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1837




PIA DE'TOLOMEI

初演:1837年2月18日、ヴェネツィア、アポッロ劇場
台本作家:サルヴァトーレ・カンマラーノ
原作:ダンテ「神曲」より「煉獄」第5歌
   →バルトロメオ・セスティーニの小説《ピーア・デ・トロメーイ》(1822)、およびそれに基づいた2つの戯曲台本

 《ピーア・デ・トロメーイ》は、ドニゼッティのナポリ時代末期の傑作で、近年再評価の進んでいる作品です。

《ピーア・デ・トロメーイ》の作曲経緯

 ヴェネツィアのフェニーチェ座の興行主ラナーリは、1836年から翌年にかけてのカーニヴァル・シーズン用に、ドニゼッティに新作を依頼することにしました。これが《ピーア・デ・トロメーイ》になります。  ところが、ドニゼッティがヴェネツィアに向かう途中の1836年12月12日の夜から翌朝にかけて、何とフェニーチェ座が火事になってしまったのです!公演そのものはアポッロ劇場に移って行われることになりましたが、ドニゼッティは報酬の四分の一を再建基金として寄付せざるを得なくなりました。
 ドニゼッティにはもう一つ癪に障ることがありました。フェニーチェ座の所有者、ジュゼッペ・ベルティ伯爵が、彼のお気に入りのデビュー前の若いアルト歌手に役を与えてくれと要求したのです。
 ドニゼッティは当初彼女を脇役に当ててごまかそうと思っていたようですが、ところが彼女がデビュー公演の「ノルマ」のアダルジーザで成功を収めてしまい、彼も要求を飲まざるを得なくなったのです。結局、おそらく本来テノールを想定していたと思われるピーアの弟ロドリーゴをズボン役にしたのです。もうこの時代にズボン役が時代遅れになっていたのは言うまでもありません。さらに彼女のためにアリアも追加しています。

実在のピーア

 物語の主人公ピーアは、13世紀末にイタリアに実在した人物です。シエナのトロメーイ家の出身で、シエナからほど近いマレンマのカステッロ・デッラ・ピエトラ(<石の城>の意味)の当主、ネッロ・デッラ・ピエトラに嫁いでいます。しかし1297年、ネッロは、新しい妻、マルゲリータ・デッリ・アルドブランデスキ伯爵夫人と結婚するため、ピーアを処刑してしまったそうです。一説にによると、ピーアが窓辺に立っている時に、ネッロの指図で手下がピーアの足をすくい、転落死させた、とも伝えられています。
 貞淑な妻でありながら哀れにも殺されてしまったピーアには同情が集まりました。後の時代に、様々な説話ができ、広まっていました。
 中でもピーアを有名にしたのは、かのダンテです。ダンテは《神曲》の<煉獄>の中で、ほんの少しとは言え、ピーアを取り上げています。そのためもあって、ピーアの物語はイタリアではよく知られた話になりました。
 台本作家のサルヴァトーレ・カンマラーノが種本としたのは、19世紀の小説ということです。このため、ドニゼッティの《ピーア》も、かなりロマン色が強まった話になっています。

《ピーア・デ・トロメーイ》 あらすじ

物語の始まる前  マレンマの当主、ネッロは、かつて対立していたシエナのトロメーイ家からピーアを妻に迎えていた。しかしピーアの兄ロドリーゴはいまだネッロと対立関係にあり、彼女は兄と密かに会うことを強いられていた。一方、かつてピーアに恋して彼女から拒まれた、ネッロの従兄弟ギーノは、ピーアの密会を不倫と疑っている。

第1幕
 ピーアの館に密使が到着したと、ネッロの従者ウバルドと家臣たちが噂し合っている。ギーノに手紙が渡り、その内容から彼は、ピーアの不倫を確信する。彼はピーアとの面会を望むが、門前払いを喰らい、かつて自分を跳ねつけた彼女を苦しめてやろうと誓う。
 ピーアは、捕われているという兄のロドリーゴの様子を伝える報せが届かないことを心配し、神に祈る。トロメーイ家の家臣ランベルトが手紙を届け、ピーアは兄と再会できることを喜ぶ。
 ギーノはネッロに、ピーアが不貞であると報告をする。ネッロは激しく動揺し怒る。
 牢獄。ロドリーゴが、自分が死んだら妹が悲しむだろうと嘆いている。牢番が脱獄の準備ができたことを告げ、ロドリーゴは喜び、牢を後にする。
 ネッロはギーノを伴い、トロメーイの館を訪れる。兄の到着を待っているピーアは、不意の夫の訪問に驚くが、平静を装う。一方ネッロは、妻を不実と信じ平静が保てない。ネッロとギーノは立去る。しかしランベルトが、庭に兵士が隠れているとピーアに警告する。ロドリーゴが現れ、兄妹は再会を喜ぶ。そこにネッロとギーノが踏み込み、ロドリーゴは秘密の通路から逃げ出す。ネッロは激しく怒り、妻を殺そうとするが止められる。混乱で幕となる。

