朝鮮語のはなし(46)    2016年6月30日

 オバマ大統領が、広島に来ました。71年目です。いろんな人がいろんなことを語っていました。いろいろ考えさせられました。

 朝鮮語をはじめて61年目になります。「朝鮮語のはなし」は
2002年にはじまり、46回目に入ります。「朝鮮語60年」を話すつもりでしたが、もう少し幅広く話したくなりました。


 昨年は「戦後70年」「日韓50年」で若い人に聞かれました。
「戦争を知ってますか」「はい、知ってます」と答えますと「大阪の空襲を見ましたか」と聞きました。「見ました。何回も見ました。空いちめんが、まっかになりました」と言いながら、11歳(国民学校五年生]の頃を思い出しました。わたしは1934年(昭和9年)生まれです。

 1944年(昭和19年)から45年、私は縁故疎開で祖父母の家に住んでいました。空襲も思い出しましたが、もっと強く記憶にあるものが、頭に浮かびました。
1945年の夏のことです。大阪府南河内郡、今の羽曳野市丹比村大字河原城の川で わたしたちは泳いでいました。突然、バリバリバリという、激しい機関銃の音がしてびっくりして上を見上げると、小さな飛行機が大きく目に飛び込んできました。すぐ上で機関銃を打っています。アメリカ兵の顔が、はっきり見えます。こんなに低いところに飛行機が下りていると思いました。しかし、機関銃を真上で打っているので、わたしたちは安全だと思いました。近頃、消えてなくなった言葉ですが、カンサイキと言って、航空母艦から飛んでくる小型機で、グラマンという名前だということを知っていました。
 作家の藤本義一氏(1933〜2012)が橋の上でグラマンに襲われて、友人が死亡したと書いておられました。空襲以外にも、道を歩いていて殺される人もあったのです。戦争というのはそういうものです。

 八月六日の広島の原爆のことですが、二、三日たって、「広島の爆弾」という言葉を聞きました。「大きな爆弾」とか「新型爆弾」という言葉も聞きました。「白いシャツを着ておればいい」とも聞きました。「原爆に竹ヤリで・・・」というのは敗戦後のことです。
 八月十五日の天皇の放送については「朝鮮語を考える」(2001年、白帝社)で書きましたので、ここでは止めます。
 「戦争を知っている」というとすぐ思い出すのは上記のようなことです。ほかにもあります。南京陥落(大虐殺、1937年)と言って、ちょうちん行列をしたこと、ハワイ真珠湾攻撃で校長先生と万歳、万歳、と叫んだこと(1941年12月8日)などなどあります。これも「朝鮮語を考える」で書いたことなので、ここでは触れることをやめます。
       

 言いたいのは、「戦争を知っている」あるいは「戦時中を知っている」には、二つの意味があるということです。ひとつは、直接体験して「知っている」ことです。空襲、真っ赤な空、機関銃を打つアメリカ兵の顔、八月六日、八月一五日・・・などです。
 もうひとつは、体験しなかったけれども知識として「知っている」ことです。戦争に負けて、いろいろなことが、表に出てきました。
11歳のわたしには、全然知らないことが、また、ほんの少し知っていたことが実は、あれはこうだった、本当は違うのだと聞かされました。

 「戦争に負ける」ことは、日本にとって初めてのことでした。2千年の歴史で初めてです。国民学校5年生として覚えているのは、先生が変わったことです。大東亜共栄圏(アジアに天国を作る!!)、鬼畜米英、一億総決戦、神風が吹くぞ・・・は消えて、教科書に墨を塗れ、新しい日本、アメリカ民主主義・・・初めて聞く単語がおどりました。
 「真相はこうだ」という言葉が、流行語のようになり、次々と新しい「事実」が出てきました。この頃(戦後)わかった「戦時中」を「戦争を知っている」ということもあります。

 新しい日本はどうなるのか。洪水のように言葉が氾濫しました。
 
日本はどうなるのか
 日本はもうだめだ
 日本はもう滅ぶ
 立ち上がるのに、百年かかる。
 
何であんな馬鹿な戦争をしたのか
 誰が戦争したか
 いつごろから、おかしくなったのか
 
国民は騙されたのだ
 だましたのは誰だ
 いつごろからだましたのか
 
だまされた
だまされたというな
だまされる国民がバカなんだ

だまされた だまされたというけれど
だまされる国民もわるいのだ

だまされた だまされたというけれど
ラジオ・新聞と
勝った 勝ったとよろこんだのは
国民ではないか。
 
 敗戦後、何年ぐらい続いたでしょうか。こんな言葉が氾濫しました。わたしの記憶のまま書いたので、順序・年代が逆になっているかもしれません。
こんな言葉を聞きながら、わたしたちは育ちました。
 もうひとつよく覚えている言葉があります。
あんな恐ろしいこと(戦争)は絶対嫌だ。戦争が起こるのを事前に知るのは何に気を付ければいいか。
それは、ラジオと新聞に気を付けることだ(テレビは、ない)
ラジオと新聞がタブーをつくるとおかしくなる。恐ろしいことがおこる。
 
 これも戦後何年ぐらいのことか覚えていませんが、当時のタブーとは「天皇」と「軍人」だったと思います。タブーとは「広辞苑(第四版)」に次のようにあります。

(略)社会的に厳しく禁止される特定の行為。触れたり口に出したりしてはならないとされる物・事柄(略)

 敗戦後の厳しい「戦時中の真相糾明」はだんだん弱くなり落ち着いていきましたが、十年ほど続きました。
1956年、わたしは言語学科の三年でした。というより、教養課程(一年、二年でフランス語のクラス)から、専門課程(三年、4年で言語学科)に進んだのです。

 日本語の起源に興味をもって、ウラル系のフィンランド語、アルタイ系(?アルタイ型)に近い朝鮮語を学びました。
 なぜ、「日本語の起源」か、と考えますとよくわかりません。そのころは、そんな時代だった、としか言いようがありません。
 安田徳太郎(1898―1983、医者、歴史家)氏の「万葉集の謎」が、五十五年に出て、ベストセラーになっていたのです。インドのレプチャ語と万葉集の単語が同源だというのです。面白いなぁと思いました。
        

 高校の頃、ボッチャンという先生(国語)が、民俗学者柳田国男(1875―1962)氏の「椰子の実」の話をされて、島崎藤村(1872―1943)氏がそれを詩によんだ、と聞きました。「朝鮮語のはなし16」(以下、「朝鮮語16」)に書いています。「日本語の起源」はその頃から関心を持つようになったのかもしれません。「椰子の実」が「レプチャ語」につながっていったのかもしれません。だとすると、ボッチャン先生に感謝しなければなりません。先生は、六高(第六高等学校)出身で、高専柔道十年優勝も熱っぽく語られました。
 「朝鮮語の16」で「広辞苑」の新村出(シンムラ・イヅル)氏の日本語南方説に触れていますが、泉井久之助先生(新村先生の弟子)はマライ・ポリネシア諸語を調査・研究されました。
 その泉井先生のゼミナールに二回生でしたが、五十五年から出席していました。
 「万葉集・レプチャ語論」は学問的にムリだが「日本語の起源」は比較言語学という立派な学問があって、明治以来研究テーマになっていると知りました。
 そういうわけで、フィンランド語と朝鮮語を始めたのです。
 朝鮮語を始めた後のことは、「朝鮮語36」や『朝鮮語を考える』に書きました。
 
 1958年(昭和33年)に小松川高校女子殺人事件がおこり、「在日朝鮮・韓国人」(以下「在日」)問題が話題になりました。優秀な在日韓国人(18歳)が女性二名を殺害し、新聞社に通報し世間を騒がせました。大岡昇平・旗田巍氏や在日による助命運動がおこりました。
 同じ年、わたしは木元健介氏と「朝鮮語市民講座(無料)」を開きました。今から考えると、これは戦後初めての「朝鮮語市民講座」だと思います。わたしは辞書なしの独学二年で、ろくすっぽ朝鮮語を知りませんでした。悪い癖で朝鮮語を普及しよう、しなけらばならない、と思うとたまらなく行動しました。ビラをもって、京都にあった新聞社を三つほどまわって頼みました。しかしどこも冷たく相手にしてくれません。もちろん、「案内」も載せてくれません。大きな組合をいくつもまわって頼みましたが、全然、反応がありません。結局、誰も来ませんでした。このことは、その後五十年、心に深く残りました。

