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全広島市民の行動意欲が結集
広島「原爆と戦争展」閉幕
           被爆者に学び合流する青年  2013年8月9日付

 8月1日から広島県民文化センターで開催されてきた第12回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、同長崎の会、下関原爆被害者の会)は6日、全会期で1600人にのぼる参観者を集めて大盛況のうちに閉幕した。広島県内をはじめ、九州、中・四国、関西、関東、北海道までの全国各地、またオーストラリアやチリ、スイスなど海外からの参観者も見られ、安倍政府が憲法改悪や原発の海外輸出など戦争への強行政治を続けるなか、真剣にパネルを参観し、かつての戦争と今の日本の現状を重ねて被爆者との熱のこもった交流が連日おこなわれた。
 6日間を通じて、市内の保育園や中学生、神戸の中・高校生、『原爆展物語』公演に参加した市内の高校生などが集団で参観。また修学旅行の下見で来広した滋賀県の教師集団や千葉や四国などから学生が連れ立って訪れた。資料提供や通訳など具体的な協力を申し出る市民も多く、賛同者は会期中だけで130人になった。20代から40代の現役世代の来場が圧倒的に多く、被爆者の体験を聞いて即日スタッフになったり、伝承者としての参加を申し出る被爆二世も見られるなど、若い世代が続続と行動参加を申し出ていった。
 原爆記念日の6日には、会場では被爆者を囲んだ交流の輪が広がり、慰霊行事を済ませた市民や、広島被爆市民の声を学ぶため来広した500人をこえる人人が来場した。
 被爆前、広島市の天神町(現在の平和公園内)で暮らしていた男性は、初日から毎日のように会場を訪れた。爆心地から1・5`の広島二中で被爆し、全身70カ所にガラスが突き刺さり、這(は)うようにして戻った自宅付近は静寂のなかで赤黒い瓦礫と死体ばかりだったことを語り「丸一日家族を待ったもののだれも戻らず、明日はもう命はないだろうと思っていたとき、従兄弟の子が泣きながら走ってきた。唯一の家族との再会だったが、その従兄弟も叔父に連れられて名古屋に行ったまま被爆から20日目に苦しみながら亡くなったと聞いた。結局、家族7人が全滅した。自分が死んだら、この平和公園で起きたことを語る者はいなくなると思って、毎日慰霊碑に水をやりながら修学旅行生たちに体験を語ってきた。最近は平和公園での街頭原爆展を若い人たちが頑張っているのに感銘を受けている」とのべた。
 後日、原爆で消えた天神町界隈の被爆前の街の写真や、出征兵士から預けられた写真を展示資料として提供し、「これほど立派に展示してもらえるのなら本望。ぜひ役立ててもらいたい」と説明文を添えて願いを託した。
 長年、教師として体験を語ってきた88歳の男性は、九州に徴兵され本土防衛のための自爆作戦の訓練をしていたことや、原爆で母親を失ったことをのべ、「戦後は中学校教師として原爆の子の像の建立運動にも携わった。あの像は佐々木禎子の死を契機にして、同じようなたくさんの原爆症で死んだ子どもたちの慰霊碑として建設しようと職員会議で話しあい、生徒会にまかせようとなり、子どもたちの活動が全県、全国に広がった。個人の碑ではなく、広島の子どもの像だ」と強調した。「原爆投下はアメリカがソ連の参戦に焦って投下したもので、戦争終結には必要なかった。そのことをしっかり伝えていく必要がある」と熱を込めてスタッフに語った。
 海軍兵士としてレイテ作戦に参加したという八九歳の男性は、「私も体験したことが書いてある」と語りはじめた。第六期航空練習生に志願し、昭和19年に第653海軍航空隊に配属され、航空機の整備兵として空母「瑞鶴」の乗員となって同年10月20日に別府湾を出港したという。
 「10月24日の未明から米軍機の爆撃、銃撃を受けて瑞鶴は他の空母四隻とともに沈没。海に投げ出された私はハンモックや角材に捕まって何時間も海上で漂流し、駆逐艦“秋月”に助けられて大分まで帰った。その後、玄海の基地へ転属になり、沖縄戦が激化するなかで何人もの特攻隊員を見送った。長崎出身の特攻隊員が私の部下だった弟を“よろしく頼む”といって出撃していったのが忘れられない。みんな一d爆弾を抱えて出撃したまま帰ってこなかった」と話した。
 今も生き残った戦友と連絡をとりあったり、広島市内で教育施設を立ち上げて子どもの教育に携わっていることを明かし、「私たちのいうことは古いといわれるが、平和な未来や日本の繁栄のためにという目的が同じなら、若い人は若い人なりに、戦争経験者は体験者として発言しないといけない。戦後の骨抜き教育を受けてきた子どもたちは個個バラバラですぐに自殺したり、人を殺したり、心が育っていない。戦争中の生きるか死ぬかの体験を伝えることによって日本の将来に寄与したい」と熱を込めて語り、翌日、原水爆禁止広島集会に参加した。
 広島市内に住む二〇代の女性は真剣にパネルを見たあと、被爆者から体験を学び「原爆については関心があったので昔から本などを読んでいたが、直接被爆体験を一対一で聞くという貴重な経験ができてとてもよかった」と話した。
 「平和記念式典には毎年参加しており、今年でちょうど10回目。広島人として原爆について知っておかなければという思いからだったが、参議院選で原発再稼働、海外輸出を公言している自民党が勝ち、この国の方向性が見えなくなって自分が式典に参加してもなんの意味もないような気がして、来年からは参加するのを迷っている。式典に来ていた安倍首相が実際には原発の再稼働を進めながら、式典の場では口先だけで広島市民、被爆者をいたわるようなことをいう姿に怒りさえ覚えた。小学校六年生のときに初めて原発の存在を知り、唯一の被爆国であるはずの日本が原発に頼っているという事実にショックを受けた。いまだに放射能が撒き散らかされているのに、平気な顔で再稼働を唱えることのできる神経がわからない」と怒りを語った。
 また「自民党が選挙に勝ったといっても、自民党を支持している国民などほんのわずかでしかない。かといって他の政党にも票を入れようという気にならない。選挙の掲示板を見ても、みんな悪そうな顔をしている。民主党が勝ったときに少しは変わるのではないかと思ったのに、なに一つ変わらず、東日本大震災でも復興は進まずに大企業が特需に群がるばかりだった。どうすれば日本は変わるのだろうか。このままの日本では、大多数の国民の思いとはまったく逆行したものになってしまうのではないかという危機感が迫ってきている。TPPにしてもマイナンバー法も集団的自衛権もアメリカのいいなりで、国民に不利なことはなに一つ報道されていない」と真剣な表情で語った。
 市内の40代の女性は上関原発のパネルを見て、「今回の上陸阻止はとてもうれしい。そもそも、祝島の島民が反対して、補償金もいらないと何度もいっているものをなぜ国が押しつけてくるのか。国策といっても結局はアメリカに原発を押しつけられているだけではないか。それを嬉嬉として実行する日本政府も気狂いじみているとしか思えない。ベトナムに輸出した原発も、核廃棄物は日本が引きとることになっていると聞いた。アメリカや大企業のことばかり聞いて、国民無視の政治ではいけない」と語った。
   