第2幕
 兵士たちが勇壮に歌っている。ロドリーゴを訪れたランベルトがピーアの窮状を伝え、ロドリーゴは悲しむ。戦いを報せるラッパが鳴り、ロドリーゴはピーアを救うと誓い、出撃する。
 ギーノが捕われのピーアに、自分の愛を受け入れるなら逃がそうと言う。しかしピーアから密会の相手が彼女の兄だと告げられ驚く。ギーノはなおもピーアに迫るが、彼女は無実の死を選ぶと答える。ピーアの死が堪えられないギーノは、ネッロに真実を告げて彼女を救い、自らは戦死してしまおうと決意する。しかし二人が去るのと入れ違いに、夜明けまでに指示がなければピーアを殺せというネッロの指示書がもたらされる。
 隠者の庵。嵐が吹き荒れている。戦いから戻る途中のネッロが非難してくる。隠者、ピエトロはネッロに、ピーアは無実だと言い聞かせるが、ネッロは激しい嫉妬に苦しむばかり。そこに戦いで傷つき瀕死のギーノが運ばれてくる。彼はネッロに、ピーアの密会の相手が彼女の兄だったこと、自分は彼女を愛していたことを告げ、事切れる。ネッロは全てを理解するが、もはや夜明けが近いことに慄く。
 牢獄。ウバルドはピーアに毒の入った水を飲ませる。ネッロが死ぬ夢を見たピーアは、夫への愛を思い浮かべる。ネッロが駆けつけ、誤解を認め妻に許しを請う。しかし様子がおかしいのでウバルドを問い詰め、命令が実行されたことを知る。ロドリーゴがピーアを解放しに押し入るが、ピーアが毒を盛られたと知り、ネッロを殺そうとする。ピーアはそれを止め、自分を憐れに思うなら、もういがみ合うことはやめて欲しいと願い、息絶える。

《ピーア・デ・トロメーイ》

 初演は、成功とも失敗とも言いがたいものだったようです。
 いくつかの原因が指摘されています。
 例えば、物語はいわゆる不倫ものなのですが、この場合はピーアの夫のネッロが思い違いをしているだけで、本質的な恋愛のドラマが欠けている点がしばしば指摘されます。たしかにドニゼッティはピーアに「ルチア」のような思い入れをしていないようで、初演のプリマドンナだったタッキナルディ=ペルジャーニ(ルチアの創唱者)も後にピーアを歌おうとはしませんでした。また第1幕のフィナーレは評判が悪く、これはドニゼッティ自身認めています。
 しかし、ドニゼッティ自身によると、二日目の方が評判がずっと良かったようなので、不評の根本的原因はむしろ練習不足にあるのではないでしょうか。事実、プリマドンナのタッキナルディ=ペルジャーニは、このシーズンの開幕から「ルチア」(23回!)、「清教徒」そして旦那の「イネス・デ・カストロ」と数多くの公演で時間が制限されていましたし、さらにネッロ役に予定されていたチェレスティーノ・サルヴァトーリも公演直前になって病気で出演不可能となり、ジョルジョ・ロンコーニがあわててフィレンツェから呼ばれ、大慌てで役を覚えこまされてたのです(もっとも結果としてドニゼッティはロンコーニの歌に大変満足したようです)。毎度のことながらオペラ公演はアクシデント続きです。

Patrizia Ciofi, Andrew Schroeder, Laura Polverelli, Dario Schmunck, Francesco Meli, Daniel Borowski, Clara Polito
Orchestra e Coro del Teatro La Fenice di Venice
Paola Arrivabeni
Venezia, April 2005
DYNAMIC 33488 (DVD)

DYNAMIC CDS 488/1-2

 

Majella Cullagh, Roberto Servile, Manuela Custer, Bruce Ford, Mark Wilde, Mirco Palazzi, Patrizia Biccire
Geoffrey Mitchell Choir
London Philharmonic Orchestra
David Parry
London, October 2004
OPERA RARA ORC30

 

Lella Cuberli, Giulio Fioravanti, Benedetta Pecchioli, Renzo Casellato, Alfredo Zanazzo, Carlo Tuand, Maria Minetto, Ferruccio Mazzoli, Ivan Manto
Orchestra Sinfonica e coro di Milano della RAI
Bruno Rigacci
Milano, 3 October 1976
BONGIOVANNI GB 2379/80-2

 


