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19世紀のイタリアオペラの作曲を並べれば、たいていはロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディの4人は上がってきます。にもかかわらず、ドニゼッティは他の作曲家と比べても認知はガクッと落ちるように思います。他の3人の作品は近年その大半がリバイバルされて録音もされているというのに、ドニゼッティの場合蘇演されていなかったりいまだに未上演の作品すらあるのですから、随分な差といえます。
作品が知られていなければ当然ドニゼッティ当人についても誤った情報が溢れています。芸術家というより職人である、といった意見を良く聞くのですが、こうした根強い偏見には辟易します。
ドニゼッティは全部で70近くのオペラを書き残しています(改訂などをどうカウントするかによってこの数字は多少異動します)。彼のオペラの作曲家としての活動はおおよそ四半世紀ですから、平均して年に3作ほどオペラを作成していることになります(実際には年に4作ということもしばしばです)。この類稀な速筆が逆に彼に「粗製乱造の作家」という印象を与えてしまったたのです。この結果、ドニゼッティの作品に対して「ある部分では極めて優れているが、全体としてはベッリーニのような完成度を持っていない。」という評が定着してしまったのです。
しかしこれはドニゼッティとベッリーニのテンペラメントの違いを認識していない見解です。そもそも初期のヴェルディまで含めて、多くの新作を提供することはイタリアオペラの作曲家の義務であり誇りでありました。つまり異端はむしろベッリーニなわけです。
もっと重要なことは、両者が全く違ったパーソナリティを持っていることです。ドニゼッティ自身、「好評を博する作品はいつも急いで書き上げたもので、時間をかけたものは必ず手抜きだと非難される」と皮肉っぽくのべているように、ドニゼッティは激しい集中の忘我の中でインスピレーションを見出して行くのに対し、ベッリーニは時間をかけて丹念に美しいフォルムを磨いていったのです。前者が人ごみの中でも何事もないように作曲に専念できた(これはロッシーニなども同じです)のに対し、後者がそうしたことに神経質だというのも象徴的です。
このように、ベッリーニ(あるいは後期のヴェルディ)のように作品を「磨き上げる」ことこそ価値があるという観点をドニゼッティにそのまま応用してしまったため、彼の評価は低いままなかなか回復しなかったと思われます。
日本でオペラの作曲家について詳しく調べようとするといつも悩まされます。モーツァルトとヴァーグナーを例外として、あとはとにかく日本語の情報が少ないのです。
たいていは音楽史やオペラ史の中で小さく扱われているものがあるだけです。ニュー・グローブなのどの辞典などはきちっと書かれていますが、やはり情報の不足はいかんともしがたいです。
一番苦々しいのは、資料的に古くてもうとても現役ではない評伝が日本ではまかり通っていることです。いまだにロッシーニの評伝がフランシス・トイ(!!)のものしかないなんて、笑うことしか出来ません。またヴェルディにはジュリアス・バッドンの「定本」とも言える見事な研究書があるのに、全く日本語にはなりそうにありません。これでは日本でオペラに興味を持つ若い人が先に進む道は険しいだけです。
しかしこれにベッリーニとプッチーニを加え、一応取っ掛かりの本が日本にあっただけマシなのかもしれません。というのも、ドニゼッティにはごく最近になるまで評伝すらなかったのですから!
1998年11月にドニゼッティの没後150年(というより生誕200年に1年遅れたのでしょうか)を記念して、昭和音楽大学から「ガエターノ・ドニゼッティ」が発刊されました。これはイタリアの音楽学者グリエルモ・バルブランが執筆していたものの途中で亡くなってしまい、ブルーノ・ザノリーニが遺志を引き継いで完成させたものです。
グリエルモ・バルブラン、ブルーノ・ザノーリ 著
高橋和恵 訳
ガエターノ・ドニゼッティ ロマン派音楽家の生涯と作品
発行:昭和音楽大学
販売:音楽之友社
大変ありがたい本ですが、どうせ出すなら新しい研究成果を反映させてほしかったです。残念!!
