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1833

IL FURIOSO ALL'ISOLA DI SAN DOMINGO

初演:1833年1月2日、ローマ、ヴァッレ劇場
台本作家:ヤコポ・フェッレッティ
原作:セルバンテス「ドン・キホーテ」
    →5幕の戯曲「サン・ドミンゴ島の狂人」(ローマ、1820)

 ドニゼッティは11月半ばにヴィルジーニアとともにローマに到着します。先にラナーリとと結んだ新作の準備のためです。
 この作品の主人公カルデーニョを創唱したのは当時まだ22歳だったジョルジョ・ロンコーニでした。彼は高音に気を輝かしく張ることができるドラマティックなバス、つまりはバリトンで、後に高名なヴェルディ歌いになった人物です。ドニゼッティは彼にいれ込み、カルデーニョを効果的に作曲したということです。つまりある意味ではヴェルディバリトンのルーツがこの作品の中にあるのかもしれません。
 聴衆もロンコーニに驚嘆し、初演は大成功。あのスカラ座ですら秋のシーズンに取り上げた際、10月から年末までの間だけで36回も上演されたというのですから、聴衆の熱狂ぶりも推し量れるというものです。

Antonucci,Serra,Canonici
Orchestra Sinfonica di Piacenza
Rizzi
Savona,10 November 1987
BONGIOVANNI ANF-223(GB 2056/7/8-2)

 


PARISINA

初演:1833年3月17日、フィレンツェ、ペルゴーラ劇場
台本作家:フェリーチェ・ロマーニ
原作:バイロン「パリジーナ」(1816)

 この「パリジーナ」(もしくは「パリジーナ・デステ」)は1830年代前半、すなわち「アンナ・ボレーナ」から「ルチーア・ディ・ランメルモール」までのドニゼッティのドラマティックなオペラの中でも、「ルクレツィア・ボルジア」と並んで特に注目に値する重要な作品です。

 1833年の1月半ば、ドニゼッティはフィレンツェに到着します。前年結んだ契約の履行のためでした。ところがそこでドニゼッティが知ったのは、台本がまだ出来上がっていないということでした。またしてもロマーニなのです!!
 1832年から33年にかけてのシーズンにロマーニが引き受けた台本は「パリジーナ」以外に四つもあったのです。その四つの中にベッリーニの「ベアトリーチェ・ディ・テンダ」がありました。そしてこれこそが「パリジーナ」が遅れる最大の原因になったのです。この件について、ミヒャレル・ヴァルターが「オペラハウスは狂気の館」の中で触れています。

ドニゼッティは[…]《バリジーナ》に関してはこうも述べている。「フィレンツェむけのオペラはどうも雲行きが怪しくなってきた! もう十二時なのに、ロマーニはまだ台本を送ってよこさない…またいつもの怠け癖だ」  ロマーニはー八三二年スカラ座の座付き作家となり、その仕事で手一杯だった。《バリジーナ》の台本を持っていたドニゼッティだけでなく、ベッリーニもまた、《テンダのベアトリーチェ》の完成を待ちわびていた。このときばかりは、ロマーニもいささか図にのりすぎた。締め切りが迫り、絶望に気も狂わんばかりのベッリーニは、台本作家の明らかな契約違反だとヴェネツィアの総督に訴えでた。これを受けた総督は、ミラノの総督に協力を要請し、ロマーニを警察に出頭させ、始末書を書かせた。これだけ圧力をかけられて、ようやくロマーニはヴェネツィアにおもむき、《テンダのベアトリーチェ》 の執筆に取りかかった。そのとばっちりで、ドニゼッティはさらに《バリジーナ》の台本を待たされたのである。こうして《バリジーナ》 の初演が太幅に遅れたため、インブレサリオのラナーリは大損をさせ られてしまった(そのうえ、この件でドニゼッティとラナーリは大げんかをするはめになった)。
(小山田豊訳、春秋社)


 ドニゼッティとラナーリだけでなく、ベッリーニとロマーニも大げんかとなったのは有名な話です。
 ともかくこのとばっちりで、ドニゼッティが台本を手に入れたのは1月の終わり頃から、それも出来あがった場面からポツポツと送られてきたのだろうと推測されています。初演の日付を考えると、今回もキリキリの作曲だったことが分かります。