 生徒は木元夫妻と夫人の友人三人だけで、怪しげな実力の講師(塚本)と、敗戦後十三年、朝鮮民族独立十三年、この現状をどう思うのか、どう考え、どう行動したらいいのか、話し合いました。
 1910年、朝鮮半島を植民地にし、朝鮮語を「抹殺」しました。1927年、東京外大の朝鮮語科を廃止しました。1945年、戦争に敗れ、朝鮮民族は独立し、朝鮮語は復興しました。
 敗戦後、「抹殺」された朝鮮語は、日本の中では、どうなったのでしょうか。
 私たちは、「市民講座」を書店の店先で始め、「ことばを知って、隣の民族を知り、友好親善をはかろう」と主張しました。
 小松川高校事件---在日問題も植民地支配の結果で、朝鮮語の「抹殺」や朝鮮研究の空白につながっていると考えました。
 
 敗戦は、日本が初めて経験したものです。しばらくはボーゼンとしていました。やがて、火の手が身の回りを、取り巻くように各論、各説、卓論、珍説が出てきました。学問・思想・政治、たくさんの論客がでてきました。華々しく活躍する人がいました。

日本が滅びる。新しい日本をつくるのだ。立て直すのに百年かかる。
こんな問題がある。あんな問題もある。これはこんな風にやるのだ。あれはどこから手を付けるのか。
 はなばなしい論争が繰り広げられました。百花繚乱でした。しかし、在日問題も朝鮮学空白もほとんどでてきません。わたしが知っている限りではそうです。植民地はなくなったが、植民地支配意識(無視、無知、研究空白、差別)は根強く、亡霊のように残りました。
 戦後知った言葉をもう一度思い出します。

 戦争はこりごりだ。二度とあってはならない。 
ラジオ・新聞が堂々とウソをつくと、恐ろしい時代(戦争)がくる。(堂々とウソをつくのを見て育ちました。)
 ラジオ・新聞がタブーをつくると、その始まりだから注意しなければならない。

 朝鮮語を始めたのは、戦後十一年、「もはや戦後ではない」が流行語の年でした。
 それから六十年たちました。
 昨年は「戦後七十年」「日韓五十年」。わたしは「朝鮮語六十年」です。
 「朝鮮語六十年」でよく思い出して考えさせられたのは「ラジオ・新聞がタブーをつくるとおそろしいことのはじまりだからと注意しなければならない」ということでした。
 「朝鮮語市民講座」で、新聞・大労組が冷たかったのは、「タブー」にあたるのか、どうか、植民地支配意識の亡霊だったのかも知れません。どう考えたらいいのか、長く考え続けました。
 新しい日本をつくろう、という叫声・洪水の中に
元植民地とどう付き合うのか
植民地支配の残したもの――在日の処遇、交流、差別、」
朝鮮研究の空白をどうするのか、
「抹殺」した朝鮮語をどうするのか
 
 新しい日本をつくる叫声・洪水の中に、元植民地に関する上のようなことは、わたしの知る限りでは、ほとんどありませんでした。
 敗戦で、解決できない問題が続き、混乱時代で、独立したとなりの民族、日本の中のその民族を考えている暇、余裕がなかったのでしょう。しかし余裕がなかったとはいえ、それでよかったでしょうか。
過去の亡霊「支配意識」でよかったのでしょうか。
 「朝鮮語六十年」は「辞書なし参考書なしの研究・教育」、「朝鮮語を普及して在日との交流・友好・親善六十年」それはまた「韓国・北朝鮮を見る六十年」でありました。
 いろいろ現実を見て経験して考えてきました。書いて、若い世代に残しておきたいことが沢山あります。「六十年」分あります。
 今日は一つだけ取り上げます。
 
 ラジオ・新聞がタブーをつくるとその(恐ろしいことの)始まりだから注意しなければなりません。
 
「戦後七十年」「朝鮮語六十年」に、「タブー」があることを、書きたいと思います。「タブー」があると、はっきり思うようになったのは、1985・6年頃です。86年に『朝鮮語大辞典』(大阪外国語大学朝鮮語研究室編)を出版しました。新聞、テレビ、雑誌記者が押しかけてきました。S社の倒産したころ(七十年代)も、そのほかの時にもやってきました。
 記者たちは、みな同じことを聞きました。何が、難しく苦しかったですか。答えは決まっています。「妨害」です。「朝鮮語24」にも『朝鮮語を考える』にも、書いていますので、一言だけにしますが、
 
 朝鮮人団体が反対し、同意する日本人が一緒になって、国立大学に来て、数十名で六か月騒いだ。わたしは心臓発作で死ぬ思いをし、阪大病院に通い、「辞典」を断念した。しかし解決に努力をしてくれた友人、菱山・大道先生、学生たちにはげまされ再起した。発作は軽く少なくなったが、四十年続いた。
 
 十数名の記者が、同じ質問をし、わたしは同じ答えをしました。しかし、記者たちは、「大辞典」の内容(何万語・何年・何人・資金、どんな解説・・・)は詳しく書いたが、「妨害」は書かなかった。みんな質問しておいて、書かない。「重要なこと」を書かない。わたしはこれはタブーだと思いました。「平和な日本」「明るい日本」「学問の自由の日本」「言論の自由の日本」にタブーがあるのだと思いました。「ラジオ・新聞がタブーを作ると注意しなければならない」という言葉を思い出しました。「支配者意識」の亡霊(無知・無視・学問空白・差別)が長く続いていたが、それと合わせどう解釈すればいいのか、ながく考え悩み、苦しみました。少し遅れて、最後に年配の人(論説副委員長だったと思う)が来ました。熱心な人で長い時間話しました。記事には「妨害」が書かれていました。初めて書いたと思いました。何回も読みました。ありがたいことだと思いました。毎日新聞の「余録」(86.2.24)です。ネットで引用して支援してくれるひともいます。

           

 「朝鮮語のはなし」を四年間休んで再開したのは、インターネットに親しむようになったからです。ネットの検索は女房にしてもらっていて、わたしはほとんどタッチしませんでした。孫が高校に入って、ネットの話をしていたのを聞きました。
 ネットを見るようになって、多くの人がわたしたちを支持しているのを知りました。二か月前のことです。わたしたちとは大阪外大朝鮮語科有志のことです。『朝鮮語大辞典』『朝鮮語小辞典』「いかいの朝鮮図書資料室」「ハングル塾つるはし」「大阪外大解放朝鮮語市民講座」「大阪外大中の島講座」それに百万人が読んだという『ユンボギの日記』。大阪府立中央図書館「塚本文庫」をネットで見ました。評論家の岡谷公二氏の「朝鮮語の普及・・・・朝鮮語大辞典・・・」はなかでも印象的でした。15年前に、こんな文章がネットに載っていました。ありがたいことです。

 塾の運営もきびしい。
 勇気をもらって書こうと思いました。なんとか39年やってきました。
 
 三好達治氏の詩を引いて終わります。

  浅春偶語

『物象詩集』の著者丸山薫君はわが二十余
年来の詩友なり、この日新著を贈られてこ
れを繙(ひもと)くに感慨はたもだす能(あた)はず、
乃(すなは)ち

友よ われら二十年も詩(うた)を書いて
巳(すで)にわれらの生涯も こんなに年をとつてしまつた

友よ 詩のさかえぬ国にあつて
われらながく貧しい詩を書きつづけた

孤独や失意や貧乏や 日々に消え去る空想や
ああながく われら二十年もそれをうたつた

われらは辛抱づよかつた
さうしてわれらも年をとつた

われらの後に 今は何が残されたか
問ふをやめよ 今はまだ背後を顧みる時ではない

悲哀と嘆きで われらは巳にいつぱいだ
それは船を沈ませる このうへ積荷を重くするな

われら妙な時代に生きて
妙な風に暮らしたものだ

さうしてわれらの生涯も おひおひ日暮に近づいた
友よ われら二十年も詩を書いて

詩のなげきで年をとつた ではまた
気をつけたまへ 友よ 近ごろは酒もわるい!


