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全国に影響広げた第9回展
広島「原爆と戦争展」閉幕
             2000人参観し熱帯びる交流    2010年8月9日付

 広島市中区の市民交流プラザで開催されてきた第九回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会)は7日、市内をはじめ全国、海外から多くの参観者を集めながら8日間の会期を終えた。会期を通じて2000人が来場し、第二次大戦と原爆投下の真実と荒廃した日本社会の現状とを結びつけた論議が熱気を帯び、日本の平和と独立に向けた全国的な行動機運の盛り上がりを示すものとなった。
 原爆忌の6日が近づくに連れて来場者の数は増し、会場は全国から集まった人人であふれかえった。およそ10人の被爆者が会場に常駐して、親子連れ、教師集団、学生や職場グループなど若い世代に精力的に体験を語り伝えると同時に、被爆市民の運動と結んで全国で運動を広げていくことを訴えた。若い世代も将来性の見えない日本の現状と戦争の接近に対する問題意識は強く、被爆者からの働きかけを受けて、行動に参加する意志を示していく姿が後を絶たなかった。会期中に新たに賛同協力者になった人は、若い世代を中心に158人に及んだ。
 福岡県出身の24歳の男性会社員は、「これまで他人事のように感じていたが、原爆も戦争も身近なことに思える。日本人としてどうするべきかという問題提起をもらった。単に悲惨だったというだけではなく、米軍は、庶民を殺す一方で、重要軍施設や三菱、皇居などは狙わなかったこと、敗戦が必至でも若者をどんどん戦地に送って殺したことは衝撃だった。そして、占領下の広島で朝鮮戦争で原爆を使わせない運動が起こったことなど知らないことがたくさんあった」と感情を高ぶらせて語った。
 「日本はアメリカの占領によって米軍基地が全国に置かれ、完全に骨抜きにされていると感じていた。だが、広島に来てこれほど力強く、本気で国を変えようという活動がやられていることを知り、自分も頑張る元気をもらった」と語り、翌日の原水爆禁止8・6集会に参加した。
 東京から来た25歳の男子学生は日本の植民地政策について研究していることを明かし、「日本の占領地の国民は、皇民化教育がやられ、国民は天皇の赤子として子どもを戦場に送ることが義務づけられていた。日本国内でも天皇をはじめとした上層部がアメリカの財界とお互いを抱え合って国民を殺し、“国のため”といって戦地や空襲、原爆で亡くなった人たちの感情や犠牲は置き去りにされたまま戦後社会がつくられてきたとわかった。戦争も戦後も国民を守るためのものではなかった」と語った。「被爆者の話は“二度と同じ悲劇をやらせない”という魂がこもっていた。今大学では、せっかく真実を学んでも発表するときは歪められているものが多い。被爆者の話を聞いて、いかに日本が歪んでいるかと思い、自分もできるだけのことをやりたいと感じた」と語り、東京で運動に参加するため連絡先を記した。
 広島県内に住む事務職員の男性は、「この展示は本物だと思う。とくに、原爆投下によるアメリカの単独占領によって日本がアメリカの属国になっている現状はもう誰の目にもはっきりしている」と感想を語った。国鉄で働いていた経験をのべ、「JRになってから営利第一で、安全基準は変えられている。これもアメリカの要求だった。福知山線の事故も他社との競争で線路のカーブを急にし、コスト削減といって車両を軽量化してもろく、部品も減らしてきた結果だ。最近の新幹線の整備車両の事故でも、社員のなかでは、“突貫工事で明け方までに終わらせようとして居眠りをしていた”という話が広がっている。営利第一でいけば、社会は大変なことになると思う。労働組合も御用組合になり、間違ったことにもたたかっていけない状況がある。このようなことを黙っていては、また戦争になっていく。戦争を阻止するためにもあちこちで展示する必要がある」と語って協力者となった。
 岩手県から来た小学校の教師は、「衝撃が強くて言葉にならない。資料館も見に行ったが、それよりはるかに内容が濃い。ミッドウェーの海戦に参加した祖父が“初めから負けるための戦争だった”と話していたが、この展示とぴったりつながった。この展示を子どもたちにも見せてやりたいし、自分たちが真実を教えていきたい」とパネル冊子を買い求めた。
 兵庫県から集団で来た教師は、「修学旅行で広島に来るが、資料館だけ行っても子どもたちには実感がない。私たち教師も知らないことが多く市民のなかにある原爆の行事を見に来た。スローガンにある“アメリカは核を持って帰れ!”というのが広島では当然の世論だということがわかり、さすがは広島だと思った。教師自身がもっと被爆者の思いに学んでいくことで、子どもたちにも伝わる平和教育をやりたい」と語り、修学旅行で広島を訪れた際の講師として広島の会へ協力を申し出た。
 「ここに来れば広島市民の世論がわかる」「昨年も来たが、今年は被爆者の話を聞きたい」「大学の先生から広島ではここに行くようにといわれた」など、全国的な反響を物語るようにリピーターや集団で訪れる人人が多く、居住区で原爆と戦争展を開くために展示パネルを購入していく人もいた。
 市内からも被爆者や親子連れなどが訪れ、平和記念式典に初めてアメリカの大使が参加したが謝罪も献花もしなかったことへの怒りや、秋葉市長によるオバマキャンペーンが市民の感情とはかけ離れたものであることなどを口口に語り、被爆市民の真実の声を代弁する運動に共感を表していった。