舞台は16世紀のフェッラーラ。
第1幕
フェッラーラの公爵アッツォもとへ大臣エルネストがやってきて、パドヴァとの戦いに勝利したことを報告します。公爵は喜ぶ一方、彼の美しい妻パリジーナとエルネストの息子ウーゴの関係が怪しいとエルネストに打ち明けます。嫉妬深い公爵は既に前妃も死に追いやっているのです。公爵はエルネストに、ウーゴに許可なくフェラーラに戻らぬよう伝えよと命じます。公爵と入替りに当のウーゴが現れます。すぐ立ち去るよう諭すエルネストに、ウーゴはパリジーナを子供の頃から愛していることを告白します。一方、パリジーナはフェッラーラの勝利にも気が浮かばず、勝利の祝福を願い出に来た騎士達にも彼女は素っ気無い態度を取ります。一人の騎士が居残ります。ウーゴです。パリジーナは彼の身を案じ逃げるように説得しますが、二人の愛は燃えあがっています。彼が止む無く立ち去ろうとした時、公爵がやって来ます。命令に背いたウーゴに公爵は怒りを向けますが、パリジーナがなんとか取り繕います。舞台裏から水上祭の歓声が聞こえてきます。公爵は二人の仲を覗うため、ウーゴを留めることにします。
第2幕
祝勝会の後、パリジーナは侍女達にウーゴの勝利を喜んでいます。疲れた彼女が寝入ってしまうと、そこへ公爵が彼女の様子を見にきます。ところがパリジーナが寝言でウーゴへの愛を口にしてしまうので、公爵は激しく怒ります。目を覚ましたパリジーナも、ウーゴを愛しているとついに開き直ってしまいます。公爵は剣に手をかけつつ、しかしさらなる復讐をしてやると出て行きます。一方パリジーナとの逢引きをするウーゴに、エルネストは危険だと警告をします。突然、祝宴は中断され、武装した公爵の手下達がウーゴを呼び出します。公爵の前に引っ立てられたウーゴとパリジーナは、死を覚悟し互いの愛を隠しません。そこへエルネストが現れ、ウーゴは公爵と前妃の息子だと告白。三人は激しく動揺します。実の息子と知って殺すわけにもいかない公爵は、エルネストにウーゴを連れて行くよう命じますが、ウーゴはパリジーナと離れることに激しく抵抗します。
第3幕
パリジーナのもとに追放されることになったウーゴから手紙が届きます。彼は公爵を信用してはならないと彼女に警告をしたのです。遠くから悲しげな声が聞こえます。公爵が現れ、パリジーナに窓の外を見させると、庭にはウーゴの死体が。パリジーナは嘆き息絶えます。

 バイロンの原作は、1425年にフェッラーラ公国で実際にあった事件をもとにしています。フェッラーラ公ニッコロ3世は、妻パリジーナ・マラテスタが庶子ウーゴと不貞を働いたとして、両名とも斬首に処したのです。


「パリジーナ」の音楽の構成は次のようになっています。
「パリジーナ」の音楽設計一覧図


初演時の歌手は次のようでした。

ParisinaCaroline Ungher
ImeldaTeresa Zappucci
UgoGilbert Duprez
AzzoDomenico Cosselli
ErnestoCarlo Ottolini Porto
カロリーネ・ウンガーにジルベール・デュプレですから、かなり強力です。