(追記)「朝鮮語のはなし 2」にも三好氏
    「朝鮮語のはなし 15」には三好・山頭火氏を引用しています。
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朝鮮語のはなし(45)    2016年4月20日

ハングル塾つるはし代表の塚本 勲です。
 「朝鮮語のはなし」を休んで、すみませんでした。また始めます。


 1910年に朝鮮半島を植民地にし、朝鮮語を「抹殺」しました。大きな間違いでした。
 1927年に東京外大の朝鮮語科を廃止しました。
 1926年に京城帝国大学に朝鮮語・朝鮮文学科を設置しました。
 1945年に敗戦。
 1963年に、大阪外大に朝鮮語学科を開設しました。金子二郎教授が努力されました。専任講師に塚本勲。客員教授に金思Y。

 私は金先生とともに朝鮮語辞典を始めました。
 外大を解放して「朝鮮語講座」(無料)を始めました。金先生は「アルバイトですか」と言われました。私は黙っていました。次に会ったとき「売名ですか」と言われました。私は黙っていました。
 1965年に日韓基本条約。同年6月に「ユンボギの日記」訳出、日本で朝鮮文学の最初の訳。同年『世界』(岩波書店)12月号で鮮干輝「遺書」共訳(張龍職・塚本勲)。

          

 1965年から70年頃の新聞の切り抜きを次に続けます。

 1965年(昭和40年)日経新聞に「本格的な朝鮮語辞典」期待集め編集進む、「収容語数も17万、大阪外大塚本講師らの努力で」という見出しで
 日本にいちばん近く、つき合いも古い国なのに満足な辞書のない外国語、朝鮮語の本格的な辞典がいま国立大阪外国語大学朝鮮語科の先生と学生たちの手で作られている。言語学や日本古代史を研究する学者や貿易関係者たちの期待を集めてことし中に最終的な編集を終わり、来年早々にも書店に姿を見せそうだ。約八万の見出し語、17万の単語―その一つ一つに同大学朝鮮語科専任講師塚本勲氏(30)の“知られざる隣国語のカベを破る苦労がにじんでいる。
日常語に苦労

 二年前、大阪外大に国立大学では初めての朝鮮語科が設けられた。ところが朝鮮語科の学生がまずぶち当たったのが本格手な朝―日辞典がないこと。どの語学科にもないカベだ。このカベを破ろうと辞書作りが始まった。最初の仕事は同科の外人講師金思Y(キム・サヨップ)氏の協力で、韓国で出版している同国語辞典のおもな単語を、塚本先生と学生約
十人が総がかりで拾い出し、カードに書き写して翻訳することだった。
 ところが韓国の国語辞典には漢字朝鮮語が多く出ているが、肝心の日常の話ことばである固有朝鮮語は“わかりきったことば”としてのっていない。たとえば日本語の「道」は漢字朝鮮語では道路(トロ)だが、固有朝鮮語ではキル。日本の言語学者が日本語の系統と朝鮮語の関係を研究したり、古代史学者が地名考証などのために必要なのは固有朝鮮語の方だ。そこで力を発揮したのは塚本先生が数年にわたり苦労して書きとめたノート“町かどの朝鮮語”だった。

 塚本先生が朝鮮語の修得を志したのは京都大学言語学科在学中、日本語北方起源説をとる泉井久之助教授の影響を受けたためだった。しかし当時朝鮮語の勉強は、文字通り”五里霧中“だった。泉井教授からも日本の言語学者のなかで朝鮮語を体系的に知っているものは一人もいないと聞かされたという。やがて学業のかたわら京都市田中関田町周辺の朝鮮人町で朝鮮語を”修得“する塚本先生の姿が見られるようになった。また朝鮮人高等学校の日本語とロシア語の先生として朝鮮人が話すことばを一つ一つノートにメモすること五年間。日本人にはむずかしいあいまい母音や有気音、重複子音などは、口の形をスケッチした。

          

 辞書作りのこんな”労力“のほかに頭が痛かったのは資料代や材料費などの資金。日韓会談促進を叫ぶ文化人に「朝鮮問題に関心をもっているらしいから・・・」と資金援助を訴え「無意味だ」と一言ではねつけられるなどあらためて朝鮮語の”不人気“を身にしみることもあった。塚本先生はNHK韓国向け国際放送の日本語講座を担当させてもらい、その報酬の一部を辞書編集費に回した。そしてある在日朝鮮人は「日本にいる朝鮮人六十万人のうち四十万人は朝鮮語を知らない。その人たちに一円ずつプレゼントしたつもりで・・・」とポンと四十万円を寄付してくれた。その四十万円も出版のメドをつける大きな資金となった。

朝鮮語史の考証へ道
京都大学泉井教授の話
日本語史は確実な考証がされているのに日本語といちばん深い関係の朝鮮語の方は全く知られていない。このような状態は学問上片手落ちだ。今度の辞書が朝鮮語研究のきっかけになることは明らかで、実にうれしい。

次に、1966年(昭和41年)1.11 毎日新聞に「ときの人」という欄に掲載されました。
韓日辞典をつくる大阪外国語大学講師
              塚本 勲

 日韓の新時代―『民族相互の理解は、言語の壁を破ってこそ』と、この人は朝鮮語―日本語辞典の完成に、ひたむきな情熱と努力を傾けている。
 京大文学部で言語学を専攻、三年前から大阪外大朝鮮語科の専任講師。というよりは韓国版―にあんちゃん“ユンボギの日記”の訳者といったほうが通りがよさそう。「NHK韓国向け放送の日本語講座を担当しているので、韓国の青年たちからもファンレターがくる」そうだ。
       
―朝鮮語を学ぼうと思ったのは「日本語の起源に興味をもってから」「朝鮮語には、テニヲハに対応する語もあって、構造や文法も、日本語にもっとも近い外国語。それなのに、勉強するにも、先生も参考書も、ろくすっぽなくて、何度もため息をついたかわかりません」という。
「私たち日本人の先祖も学び、吸収してきたすばらしい朝鮮民族の文化を、いま私たちはなぜ無視したり、時には、さげすまなければならないのでしょうか・・・」
 日本が、明治以来進んできた“近代化”への表街道は“西欧化”―アジアから足を洗えの“脱亜論”と表裏一体だが、そのコースのなかに、朝鮮民族にとっては“暗い日政”の三十六年もあったためだろう。

 「おまえのチョウーセン・ドウラクには勝てん」と、昨春なくなった母シメさんをなげかせたそうだが、京都で在日韓国人たちのなかにはいって、独学で朝鮮語をものにした塚本さん。「独学で苦労しただけに、信頼できる韓日辞典を自分で作ろうを思いたち、三年がかりでいま原稿は八割がた仕あげ年内には完了の予定」になっている。
 韓国で定評のある東亜新国語辞典などを参考に「見出しは八万語、派生語ともに約十六万語の朝鮮語を、体系的に整理して、いちいち対応する日本語を捜しだす」作業。外人教授として大阪外大に招かれている韓国の国文学者金思Y教授らも協力を惜しまず、「辞典作りに一銭の予算もなり窮状を知って、援助の手を差しのべてくれた在日韓国人や朝鮮人もありました」と感激している。
 しかし出版は「ソウルの正音社が、朝鮮文字の方は引き受けてくれているのですが、これとタイアップしてくれる日本の出版社がなくて―」と頭を痛めている。

 日韓新時代―両民族の相互理解が協調されてはいるものの、日本人によるせっかくの韓日辞典ひとつ、まだ国内では出版もおぼつかないというのが実情なのであろうか―。
 大阪生まれ、三十一歳。奈良市鶴舞団地三の五〇七で、父長次さん(六四)節子夫人(二五)の三人暮らし。

          

次回に続く

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朝鮮語のはなし(44)
   2012年4月3日

 2001年に「朝鮮語を考える」(白帝社)という本を書いた。まえがきを見ると次のようにある。

 この世界―――朝鮮語を取り巻く世界は、政治的に社会的に複雑で矛盾に満ちていて、なかなか自由にものが言えない。タブーというか、タブー化したものというか、厄介なことが多くて、なかなか自由に発言できない。40年もの昔から発言できず、胸にたまって渦巻いているものが、いっぱいある。
 日本国憲法は言論の自由を保障しているが、この世界では言論の自由が、果たして保障されているのであろうか、と永らく思ってきた。マスコミの姿勢を見ても、そう思ってきた。
 友人が4人亡くなって、身のそばに死を感じて、思い切って勇気を出して書いてみようとしたのがこの本である。