 行動意欲溢れた若い層 確信に満ち閉幕式

 7日の午後5時から、原爆展を成功させる広島の会の兼森三男氏の司会で閉幕式がおこなわれた。
 初めに同会事務局の犬塚善五氏が概況を報告。会期を通じて500枚を超えるアンケート、そして、今後の運動への賛同協力が158人から寄せられたことを明かし、「とりわけ高校生、大学生、2、30代の青年たちが圧倒的に多く、ただ参観するだけではなく、体験者の話を学び、自分たちも行動していく意欲を示した。また、全国から青年教師、保育士、会社員、医者、技術者、公務員など多様な業種に携わる人人が訪れ、それぞれの現場の抱える問題と日本全国の荒廃状況とを結びつけて“現状を打開したい”という思いを抱えていた」と報告した。
 会場ではのべ70人の被爆者が体験を語り、交流の輪が広がったこと、第二次大戦の全体像と日本の現状打開を求める思いが結びつき、「広島で学んだことを全国に広げたい」「自分もなにかやりたい」と行動につながっていった特徴をのべた。
 次に被爆者の真木淳治氏、次世代として石津ユキエ氏が感想をのべた。
 真木氏は、「全国各地から何度も足を運ぶ人や若い人たちが多く、なかでも小中学校教師や保育士など教育者の来場が増えていると感じた。地元で行動したいという要望も強く、これからは他県でのとりくみにも会として協力していくことを伝えた。遠方からきて“ここで被爆者の生の声が聞けた”と喜ばれ、私たちもやりがいのあるものだった。今年で9回目だが、この運動はもっと盛大に継続してやっていかなくてはならないと思う」と感慨深くのべた。
 石津氏は、「会に参加して8年目になるが、年年盛り上がり、自分にとっても自信につながることが多くあった。もっと多くの次世代の人が出てくることを望んでいる」と語った。
 学生スタッフとして関わった男子学生は、「被爆者の話をどう伝えていくかということを考えてきたが、ここでは被爆者の話を聞く人が1人、2人と加わって、いつのまにか大きな輪ができていったことに感動を覚えた。小学生も“関係ないと思っていたが、すごく身近なことだと思う”と話していて、すごい意味深いことだと思う。来年に向けてもっとサポートできるように勉強していきたい」と決意をこめて語った。
 別の男子学生は、「スタッフとしての活動を通じて普段会うことのできない全国の多くの人と話ができた。交流会では、被爆体験を若い世代に伝えていく重要性が語られ、自分自身がやるべきことがはっきりしたと思う。自分の使命として学校内で広げていきたい」と抱負を語った。
 全市的な運動へと発展してきた原爆と戦争展が、全国の人人、若い世代の行動機運と結びついて大きな結束をつくり出した成果を喜び合い、全員の大きな拍手で八日間の会期を締めくくった。

 

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