 どういう訳か、時間的余裕がない時のドニゼッティの音楽は非常に冴えます。この「パリジーナ」も、極めて水準の高い音楽が多数あります。
 とりわけ素晴らしいのは、第2幕のパリジーナと公爵の二重唱です。あらすじにもある通り、ここでパリジーナは寝言でウーゴへの愛を口にしてしまうことで公爵に関係がばれてしまいます。公爵は怒り彼女の腕を掴み、Di fuggirmi invano tenti, tutto tutto, tutto so(逃げ様としても無駄だ、全て知っている)と言うのですが、この部分をドニゼッティはE-D#-D-C#-C-B-A#-A-G#-G-F#-F-E-D#と、1オクターヴ以上の半音階下降にして歌わせているのです。当然オーケストラもそれに合わせています。これは当時としてはかなリ斬新な音楽でしょう、実にハッとさせる効果を持っています。
 またこの二重唱の後半、パリジーナが開き直ってウーゴを愛していることを告白し公爵にためらわず殺すように歌うNon pentirti...mi ferisciは、ロマーニの歌詞にドニゼッティが触発され、極めて新鮮な情熱に満ちています。ドニゼッティはカロリーネ・ウンガーの暗くドラマティックな声を効果的に活用しているのです。この二重唱には1830年代のドニゼッティの「ロマンティシズムを切り開く魅力」が良く表れています。
 同様な魅力は同じ幕のフィナーレになる四重唱にもあります。一昔前であれば、ウーゴが公爵の息子だとわかりハッピーエンドにでも出来そうな物語が、ここでは重苦しい感情に包まれています。公爵が最大限父としての愛情を思い起こしてウーゴを生かすことにし、早く立ち去れと言うにもかかわらず、ウーゴはパリジーナと離れることにNon è vita, è lunga morte(それは生きることではない、長い死だ)と抵抗します。この部分のvivaceの音楽(ストレッタの役割を担っています)も実にスリリングです。
 アリアは、公爵に一つ、ウーゴとパリジーナに二つずつ与えられています。
 パリジーナの第2幕のアリアSogno talor di correreはやわらかい美しさをもったもの。このアリアは公爵との二重唱に先立つもので、パリジーナは幸せな日々を思い起こしながら徐々にまどろんで行きます。したがってカバレッタの部分がないロマンツァになっています。ここでの穏やかさ(しかしそこには時折暗い影が短調の和音で示されています)が、次の激しい二重唱への布石となっているわけです。このアリアはもっと知られても良いものでしょう。
 初演のウーゴは、高名なジルベール・デュプレでした。後にDo in petto(胸声のハイC)で有名になる彼ですが、1833年の時点ではまだファルセットーネを使って高い音域を出す古い発声法でした。そのためウーゴの第2幕のアリアIo sentii tremar la manoには高いC音が頻出、とりわけカバレッタのQuesto amor doveva in terraでは高いDbさえ出てきます。しかも同様のテノールを想定しているベッリーニと違いドラマティックな強さも要求されているので、かなリ至難な役となっています。このことが復活上演を困難にする一因でしょう。
 強力なキャストもあって、初演は大成功となりました。もっとも予定より二週間遅れてしまいシーズンの残りが少なくなったため、初演時の上演は9回にとどまりました。しかしその後「パリジーナ」はイタリア各地のみならず、多数の外国での都市でも上演される大人気作となりました。19世紀最後の上演は1895年のナポリといいますから、相当な寿命です。20世紀の復活は1964年、シエナでの上演です。

 大変な傑作なわりには、どういう訳か現代の上演は盛んではありません。なんとも残念なことです。

Pendatchanska, Moretti, De Andrès, Aliev, Barcellona
Orhchestra della Svizzera Italiana
Plasson
19 January 1997
DYNAMIC CDS 277/1-2

 ペンダチャンスカが評判通り素晴らしい歌を聞かせてくれています。暗く力強い声に安定したテクニック、そして何より踏みこみの強い表現力は非常に魅力的です。仮に作品に関心がなくても、彼女の歌を聞くだけでも価値があるでしょう。ウーゴとアッツォは魅力薄。
エマニュエル・プラッソンの指揮は、引き締まった音楽作りは好ましいとはいえ、いささかシンフォニックな扱いで呼吸感がないところが聞かれます。
演奏会形式の上演の録音のようです。カットが入っているのは仕方ないにせよ、ウーゴの第2幕のアリアがブッツリ切れて終っているのが奇妙です。

Dorigo, Moretti, Corrado Caruso, Rocca, Belfiore
Orhchestra del Teatro Rossini di Lugo
Carignani
Lugo,21,23,25 November 1997
BONGIOVANNI GB2212/13-2

 ボンジョヴァンニらしい田舎公演のライブ。ルーゴはラヴェンナとボローニャの中間辺りに位置する町で、ロッシーニが少年時代の短い期間住んでいたこともあるところ。その当時から残る劇場での上演。
全体に歌手の力不足が目立ちます(ウーゴ役は上記と同様モレッティ)。しかしその範囲内では悪い演奏ではないと思います。
カリニャーニの指揮はかなりユルイものとはいえ、オペラティックな魅力はあります。
カットは多め。繰り返しの省略ぐらいは構わないのですが、パリジーナのアリア・フィナーレのカバレッタUgo! è spento!も後半がばっさりカットでちょっともったいないです。

Caballe, Pruett, Quilico, Morris, Bergquist
Queler
New York,1974
STANDING ROOM ONLY SRO-836-2

 会場での盗み撮り音源で、この盤では音はステレオですが、良好ではありません。
キャストはこれが一番充実しています。カバリエはさすがに貫禄。ただ練習不足だったのか、絶好調というほどではありません。
いつものことですが、ケラーの指揮はタラタラしていてどうにも不満です。

