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残忍な新自由主義イデオロギー
佐世保・女子高校生殺人事件
              権力層の腐敗世界を反映    2014年8月4日付

 長崎県佐世保市の高校1年の女子生徒(16歳)が友人だった同級生女子を殺害し、解剖するという猟奇的な事件が発生し、世間を震撼させている。佐世保市では以前にも小学六年の女児が同級生の首をカッターナイフで斬りつけて殺害した事件があったが、生身の人間を平然と殺せる子どもたちが現代社会のなかで生み出されていることにみなが背筋を凍らせた。「恨みはなく解剖したかった」が殺害の動機とされているが、冷酷で残忍極まりない殺人に躊躇がないという点において、89年に埼玉幼女連続殺害事件を引き起こした宮崎勤、97年に神戸連続児童殺傷事件を引き起こし、男児の生首を校門に置いていった酒鬼薔薇聖斗などとも共通するものがあり、事件の性質として偶然ではない必然性がそこにはある。どうしてそのような子どもができあがったのか曖昧にすることはできず、現在の子どもたちにあらわれているイデオロギーの特質とも合わせて、社会的問題として捉えることが求められている。
 
 知名士一家の下でモラル崩壊

 事件は7月26日に起きた。これまで明らかになっている経緯をまとめると、加害者の女子生徒Aが被害者である女子生徒に1週間前から遊ぼうと話を持ちかけ、2人で昼間にショッピングをして楽しんだ後に、Aが1人暮らしをしているワンルームマンションに行き、そこで犯行に及んだとされている。被害者の女子生徒は夕方6時40分頃、母親に「7時頃に帰る」とメールしていたが、帰ってこないので母親が加害者の親に連絡してAに確認したところ「6時30分頃帰った」とうそぶいていた。夜遅くになっても娘が帰ってこないので、心配した被害者の母親は警察に通報し、午前3時過ぎにAの父親と警察がAのマンションを訪れ、本人は「知らない」と嘘を貫き通していたが部屋に踏み込むと、血まみれの被害者女子生徒がベットに寝かされていたとされている。その首や左手首は切断され、腹には開腹したような跡があったこと、部屋からは犯行に使ったと見られるハンマーやノコギリが見つかり、Aはその場で逮捕されることとなった。その後、部屋から人体解剖図などが描かれた医学書も見つかった。
 恨みもない唯一の友人を殺して解剖する。殺すことに何の痛みもためらいもなく、むしろ勉強のために解剖したような印象すら受ける。警察の事情聴取に対しては淡々と応じ、反省の弁がないことが報じられている。「自分がすべてやった」「(中学生のころに猫を解剖し)人も解剖したいと思うようになった。我慢できなくなった」「遺体をバラバラにしてみたかった」と供述している。
 事件後の報道に対してAの弁護士は「父の再婚に反対していたという事実はない」「はじめから賛成していた」「再婚について心情を友人に話したことはない」「父親を尊敬している」「母が亡くなって寂しかったので新しい母が来てうれしかった」等等を記して報道機関に文書を配布。訂正を求めるような振る舞いとなった。殺人への反省よりもまず報道への注文に目が向くところにも独特の対応があらわれている。
 その後、各種報道から明らかになっている事実をまとめると、Aの一家は佐世保でもよく知られた知名士の一族で、父親は長崎県最大規模の弁護士事務所を経営し、昨年秋に亡くなったという母親も東大出の高学歴で佐世保市教育委員を歴任したり、各種団体の長を務めるなど街の顔だったこと、母親の父が長崎県の地方紙社長であるなど、いわば佐世保なり長崎の権力層に属していたことである。A自身はスポーツも万能で成績も優秀。ピアノや絵画の腕前もそこそこで、エリート一家の英才教育を反映した育ちだったようである。進学した高校は長崎県北でも有数の進学校だった。
 勉強もできる。スポーツもできる。しかしモラルは形成されていなかった。小学校の頃に気に入らない複数の同級生の給食に漂白剤を入れて問題を起こしていたこと、中学校の頃には猫を殺して解剖するなど幾つも問題行動を起こしていたし周囲は心配していたが、厳しく指導されたり、規制されることが乏しかったようである。母親が昨年秋に亡くなり、喪が明けないうちに父親が20歳以上年齢の離れた女性と再婚し、入れ替わりでAの一人暮らしが始まったが、再婚が決まった後に「尊敬している」という父親の寝込みを襲い、金属バットで頭部を殴打していたこと、「頭蓋骨が陥没し、歯はボロボロだった」(知人男性の話)という証言も報道された。
 Aを診ていた精神科医は児童相談所に「いつか人を殺しかねない」と訴えていただけでなく、親に対しても3度にわたって「危険な状態」で大変なことを起こす可能性があると伝えていたがそのままにされていたことも明らかになった。また、高校には3日しか通っていないものの、学校側が親に対して「一人暮らしはよくない」と忠告していたが聞き入れられなかったとされている。
 事件から1週間近くが経過した2日になって、Aの父親は「どんな理由、原因でも娘の行為は決して許されるものではない」「複数の病院の助言に従いながら夫婦で最大限のことをしてきたが、私の力が及ばず誠に残念」と書面を発表した。「許されない」ことは当然として、その教育責任はどうだったのかについて親としての深い反省の言葉は乏しく、早速遺族への賠償や補償について触れるところに弁護士独特の感覚がにじみ出るものとなった。
 事件はきわめて特殊である。現代の子どもたちが一般的に同じような殺人を引き起こすわけではない。親が佐世保の権力層に属し、教育委員や弁護士という地位にあり、周囲は様様な問題行動について気にしているのに指導したり、規制する力が加えられず、野放しになった。給食への漂白剤混入、猫の解剖、父親への殴打など何度も人間形成にかかわる重要な局面があったにもかかわらず、本人を強力に指導し社会に規制していく力は弱かったと見るほかない。指導がなかったというなかには、優等生で勉強もでき、スポーツもできるという評価が関係していたことも容易に想像がつく。しかし肝心な人間としてのモラルは育たず、学校という子どもにとってもっとも多くの他人と接しなければならない環境では孤立して登校拒否になり、最後は興味と関心で友人を殺害解剖するまで行き着いた。
 「母親が亡くなって半年もしないうちに再婚した父親への恨み」など諸諸の事情や精神崩壊の要因が取り沙汰されている。しかし反発もしながら、誰よりも父親なりの影響を受け、その社会的地位や経済的な依存関係のもとで成長してきたことは疑いない。加害者である女子生徒の成長過程や家庭環境については特殊性があり、いわゆる一般家庭の子弟とは異なる。真相はさらに徹底解明が求められるが、裕福で佐世保においても権力層に近かった家庭の影響を受けて思想・感情世界が形成されたことと、身勝手に他人の生命を奪っていくような冷酷な人間になってしまったことは決して無関係とはいえない。

