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1818


 ドニゼッティのオペラの処女作といわれているのは、ボローニャ留学中に書かれた「ピグマリオーネ」だといわれています。これは1816年の9月の後半の休みに一気に書き上げた1幕の短い作品で、いろいろ興味深い点はあるのですが、当時は上演されなかった習作ですし、オペラというにはあまりにも小さなもの(登場人物は二人、時間は30分程度)なので、ここでは扱いませんでした。部分的に作曲しただけと思われる「オリンピアーデ」と「アキッレの怒り」も外しました。
 この「ピグマリオーネ」などを作曲した直後に、ドニゼッティはアンコーナでの上流階級の家庭教師の職を要請されていますが、彼はこれを断っています。彼にとってはいかに安定していようとも、囚われの生活は魅力がなかったのでしょう。
 彼の目標は、オペラの作曲家として一人前になることだったのです。
 1817年の末、留学を終えたドニゼッティはひとまずベルガモに戻りますが、別に仕事があるわけではありません。彼はサロンなどで活動し、小金を稼いでいたと思われます。
 それから1822年までの間彼にとって最大の問題は、どうやって契約をとるかでした。マイールの推薦状はあっても、それだけで食べて行けるほど甘い世界ではありません。20歳の青年の格闘が始まったのです。


ENRICO DI BORGOGNA

初演:1818年11月14日、ヴェネツィア、サン・ルカ劇場
台本作家:バルトロメオ・メレッリ
原作:アウグスト・フォン・コツェブ「ヨハンナ・フォン・モントファウコン」

 音楽家としての活動の場を捜していたドニゼッティは、ロンツィという歌手の夫婦と親しくなり、それが縁でヴェローナを中心に北イタリアで巡業を行っていたオペラ一座の興行主、パオロ・ザンクラと知り合うことが出来ました。1818年4月、彼はザンクラから秋のシーズン用の作品を依頼されます。これが彼の処女作「エンリーコ・ディ・ボルゴーニャ」になるのです。
 初演では主役を務めた若いアデライーデ・カタラーニが1幕の終りで気を失ってしまい、第2幕は代役で進めざるを得なかったそうです。こうしたアクシデントはありましたが、初演はまずまずの結果だったようです。
 この曲はドニゼッティ好きには非常に有名な作品です。というのも、エンリーコのアリアCare aurette che spiegateのなかに、かなりはっきりとした形で「アンナ・ボレーナ」のAl dolce guidamiの旋律の原形が聞き取れるからです。後の出世作の中でも一番有名な旋律が既に処女作の中に見つけられるのですから、やはり大した人物です。

Jones
Philharmonia Orchestra
Parry
London,1985,86,87
OPERA RARA ORCH103

 そのエンリーコのアリアCare aurette che spiegateが収録されています。


UNA FOLLIA

初演:1818年12月17日、ヴェネツィア、サン・ルカ劇場
台本作家:バルトロメオ・メレッリ
原作:?

 「エンリーコ」の成功によって、ドニゼッティはザンクラから次の契約を得ることが出来ました。この「バカ騒ぎ」はどうやら一月足らずの間に大急ぎで作られたもののようです。初演はまずまずの成功を収めたようですが、しかしさらなる契約を得ることは出来ず、ドニゼッティとザンクラの関係はここで打ち切られます。次の仕事の当てもないドニゼッティは、仕方なく故郷ベルガモでまたしばらく待ちぼうけを食らうことになります。

Orchestra della RTBF di Bruxelles
Frontalini
Bruxelles,Novenmber 1987
BONGIOVANNI GB2049

 残念ながら今のところこの「バカ騒ぎ」は楽譜も台本も失われています。
 しかし、序曲のうち一部の楽譜はボローニャ音楽院の図書館に残されており、これをもとにルイージ・リーヴィが纏めた楽譜を使用しているそうです。
 それにしても、一幕もののファルサの序曲が7分もするというのはどういうことなのやら…。


Intoroduction
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1824 1826 1827 1828 1829
1830-1 1830-2 1831 1832 1833
1834-1 1834-2 1834-3 1835-1 1835-2
1835-3 1836 1837 1838 1839
1840 1841 1842 1843 1844
1845 appendix


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