せっかくの待望の日本語版の評伝に水を差すのは気が引けるのですが、この本の原著も既に20年近く前の本ですから内容的にはやや古く、その上原著の数年前に出た高名なドニゼッティ研究家ウィリアム・アシュブルックの英文の評伝「ドニゼッティと彼のオペラ」と比べてもいささか詰めが甘く不満が残ります。
例えば初演の日付は現在では研究が進みかなりの数が従来のものと異動しているのですが、この本ではそれはほとんど反映されていません。既にアシュブルックの本でも判明している新事実が、この本ではまだ古い説のままなのです。
内容的にも、日本語なのにもかかわらず「読みづらい」という印象が残りました。というのも、伝記の部分、作品解説、あらすじなどの情報が全て一緒くたになって書かれているからです。その結果、エピソードがあちこちに飛んでしまっており、ドニゼッティの活動だけを時系列に追っかけようとするとこんがらがってしまうのです。
とはいえ、この本が出てくれたおかげでドニゼッティの理解は大分容易になったことは間違いありません。その点では感謝しなくてはならないでしょう。
評伝がある以上ここでドニゼッティの生涯について詳しく述べることはしません。しかし彼の人間性に関わることについては少し触れなくてはならないでしょう。
彼は極貧の生まれでした。ベルガモの彼の生家(現在はドニゼッティ博物館になっています)は半地下の陰気なところでした。当然音楽をする環境ではありませんでした。
そんなドニゼッティが本格的な勉強をすることが出来たのは、ベルガモに当時の大作曲家ジョヴァンニ・シモーネ・マイールがいたからです。
バイエルン生まれのドイツ人ヨハン・ジーモン・マイヤーである彼は、若くしてイタリアにやってきて以来ベルガモを本拠としてイタリア各地で活躍したオペラの作曲家でした。彼はベルガモに慈善音楽院を設立し、その第一号の生徒の中にドニゼッティがいたのです。
ところがここでの彼はお世辞にも優等生ではありませんでした。何度か落第の危機があったそうです。しかし、ドニゼッティの才能を見抜いていたマイールは、周囲の反対を押さえてまで彼を救ったということです。
結局ドニゼッティは慈善音楽院で勉強を終えた後、マイールの手引きでボローニャの高名なマッテイ神父(ロッシーニも彼に学んでいます)の元で学んでいます。マイールがいかにドニゼッティに期待していたか分かるでしょう。
ドニゼッティの才能が開花したのは、このマイールの辛抱強い教育からドニゼッティが不断の努力を学んだことにあるといって良いでしょう。
ドニゼッティは1818年のデビュー以来1830年の「アンナ・ボレーナ」空前の大ヒットまで、精力的な活動はしても「超」のつく一流の作曲家としては認められないまま12年耐え忍びました。その間もマイールと度々手紙でやり取りをして、助言をもらっています。
この音楽史上でも類稀な師弟関係は大変に注目すべきもので、愛情と忍耐が一人の天才を生んだという点で、音楽教育からも大変注目されている事例です。これに関する研究書もあるくらいです。
それにしてもドニゼッティの師匠がドイツ人だというのは非常に興味深い点です。確かにマイールは完全にイタリア人になっていましたが、スタンダールは「ロッシーニ伝」の中でマイールの音楽のドイツ的特性を盛んに指摘しています。
しかもその弟子であり、北部ロンバルディアの出身であるドニゼッティが、ミラノやヴェネツィアでなく南のナポリで熱烈に歓迎されたというのも面白いことです(全く反対にシチリア生まれのベッリーニは北部のミラノで活躍しています)。優れた芸術の誕生には、様々な要素が必要なのでしょうか。
さて、マイールの豊かな愛情に育まれたドニゼッティの人間性は、異口同音に「善良」と言われています。確かに彼の手紙(非常に多く残されています)には、芸術家にありがちなやっかみや嫉妬、中傷誹謗などがほとんどありません。ユーモアに長け、どんなに困難な状況でも自分の仕事をしっかりとこなすドニゼッティには傲慢さというものが全く見当たらないのです。そうした彼の性格は、作品の中の端々に現われていると思いますが、どうでしょう。
しかしドニゼッティが幸福な人だったかというと、実は一般的な意味では非常に不遇な人でした。
彼はヴィルジニア・ヴァッセッリという大変美しい娘と結婚しますが、9年(といっても旅から旅への彼の生活では実際に二人で過ごした時間ずっと少ないのです)の間に生まれた3人の子供はいずれも死産ないしはすぐ亡くなってしまっています。そればかりか、3人目の子供の出産が原因でヴィルジーニャまでも死んでしまうのです。しかも彼の父母が相次いで他界した直後に!