とある。そしてあとがきに次のように書いている。
 
 最終の校正を終えて、もう一度この本のことを振り返ってみる。友人が亡くなって、思い切って書こうと思った、と初めに書いた。アッという間に3年が過ぎた。しかし、今振り返ってみると、決して思い切って書いていない。私の文章がまずいこともあろうが、今もなおこの世界を描くのは差支えが多すぎる。もしあと10年も健康が許されるのであれば、もっとのびのびと自由に、それこそ言論の自由があるのだと、この10倍も、自由に書いてみたいと思う。それにしてもどうしてこんなに書きにくいのであろうか。口を封じているのはだれなのか。日本人か、在日朝鮮人か、在日韓国人か、あるいは、韓国なのか、北朝鮮なのか。誰が圧力を加えているのであろうか。マスコミも書きにくそうだ。書かないで、パターン化した一部のことしか書かない。貴重な言論の自由の保障である。もっとのびのびと書けないだろうか。

とこのように書いている。幸いにも11年たったが、何とか健康である。それでもう少し自由に書きたいと思っている。同書の中で、一番書きたかったのは、辞典の妨害である。朝鮮人と日本人のP党による妨害はひどいもので、つるし上げられて心臓発作をおこし、心臓発作は40年も続いている。10年前にはこのことは書かなかったが、もう少し詳しいことを書きたいと思う。最初に同書から引用し、その引用を振り返って書きたいことを書いてみたいと思う。
40年も50年も言いたくて、言えなくて辛抱してきたことである。思い切りいえたら、さっぱりすることである。朝鮮人とはこんなものであるとか、韓国人はこんなものであるとか、民族の友好とはこんなものであるとか、その原点を考えさせるものを含んでいるので、言いにくいことでもできるだけ言いたいと思う。それが真実を語ることが親善への道であると思う。それで、まず同書からの引用文を上げる。

 作家の金石範氏と李恢成氏から次のような推薦文をいただいた。

歴史的意義をもつ刊行―――金石範(作家)
 『朝鮮語大辞典』の見本刷りを見て、私は大変な辞書が出てきたものだと驚き、そして深い感慨を抑えることができなかった。このような地道な研究と編纂の大事業が二十余年の歳月をかけてなされ、いま刊行の運びに至ったのである。(中略)
 一九四二年十月、植民地支配下の朝鮮で「朝鮮語学会事件」が起こった。朝鮮語禁止の弾圧の進む中で、ようやく『朝鮮語大辞典』の編纂を軌道にのせた朝鮮語学会メンバー三十名が日本官憲の手で総検挙、関連者として五十余人が審問を受けた。前記『国語大辞典』の編著者李熙昇博士は当時懲役三年六か月の判決、李允宰、韓澄の二学者は拷問で獄死を遂げた。この事件で語学会は解散、辞典の原稿は多く散逸し、一九四五年の解放を迎えてから語学会が再組織され、大辞典の編纂に取り組むこのとなったのだった。
 それから四十有余年、画期的な「朝・日」大辞典が刊行されることになったのはまさに感無量、冒頭に所感を記した所以である。かつて日本軍国主義の犯した大罪過が、いま日本人学者たちの手によって償われているような思いがする。本辞典の刊行はその意味でも歴史的意義を持つものである。

骨太な人間の温もりが―――李恢成(作家)
 任意のページを眺めていると、ふと小説的感興にとらわれる。いつの間にか、辞書の中から、八道気質を持つ人間たちが立ちあらわれ、おらが道(くに)の方言で喋りまくっている。この幻想の市の賑わいが、まことに楽しい。
(中略)
 まったく、朗報とはこのことである。母国語の勉強をはじめたばかりの青年時代の僕は、適切な辞書がなくて困ったものだ。あるものといえば、小さな網しか打ってくれなかった。しかし、時代は変わった。この大辞典は、大きな網を張ってくれている。僕には、網にかかる快感がある。それは、不思議と、ほこらしい。
 歴史は、進歩していっている。もしも、「朝鮮語学会事件」の硯北たちが世にあれば、この大辞典の誕生を何と思うであろう。

金石範氏も李恢成氏も好意をもって『大辞典』を推薦していただいて、ありがたいことだが、お二方がともに「朝鮮語学会事件」のことを取り上げておられる。そして李恢成氏は「もしも朝鮮語学会事件の硯北たちが世にあれば、この大辞典の誕生を何と思うであろう」と述べておられる。この二人の推薦文を拝見して、実はわたしも「朝鮮語学会事件」の学者たちが、このことを知ったらどう思うだろうか、と長く思ってきたことがあった。それは私たちも妨害を経験したからである。その妨害についてこれから述べたいを思うが、その前に金石範氏が解説しておられる「朝鮮語学会事件」について、わたしも書いたことがあり、それを紹介しておきたい。1999年9月7日に「金嬉老仮出獄、韓国へ」と新聞やテレビが報道していた。それを見て、私は自分の古い文章を思い起こした。33年前に金嬉老事件が起こったとき、朝日新聞の依頼でわたしが書いた文章のことである。当時は日本では「朝鮮語学会事件」のことはほとんど紹介されなかったと思う。時代は移って数十年たったいま、韓国からの留学生もまた、この事件を知らない人が多い。

 当時梶村秀樹さんから金嬉老特別弁護人になってほしい、という要望があった。私は辞典で戦争のように忙しく、もうその頃慢性疲労であった。しかし特別弁護人として発言したいことも多くあった。辞典と弁護人とどちらを選ぶか、ということで、ずいぶん迷った。結局、断った。梶村さんとの交信は途絶えてしまった。86年に辞典を刊行したのち、梶村さんに大阪外大の集中講義に来ていただき、また、交友関係が復活した。梶村さんが亡くなって10年たつが、鶴橋の居酒屋で、事件の話をしたこともいま思い出としてある。そんなことも思い出しながら「仮出獄」に対する新聞やテレビを見たが強い不満が残った。
 1968年3月21日付けの朝日新聞で、「金嬉老事件」と「朝鮮語学会事件」と私たちの辞典編纂を次にように書いている。

日・朝にかける橋―――塚本 勲

次回に続く
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朝鮮語のはなし(43)


高句麗語の数詞と日本語

 朝鮮古代に高句麗という国がありました。前1世紀から668年まで、700年にわたって続いた国です。
 高句麗は文字を持っていませんでした。世界の言葉では、文字を持っているものより、持っていない言葉のほうがずっと多いと言われています。アイヌ語も文字をもっていません。日本語も、漢字から万葉仮名を作り、それから仮名(片かな−平かな)を数百年かかって生み出しました。いつか、そんな話を、シュメール語の権威である広島大学の吉川守さんと話をしていましたら、万葉仮名より1500年前に、シュメールの文字からアッカードが、文字を借用したという話をしておられました。文字の借用というのは洋の東西を問わず行われているようです。
 さて、ここでは高句麗語についてお話をしましょう。
 1907年に、内藤湖南という東洋史学者が高句麗の数詞が、日本語に似ているという発表をしました。
 1916年、新村出氏(当時、京都帝国大学教授)は「国語及び朝鮮語の数詞について1−2」で次のように述べています。

   国語の数詞が朝鮮語のそれと一致せぬことは本稿の首に一言したとおり
  であるが、古代朝鮮語の一方言に日本語の数詞と類似するものがあること
  は両語の比較研究上極めて興味ある新問題を起こさねばならぬ。(中略)
   それは『三国史記』の高句麗の地名の中に高句麗方言の数詞を含むもの
  があって、その数詞が国語に酷似してゐる事柄をいふのである。
   『三国史記』(巻三十七)高句麗地理志の地名表を見ると次の四郡県に
  各別名が附載してあるのに注目さるゝのである。

  三
山見 県 一云、 密波兮  五谷郡 一云、干次云忽

  七重県 一云、 難隱別  十谷県 一云、 徳頓忽

 上の四つの地名を取り上げて、それが日本語に似ているというのです。

  三 山見 県 一云、 密波兮

とあるのは、前半、つまり「三 山見 県」が漢字で意味を表し、後半つまり、「一云」のあとでは、高句麗の言葉を漢字で表記しているのだ、というのです。「一云」
は「別の言葉では」つまり、昔あった高句麗の言葉では、という風に理解しています。そして

  三――密

を取り上げ、「三」のことを高句麗語では「密 ミル」といったとして、その「ミル」は、日本語の数詞ミ(三・3)と類似する、と主張するわけです。
 同様にして
     ウチャ―――日本語イッ(5)
  五――干次

