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人民劇団の役割に大きな期待
人人の人生決める演劇
                  全国から320人参集      2007年11月12日付

 劇団はぐるま座の創立55周年記念集会が10日、山口市の山口市民会館小ホールで開催された。北は北海道から南は沖縄まで全国22都道府県から、支持者ら320人がつめかけ会場は熱気につつまれた。舞台には、はぐるま座創立期からの精神である「人民と共に」が掲げられ、「民族の誇り高らかにうたおう! 歴史つくる人々とともに」と題した記念集会スローガンが掲げられた。参加者は、はぐるま座との出会いのなかから、「人生を変えた芸術」など語り、さまざまな困難を突破して人民演劇のために奮斗努力してきたことをたたえた。同時に、劇団を支えてきた人民性をさらに発揮し、55周年を機に新たな1歩を踏み出していくことへの期待が語られた。
 会場内には「はぐるま座55年のあゆみ」のパネル、礒永童話の紙芝居原画、平和の会の子どもたちの礒永童話の切り絵、全国公演のなかで寄せられた書なども展示された。
 はじめに司会である記念集会実行委員会事務局長の池田義雄氏が経過を報告。「記念運動は9月9日の全国九氏の呼びかけ人会をふまえ、151氏による実行委員会を結成し、1500人に呼びかけた。2回の実行委員会をもち劇団活動総括を中心に論議を重ねた。本日の参加者は22都道府県から320人が参加している。劇団本拠地の山口市で盛大におこなえたことをともに心から喜びあいたい」とのべた。
 実行委員長の黒川謙治氏が挨拶。「本集会では劇団とその家族の奮斗をたたえるとともに、さらに飛躍するために劇団活動が人人にどのように役立ってきたか、なにが未解決なのかを総括し、到達点と課題を明らかにすること。それが激動する戦争情勢のなかで劇団が人民の真に戦争を押しとどめるたたかいに奉仕する力をもった芸術・文化運動をつくりあげていくことを激励することだ」とのべた。

 人民劇団への飛躍誓う 劇団の活動報告
 劇団を代表し入江光司氏が次のような活動報告をおこなった。
 敗戦7年目の1952年、植民地的風潮を広める虚偽と退廃の演劇・文化とたたかい、独立、民主、平和、繁栄の日本の実現にとって欠かせない人民劇団として創立された。草創期は戦争による荒廃から立ち上がる労農大衆と結びつき、力も経験も乏しく経済的にも苦しいなか、自力更正の精神で一丸となり、権力に屈せず人民に奉仕する思想をなによりも重視して固く団結していた。
 1966年、アメリカ支配を進歩と見なし、芸術・文化の戦線に不断の混乱と、堕落をつくり出した「日共」修正主義との反修分岐後、みずからにしみ込んでいる修正主義の影響を克服するため、山口県の弥富に入り農民の生活とたたかいにふれ生きた思想を人民の側へ改造していった。この実践が70年の創作集団結成へと向かった。
 創作集団は、「だれのため、なんのための芸術か」という『文芸講話』の路線を学びながら、生きた現実社会、勤労人民のなかに飛び込んでいった。そして労働や生活をともにしながら自分たちの感情世界を変え、テーマをつかみ、作品に結実していくリアリズム演劇の道を歩むなかで、多くの創作劇や文工隊作品が生まれ、荒削りであっても以前とは質的に飛躍したものとして歓迎され、人民斗争と響きあって発展していった。
 しかし80年代、90年代後半にかけて「東京へ東京へ」と中央志向を強め商業主義に拝跪し、大衆から遊離していった。バブル景気の崩壊のなか、新稽古場建設をおこない、ソ連や東欧の社会主義が崩壊する社会状況の思想的崩壊とあいまって、革命的芸術運動の社会的役割から離れ、外国の翻訳や脚色ものに傾倒していき、それはますます大衆から遊離し、創造は枯渇し、創作は行き詰まっていった。
 長周新聞の福田主幹が提起された「地方現実の方向」、劇団創立精神に立ち戻り、革命的骨格をうち建てた時期の人民性を取り戻す実践を誠実におこなうこととして、03年から『高杉晋作と奇兵隊』の再演をおこない、05五年からは礒永秀雄の作品の舞台化をとりくんだ。04年から始まった原爆展全国キャラバン隊の活動は、長らく現実から遊離していた姿勢を根本から改造する第1となった。この過程での最大の教訓は、人民大衆の利益を代表し、敵と真向からたたかう渦中に身をおかなければならないということ、みずからの身体と心を燃やしてつかんだ真理でなければ芸術の厳選にはならないということだった。
 激動発展する情勢のなかで、真に人人に役立つ芸術を早急に生み出す決意だ。55周年を出発点に、全劇団員が団結し名実ともに人民に奉仕する人民劇団へと飛躍を勝ちとることを誓う。
 次に長周新聞編集長の森谷浩章氏は、資本主義が滅亡に向かい、たたかう人民のなかに未来を代表する発展性があることがきわめて鮮明になっているとのべ、現在はぐるま座が真価を発揮する情勢にあるとのべた。そして人人のなかに渦巻くイデオロギーを描いていくなら、全国の様相を一変させ、歴史を前進させる大きな力になると強調。また創立期から反修決起、創作集団を結成、はぐるま座の発展を支えた根本は人民性にあったこと、しかし70年代後半後から東京かぶれの浮薄な政治主義、体制迎合の遊びの芸術が横行し劇団活動を困難にしたこと、とくに劇団の立派な建物について、それが劇団の活動を歪める要因になっており、“見てくれは立派だが内実は貧困”というのは虚飾であり思想の真実に反すること、このような問題を抜本解決をすることで新しい発展に進むことを期待した。

