第32回 「 Kirchheim unter Teck 」
                  (テュービンゲン周辺のゆかりの地)
 

  1899年秋、22歳のヘッセは4年間のテュービンゲンでの生活を切り上げ、次の活躍の場をバーゼルに求めます。しかしその前の8月に、一度故郷のカルプに帰省し、さらにそこからプチ・セナクル(前回も紹介した、ヘッセがテュービンゲン時代につきあっていた若者達の自称。ヘッセ以外はすべて大学生)の仲間たちの招きに応じてキルヒハイム・ウンター・テック(Kirchheim unter Teck テックという山の麓にあるので、こう呼ばれます)を訪れます。ようやく書店員として自立できた自信と、せっかくできた同年代の友人達との別れの気分が、心の中で交錯していたことでしょう。
 キルヒハイムはシュトゥットガルトから南東25キロほどの所にある地方都市です。当時の人口は8千人ほどでした。プチ・セナクルのメンバーの内3人がこの地の出身であり、普段から彼らは頻繁にこの町を訪れていました。仕事のあるヘッセだけはあまり同行することができませんでしたが、それでもこの年の6月上旬には仲間たちとテックに登っており、決して夏に初めてキルヒハイムを訪れたわけではなかったようです。
 いずれにせよ、プチ・セナクルの仲間が夏にヘッセをキルヒハイムに招いたことには、これまであまり同行できなかったヘッセへの配慮と、お別れ会的な意味合いが強く含まれていたようです。ヘッセの宿は、仲間たちの集いの場であった旅館件食堂<王冠>に、フィンクが手配しました。

 8月16日にキルヒハイムを訪れたヘッセは、初めは2日間だけ滞在する予定でした。しかしそれがずるずると延ばされ、カルプに戻るのは8月25日になります。その原因はユーリエ・ヘルマンという女性との出会いにありました。プチ・セナクルの仲間は彼女を「ルールー」という愛称で呼んでいましたが、それが後に『ヘルマン・ラウシャー』に収められる中篇のヒロインとして造形されることは、読者の多くがご存知の通りです。この作品は刊行中の新全集では『麗しのルールーに捧げる花冠(Ein Kranz für die schöne Lulu)』というタイトルになっています(ここでは以後『ルールー』と略称します)。
 <王冠>の主人はミュラーシェーン氏と言い(『ルールー』では単にミュラー氏)、当時21歳だったユーリエとその姉のゾフィー・ヘルマンはミュラーシェーン夫人の姪であり、親が亡くなっていたため郷里のハイルブロン(Heilbronn)を離れて<王冠>に働きに来ていました。
 『ルールー』では、主人公のラウシャーは詩文で恋心を告白し、しかしどうやら今の自分はルールーに値する人間ではないと痛感せざるを得なくない状況に陥って行きます。しかし実際のヘッセはもっと内気で、キルヒハイム滞在中には思いを告白することができず、カルプに戻ってすぐの26日に片思いを打ち明ける手紙を書き、これからも花や詩を送ってよいかと許しを請います。9月にバーゼルに移ってからも、翌年にかけて、彼は憧れと哀愁のこもった詩やメールヒェンを送り続けました。
 一方ユーリエの方ではプチ・セナクルの別のメンバーであるオットー・エーリッヒ・ファーバーと昵懇の仲になっていきます。ヘッセはそれを察しつつ希望の乏しい文通を続け、1900年の2月から6月にかけて『ルールー』を執筆したのは、そのような自分の一つの時代を過去に沈めるためでもあったと思われます。
 ただ、ユーリエ・ヘルマンとファーバーの関係はその間に挫折し、その後ユーリエの心に「もしかしてヘッセと結ばれたら」という思いが去来した時期もあったようです。しかしその時、ヘッセにとっての「ルールー」の時代は終わってしまっていました。1972年に亡くなるまでユーリエ・ヘルマンはヘッセとの思い出を大切にし、その後もヘッセが送り続けた手紙、詩、絵などを、大切な宝として暮らしていたそうです。

 ところで、ヘッセとキルヒハイムとの関係を考える時、写真文化とのつながりも一つの面白い側面かもしれません。プチ・セナクルを写した有名な写真の一つに、背景に三角形の山が写り、ヘッセ一人が地べたに横になって写っている写真があるのをご存知の方がいらっしゃるのではないでしょうか? あの背景の山は実はテックであり、しかも本物の風景ではなく、書き割りです。当時キルヒハイムには、オットー・ホーフマンという人物が経営する写真館があり、南ドイツでは先駆的な技術を持っていました。この夏、プチ・セナクルの仲間はそこで3枚の集団写真を撮ってもらっており、ヘルマン姉妹の写真も残っています。
 私は5年前にも一度キルヒハイムを訪れたのですが、その時には旧市街のマックス・アイト・ハウス(Max-Eyth-Haus)に、この書き割りは展示されていました。この建物は小さな文学博物館になっており、ヘッセに関する展示コーナーもあります。しかしその後オットー・ホーフマンの写真館は、キルヒハイムからは南西に当たるボイレンの野外博物館に、建物ごと移設・保存されているそうです。おそらくあの書き割りも今はそちらにあるのだと思います。
 マックス・アイト・ハウスの受付の女性は、5年前に訪れてヘッセに関する展示を食い入るように見て回った日本人を覚えており、今回はわざわざ一緒に回って主な展示品を説明してくださいました。セナクルの子孫に当たる何人かの人とは連絡があるそうです。

 ヘッセのテュービンゲン時代は、いわば忍の一字で自分を鍛えた時期であり、その後バーゼルでは、ある程度自信を持って教養を深めていけるようになります。その間に挟まったキルヒハイムでの10日間は、現実の合間にメールヒェンの泉が湧き出たような、不思議に象徴的な時間であったような気がします。そして、「ルールー」的なきらめきは、その後のヘッセの作品の各所に秘められて光芒を発しているような気がしてなりません。
 キルヒハイムは、古い面影を大切に残した美しい地方都市です。またいつか訪ねてみたいものだと思います。(高橋 修)

写真の説明(上から)
1.Kirchheimの市庁舎
2.Kirchheimの街並みとTeck山
3.Ludwig Finckhが下宿していたSteingau通り
4.Kirchheimの城
5.Max-Eyth-Haus




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