     ナヌン―――日本語ナナ(7)
  七――難隱

     トク――――日本語トオ(10)
  十――徳

と、3,5,7,10の四つの数詞が日本語と類似すると述べています。日本語の数詞は、ほかのどの言葉とも類似しません。
・・ですから、ヒ、フ、ミ、ヨ、・・・とは類似しません。ヨーロッパの言葉では、同じ系統なら、まず数詞が類似します。しかし、日本語には、類似するものが見当たりません。したがって、ここで10のうち、四つでありますが、類似するものが見当たるのは大変なことです。その意味で、この研究は、現在でも、注目されているものですが、1960年代に入って、村山七郎氏と李基文氏とによって、もっと幅広く、数詞だけではなく、一般の単語にまで、推し進めて研究されました。

  李基文 『國語史概説』1961年、ソウル
  村山七郎「日本語及び高句麗語の数詞―日本語系統の問題  によせて」
       (『国語学』48)

 なお、わたしも「高句麗・新羅・百済語の数詞と日本語」(『日本人と日本文化の形成』1993年、 朝倉書店)を書いて、この数詞は高句麗だけではなく、新羅・百済に広がるものではないか、と述べました。さらに、3・5・7・10だけでなく、1・彡(斜めサン)・6・8・9についても日本語との類似を考えようとしました。

 それから20年ほどたちますが、私の考え方にある程度、賛成してくれた学者がでました。九州大学の板橋義三氏です。次に板橋氏は書いています。
 
 これまでに数詞の比較は上記の四つに限られていたが、塚本はこの他に比較可能な数詞がほかにあるだろうという可能性を示した。それは、数詞「1」、「6」、「8」、「9」であるとした。・・・・・(中略)これらの対応に、ある程度の信ぴょう性があると考えると、高句麗語の数詞(1)も新羅語と日本語に共通していたと考えられる。また、(中略)

 と、このように板橋氏は述べ、さらに次の節では

 さらに上記に見たように高句麗語の数詞が四つ(「1」も含めると五つ)も対応する言語は日本語以外には存在していない点は非常に重要であり、このような言語は他には世界中のどの言語にも存在していない点は強調しても強調し足りない。

 と述べている。私の主張から「1」だけを認めているような書き方である。前期の私の論文での私の主張は、数詞だけでなくもう一つあって、それはこの「1」が新羅の数詞であって、そのことから調べるとこの数詞らは、高句麗だけでなく百済・新羅からも出てくるという点である。そのことから私は、これは高句麗語だけの問題ではなく新羅語・百済語にも表れる問題であると考えた。そして、これらの言語を三か国に共通な言語ととらえ、三カ国語以前に存在した言語とみてこれを原始朝鮮語と名付けた。
 このような考え方は故金芳漢氏にもあり、氏は原始韓半島語と名付けていた。
金氏と私の原始朝鮮語に対する考え方は一致しているが、別々に研究したので資料の出し方に違いがあるので、また次の機会に述べたいと思う。板橋氏は原始朝鮮語については触れていない。尚板橋氏の論文は国際日本文化研究センターの『日本語系統論の現在』に収められた「高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる」である。

2011年9月24日

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朝鮮語のはなし(42)


 書類の整理をしていたら古い切抜きを集めたファイルが、出てきた。中には珍しいものが多くあった。その中から一つのものを紹介しておきたい。それは、中日新聞(1986年5月6日)に掲載された拙文である。

朝鮮語大辞典編纂を終えて

 1963年に大阪外国語大学に朝鮮語学科が設置された。1910年の日韓併合の結果、東京外国語大学の朝鮮語学科が「朝鮮語は外国語ではない」と1927年に廃科になってから、国立大学では初めてのものであった。

 教師になったわたしたちは、張り切っていた。また責任の重さを感じていた。なにかを始めなければならない。わたしたちの始めたのは、辞典の編纂と朝鮮語市民講座であった。23年たった。辞典は出版され、市民講座は、大阪外大中の島講座と猪飼野(いかいの)朝鮮図書資料室として小さな歩みをつづけている。

総合的研究を凝縮したもの

 なぜ朝鮮語を学ぶのか? 地球のうえには、7、8千の言葉がありもっと多くの人たちによってはなされている言葉もある。なぜ朝鮮語を?

 わたしたちはこう考えている。朝鮮語―朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の言葉は、日本人にとって次のように重要である。

1.日本文化と数千年のかかわりがある。
2.日本列島に約70万人の在日朝鮮・韓国人がともに住んでいる。日本列島で2番目に多く使用されている言葉は朝鮮語である。
3.隣の民族で国際的に緊密な関係にある。

 その次によく尋ねられたことだが、なぜ辞典をつくるのか?外国を知るにはまず言葉を知らねばならない。辞典は、言葉の凝縮である。朝鮮語を知り、民族を理解し、親善をはかる。これは、戦前は、朝鮮半島侵略の誤りを犯し、戦後は偏見と差別にとらわれてきた日本人の急務ではないか。大阪外大の教員、院生、学生のべ300人は、この23年間、辞典編纂にすべてをかけた。そして次のような辞典をつくった。

1.朝鮮語の総合的研究を推し進め、その成果を凝縮したものとする。
2.朝鮮語読解のカギとなるものとする。
3.一般の人々の使用に便利なものとし、朝鮮語の普及をはかり、民族の相互理解の礎となるものとする。そのため広く朝鮮文化に関する情報を取り入れる。

 辞典を作るための仕事は四つある。

1.原稿をつくること。
2.スタッフをスカウトし、養成して、まとめひっぱっていくこと。
3.必要経費の捻出。
4.反対運動をたたきつぶすこと。

環境若い研究者の恵まれぬ

 振り返ってみると四つのうちで、最も難しかったのは、3のお金のことである。
次は2の人間関係。やさしかったというと語弊があるが、それほど苦い記憶のないのが1の原稿づくりである。
 22万という単語を日本語と対照させ、翻訳し、例文や注を加えるのだから、楽なはずはない。しかし、あぶら汗がにじみ、心臓が飛び出すような思いはない。3のお金のことは、角川書店が好意と寛容をもって引き受けてくれるまでは、ずいぶん悩まされた。
まずカード代がない。資料費、調査費、人件費・・・・。辞典など本屋に行けば3千円で買える、などと思わないでいただきたい。

 一つの民族の言葉の総量を、もう一つの言葉で表現、再構築するのである。
真剣に取り組むのなら、数十億円はかかる。理想を言えば、数百億はほしい。
 それを、わずかな研究費のもとで始めたものだから、いろいろ無理があった。
「ベッドに合わせて足を切る」ということわざがあるが「辞典に合わせて足を切った」。
 傷跡は今も痛い。この辞典で延べ3百人が働いたが、20億円に当たると推測している。2の人間関係では、二つの問題があった。一つは、日本と大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国と、三つの国の人間が、一緒に仕事をすることの困難である。
 今一つは、編纂の原動力である若いスタッフに道が開けていないこと。
進学、就職、研究発表、生活上の諸問題、カベ、カベに閉じ込められている。
スタッフが希望を持って朝鮮語研究――辞典編纂に取り組めるよう環境づくりが、肝要であった。

 四つの仕事にかかわってきたものとして、プライベートな感想を漏らせば、自分は辞典編集者というより、零細企業の経営者であった。

多くの犠牲でやっと出版
 この辞典の特色にふれる。    

1.南・北朝鮮の語彙をおさめたこと。そのため、様々な障害にぶつかった。
2.朝鮮文化辞典、百科事典をかねたこと。
3.外国語辞典の常識にとらわれなかったこと。
4.インフォーマント調査に力をいれたこと(23年間で約3万時間)

 辞典はできたけれとも、わたしたちは、腹の底から笑ったことはない。
中心の何人かは、身体も心も傷だらけで、閉じこもっている。「切った足が、うずく」と訴えるところもない。新聞・テレビは、はやばやと取り上げてくれたが、あまり売れない。出版社は赤字である。若いスタッフは失業者で職を探すのに忙しい。

 名古屋近辺に、数十の大学がある。しかし、朝鮮語・文化の専門のコースをもつ大学は一つもない。週ひとコマ、ふたコマの朝鮮語講座がわずかに愛知大学など、一、二校で行われている。
「朝鮮語は外国語でない」という60年前の亡霊がまだ生きているのだろうか。
「ないないづくしの日本のなかの朝鮮」に辞典はあるぞ、と自己満足してみせるのだが、それにしても、一冊の本のために、なんと多くの犠牲をはらい、私事公事、有形無形、かけがえのない多くのものを失ったことであるか。