 大衆と共に歩む歴史 作品を振り返りつつ・熱こもるスピーチ
 乾杯に続いて、小中高生平和の会の子どもたちが登壇し、「ミカンの花咲く丘」など5曲を元気よく歌って拍手を浴びた。その後、テーブルスピーチに移った。
 劇団創立期からの支持者である島根県在住の70代の男性は、「山口高校在学中の朝鮮戦争のさなかに劇団と出会った。劇団員は昼は他で仕事をしながら事務所に結集していたが、麦飯にしょうゆ汁をぶっかけた昼食などで頑張っていたのが印象に残っている」「その後は裁判所の労働者となったが、はぐるま座の活動について、幾多の素晴らしい演劇公演はもとより、諸諸のたたかいの場にかけつけて励ましてくれる文工隊の活動こそ他劇団にはない素晴らしいものだ。これは今全国キャラバン隊に引き継がれているが、日米安保粉砕のデモの際、また学力テスト反対の公判斗争の際の裁判所前での激励活動は、内側にいた私たち司法労働者も励まされた。これからも私たち日本人民を励まし、勇気を与え、未来への展望を示してくれるようお願いしたい」と語った。
 反修決起後、劇団員が労農大衆からの遊離を克服する目的で飛び込んでいった村、山口県北部の弥富で生まれ、75歳まで過ごした下関市の婦人は、「8名の劇団員が弥富へ来たのが1976年、“自己を焼き直す”との確固とした志で、村でも本当に貧しい部落の家に住み込まれたことを覚えている。その間に『芽立ち』という劇をつくり、稽古を見せてもらったことなど思い出す」と語り、「藤川夏子自伝に“切っても切れない絆が生まれ、親しいふるさとをもつことができた”と記されているが、自分が生まれ生きた村がこのように語られ、あの時代から劇団のみなさんと交流できたことを誇らしく思う。あのときの経験が今もこれからも受け継がれていくことと信じる」と話した。
 はぐるま座が創作集団を結成し労働者の生活と労働をともにしながら描いた『川下の街から』の舞台のモデルとなった岩国市の元民間労働者のメッセージが披露された。「40年前の出会いから、これまではぐるま座の作品はすべて観劇し、多くの感動や勇気をもらってきた」「主人公保夫のモデルは61歳になった。父元蔵のモデルは24年前に亡くなり、母しげのモデルは島根県で83歳になったが元気に暮らしている。岩国は40年前とは様変わり。市民は今、米軍再編にともなう米軍基地強化、広島湾を原水爆戦争の基地にする策動のなかで、“子や孫、郷土のために絶対許さない”と国や県のあらゆる妨害をうち破って体を張って立ち上がっている。私もはぐるま座に学び、岩国市民のなかに深く入り、歴史的体験と怒りに学び奮斗することを決意している」とのべた。

