【馬車から電車へ】


札幌での馬車鉄道の発端となったのは、石山で軟石の採掘で明治7年頃でした。
明治9年には石山から札幌まで馬車道が整備され、当初は親方が数人の採掘工を使い
馬車などで札幌まで運び出す零細事業でしたが、明治37年に札幌石材馬車鉄道合資
会社ができ、5年後には石材の採掘販売、土木建設工事の請負や馬車鉄道を敷設し、
乗客及び貨物の運搬業も営まれました。 それから、明治42年に札幌郡平岸村字穴の沢
から藻岩村山鼻(現在の中央区南2条西11丁目付近)に開通しました。
その客馬車は12人乗りで料金は1区3銭、1日3往復で、当時の石材採掘も90人程度の採掘工が働き、搬出には20台の馬鉄が1日に2往復していました。その後、石材の販売や建築の請負がうまくいかなかったのですが、定山渓方面の発展に従い乗客を初め物資の輸送需要が増えたこともあり、本業を馬鉄に絞り鉄道との連絡を良くするため、路線を北へ東へと延ばしました。
路線を次々と延ばすなか、馬の糞尿処理の解消がされず、一方では各地の電車の状況も
知られつつあり、電力についても、明治41年に札幌水力電気株式会社による電灯の普及は目ざましく4700戸に達していました。こうしたことで札幌も電車について関心が高まり、
その実現に急速に導いたのは北海道開道50周年を記念した博覧会の開催でした。
この博覧会は、大正7年9月に札幌に2会場、小樽に1会場設け全国各地の産業を紹介
しようというもので、空前の人出が予想されました。これを前に、馬鉄関係者も札幌でこう
した催し物があるのに、北海道の首都として馬鉄や人力車では文化都市を誇るに足らぬ
という気運が高まり、大正5年に社名を札幌電気軌道株式会社と改め、電気軌道の経営をスタートさせました。ところが、
博覧会開催1ヶ月前になっても片方の線路しか出来ていず、それもようやく土ならしをしていて、とても複線にする状態で
はありませんでした。当初の予定では、電車は英国のデッカー社から購入し、軌間は4フィート6インチの広軌でしたが、
戦乱のヨーロッパからの海上輸送は危険であり、レールは米国の農場から不用レールを購入し、電車は名古屋電気鉄道
から譲渡してもらった四輪単車(定員26名)を24両で、軌間は3フィート6インチ、架線は中央柱単線架空式となりました。
そして、大正7年8月1日の博覧会当日には電車は走らず、昼夜兼行の工事が進められ11日の
夜11時から監督省庁、警察、会社の重役立会で検査、及び全線の試運転を行い、翌12日にめ
でたく開通しました。
こうして開通した各路線は、南1条線は南1西14丁目から南1東2丁目までと、停公線が札幌駅から中島公園までと、南4条線が南4条西3丁目から南4条東3丁目までの3路線で5.3Kmで、料金は片道6銭、往復10銭でした。博覧会は、当初予想されたとおり人気を呼び、本州からの見学者も多く、各会場とも列をなし、電車もしばしば満員の札をかかげて走ったようです。