3つの録音とも、序曲(「ウーゴ」からの転用)の主部や、12番の合唱の大半がカットされています。


TORQUATO TASSO

初演:1933年9月9日、ローマ、ヴァッレ劇場
台本作家:ヤコポ・フェッレッティ
原作:

 ドニゼッティはローマに戻り、長年温めていた題材である「トルクァート・タッソ」を取り上げることにしました。タイトル・ロールには「サン・ドミンゴ島の狂人」で人々を熱狂させたあのジョルジョ・ロンコーニでした。この「タッソ」も非常に好評に迎えられました。
 この作品で面白いのは第3幕です。事実上タッソのアリアだけで出来ている幕で、典型的なカヴァティーナ/カバレッタ形式の充実した音楽はバリトンの力を見せつけるのにうってつけでした。19世紀末から20世紀初めにかけて活躍した名バリトン、マッティア・バッティスティーニ(1855−1928、終生イタリアを拠点にして活動したので「イタリアの栄光」と称えられる名バリトン歌手です)がこの第3幕を好んで歌っており、録音もしています。
 もっともオペラ本体は長らく埋もれてしまっていました。というのも、「タッソ」は、しばしば指摘されますが、セミセリアの弱点がかなりはっきり出てしまった作品だからです。タッソの二人の敵のうちの一人である宮廷詩人ゲラルドがバッソ・ブッフォに割り当てられてしまっており、これが物語りの上でも音楽の上でも余計に思えてしまうのです。セミセリアのオペラはこの後下火になる一方で、この形式の最後の当たり作と言っても良いかもしれません。そう言う意味ではプラス面でもマイナス面でも、過渡期の特徴が良く出ている作品なのかもしれません。

Serra,Alaimo,Palacio,Coviello,Riva,Ciliento
Orchestra del Teatro Comunale di Genova
De Bernart
Savona,16 October 1985
BONGIOVANNI GB 2028/29/30-2

 なかなか豪華なキャストでうれしくなります。ただアライモのタイトルロールは ちょっと異質なような気もしますが・・・。


LUCREZIA BORGIA

初演:1833年12月26日、ミラノ、スカラ座
台本作家:フェリーチェ・ロマーニ
原作:ヴィクトル・ユーゴ「リュクレース・ボルジア」(1833)

 1833年の9月の半ば、ドニゼッティはミラノに向かいます。ここでまず「サン・ドミンゴ島の狂人」をミラノ初演し(10月1日)、これが大成功となったため彼は次の謝肉祭シーズンの新作も以来されます。これがドニゼッティの傑作の一つ、「ルクレツィア・ボルジア」になります。

フェッラーラに赴任するヴェネツィアの大使の宴に招かれたオルシーニ達は悪女と名高いルクレツィアのことを噂しています。ジェンナーロが一人話に乗らず居眠りをすると、小船に乗ってルクレツィアが現れ、彼を見つめます。目を覚ましたジェンナーロは、自分の生立ちを語ります。彼が自分の息子だと気付くルクレツィア。しかしその様子はフェッラーラ公爵ドン・アルフォンソの手下に目撃されています。そこへオルシーニ達が戻ってきます。ルクレツィアに気付いた彼らは、彼女を悪女と罵り、彼女は逃げて行きます。フェッラーラに到着したジェンナーロ達は宮殿の壁に書かれたボルジア家の紋章に侮辱を加えます。そこに大公の部下達が現れ、ジェンナーロを捕らえ連れていってしまいます。紋章を侮辱され怒るルクレツィアは大公に犯人を厳しく裁くよう願います。しかしジェンナーロが連れてこれられると一転大公に許しを求めます。二人の関係を疑う大公。ジェンナーロは毒を飲まされますが、あとでルクレツィアが解毒薬を与えて彼を逃がします。ところがジェンナーロはオルシーニに強引に誘われ、ネグローニ邸の宴会に連れて行かれます。陽気に酒を飲むオルシーニ達、しかしルクレツィアの部下は酒をこぽして飲まないので、ジェンナーロは不安を感じますが、オルシーニは気にしません。突然ドアが閉まり彼らは閉じ込められます。ルクレツィアが現れ、ヴェネツィアでの侮辱の仕返しに毒を盛ったと告げます。しかしジュンナーロを見付けると、彼一人残し解毒薬を飲むよう勧めます。しかしジェンナーロは仲間を見捨て一人助かることに同意しません。ついに自分が母親であることを告白するルクレツィアの腕の中でジェンナーロは死んでしまいます。ルクレツィアは嘆きます。

