表面的には批判を装いながら、自主規制を敷き、安倍擁護に余念がないのも同様である。
 人質事件直後の1月21日の『朝日』社説「イスラム国―許しがたい蛮行だ」では、「日本からの医療や食料の提供は、住んでいた街や国を追われる人たちが激増するなかで、不可欠の人道的な援助である。“イスラム国”に向けた攻撃ではなく、脅迫者たちの批判は筋違いだ。安倍首相は記者会見で“許し難いテロ行為に強い憤りを覚える”と述べ、中東地域の平和や安定を取り戻すための非軍事の支援を続けていく意思を強調した。毅然(きぜん)として向き合っていくべきだろう」と、「イスラム国」に口実を与えるあからさまな言動で邦人の生命を危険にさらした安倍首相を全面擁護した。
 人質殺害が判明した直後の2月2日の社説「イスラム国の非道―この国際犯罪を許さない」では、「安倍首相の中東訪問をとらえた脅しだった。“イスラム国”のために住む場所を失った難民への人道支援を表明した日本政府を責めたて、身代金や人質交換に応じなければ殺害するという主張は、独りよがりでおよそ道理が立たない。残虐きわまりない犯人と組織を強く非難する」とし、「2人の日本人のほか、人質となった米国人、英国人が殺害された事件も含め、訴追と処罰を求める国際社会の圧力を高めていくべきだ」と、「イスラム国」批判を逆手にとって中東の混乱を生んだアメリカのイラク攻撃や日本政府の荷担には目をつぶり、「イスラエルへの支援はあくまで人道的なもの」「テロリストに罪を償わせる」と叫んで有志連合の仲間入りを主張する安倍首相を援護している。
 アメリカの尻馬に乗ってアラブの矛盾に火をつけて油を注ぎ、国土と邦人をテロの標的にさらす安倍首相の武力参戦路線を正面から批判する論調はまったく見あたらない。これもまた80年前とそっくりである。これは、かれらが戦時中に支配権力にとり入って戦争推進の旗振り役を担ったのと同じように、今度は日本の実権を握って戦争に引きずり出そうとするアメリカに尻尾を振り、意向を忠実にくみ取っていることに他ならない。

 盧溝橋から全面戦争へ 排外熱煽り政府を叱咤

 「満州事変」から6年後の1937(昭和12)年7月7日、義和団事件を契機に5000人の兵員を駐屯させていた日本軍が北京郊外で夜間演習中、「一発の銃声」から盧溝橋事件が勃発。中国・華北の軍閥長・宋哲元はすぐに日本軍に屈服し、11日には停戦協定を結んだが、同日、東京では近衛内閣が「支那の計画的奇襲」とし、内地からの派兵を閣議決定した。このときも新聞各社は、事件発生と同時に政府に先立って「暴支膺懲」(横暴な支那を懲らしめよ)の一大キャンペーンを開始し、徹底した排外主義を煽り立てた。
 『東京朝日』は連日、「血迷った支那兵が発砲」「挑戦する支那・誓約を無視」「南京政府・和平の意思なし」「狡猾極まる態度」「支那軍また不法」の見出しを掲げ、2日後には現地特派員の「今回の事件は支那側の挑発的不法射撃によって発生せるものなること一点の疑いもなく、戦友中に死傷者さえ出した。我が将兵一同の痛憤もさこそと思われる」との報告を掲載。現地駐在武官の「日本軍の攻撃はやむをえぬ自衛行動であった」との談話も掲載した。
  『東京日日』(毎日)も「支那軍・不遜行為を繰返す」「不法支那軍反省せず」「嘘つき支那厳重監視」「支那自ら蹂躙し挑戦」「反省の色なき支那」「暴戻支那軍膺懲に三度交戦」「仮面下に爪を磨ぐ支那」といった見出しで、これまでの積み重ねに輪をかけて中国への排外主義を加熱させた。
 事件4日後には、各紙が近衛首相の声明を号外で発表。「相次ぐ支那側の侮日行為に対して、支那駐屯軍は隠忍静観中のところ、日本と連携して北支の治安にあたっていた第二十九軍(中国軍)による盧溝橋付近での不法射撃に端を発し、わが在留民はまさに危殆に瀕する」とし、それでも日本側は和平解決の努力をしてきたが支那側の攻撃は続くため、「全く支那の計画的武力抗日なることもはや疑いの余地」なく、「北支派兵」を閣議決定したことを表明。続続と軍を送り、全面的な中国への侵略戦争へと突入した。
 以降、「暴支膺懲・きょうぞ最後期限」「自衛権発動の派兵」「反省を促す派兵」「支那の暴戻なる挑戦に今や急転重大化の恐れ」(『大阪朝日』)など、軍発表をそのまま見出しにした大本営発表に徹するとともに、「不安のどん底から邦人続々引揚げ! 街に響く“日本人を殺せ”の声」「“暴戻支那”に備え『銃後の護り』総動員!内地の警備と救護の完璧へ」と不安を煽り、それまであった「事件拡大させぬ最善の努力を」などの欺瞞的な装いも消えて、国民に「挙国一致」の覚悟を否応なく迫る論調で埋め尽くされていった。
 また、「壮烈・仰ぐ護国の人柱/南苑の激戦に花と散った誉れの京阪神出身兵士」(『大阪朝日』)として64人の戦死者を写真入りで紹介し、“兄の恨みを僕が”という戦死者の弟、“軍人の母として本望です”との母親の声を「凜たり! 武人の母」として称賛している。日本軍が上海攻撃を終えた10月28日の「天声人語」では、これだけの犠牲を払ったのだから占領地に傀儡(かいらい)機関をつくるなどのなすべきことをやれといい、そうしなければ「たぎりたった国民の愛国熱が承知しないだろう」と政府の尻を叩いている。
 「戦争不拡大」の方針を掲げながら、現実には「自衛権行使」といって侵略行為をくり広げた結果、満州だけでも24万5000人をこえる日本軍兵士が犠牲になった。また、敗戦が濃厚になっても国民には「勝った、勝った」の大本営発表で事実を伝えず、敗戦を察知した関東軍の上層部は邦人を守るどころかいち早く逃避し、極寒の地にとり残された子どもや女性、年寄りを含む24万人をこえる民間人、6万人の兵士たちは凄惨極まる避難のなかで死んでいった。泥沼化した中国戦線では71万人の兵士が帰らぬまま異境の土となった。
 1941年12月、対日参戦の機会をうかがっていたアメリカとの植民地争奪戦争に突入してからは、南の島に送られた兵隊は餓死と病気で死に、丸腰の輸送船で送られては撃沈され、広島、長崎では原爆投下で数十万人が焼き殺された。沖縄戦では二十数万人、東京空襲では10万人が殺され、全国60もの都市が空襲で焼き払われた。政府やマスコミが「平和のための自衛権行使」「支那によるテロ殲滅」「邦人保護」と叫んで始めた戦争によって320万人もの邦人が犠牲になった。
 あれから70年たった今日、とくに安倍政府の登場から人質事件まできて、大多数の国民にとって「とうとう開き直っていつか来た道を歩み始めた」との実感が広がっている。それは第2次大戦と同じ破滅の道であると同時に、今度はアメリカに食い物にされたうえに、その鉄砲玉となって他国を攻撃し、みずからも破滅の戦争に引きずり込まれ、日本全土が盾にされるという恥ずべき道である。