 道を指し示してくれた 教師や労働者も
 山口市の退職教師の婦人は、30年前、中学校を舞台に教育荒廃とたたかう父母・教師・子どもの真実の願いを舞台化した『明日への誓い』が映画化され、勤務していた小学校区でのとりくみを通じて父母の見方が変わったこと、校区の教育懇談会が発足していったことを語った。「上映運動は全県全国へと広がり、教育懇談会や青年の生き方に大きい影響を与え、相川先生を目指そうと、子どもや若い教師が立ち上がった。新しい社会を目指し、日本民族としての誇りをしっかりもって、働く者の後継ぎを育てる民族民主教育こそ、人人は心底から切に待ち望んでいること、真のリアリズム芸術こそが、人人を奮い立たせ、より良い社会へと立ち向かわせる力をもっていること。それを私は校区の上映運動のなかで学ぶことができた。そして私は人民教育へ参加することができ、とても感謝している」といった。
 岡山県の元電力労働者は、「労働者としての歩む道を教えてくれた劇団」として、当時24、5歳の青年労働者として上演運動に参加し、中学校を舞台にした『明日への誓い』をとりくんだことをのべた。「ワンマン合理化反対のストライキをしていた私鉄労働者が、劇団員数名が参加して労働歌を歌うと、涙を流して聞いているのを見て感動し、目頭が熱くなったことを忘れることができない。舞台は、若い労働者の魂を突き動かしていった。労働者として歩む道を若い私たちに教えてくれた」と語った。

 今こそ力発揮するとき 各地の実行委員も”全国へ広げたい”
 次に広島県安芸高田市から参加した劇団員の家族と劇団員による大土山田楽の花田植が披露され、和やかな雰囲気に包まれた。
 鹿児島県から参加した男性は、『高杉晋作と奇兵隊』鹿児島県公演で県農業青壮年部の役員としてかかわり、3年前の公演の呼びかけの文を紹介。「実行委員会でさまざまな職業の人と出会い、交流を深め、出でよ平成の高杉晋作、立ち上がれ奇兵隊の仲間たち。今たたかわずしてなんとする。“なこよかひっとべじゃ”と書いている。これは、泣くくらいなら飛んでしまえ、思いっきり前に飛び込んでいけという意味。60年、70年とますます発展していくようひっ飛んでいくよう祈念している」とのべた。
 また、商工業者で『高杉』公演実行委員の山梨県甲府市の男性は、草の根運動的に参加者を広げていく運動に心打たれて実行委員会に参加したこと、高杉晋作らの気概に学んで、使命感に燃えて仕事もしていることなどをユーモアいっぱいに語った。
 大阪吹田から参加した『高杉』吹田公演実行委員長の婦人は、元劇団代表・故藤川夏子氏の自伝『私の歩いた道』から「若い劇団員たちへ」を朗読。「創立期からのなんのために劇団があるか、激動情勢のなかで自伝に語られている精神を深く心に抱いて明日を担って、まことのプロレタリア精神の芸術家として頑張ってほしい」と話した。
 長門市の小学校教師は、「13年前の長門公演で地域の1人として実行委員会に参加したときから演劇を通して人人の心を励まそうとするはぐるま座から目が離せずにいる」。その後礒永作品の絵や劇を学校内でとりくむなかで「礒永作品のなかに溢れる“常に人のために心をつくす”という人間らしい日本人民の魂を学ぶことができた。この精神が今の子どもたちをきちんと育てる土台であると信じとりくんできた」「誠実に生き、人のためにしっかり心から奉仕するという精神を改めて感じている。今後も平和な社会をつくりあげていくために、子どもたちが社会の子として成長していくための励ましになる劇をたくさん上演してくれることを期待する」とのべた。
 『天狗』下関公演実行委員長だった下関市元PTA会長は、「これなら教育に携わる私としてもいろんな方に紹介したいと思った。その過程では『高杉』公演も感激し、娘の学校でも公演してもらったが、保護者の反応はすごかった。今後、微力ながら手伝えることがあれば、はぐるま座のさらなる飛躍のために協力していきたい。今後ともみなさんといろんなかたちで呼びかけて全国津津浦浦に紹介していきたい」と語った。
 愛知県で公演をとりくんだ元郵便労働者の男性は「継続は力なり、力は継続だ。安易なこと、なんの苦もないことは間違いなく崩落する。この力というのは、踏みにじられ、叩かれ、弾圧されてきたもののなかから伸び上がってくるものだと思う」とのべた。