 ルクレツィア・ボルジアが実在の人物だということはわりと知られているでしょう。法王アレクサンドル6世ロドリーゴ・ボルジャとヴァノッサ・デ・カタネイスとの不倫の関係の間に生まれた子供として1479年4月19日に生まれています。彼女自身は、生涯に三度も政略結婚させられたことからも分かるように、運命と権力に振りまわされた女性のようです。フェラーラ公エステ家当主アルフォンソ1世は三度目の結婚相手でした。
 彼女については、兄チェーザレ・ボルジアと共に多数の研究書、サイトがありますので、ぜひ参照してください。

   ルクレツィアは1498年にローマの法王庁のペドロ・カルデロンとの間に子供をもうけていますが、兄チェーザレがペドロを殺し子供を引き取ってしまいます。これがユーゴの物語の基盤になっているようです。ユーゴの戯曲ではルクレツィアは単なる悪女でなく、複雑な状況下でかつて別れた息子ジェンナーロに毒を盛らざるをえず、その命を救うに救えなかった悲劇の女性となっています。ちなみに原作では彼女はジェンナーロに胸を刺され、私がおまえの母親だったのだと告白して息絶えます。

 ドニゼッティの「ルクレツィア」は大成功を収めました。初演時は33回の公演を数えるほど、恐らくドニゼッティのスカラ座初演のオペラでは最も成功したものとなりましたが、しかしこれはロンバルディアというオーストリー支配の国だから出来た話で、それ以外の国(地方)では(教皇領はもちろん)上演は難しく、また数多くの「別名上演」がなされたことでも知られます。
 作品は非常に良い出来です。真新しいロマン主義に興奮気味なドニゼッティの姿が伝わってくるようです。ただし幕切れのカバレッタ"Era desso il figlio mio"は初演時のプリマドンナ、アンリエット・メリク=ラランドのわがままでリハーサル中に急遽付け足されたもので、何とも取って付けたようなものです。しかしこれに渋々従ってドニゼッティが作った曲は、大変高度な技巧を必要とする上ハイCが連発する至難のもので、まるで既に歌手として下り坂だったメリク=ラランドへのあてつけのようです。
 それでもドニゼッティはこのフィナーレに不満で、1840年のスカラ座での再演の際にジェンナーロの死で終る新しいフィナーレに書き直しています。これについては1840年のミラノでの上演のところでまた触れることにしましょう。

 この作品は、他のドニゼッティ多くの作品と異なり、細々とではありますが上演史から完全に消えることはなく生き残りました。しかしその真価が改めて注目されるのはやはり戦後のことです。ことにゲンジェル、サザランド、カバリエといったプリマドンナが好んで取り上げたことで、ドニゼッティの中期の大傑作としての認知は確かなものとなったといえるでしょう。

Caballe,Kraus,Verret,Flagello
RCA Italiana Opera Orchestra
Perlea
Roma,May 1966
RCA VICTOR BMG 6642-2-RG

 改訂稿の方でも述べますが、カバリエは下積み時代に代役でまわってきたこの作品のコンサート形式の上演でセンセイションを引き起こした時は新しいフィナーレを用いていましたが、しかしそれを受けてのスタジオ録音では初演通りアリアフィナーレを歌っています。
 演奏そのものは、カバリエやクラウスなど役者が揃っていて、なかなか充実したものになっています。

Sutherland, Aragall, Horn, Wixell
National Philharmonic Orchestra
Bonynge
London, August 1977
LONDON(DECCA) FOOL-20564/5

 この録音でも"Era desso il figlio mio"で幕切れとなりますが、その前に1840年のミラノでの上演で追加されたジェンナーロの死の場面"Madre, se ognor lontano"を加えるという、折衷的な方法が採られています。また前奏曲があります。
 サザランドのルクレツィアは、ルチアほど適役ではないと思いますが、しかしやはり高水準です。ジェンナーロのアラガルがまた瑞々しく、ボニングの指揮も悪くありません。


Intoroduction

1818-1821 1822 1823 1824 1826
1827 1828 1829 1830 1831
1832 1833 1834-1 1834-2 1835-1
1835-2 1835-3 1836 1837 1838
1839 1840 1841 1842 1843-1845
appendix


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