 今この文書を読んで、一言付け加えておきたい。文中で(反対運動をたたきつぶす)という言葉があるが、2001年「朝鮮語を考える」(白帝社)という本のなかに、「朝鮮語大辞典と小辞典の編纂を振り返る」という文書を書いたが、そこで「妨害」の中身を述べている。朝鮮人団体が日本の政党を動かし、一緒になって辞典を妨害した話である。本が出てから二人の古い友人が党幹部に言われたとやってきて、「わが党を攻撃するな」と怒鳴りつけられた。事件は同書に書いてあるのでここでは繰り返さない。
              
 しかし一言付け加えたいのは、心臓発作がその後も起こり40年たった今も私の財布の中にはニトログリセリンが入っていることだ。

2011年5月19日
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朝鮮語のはなし(41)


 年が明けて新しい年になって数えで78歳になりました。人生は早いものです。この年になって、今までの大きな出来事を数えることが多くなりました。
 2〜3年前のことです。テレビを見ていると瀬戸内寂聴(作家、天台宗の尼僧)さんが出てこられて、今までの大きな事件を三つ上げていました。それは偶然私が考えていた三つと同じものだったのです。それでよく覚えています。

一番目は1945年の敗戦です。
二番目は1991年のソヴィエトの崩壊です。
そして三番目は3年前のアメリカのオバマ大統領です。

一番目:
 1945年8月15日は戦争に負けました。私は小学校5年生でした。羽曳野市の祖父の家で玉音放送を聞きました。ラジオはがーがーと言って、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。大人たちは戦争に負けたのだと話し合っていました。私は負けて、悔しいとも、負けてよかったとも思いませんでした。ただぼんやり話を聞いていました。そのあとの敗戦後の状態は強く印象に残っております。
 
 疎開から大阪の小学校に戻ると先生たちは、教科書を炭で黒く塗れと指示しました。ほとんどが真っ黒になりました。ものすごいものであります。マスコミも鬼畜米英からアメリカ民主主義に変わりました。それはびっくりするほどの転換でありました。真相はこうだとか、戦争時代を暴露する雑誌や書物がよく出ました。小学校5年から6年、中学校1年へと暴露ものが続きました。

 町では闇市と言って、何でも売っている広場の市場が盛んでありました。天王寺の闇市、上六の闇市など、よく覚えています。道端にミカン箱を置いておにぎりが並んでいるのをよく覚えています。おにぎりが1個、10円であったか1円であったかはっきり覚えていません。おにぎりを手に一つずつ持って売っている人もいました。ものすごい人ごみでした。その混乱が何年続いたでしょうか。

 中学2年生になって、追手門中学に転校して、電車で通うことになっても満員電車の凄さというものはむちゃくちゃなものでした。あるときは、あんまり人がいっぱいで電車の扉が外にはみ出そうとして、大変危ないなぁと思ったこともありました。またあるときは人の背中に顔を押しつけられて呼吸ができないほど苦しくて危険な思いをしました。その当時の記憶は今も強く残っております。ただ、50年もたった今、振り返ってみて思うのは国家の混乱とマスコミの変転であります。特に強く残っているのはマスコミというのはでたらめだということです。それは長い間、在日朝鮮人問題に取り組んできて、そう感じて思うことが多いからです。確かに今までの大きな事件の中で敗戦とそのあとの混乱は私の心に大きな傷を残しました。何か物事を考えるときに敗戦の時の経験が大きく影響を与えているように思えます。私は朝鮮の専門家ですから、朝鮮問題を考えるときによく戦後の混乱を思い出します。

二番目:
 1991年のソヴィエトの崩壊について話します。私は中学2年の時に追手門中学に転校して、大道先生に会いました。人生は出会いという言葉がありますが、大道先生に出会ったことは大きなことでした。先生は英語を教えていましたが、私は数学が好きでしたが、英語が好きに変わりました。先生は社会主義に熱心でありました。私は唯物論を中学生なのに読まされました。そして社会主義が資本主義よりも良いという教育を受けました。その考えは永らく私に影響を与えました。

 大学に入って大学でも社会主義を信奉する友人が多く、いろいろと耳学問をしたものです。そのことはのちに、京都の朝鮮高校に行って、朝鮮語を教えてもらうときに、北朝鮮についてはいい国だと言われて、かなりその考えになりました。しかし私はどこの政党にも入っておりません。自由なところがあって、政党に入り活動するのが生理的に合わないように感じたからです。今までにどこかの団体に入ったと言えば、唯一つ、日朝協会だけでした。いつも政党とは距離をおいて、眺めていました。それでも社会主義と資本主義を比べてみて社会主義のほうが正しいように思っていました。確かに資本主義は矛盾が多く社会主義になると人類のいろんな問題が解決すると、こう思っていました。

 世界では冷戦時代と言って、アメリカとソヴィエト、日本では自民党と社会党・共産党とが対立していました。中学校の時に受けた社会主義教育のせいで私は永らくいずれはソヴィエトが勝つのだと思っていました。自分自身は、かなり自由な考えをしていましたが根底にはそのようなところがありました。それが、ベルリンの壁が崩壊して(社会主義が負けて)、ソヴィエトという国が崩壊するのを見て、びっくりしました。これは、敗戦の時と同じく大きなショックでありました。

三番目:
 アメリカにオバマ大統領が生まれたということは、やはり大きなことでありました。私は日本語と朝鮮語の起源を勉強しようと思って、朝鮮学校を訪ね、教えを請いましたが、そこで在日朝鮮人・韓国人がひどい差別を受け、生活していることを知りました。また日本は朝鮮半島に対して、背中を向けていました。このような日本の態度を変えさせて、差別をなくし、親善を図ろうという考え方になってき行きました。その頃の考え方が私の人生をほとんど支配するようになりました。「朝鮮語辞典」を生み出したのもそうだし、「いかいの朝鮮図書資料室」を生んだのもそのような考え方からです。ですから私は、アメリカで黒人の大統領が生まれるかもしれないと聞いた時から差別という意味で、これは大変なことだと関心を持って大統領戦を見ておりました。

 アメリカの黒人の差別たとえば、電車の車両を別にするとか、トイレを別にするとかなど、その歴史を見ても、奴隷時代があったことを見ても大きな差別でした。日本の在日に対しても差別はひどいものがありましたがアメリカの黒人差別もひどいものでした。それでオバマ大統領が選ばれた時には、本当にびっくりしました。アメリカ人は大きな差別を超えたと思いました。もっと書きたいのですがいろいろ差し障りがあるようなので、このぐらいにしときます。

 それから、正月になって、正月休みの気分にのっていろいろ考えてみました。それでは、四番目の大きな事件はなんだったのかと考えました。それはすぐに思い当りました。1950年から53年の朝鮮戦争です。そして、まだ今も休戦状態でもめ事が続いています。このことについてマスコミでも急に朝鮮の状態を報道することになりました。朝鮮戦争はどちらが始めたかということは、20年ほど前にはわかっていましたが、マスコミはいつもはっきり言いませんでした。去年の紛争で朝鮮戦争の話が出てきて、北朝鮮が南下したとはっきり言うようになりました。

 敗戦の時にマスコミに対して持った不信感がこんな時に出てきます。どうして、20年間あいまいな態度をとったのだろうかということです。そういえば拉致問題も20年間、放っておかれました。北朝鮮へ行った日本人妻は50年たったいまも放っておかれています。一度帰ってきたこともありましたが、拉致問題や日本人妻のことを考えるとマスコミの責任を追及することはできないのかと思います。今、民主党が政権交代をして、いろいろと言われていますが、マスコミにも「政権交代」に当たるようなものがないのかと考えます。

 在日朝鮮人・韓国人への差別は今も続いていますが、マスコミが変わらなければと思っています。言いたいことは、山ほどありますが今日は、これくらいにしておきます。

2011年3月2日

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朝鮮語のはなし(40)

2010/09/22    塚本 勲


 今日は大学に入ってからの話をします。大学は京都大学の文学部です。文学部は3組に分かれていて、1組50人ずつでした。1組から英語、2組ドイツ語、3組フランス語と分かれていました。私はどういう分けか、3組のフランス語に編入されていました。フランス語を第一とするクラスで週に2時間の授業が3回ありました。これが大学の教養部といった生活の基盤でした。教養部2年間はフランス語を中心に過ごしました。今から思い出すとつくづくと思うのですが、こんな外国語教育のやり方、方法があったのは、フランス語の時間だけでした。ものすごいものでした。そのスピードの速さ、教えることの要領のよさは大変なものでした。

