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1835-3

MARIA STUARDA Versione del 1835 Milano

初演:1835年12月30日、ミラノ、スカラ座

 ナポリでの「マリーア・ストゥアルダ」の上演が頓挫した後、これをミラノで上演しようと目論んだのは、ドニゼッティではなく、マリーアを歌うはずだったジュゼッピーナ・ロンツィでした。彼女は1834年12月のスカラ座のカーニヴァルシーズンの開幕公演の「ジェンマ・ディ・ヴェルジ」でジェンマを歌うことになっていたのですが、そのついでに「マリーア」を第二の作品として上演し、自分が主役を歌うおうとドニゼッティに働きかけました。
 しかしドニゼッティは、同じ作曲家の新作が同じプリマドンナで続くことは避けた方が良いと判断して、この申出を断わっています。
 「ジェンマ」の後、ドニゼッティは念願のパリを訪れ、1835年3月12日にイタリア劇場で「マリン・ファリエーロ」を初演しています。そして4月になってナポリに帰ってきます。おそらくそれからしばらくして、ミラノのスカラ座が「マリーア・ストゥアルダ」の初演を計画していることを知ります。しかも主役には、屈指の大プリマドンナ、マリーア・マリブランを起用するというのです!この夭折した歴史上名高いプリマドンナは、前年ミラノに登場し熱狂を引き起こしたばかりでした。
 ドニゼッティがこの上演をいかに重視していたかは、彼が即座に作品の改編を申し出たことからもわかります。
 ドニゼッティがミラノでの初演に向けて行った改編のうち重要なものは次のようなものです。

  1. 新たに書き下ろした序曲を加えました。
  2. 第1幕のエリザベッタのアリアのカヴァティーナ部分の後半をカットしています。
  3. 第1幕にマリーアとレイチェステルの二重唱"Da tutti abbandonata"を挿入しました。
  4. 細かい歌のラインなど、様々に手が加えられています。
 新しい序曲は、あまり良い音楽ではないように思われます。少なくとも本来の前奏曲が簡潔でありながら大変効果的ですので、この立派な序曲もあまり必然性を感じません。ここにはマリーアの第1幕のアリアのカバレッタ"Nella pace mesto riposo"の旋律が取り入れられています。

 エリザベッタのアリアのカヴァティーナ"Ah quando all'ara scorgemi"のうち、"E mentre vedo sorgere"以降はカットされています。ただこれはおそらく「ブオンデルモンテ」のための指示と思われ、ミラノでの「マリーア」でも踏襲されただけと考えられています。完全に破棄する時のようにペンを使うのではなく、鉛筆で抹消されているだけといいますから、復活させて問題があるようなものではありません。

 挿入されたマリーアとレイチェステルの二重唱"Da tutti abbandonata"は、現在第5番として知られているものです(したがって第1フィナーレ以降は第6番…と一つ順番が下がります)。
 この二重唱は、次のような作りになっています。

"Ah! Non m'inganna la tioia?..."(Recitativo)
"Ciel! Che ascolto?"Bb
4/4
Allegro
"Da tutti abbandonata"Db
6/8
Larghetto
"Del suo core convinta io sono!"F / Db
4/4
Allegro
"Ah! Se il mio core tremò giammai"Db
4/4
Allegro

 "Da tutti abbandonata"がカンタービレ部、"Ah! Se il mio core tremò giammai"がカバレッタ部になっています。
 この二重唱は、実は本来「ブオンデルモンテ」の曲です。「マリーア」を「ブオンデルモンテ」に移しかえる際、「ブオンデルモンテ」のソプラノとテノールの二重唱に、「マリーア」の第3番であるエリザベッタとレイチェステルの二重唱がうまく使えなかったので、新たに作曲され差替えられたのです
 カンタービレ部分"Da tutti abbandonata"は、「ファウスタ」の第3幕の二重唱"Per te rinunzio al soglio"からの取られたもの(ウィリアム・アシュブルックは、この「ファウスタ」の二重唱はヴェネツィアでの上演用に追加されたものと述べています)。はじめマリーアが、ついでレイチェステルが同じ旋律を歌い、後半では6度に重なるという典型的な作りをしています。
 カバレッタの"Se il mio core tremò giammai"も、基本的にはまずマリーアが、ついでレイチェステルが歌うというつくりですが、カバレッタの前半はその形態をきちっと守っているのに対し、後半では二人が同じ旋律を交互に歌っていき、より感情の高まりが感じられるようになっています。最後は重なって終ります。
 このカバレッタは大変に優れたものです。例えば、マリーアが"per te spero che il mio stato non sia misero così"(あなたによって私がこれほど惨めではなくなることを望んでいます)という言葉を二度繰り返すとき、一度目は短調の色彩が強く、二度目は臨時記号を用いて長調で明るく歌われます(これは後のレイチェステルでも同様)。これによってマリーアの不安と希望が効果的に表現され、深みを与えることに成功しています。
 ナポリでの「ブオンデルモンテ」の上演の際、この二重唱は大変に好評でした。そのためミラノでの「マリーア」の上演用に追加されたのです。
 ただし歌詞には混乱があります。ミラノの上演では直前になって"Ben io comprendo"で始まる、全く別の歌詞に置きかえられました。これは19世紀の後の上演の際の台本を見てもほぼ踏襲されています。一方、近代の上演はまず例外なく"Da tutti abbandonata"の歌詞が使われています。
 この二重唱を加えたことで、マリーアの魅力がより引き立ち、第1幕がグンと華やかになります。しかし弊害があることも否定できません。マリーアには、第1幕の後半に、アリア、二重唱、フィナーレと続くことで、かなりの負担を強いてしまいます。同様にレイチェステルも第1幕がますますきつくなります。そして第1幕が80分近くとかなリの長さになってしまうのも問題です。
 こうした欠点があるとはいえ、今では「マリーア」を上演するには外せない曲となっています。