 戦前から権力の中枢 戦後は米国支配の道具

 戦争が苛烈になるなかで、国内では治安維持法を振りかざした特高警察による血なまぐさい言論弾圧が吹き荒れた。共産党員にとどまらず、それがたとえ日常会話であっても反戦的、批判的な言動をしたものは「スパイ」「非国民」のレッテルを貼られて片っ端から検挙された。地方紙や雑誌も同人誌もみな検閲の対象となり、統制とともに廃刊に追い込まれた。この時期、大新聞が権力とどのような関係にあったか。
 日中の全面戦争がはじまる前年の1936(昭和11)年には、言論・情報統制強化のために内閣情報委員会がつくられ、翌年には内閣情報部へと強化された。そこには、新聞・通信・放送界からは、緒方竹虎(朝日新聞社長)、高石真五郎(毎日新聞最高顧問)、正力松太郎(読売新聞社長)、古野伊之助(同盟通信社長)、芦田均(英字新聞ジャパン・タイムズ社長)、片岡直温(実業家)が、出版からは、増田義一(実業之日本社社長)、野間清治(講談社社長)など、当時の商業メディアの中枢が参与として顔をそろえている。
 この情報部は、国内外の言論を含む情報全般を監視して政府や軍、財閥中枢と密に連絡をとりあい、国策遂行のために積極的に宣伝、啓発するなど国民世論のコントロールを役割としており、そのためにあらゆる企画・宣伝の立案、愛国行進曲の募集や制定、時局講演会や展覧会などを全国各地で展開して世論統一を図った。
 1937年には、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンで戦争への協力意識を徹底するため国民精神総動員運動が始まり、その推進組織として国民精神総動員中央連盟(緒方竹虎、高石真五郎、古野伊之助が理事に就任)が結成され、「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ!」「進め一億火の玉だ」などの標語を広げながら、国民への耐乏生活を強いるさまざまな法令を浸透させる空気がつくられた。勤労動員を拒んだり、国防献金に積極的でなかったりしたものには、まさにその街に住むことができなくなるほどに紙面上で書き立て、戦争の提灯を持つことを誉めたたえた。
 そのような全民族的な規模での思想統制を下地にして、38年には国家総動員法、39年には国民徴用令が公布され、日米開戦前年の1940年には全政党が解散し大政翼賛会が発足する。
 この年、内閣情報部は言論統制の最高機関・情報局となって大幅に組織や権限を拡大した。総裁として入閣したのは朝日新聞の緒方竹虎(国務大臣を兼任)であり、後任総裁は日本放送協会(NHK)会長の下村宏であった。大新聞をはじめとする商業マスコミは、「弾圧される側」であるどころか、最初から終わりまで国民を弾圧し、国民を否応なくあの無謀な戦争へと引きずり込む側であった。
 彼らは敗戦後、GHQ占領軍が「100万の軍隊に匹敵する」といって天皇を免罪・擁護したのと同じく、ほとんど例外なく釈放され、首相や大臣クラスへ出世していった。「大東亜共栄圏」「鬼畜米英」を叫び国民を戦場に送った同じ口で、今度は新たな支配者となったアメリカに媚びていった姿は、一握りの支配権力が大多数の国民を支配するために、その道具となって尽くす商業メディアの本性をいかんなく暴露している。

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