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豊北町のように全町民の団結実現を
上関町長選 本当の候補者は上関町民
                                          2003年3月15日付

 上関原発計画は22年たって最終局面を迎えている。各陣営の選挙戦は、反対派1人と推進派3人が立ち、それぞれの利害確執にもとづく対立抗争は、町民の方をむくのでなく各候補側と中電の方をむいた空中戦となってますます舞い上がるすう勢である。大多数の町民の悲願は長年町民を苦しめてきた原発を終わりにすることである。中電が持ちこみ、国や県、自民党、マスコミや企業などをつうじ、町内の代理人をつくって推進してきた原発をこの選挙をつうじてどう終結させるか、そのためにどう行動することが町民の利益か、町民の論議は下から大きく盛り上がっている。25年まえ、中電の原発計画を完膚なきまでうち負かした豊北斗争の経験と照らして、上関の勝利の方向を考えてみたい。

  祝島の不幸も解決へ
 上関町全体で、原発が持ちこまれて22年、町民の分断、隣人同士の疑心暗鬼、かつてあった人情と助けあいの関係の破壊などを一掃し、全町の団結を実現して、原発を終わりにしたいという論議が大きく高まっている。とくに祝島島民の不幸な分断状況はみなが心を痛めてきた。この町民分断は、中電、国、県、自民党やインチキ革新派などによって、原発を持ちこむことによってつくられたものである。したがって、原発を終わらせる共同の努力をつうじてこそ、町民団結を実現することができる。
 原発を推進する側は、はてしもなく分断抗争を拡大するものであることは、今度の選挙戦がよくあらわしている。3人の立候補は、町のため、町民のためではなく、だれが中電に見こまれて利権を得るかをめぐってエキサイトする一方である。
 結局金をもらったのは漁協だけで、いちばんはじめに騒動した商工会関係は利用されただけのくたびれ損に終わった。各漁協の関係でも、それぞれの漁協の内部でも、取り分をめぐってしこりが残った。推進派は結局利害集団であり、だれかがもうければだれかが損をするという関係で、古手はいい目を受けてきたから今度は若手に回せという形で、いつもケンカをはらんでいて仲よくなれないのである。
 原発推進町政をめぐっては、大きな予算を組んで借金を残したが、大多数の町民の役に立つことはほとんどなく、一部のものが利権を得た分、大多数がばかを見ただけだった。原発計画がなかった大島郡などとの格差はひどいものになり、原発計画があったばかりに町は寂れさせられた。金がなければなにもできないといって原発を推進してきたが、金があっても人のために使うという人間がいなければ町の発展のためにも、町民のためにもなんの意味もなかった。四代などの年寄りのなかでは、原発20年の片山町政でいいことをしたのは金のかからないバス路線の延長だけだったと語られる。特別養護老人ホームも、入れ物だけつくっても年寄りをたいせつにする人間がいなければ、「仏をつくって魂が入らず」で、ありがたいことにはならない。
 町内では、ものがいえない状況がつくられてきた。日ごろ表にはあらわれないが、選挙になれば、どんな形になってもどんな候補が出ても4割以上が反対に投ずる、いわゆる「隠れ反対派」といわれる層ができた。全町では、反対だと見られたら村八分のような目にあいかねない推進勢力による監視の目が光ってきたのである。
 この町民分断は、祝島を中心とする反対派の指導部からもつくられてきた。反対運動のなかから、島民のなかで全町の推進派の力が強く見えて町民の反対の力が見えない。そういう日和見主義が排外主義になって、人を見たら敵とみなすような悲劇となった。複雑な事情があって、表面上は推進派のようにふるまいながら選挙になったら確実に反対に票を投じている町民の存在、しかも祝島の反対票の倍近くが長島側から出ていることを信頼できないというのでは勝利できない。逆にこの分裂主義を乗りこえるならば、全町団結をすすめ、選挙に勝利し、原発を終結させることができるということである。
 