 新しい演劇の創造へ 原爆展キャラバン等通じて・大衆に深く入り
 続いて劇団はぐるま座が全国キャラバン隊の活動で沖縄に行き、人人の真実の体験に学んでつくった創作劇『燃えあがる沖縄』を上演。会場は水を打ったように厳粛な空気に包まれた。
 沖縄県でとりくみを担った男性は、「私の座右の銘は“一夫義に立てば回天の業なる”だが、今は“一座義に立てば回天の業なるぞ!”。あのときの感動、高杉晋作と奇兵隊のみなさんとの再会がしたくて飛んで来た」「今劇を見せてもらったが、芝居全体がおばちゃんたちの力だった。今も沖縄にはなにかあれば大きく結集する力が厳然とある。みんながみんな戦争はだめだといっている。その気持ちが由美子ちゃん事件の8万人の結集であり、この前は11万人集まった」「広島を演じ、沖縄を演じるようになったと確信する。日本の退廃しきったもの、それを打破する力を今あなたたちが持とうとしている。私もあなたたちに鼓舞され70歳を過ぎたが、なお一層地域に帰り、回天の業に少しでも役に立てるよう、先頭に立てるリーダーになれるよう心に決めた次第だ」と語った。
 福岡県の中学校教師は、「『天狗』公演のとりくみ過程で遺族会の人たちと一緒になったが、本当は平和を望んでいないのではないかと思っていた。父は戦争体験者で満州からシベリアに抑留され、酒を飲んでは語っていた。その父も亡くなった。しかし、自分には戦争を起こしたのは年配者ではないかという認識のもとで過ごしてきた経過があった。その偏見が邪魔をしていたことを気づかせてもらった。劇団も一緒だといわれ、自分の心のなかに大きな変化があった。いい機会をありがとう」と語った。

 理屈でなく行動を信頼 50年8・6斗争経験者も
 キャラバン活動のなかで出会い岡山県から参加した男性は、「本当のことをいっているかどうかは顔を見たらわかる。高級な勉強や理屈はわからないが、こうして生きてきた人間だから行動だけでわかる」と語り、特攻隊帰りの先輩に誘われ、戦後初めて広島で開かれた1950年の原水爆禁止の集会に自転車で参加したこと、「昭和25年、16歳のときにレッドパージにあい、会社も雇ってくれず土方をし、全国を放浪して歩いて50年経った。縁があったのかと嬉しくてたまらない」といった。また「アメリカがどれだけ武力を持っていようが、民族を相手にしたたたかいというのは絶対に勝てない。全部皆殺しにするなら話は別だが、1人でも残っていたら立ち向かうて行くからだ。これからも私たち弱い者の中軸になって指導してもらって、はぐるま座の発展を心からお願いしたい」と語ると割れんばかりの拍手が会場いっぱいに響き渡った。
 松山から参加した公演実行委員長でフリーライターの男性は、「昨年初めて出会い、戦争体験者や教師経験者と語らい、このままの一過性で終わらせるべきではないと話しあい、後援会をつくった。福田正義さんの『展望前後』の文芸論で1936年に、軍靴の響きがじわじわ迫っている時期、低俗愚劣な文化にうつつをぬかしている。これは生活の糧にならない、人民のためにならない、文化がどうあるべきかを熱っぽく語っている。それから70年、低俗愚劣なテレビなどが溢れかえって嘆かわしい。国民の嘆き、悩み、喜び、そういう場から発して、感情をともにしていくものでないといけない。これからも松山市民の目を覚まさせてもらいたい」とのべた。
 はるばる北海道から参加した婦人は「『南の島から』北海道公演から始まり14、5年になる。その後、劇団機関紙を通じてつながってきた。今日この会場に来ていろいろな人のスピーチを聞いて感激している。劇団の様子もよくわかる。これからも、ますます劇団の発展を祈念している」と語った。
 福岡県から参加した美術グループあらくさのメンバーの婦人は、「36年前に劇団と出会った。物産展の片隅にテントを張り、公演していたのを物珍しくのぞいたのが始まり。そのときの舞台のテーマと劇団員の魅力的な表情が私に強烈な印象を焼き付けたことを昨日のことのように思い出す」「500円のチケットで劇団はやってゆけるのかと心配しながら会場へ入れば、心配に追い討ちをかけるようなまばらな観客の入りに唖然としたこともあった。しかしどんな場合でも満席の観客を想起させる熱演が変わることはなく、民衆を社会の主人公とする一貫した姿勢とその舞台は、私に、民衆の1人であることの誇りをふつふつと沸き上がらせてくれるものだった」。そして「はぐるま座が、文化芸術の真の創造者であり担い手である、民衆の平和と繁栄を守るために、また文化のまっとうな開花のために常に根本問題と真正面からとりくんできたことに心より敬意を表する。幾多の困難を乗りこえて今日を迎えたことに対し、今後の期待とともに、心よりお祝い申し上げる」とのべた。
 会場内は、集中しながらも和やかな空気が流れ、はぐるま座を通じて一堂に会した全国の人人が、それぞれ旧知のように交流しあう場となり、はぐるま座の発展に期待を寄せるものとなった。

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