 ドニゼッティはマリブランのために、マリーアの歌を様々に手直ししたと思われます。それらは、直後にリコルディから出版されたスパルティート(ただし全曲ではなく、いくつかのピースのみ)に残されています。第4番のアリアのカバレッタや、第2幕フィナーレ最後の部分に相違が見られます。

 さて、ミラノでも上演までの道のりは順調というにはほど遠いものでした。
 一つは、あいもかわらず歌手の問題でした。
 当初エリザベッタ役には、ドイツ人のソフィア・ショーベルレヒナーが予定されていました。しかし彼女はエリザベッタ役に不満を訴え、11月も終わりになってキャンセルしてしまったのです。
 代わりを務めたのはジャチンタ・プッツィ=トーゾというニ流のソプラノ。しかも12月も半ばを過ぎてから大急ぎでエリザベッタ役を覚えこまされたのですから、期待が出来ないのは当然です。ドニゼッティは渋々エリザベッタ役を簡単に歌えるよう手直ししたようです。
 この代役のため、シーズン開幕(12月26日)には間に合うことが出来ませんでした。かわりにベッリーニの「清教徒」のイタリア初演が行われます。
 運の悪いことに、今度は肝心のマリブランが喉の調子を悪くしてしまいました。それでもマリーア役を務めてはいますが、彼女本来の力量は全く発揮できなかったようです。ドニゼッティは、彼女が報酬を貰い損ねるのを恐れて無理に舞台に上がった、と手紙で嘆いています。
 ドニゼッティをさらに苦しめたのは、彼の父が12月9日にベルガモで亡くなったことです。しかし彼は公演準備のため、ミラノからさほど遠くもないベルガモまで葬儀に行くこともできなかったのです。しかもこの父の死は、この後立続けに起こる彼の家族の不幸の始まりでしかなかったのです。

 ようやくの「マリーア・ストゥアルダ」の初演ですが、しかし先に述べたようにマリブランの調子が思わしくなかったため、ドニゼッティが期待した興奮は引き起こせませんでした。
 それでも公演は12月30、31日、さらに年が明けて1月1日と、ドニゼッティも立ち合って行われました。
 ところが、1月3日の公演で異変が起きました。「マリーア」は第1幕だけが上演され、続いてロッシーニの「オテッロ」の第2幕以降が上演されたのです!ドニゼッティは4日にミラノを発っていますから、このことは知っていたのでしょう。「劇場のそばになんか寄るものか!」と手紙に書いています。
 従来、「マリーア」が3幕仕立とみなされていたので、第1幕とは第3番(エリザベッタとレイチェステルの二重唱)までと理解されていました。この場合、まだマリーアは登場しないので、「マリーアを舞台に上げることが問題なんだろう」と思われていました。しかし、実際にはこのミラノでの「マリーア」も1834年のナポリと同様2幕仕立ですから、第1幕が上演されたということは、マリーアとエリザベッタの対決の場面はまだ上演されていたのです。ということは、これは検閲などの問題ではなく、第2幕がミラノの聴衆には受けなかったことを意味します。
 この形での上演が1月10、12日と続いた後、今度は検閲からクレームが入ります。
 実は事前の検閲で、あの過激なマリーアの罵倒の台詞は和らいだ表現に改編を要求され、それを飲んだことになっていたのです。ところがマリブランはそれを知りつつ、しかしオリジナル通りで歌いつづけたのです。それが知られてしまい、マリブランは呼出をくらったのです。
 そしてついにミラノでも「マリーア・ストゥアルダ」は上演禁止となってしまいました。
 完全な形の公演はわずか3公演だけ。しかもマリブランが不調でしたから、とてもドニゼッティが満足できるものではなかったでしょう。

 「マリーア・ストゥアルダ」はこの後も完全に消えてしまったわけではなく、イタリアのいくつかの都市などで散発的に上演されました。しかしドニゼッティはもうこの作品に情熱を失ったようで、積極的には関与することはありませんでした。
 ナポリではボルボン王朝が崩壊した後の1865年4月にようやく上演され、翌1866年に19世紀の最後の上演が行われました。
 1958年に20世紀蘇演がベルガモで行われました。デ・ファブリティースが指揮しましたが、キャストに一流どころはいません。1967年のフィレンツェでの上演以降、ゲンジェル、カバリエ、サザランドなどが各地で歌い、ドニゼッティの作品の中でも最高峰に属する傑作であることを証明しています。

 1834年稿のところで述べた通り、近年の上演での楽譜の問題とディスクの紹介は 1865年稿を御覧下さい。
(改訂 02 April 2002)


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