 私が大学に入ったのは、昭和29年のことです。その5年ほど前には旧制の第三高等学校がありました。俗にいう三高です。その三高の外国語教育が京大教養部となって、残っていました。毎週三人の先生からフランス語を習うのですが要領よく教え、スピードの速さには驚きました。4月に入学し、10月になると基礎文法をやり終えて、テキストはモーパッサンの「短編小説」でした。今までにこんなにすごい外国語教育を受けたことがありません。

 私は夏休みに蓄膿の手術を受けましたが、手術がうまくいかず退院2週間の予定が3か月ずれ込みました。それで、学年末試験の時には勉強がついていけず、急遽、親切な友人S君に頼んで教えてもらい、無事合格し、2年に上がることができました。フランス語のほかに英語の時間が二コマありました。英語が好きで得意でもあったので英語の試験も受けてみたりしました。今から思うとフランス語では、10月からモーパッサン、2年生になるとバルザックの「知らぜらる傑作」などを習いました。今らか思うと英語やフランス語の小説を学んだことはあの年頃の者にとってはいい人生勉強になったと思います。まさしく教養課程の教養になったとおもいます。

 教養課程のいわゆる教養の講義が面白くなく、ほとんど出席しなかったことは今から思うと残念なことです。法律や経済の講義を勉強をしておくべきだったと思います。この年になってテレビで円高、ドル安のニュースを見てもさっぱり分かりません。教養課程の時にもっと勉強しておくべきだったと後悔しています。

 英語、ドイツ語、フランス語のほかに、第3語学としてロシア語・中国語がありました。当時は社会主義の勢いが強かったころで、大道先生の教育もあって相当にかぶれていました。それでロシア語に興味を持ち授業に出席しました。これもフランス語と同様に大変なスピードでありましたが、なかなかついていけませんでした。ロシア語の先生の中に菱山忍先生がおられました。大阪外大のロシア語科を出て、兵隊に行き、戻ってきて京大の言語学科に入ったという先生でした。私はあまり勉強せず、成績もよくなかったのですが、先生に引き付けられるものがあり、熱心に顔を出しました。2年生の時、スターリンの「マルクス主義と言語学の諸問題」を習いました。翻訳書と首ぴっきに勉強して、教室に出たものです。先生は率直で飾らない性格で接してくださいました。先生は天理大学の専任教師で天理に住んでおられました。

 1年の終わるころ「宇治から大阪に帰るより、天理によって一泊して大阪に戻りなさい」と言われました。私は言葉通りに天理大学宿舎におられる先生を訪ねて、いろいろお話を聞きました。そこで息子の正純さんとも親しくなりました。大道先生と同じく菱山先生も一生久しくお付き合いくださいました。

 ロシア語の2年間が過ぎたのちも大学院に入り、千本丸太町にある朝鮮高校でロシア語を教えるようになりました。分からないところがあると、教えてもらいに、また先生のところに通いました。先生は「こんなのが分からないで、よく教えているな」とおっしゃりながらも、親切に教えてくださいました。朝鮮高校の出来事などもよく話したものです。私が朝鮮高校へ行っていると言うと、「どうして行ったのだ、そこにあるのを知っていたのか」と言われました。私は長い間、朝鮮高校を訪ねて行ったのは電話帳で電話番号を調べて行ったのだと思っていました。記憶というものはあいまいなものです。はっきり覚えていることですが、欠落しているものは、ぽかっと欠落しているものです。

 10年ほど前に、上六にある日赤病院を受診するため順番待ちをしているとき、「塚本さんではありませんか」と声をかけられました。その方は、大阪の朝鮮高校の校長をしていた方です。その方の話によると、生野区の田島小学校の中にあった朝鮮高校に私が大学生の時に朝鮮語を教えてくれと尋ねに行ったそうです。そして、そこで京都にも朝鮮高校があれば、京都の朝鮮高校に行きたいと言ったそうです。

 しかし今、こんなことを思いめぐらしながら考えていると、古い記憶がよみがえり、私の実家に朝鮮人の若者が紹介を受けてやってきたことも思い出されました。そんなこんなで、京都に帰って朝鮮高校に電話することになったのです。話が横道にそれましたが、菱山先生からは社会主義のことや、ソビエトのことはあまり学べませんでした。むしろ、植民地化の朝鮮のことを学びました。兵隊で行っておられたハルピンや朝鮮の話を聞きました。ソウルの南山を馬で降りたということや、金浦空港の工事などに携わったということも聞きました。
 
 何よりも忘れてならないことは朝鮮語辞典の編纂や朝鮮図書室の運営などについて先生に大変お世話になったことです。先生は週に一回外大に来られました。その時をとらえていつもの問題:北と南の問題についてや人間関係の問題について相談いたしました。実際辞典を作るのには、原稿を書くのも大変でしたが、人間関係や金銭の問題なども大変なことです。私は28歳で新設の朝鮮語科の実質的な主任という役目を担いましたので難しいことがいっぱいありました。菱山先生には大学の運営なども随分とお世話になったものです。

 今振り返ってみると誠にありがたいことです。言葉も出ないくらいです。先生は1981年に肺がんで亡くなられました。数か月後に親父もなくなりました。二人が亡くなって過労のまま喪失感ということもあって、82年から83年にかけ8か月も入院しました。

 菱山先生には大道先生と同様本当にお世話になりました。恩返しに正純さんの結婚の仲人をして現在でも正純さんと付き合いが続いています。人生とは不思議なものです。

2010年9月22日

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朝鮮語のはなし(39)

2010/07/03    塚本 勲


 今日はわたしがお世話になった先生のことについて話します。

 中学校のとき、中学1年生は生野第3中学校に進んだのですが、2年からは転校して追手門中学に変わりました。追手門中学で大道久先生に出会いました。確かわたしと同じようにその年に追手門へ就任されたのだと思います。就任の挨拶で一番最後に私は弁当が好きですと言われました。それで中学生は笑いました。後で聞いて見ると、それは弁当でなくて、ベートーベンのことでした。

 大道先生には随分とお世話になりました。習ったのは2年間で、英語を習っただけですが、その後の人生で、もう忘れてしまっていますが、公的にも私的にも随分お世話になりました。まず中学のころから話しますが、英語を習って英語が面白くなって、それまで数学のほうが得意だったのが、英語のファンになりました。いろいろな言葉に関する考え方などを教えてもらいました。それから、社会主義とか、と言うものについていろいろと教えてもらいました。大道先生は自由主義的な考え方をする人で社会主義を信じておられましたが、どこの政党にも加わっていなかったと思います。中学生にはまだ難しく「唯物論」と言うような本を読まされました。学校に「図書部」をつくられ、何人かの友人と一緒に部活動を始めました。そしていろいろなことを社会の見方とかを教えてくださいました。

 教育に熱心な先生で文芸部も作っておられたようで、一人一人の学生の世話をよくされました。わたしは図書部の部長に命ぜられ、すっかり大道ファンになりました。大道ファンは高校へ行って,大学へ行って,大阪外大の教師になって、ずっと長く何十年と続きました。高校の時とか、大学の時とか、その時々の問題について、いろいろと親身に考えてくださいました。しかし、一番お世話になったのは朝鮮語辞典の編纂のときです。何かと難しい問題が多く、ことに朝鮮の南と北をめぐっての問題が多くて、上本町8丁目の外大から南森町の天神様の隣の大道宅にタクシーを飛ばしていったものです。自分では、こっそり駆け込み寺と言っていました。どれだけ多くの問題を解決していただいたか分かりません。どんな場合でも真剣に受け止めてくださって、わたしのことを考えてくだり有難いことでした。

 あんまり世話になったものですから、お礼をしようと思って、先生は独身だったものですから、見合いの斡旋をしたこともあります。京都まで行って、京都の高校の先生に会ってもらったのですが、話が上手く行きませんでした。何年前でしょうか、もう先生は70歳ぐらいになられたころです。わたしと先生の年の差は8歳ぐらい、だったと思います。あるときわたしは、『社会主義はダメですね』といいました。すると先生は即座に『資本主義はむちゃくちゃだ』とおっしゃいました。それでわたしは、『資本主義がダメなのは、よく分かっています。しかし、社会主義はつぶれてしまったではないですか』というと先生は黙ってしまわれました。さらにわたしは『社会主義より、仏教の方がいいです。生老病死の考えにひかれる』と付け加えました。今から思うといわなければ言いことを言ったようです。それ以来先生との交流がなくて、連絡があったときは「亡くなった」という知らせでした。残念です。50年近くお世話になりました。有難いことだと思っています。