 親・教師の団結で打開へ 凶暴な個人主義と斗い

 事件とかかわって早速、発達障害やサイコパス(精神病質)といった病名が取り上げられている。しかし精神を病んでいる人間がみな他人を殺して解剖するのか、という疑問に対する答えにはならない。どうして今回のようなあらわれになったのかは、病気だけで説明がつくものではない。その社会的要因や近年くり返されている若者の身勝手な犯罪、殺人事件との共通性、子どもたちにあらわれているイデオロギーの問題として捉えなければならない性質を持っている。
 いきなり通行人を刃物で切りつけたり、自暴自棄になって車で歩行者に突進したり、みずからの思い通りにならなければ、その鬱憤を他人にむける凶暴さと、強烈な個人主義を特徴にした事件があいついでいる。極端な犯罪に行き着かないまでも、個人主義を土壌とした子どもたちのなかでの悪質ないじめや、それに応戦した自殺という仕返し、不登校など今や珍しくない。その人間関係や思考にどのような特徴や傾向性があるのか、取り巻く家庭環境や教育環境はどのようになっているのかである。
 最近では50歳近くにもなって「自分好みの女に育てたい」という変態的な女児連れ去り犯もあらわれた。阪大卒のエリートで、今時学歴など物差しにして人間を見ていたらろくでもないことを伺わせた。通り魔犯は仕事もせずに親からマンションをあてがわれゲームに熱中している男であったし、車で歩行者に突っ込んだ若者も警察官の息子で仕事もせずに一人暮らしを世話してもらっていた。エリートから転落した者や、裕福な家庭に生まれ身勝手な育ちがこうじて社会に規制することができず、最終的に反社会的な表現をするという事例も多い。
 子どもたちは多感な時期に努力したり、辛抱したり、楽しいことも楽しくないことも様様に経験をくり返して、そのなかで仲間たちと団結もすれば喧嘩もして社会性を身につけ、成長をくり返していく。しかし、極端な自己中心を温存したまま、指導されたり、規制されることがなく、自由放任で興味と関心がすべてで果ては他人の生命すら奪っていくような冷酷な人間もあらわれている。自由、民主、人権、個性重視で文科省が「好きにやりなさい」といって進めてきた新自由主義教育の産物以外のなにものでもない。親が子を持て余し、学校も手が出せない状況は今や普遍的である。
 他人を殺めることに躊躇がなく、反省がない。冷酷極まりない人間が量産され、連日のように女児連れ去りや殺害事件が後を絶たない。世界はカジノ資本主義で、ヘッジファンドが他人の不幸を密の味にして無慈悲にカネを巻き上げたり、中東ではイスラエルが壁のなかにパレスチナ人を押し込めて爆弾を撃ち込んでいく冷酷さとも似ている。日本国内でも福島であれほどの大惨事を引き起こしておきながら放置する残酷な政治がやられている。社会全般で住民の生命や安全などないがしろにして、大企業だけが好き放題にもうけていく冷酷さとも似ている。
 新自由主義が花盛りの時代で、こうした支配階級のイデオロギーが親の生活意識や学校教育を通じて子どもや若者のなかに浸透し反映している。自由・民主・人権のイデオロギーが人殺しを平然とやってのける人間をつくり出している元凶といわなければならない。現代版・軍国主義教育というべきもので、首相が叫ぶ集団的自衛権のもとでこうした殺人鬼が戦場で人を殺せば「英雄」である。
 この間、教育現場では物事を願望からではなく社会的、歴史的にとらえて解決するような力が骨抜きにされ、科学的に考えたり、批判的にとらえる力が弱まっていることが問題にされてきた。短絡的で自己顕示欲が強いことと同時に、あきらめや敗北、凶暴さがセットになっている傾向性を多くの教育関係者が危惧してきた。社会がどっちに向こうと関係なく「自分の思い」通りにならなければはぶてたり、怒ったり、果ては人を殺める人間が出来上がっていくことへの危惧として語られてきた。
 親や教師、さらに社会全体が団結して、凶暴な新自由主義イデオロギーとの意識的な斗争をやり、社会的な運動にすることが待ったなしとなっている。


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