 豊北斗争での経験大衆主人公で大勝利
豊北町では、指導部のなかからは当初「漁業権を手放さないならば原発はできない」「外部勢力は入るな」というのがあった。しかし中電という大企業が国策としてすすめる原発をうち負かすには、漁民だけの力ではダメで、農民や商工業者、通勤労働者など全町が団結し、さらに全県、全国が団結しなければ勝てないという世論が支配的となり、ひとにぎりの敵にたいして団結できるすべての人が団結して勝利した。議員や漁協の幹部などではじめ推進といっていた部分もみんなの力で反対の立場をとらせ、町内で推進といっていた人にたいしてもケンカするのでなく説得して反対の側に立たせる努力をしていった。
 祝島では、中電の息のかかった外部のインチキ勢力がかかわり、島内で推進派といわれる人、なんの態度表明もしていない人まで、デモをかけて攻撃することがやられた。親兄弟の冠婚葬祭まで出入りを禁止するようなこともやられた。島内で九割が反対なら、あとの一割は反対の側に移すことができるし、そのように対応するのが豊北であった。
 その結果は、四代をはじめ全町では、反対派が推進派から総攻撃を受けて、全町の反対運動をつぶす結果になり、祝島の孤立に導く結果となった。一生懸命に反対することが、負けていく結果となったのである。祝島ではいまでも毎週島内デモをやっている。いくら推進派にデモをかけても脅しで反対派に変わるわけではない。むしろ実際の効果は、反対派としての身の証をするための、まるでキリシタンの踏み絵のような意味しかない。
 それより、全町に出むいて原発を終結させるために、町民にお願いし、腹を割って話しあう行動をやることである。豊北町では、海側の漁民、住民たちが、町長選ではのべ数千人にのぼる人人が山側を訪問し、理解を求めて歩き回り、全町団結を実現して9000対3000の大差で勝利した。
 豊北と異なった祝島の反対運動の指導路線の根本的な誤りは、島内の推進派や片山町長ら町内の推進派を憎むが、その町内推進派を指図している親玉である平井前知事や県の水産部や商業マスコミなどは敵ではなく味方か中立者のようにみなすところである。島内や全町の住民を信頼しないことと結びついて、敵がだれかがマトはずれなのである。

 原発は売国政治の象徴 全国死活の重要問題
 それはまた、原発がだれにとってどんな問題かという点も異なっている。原発は祝島だけの、しかも経済問題だけではない。原発は原水爆を製造する道具であり、戦争になれば標的にされるものであるし、国を廃虚にする売国政治の象徴である。それはアメリカのいいなりになって農漁業をつぶし、いまでは金融から自動車やスーパーまで外資が乗っとり、大量の失業者をつくり、教育はどこの国の人間かわからないような自分勝手な人間をつくり、世の中には市場経済、自由競争といって強いものだけが威張り弱いものを切り捨てる、そうして国をつぶしていく売国政治の象徴的なものが原発である。したがって、原発は祝島だけ、上関町だけの問題ではなく全県、全国の人民にとって死活の重要問題である。スナメリの心配かなにかで恩着せがましい応援団のような顔をしてくる外部の都会人もまたピントはずれといわなければならない。
 とくに原水爆に反対する問題は、全町、全国民が共通して、政党政派や思想信条をこえてだれもが反対する全人民的な政治課題である。したがってすべての権力、金力をあげて推進する原発をうち負かすには、現地だけでなく、全県、全国の人民の団結をすすめるのでなければ勝利できない。祝島だけしか信頼できない運動というのでは勝利できるわけがないのである。
 また豊北とのいちじるしい違いは、大衆主導か幹部おまかせかである。上関の反対派議員は、幹部だけが大威張りで、大衆は小さくなって「お世話になっています」という顔をするような関係になってきた。長島側の反対派議員らは威張る精神だけは健在だが、いまでは人からは相手にされずに威張れなくなったという喜劇となった。祝島の幹部は表面はヒトラーではないかと思えるほどであるが、内実の信頼があるわけがない。豊北は下のもの、大衆が主人公であり、じゃまする幹部をひき連れていって勝利した。権力、金力をあげた攻撃にたいして、大衆こそがそれをうち負かす力をもっているのであり、幹部は一体に腰が弱く、幹部は大衆を代表したときだけ役に立てるのである。
 選挙のなかで山戸氏が以上のような点を反省するなら喜ばしいことである。しかしなにより重要なことは、祝島島民、上関町民が以上のような豊北で勝利した考え方、やり方をじゅうぶんに論議し大衆が主人公となって自主的な行動に移すことである。山口県には、島根と違って勝利した経験があるのだ。