彼自身の最期も悲劇でした。
彼はパリで精神障害の兆候を見せるようになったのですが、そのため彼は郊外の精神病院に隔離されてしまったのです。しかしその時まだドニゼッティは正常な意識が残っていたので、彼は騙されて病院の中に監禁されてしまったのです。
ここで彼が徐々に正気を失っていくまでの間の手紙は、涙なしでは読めません。馬車馬のように働き続け、家庭の幸せを失ってしまっても耐え忍んだ男が、栄光からも日常の生活からも引き離されてしまったのです。あまりにもむごい仕打ちです。
結局親族や知人たちの交渉の結果、なんとかドニゼッティは故郷ベルガモに帰ることができました。
しかしその時にはもう彼には正常な意識は全くなかったそうです。
彼の人柄を慕う多くの幼なじみや友人たちに看取られ、敬愛するマイールの脇に葬られたことが、彼にとってのささやかな救いだったように思えます。
ドニゼッティのオペラのうち「ルチア」、「愛の妙薬」それに「ドン・パスクワーレ」はイタリアの主用劇場のレパートリーから落ちることはありませんでした。パリでは「連隊の娘」や「ファヴォリート」はそこそこ生き残っていたようです。しかしこれら以外は全く忘れ去られたか、上演があっても極めて散発的なだけでした。
ドニゼッティのオペラの復活が始まるのは今世紀後半になってからです。そしてその際忘れては行けない名前が、マリア・カラスです。
カラスはまずそれまで軽量級コロラトゥーラ・ソプラノの牙城となっていた「ルチア」を、彼女のドラマティックな声と表現力そして類稀な技巧で生まれ変わらせ、世間をアッと言わせます。次いで彼女は1957年、伝説的なスカラ座での「アンナ・ボレーナ」でドニゼッティのプリマドンナオペラの素晴らしさを世間に知らしめます(スカラ座でこの作品が取り上げられた背景にはベルガモでのドニゼッティフェスティヴァルの成果があります)。
その後は多くのプリマドンナたちが競ってドニゼッティのヒロインを演じたため、70年代までにはかなりの数のプリマドンナ・オペラの作品が蘇演されました。特にライラ・ゲンジェルとモンセラート・カバリエはこのムーヴメントのリーダーだったといえるでしょう。
ただし彼女たちが歌ったオペラは基本的に「アンナ・ボレーナ」以降の作品で、それより前の作品となると1980年代以降になります。 さて、マリア・カラスの名前が出てきたので、彼女についてちょっと触れておかなくてはなりません。
なにせ神格化されている人ですから、彼女のドニゼッティについても絶対視されている感があります。しかし広い視野でドニゼッティの作品群を眺めた時、カラスの歌った「ルチア」や「アンナ・ボレーナ」は「カラスの…」という但し書きが必要なような気がします。手短に言えば、様式的にあれが正しいとは思えないのです。
確かにカラスはルチアやアンナに生命を取り戻したのは間違いありません。しかしそれは1940、50年代の、近代的な強い表現手法、分析的スタイルを反映したもので、私にはあまりにも強すぎてドニゼッティの音楽のバランスを少なからず壊しているように感じるのです。聞いていてスリリングであると同時にいささか疲れます。
ですから、例えば「ルチア」に関しては、どんなに非難が上がろうとも旋律のなめらかさと響きの美しさを追求したサザランドの方が遥かに安心して聞けます。
以前音大のオペラ史の授業で「ベルカントオペラ」についてある非常に有名な音楽学者の方が話をされたのですが、一時間半の間話したのはカラスのことだけ!ドニゼッティもベッリーニも作品の意義についてはほとんど触れていませんでした。何とまあ!
カラスの歌が大変に魅力的なのは私も同じです。ただ熱狂のあまりカラスの芸術をドニゼッティのそれとごっちゃにしてしまう人が多すぎるのです。そして私の見解は、カラスの芸術は本質的にはドニゼッティの様式とは異質である、というものです。
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