#5/酒とバスの日々

『サンチャゴふらふら』 田中小実昌 トラベルジャーナル

 旅行記というものは、たいていカッコいいものだ。美しい風景、珍しい食べ物、ちょっと危険な裏通り、病気とトラブル、そして人との出会い・・・・。読者は、その多彩な体験に憧れ、自分自身を重ね合わせて夢をみる。

 ところが、田中小実昌の旅は、そんなカッコよさとは対極にある。この本を読んで、彼の真似をしたい、という人はいるだろうか。のっけからもう・・・・。日本から飛行機を乗り継いでいく途中で、べろべろに酔ってしまい、やっとチリのサンティアゴに着いたら、出迎えの人の前でいきなりゲロを吐いたりして。
 サンティアゴでは、毎晩毎晩同じ飲み屋で飲んでいる。そして昼間は、道端からでたらめにバスに乗っては、終点まで行って帰ってくる。飽きもせず、二ヵ月以上ほとんどその繰り返しだ。
 バスの終点は、いつも何も見るもののない、荒涼とした場所だ。砂埃と、掘立て小屋と、野良犬と、灌木が数本。コミさん(失礼、こう呼びたくなる)は、ぽつんとひとり、その風景の中に立ち、黙って名も知らぬ遠くの山を眺めている。

 いったいこれは何なんだ、と思っていたら、終わり近くにこんな一節があった。「ぼくはなにかを見てやろう、なにかをつかみたいとおもって、外国の町にいるのではない。 −中略− なにかを身につけるのではなく、できれば身に積みかさなっているものが、バスのなかでぼんやりしているうちに、流れでてくれるとありがたい」
 そうだったのだ。コミさんの旅は、あれもこれもと世界の意味を知るためではなく、逆に、無垢で寄る辺ない子供のような精神を取り戻すための、哲学的な旅だったのだ。 
(1992年初版)

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