PIA DE'TOLOMEI Version Sinigaglia

初演:1837年7月31日、シニガーリャ
台本作家:カンマラーノ自身が台本を改訂

 ヴェネツィアでの「ピーア」の初演が今一つだったため、ドニゼッティは既にヴェネツィア滞在中から「ピーア」の改訂作業に着手したようです。
 主な変更点としては、第1幕のフィナーレを書き改めたのと、渋々ズボン訳にしたロドリーゴをテノールに戻し、アリアも2曲削った点です。

 さて、ドニゼッティは急ぎナポリへ戻ります。
 5月の初め、彼とヴィルジーニャはサンカルロ劇場にほど近いアパルトメントに引越しをします。そして同時に、当時のステイタスシンボルとも言える馬車と馬も購入しています。彼はナポリで着実に地位を固めていたのです。
 しかし、この「ピーア」の改訂版が、アドリア海に面した小さな町の劇場で上演されている頃、ドニゼッティは絶望のどん底に突き落とされていたのでした。

Jolanda Meneguzzer, Walter Alberti, Aldo Bottion, Florindo Andreolli, Franco Ventriglia, Barbara Testa, Paride Venturi
Orchestra e Coro del Teatro Comunale di Bologna
Bruno Rigacci
Siena, 3 September 1967
MELODRAM MEL37017

 


ROBERTO DEVEREUX

初演:1837年10月28日、ナポリ、サンカルロ劇場
台本作家:サルヴァトーレ・カンマラーノ
原作:ジャック・アルセーヌ・フランソワ・ポリキャルプ・アンスロ《イングランドのエリザベス》(1832)
   →メルカダンテの《エセックス伯爵》へのフェリーチェ・ロマーニの台本(1833)
   他にジャック・ルセーヌ・デ・メゾン《イングランド女王エリザベスとエセックス伯爵の愛の秘話》(1695)なども参考

 翌年の《ポリウート》が上演禁止になってしまったので、この《ロベルト・デヴェルー》が、ドニゼッティがナポリ時代にナポリ向けに作曲した最後のオペラになりました。

《ロベルト・デヴェルー》の作曲経緯

 1837年は、ドニゼッティの生涯で最悪の年になりました。
 6月13日、ヴィルジーニャが男児を出産します。しかしこの子もその日のうちに亡くなってしまいました。
 そしてヴィルジーニャ自身の体調も悪化してしまいます。この辛い状況の中、彼は「ロベルト・デブリュ」に向かわなければならなかったのです。
 しかし「ロベルト」の作曲がほぼ終了する頃、ヴィルジーニャはついに7月30日、亡くなってしまったのです。
 ドニゼッティは、わずか2年の間に、父、母、二人の子供、そして妻を失ってしまったのです。激しい絶望が彼を襲います。ヴィルジーニャの兄アントーニオに当てた手紙は、涙なしには読めません(この手紙の訳はバルブラン/ザノリーニの本にあります)。
 引っ越したばかりの部屋の中に、ドニゼッティと、彼を心配した親しい友人たちが残りました。窓の向うでは、ナポリの町がコレラ渦に怯えていました。
 「ロベルト」の上演準備に集中することだけが彼の出来ることでした。

 さて、「ロベルト・デヴリュ」は、「アンナ・ボレーナ」と「マリーア・ストゥワルダ」とともに「女王三部作」と呼ばれることがあります。しかしその雰囲気はかなり異なります。
 カンマラーノの台本を使用したということから分かる通り、それぞれの登場人物の性格をはっきり描き分け、個々の場面を劇的に効果的に仕立て上げることに重点が置かれています(ヴェルディの「トロヴァトーレ」を思い出してください)。したがっていささか類型的な部分があるのも事実ですが、例えば第2幕のフィナーレの素晴らしく充実した音楽や、第3幕第1場の怒り狂ったノッティガム公と妻サラの緊迫した二重唱(「仮面舞踏会」を思い起こさせます)はドニゼッティならではです。

 初演の評判は、実はどうもあまり良くなかったようです。というのも、年末までの2ヶ月ほどに上演されたのはたった6回だからです。
 しかし翌1838年の2月には集中的に10回も上演されています。ナポリではその後、散発的ながら長い寿命を保っています。

 なお、バルブラン/ザノリーニの本をはじめ、多くの本、文章が初演の日付けを10月29日としていますが、これはドニゼッティの手紙の記述をそのまま信用したための間違いで、新聞記録にははっきりと28日とあるそうです。

 ディスクの紹介はパリ稿の方をご覧下さい。


Intoroduction
1818 1819 1820-1821 1822 1823
1824 1826 1827 1828 1829
1830-1 1830-2 1831 1832 1833
1834-1 1834-2 1834-3 1835-1 1835-2
1835-3 1836 1837 1838 1839
1840 1841 1842 1843 1844
1845 appendix


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