 町民が主導の選挙へ
 上関町長選挙は、最後のたたかいの様相を強めている。推進派は片山、浅海、右田の三氏が事務所を開設して抗争をつづけている。中電の意向は浅海氏といわれ、漁協や町連協の推進派二軍族が鼻息を荒くしている。片山氏は国からも中電からもほうり出された形だが、ばん回を狙って一人で町内を回り意地をはっている。右田氏も「祝島の票は自分ならとれる」という形で中電への売りこみの構え。
 原発が行きづまったのは片山氏ら現地の推進派がダメだったのもあるが、町内はもちろん大きな全国的、全県的な力関係ともかかわって、中電も国も新規立地などメドがなくなったからである。したがって中電が浅海氏に町長の首をすげかえても、原発がすすむ要素はなにもない。神社地問題での浅海氏陣営の人目をはばからぬ騒ぎぶりを見たら片山氏よりカシコイという印象は町民にはない。中電としては、上関への原発利権のためにズルズルとメドのない原発騒動を延期するか、欲だけはあるが事情にうとい推進派二軍に交代させることで、20年のいきさつや約束などをみな白紙にして責任回避で逃げやすくする、というメリットしか考えられない。原発計画をめぐっては、白紙撤回による終結か、代替わりによるメドのない延長かの対立となっている。
 この事態を転換させることができるのは町民である。選挙が町民の好き嫌いで候補を選別するものなら、山戸氏はこれまでの反対派候補のなかで人気は最低であることに本人自身も異存がないと思われる。長島側ではもちろんであるが、それ以上に祝島のなかで表面上とは裏腹に本音のところではものすごい不信が渦巻いている。候補者が主人公という選挙常識で見れば山戸氏が勝つのは奇跡である。そこで本人の勝つ気すら疑わしい候補を勝利させることは町民にとって痛快なことである。
選挙は、候補者の人格がどうかは二の次で、原発に反対するという政策が第一の問題である。この選挙は町民とそれにつらなる全県民、国民の命運がかかったたたかいである。いわば真に立候補しているのは原発の終結を切望する町民である。山戸氏が主人公の選挙ではなく、町民が主人公の選挙であり、町民の原発終結の意志を実行させる玉として使えばよいのである。
 町内の問題は山積し、町民の要求はさまざまにあるが、第一に必要なことは原発を撤回し、中電の干渉をやめさせることである。諸問題はその中心問題を解決することで解決にむかうことができる。中電が背後にいない推進派はただの人である。
 山戸氏がさまざまな疑惑のある人物であるにせよ、この町民の力を勝利させるならば、山戸氏を使って原発計画を白紙撤回させ、20年つづく原発を終わらせることができる。この町民の力は、山戸氏が当選したからといって大きな顔をさせない力となる。祝島島民にとっても全町との結びつきが広がることで重しがとれるような関係になるだろう。裏切るならばリコールする力となるし、祝島に住むことはできなくなるだろう。それは、中電などの背後勢力の干渉をなくして、町民の政治的な自由をつくり、町民の自由な発言の条件が大きくなる。そのなかで町長も議会をも総入れかえできるような意欲ある新しい町のリーダーをつくることができる。
 豊北の勝利の経験をとり入れて、とりわけ祝島の反対運動が、祝島以外はみな敵という狭い枠をとり払い、原水爆戦争になりかねない上関原発計画を終わらせるために長島の住民と交流することで相互の信頼関係をつくりあげることは、長島はもちろん祝島住民の喜びとなるだろう。

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