 被爆者参加し閉幕式 “世界が変わった” 学生が深く感動

 6日午後5時からは、精力的に会場で被爆体験を語った広島の会の被爆者やスタッフの大学生らが参加して閉幕式がおこなわれた。
 連日会場で体験を語った男性被爆者は、「6日間を通してたくさんの方に体験を語ることができた。今年は、親子連れを中心に多くの方に体験を語り、子どもと一緒に若い親がしっかり体験を聞いてくれた」と喜び、「日本の将来についてみんな真剣に考えている。意識が高く、今の世の中を反映して若い人たちの意識が変わってきているということだと思う」と確信を語った。
 広島の会の婦人は、「展示場内ではパネルの説明をしたり、次世代として家族の被爆体験や近所の方の体験を話してきた。いじめや無残な事件など命の大切さを考えない人が多くなっているなかで次世代として勇気を持って語らずにおれない。子どもや来場者は一生懸命それを受け止めてくれた。これからも被爆者に学びながら、広島の会で頑張っていきたい」と語った。
 スタッフとして受付やチラシ配りをはじめ、平和公園でもキャラバン隊を担った大学生たちが順番に感想をのべた。
 会期中に初めて原爆展を参観し、翌日から友人とともにスタッフとして参加した女子学生は「この会場で被爆体験を聞いて、ボランティアに参加することを決めた。まだ2回目の参加だが、たくさんの方の体験を学ぶことができ参加してよかった。私の生き方に生かしていきたい」と語った。
 学内で開催された原爆展を参観してスタッフになった女子学生は、「被爆者の話や今回会場に訪れたお客さんの話を聞いて、本当は話したくもない、思い出したくもないような体験なのに私たちに語ってくださる。今はどんどん戦争を知らない子が増えて、ネットなどでも“韓国なんてつぶせばいいのに”というような声も出てきていることに危惧を感じた。どうにかして戦争の悲惨さを次世代に伝えていかなくてはいけない。自分でも情報を発信して次世代に伝えていきたい」と話した。
 宣伝行動から参加した男子学生は「この活動を通して、自分が今まで知っていた情報はほんの一部でしかなかったことに気づき、今回原爆、戦争の新たな面を知ることができた。ポスター行動やキャラバン隊、集会デモ行進なども初めて参加して、今までは外から見る側だったが、自分が参加することによって苦労や大切さ、充実感を感じることができた。これからも続けていきたい」と意気込みを話した。
 別の男子学生も「このボランティア活動はただ単に無償で奉仕するだけではなく、多くの人とつながって輪を広げていくことで、問題を解決していく人が増えていくものだと思った。これからもこの活動に参加し、多くの人にこの輪を広げていきたい」と語った。
 4日間スタッフを担った女子学生は、「正直、今まで自分のことしか考えていなかった。世の中をなめていて人のために何かをするということがなかったが、今回活動に参加して世界が変わった。被爆者の話を聞いたり、アンケートを読んだり、キャラバンで外国人の人と話したが、一番学べたのは私よりも年下の人がものすごく真剣に考えていたり、年上の人もこの活動のためだけに遠くから来ていて私もそういう人になりたいと感じた。この活動を通じて成長した気がする。これからも参加したい」と実感を込めて語った。
 被爆者と若い世代が一体となって原爆展を支え、全市民とともに広島の声を全国に発信したことを全員の拍手で喜び合い、今後の活動をさらに飛躍させることを誓って6日間の会期を閉じた。


 

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