 天王寺高校の時代にお世話になったのは松村先生です。先生は戦争に行かれて、顔に負傷をされておられました。顔に傷跡があったのです。高校生は仕方がないものでそんな先生を「ギャング」と呼んでいました。英語の先生でした。わたしによく目をかけてくださいました。文法のことなどを質問に行くと、『そうかそうか』と話を聞いてくださいました。松村先生もなくなりました。われわれが習ったころの先生は30代でしたが、40代になって、学校を辞められ恵我之荘でずっと百姓をして、一生を終えられました。

 あるときのことわたしは、ふと思い出して、昔、世話になったなぁと思って何か贈り物をしました。すると電話がかかってきて、「お前これナンや」とおっしゃいました。懐かしい思い出です。

 高校で一番の評判になっていた先生は、いわゆる看板教師である津田先生でした。数学を習いました。厳しい先生で厳しさの中に生徒に対する情熱を感じさせた先生です。津田先生は「小芋」と呼ばれ、昭和10年ごろから卒業生に「小芋」と慕われていました。小芋という由来は頭の形が小芋そっくりだったからです。津田先生のことを思い出すと、先生は足を広げてゆっくりと黒板に円を見事に描かれました。まるでコンパスを使って書いたかのようでした。

 わたしは朝鮮語科の教師になって「日本語と朝鮮語の起源」を講ずることが多くなり、黒板に日本列島と朝鮮半島の図を書くことが増えましたがまずい図でした。そのたびに津田先生は鮮やかな図表を書かれたと思い起こしまいた。
                2010年7月3日
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朝鮮語のはなし(38)

2010/05/27    塚本 勲

 今日は朝鮮語について関係のあった日本人の話をしたいと思います。
一番先に頭に浮かぶのは新井白石(1657年〜1725年)のことです。
新井白石は江戸中期の儒学者・政治家として知られています。朝鮮については二つのことが頭に浮かびます。一つは朝鮮語との関係です。もう一つは朝鮮通信使との関係です。朝鮮語の関係では、「東雅」(1717年?)を表わしたことです。この本は日本語と朝鮮語の比較言語学をめぐる最初の本だと言われています。日本語と朝鮮語との起源的関係について論じたものです。大阪外国語大学編の「朝鮮語大辞典」にはこの白石の日本語と朝鮮語との比較したものを参考例として第一に挙げています。現在のところ日本語と朝鮮語の比較の対応例は200数十個挙がっていますが、白石のこの書の中で数十の例が挙げられています。

 もう一つ白石についてよく言われることは、朝鮮通信使への対応を緊縮財政により縮めたことです。白石については、この二つがよく言われます。その後、江戸時代には日朝比較言語学の研究をした学者がいたのですが、明治時代に目を向けてみます。1897年(明治30年)に高等商業学校付属外国語学校で朝鮮語教育が始まりました。これは後に東京外国語学校と変わり現在の東京外国語大学につながるものです。ここで韓語学科が開設されました。ところがちょうど100年前の1910年の韓国併合のときに文部省は朝鮮語を「帝国の一地方言語」とみなし、「外国語に列する理由なし」として27年に東京外国語学校の朝鮮語部を廃止しました。ここでは金澤庄三郎と言う人が活躍したが、彼は丁度併合の年である1910年に「日韓両国語同系論」と言う本を出しました。この本はイギリス人のアストンの研究を引き継いで発展させたもので同系が一時証明されたものだといわれました。白石の業績に比べると段違いの発展した内容でした。

 ところで1919年に朝鮮半島植民地化で「三・一独立運動」が起こり朝鮮総督府はその懐柔策として朝鮮民族の文化を大切にするとして、京城帝国大学を作ることにし、1924年(大正13年)予科を作り、26年に法・文学部や医学部を作りました。これは日本での6番目の帝国大学でした。朝鮮語・朝鮮文学科がその中に設置されました。朝鮮語の教授は小倉進平、朝鮮文学の教授は高橋亨でありました。他に助教授として河野六郎もいました。高橋亨氏とも河野六郎氏とも2〜3回お話をしたことがあります。京城帝大の朝鮮語科は日本の敗戦でつぶれるまで20年続きましたが卒業生はたった12名でした。1年間で12名でなく20年間で12名でした。そのうち2名が日本人だったようです。残りの10名が朝鮮人です。このころはもう植民地化されて朝鮮語に希望を持って進もうと言う人が少なかったともいえます。しかし日本の敗戦とともに京城帝大から引き継いで生まれたソウル大学を中心に活躍する人が増えました。活躍する人は韓国だけでなく北朝鮮でも活躍しました。私はその12名の卒業生の一人である金思Y教授からいろいろとそのころの事情を聞きました。

 印象に残っていることを一つ、二つ述べますと、小倉進平教授は政治の話に絶対触れなかったそうです。また高橋教授は朝鮮人のめかけがいて,講義が終わると人力車にのって通ったとのことでした。京城帝大の予科が出来たのが24年で朝鮮語科が出来たのが26年でしたが、丁度その中間の25年に私立の天理外国語学校(現在の天理大学)に朝鮮語科が出来ました。文部省は東京外国語学校で廃止している傾向にあったもんだから、なかなか設立しようとしませんでした。しかし、設立目的は天理教の海外伝道者要請であり、暫定的と説明しつつ続きました。天理大学の卒業生からは、外務省に行ったりした人もありました。

 そうして敗戦から18年に大阪外国語大学に国立大学の朝鮮語科が復活しました。そのころ私は1961年(昭和36年)に京都大学の言語学科のドクターコースにいました。同時に京都朝鮮高校の非常勤講師でした。毎日高校に行って教えてくれ・教えてくれと言って朝鮮語の勉強を続けておりました。61年ごろ疲れがでて、もうこの道を辞めようかと思うときがありました。ある日のこと日朝協会へ行って見ると木本賢輔氏が「大阪外大に朝鮮語学科が出来るそうだ。それで朝鮮語の教師を探しているけれども、人がいないと言うことだ。塚本さん立候補したらどうだ」と言いました。それでびっくりしてすぐに外大の金子教授に電話をしました。金子教授は家に来いといわれましたので訪問して、いままでの事情を話しました。金子先生の家を出てくると、すぐに泉井久ノ助先生に電話をして、推薦を頼みました。その頃、金子先生は東京の方にも動いておられたようで、泉井先生もわざわざ金子先生宅に行って頂き、いろいろとありました。結局は私が専任講師に採用されることになりました。外大に入ってから金子先生に何度もお聞きしたことですが、何故私が採用されたかということです。金子先生は二つ理由を挙げました。

「朝鮮人に聞いたら、悪く言うものがいない。もう一つは朝鮮語がしゃべれる。外大の教師はしゃべれないとダメだ」ということでした。最初、朝鮮語科は62年に出来るはずでした。そこで61年の10月から週に一回一こまの朝鮮語講座が始まり、私が担当しました。調べてみますと昭和10年ぐらいからの空白の後に始まったことです。しかし、朝鮮語科が出来たのは62年でなく63年でした。そして晴れて専任講師になりました。朝鮮語科が始まって学生が5人入ってきました。15人定員のところ7名が合格でした。外大の教師になった責任を骨身にしみて感じました。二つのことをはじめました。一つは朝鮮語辞典の編纂です。もう一つは「大阪外大朝鮮語公開講座」(無料)、朝日新聞が報道しました。その結果たくさんの人がやってきました。その後、「猪飼野朝鮮図書資料室」を作りそれが現在の「ハングル塾つるはし」になりました。詳しいことはまた別の機会に書きたいを思います。

                 2010年5月26日


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朝鮮語のはなし(37)

2010/03/31    塚本 勲

金嬉老事件のこと

 金嬉老氏が3月26日に亡くなったとマスコミの報道で知りました。81歳だったそうです。1968年に暴力団幹部2人を射殺し、寸又峡に人質13人をとって立ちこもった事件は、1968年のことですから42年前のことです。当時劇場型犯罪と言われ、騒がれたものですから良く覚えています。差別がきびしかったころで今とは違って、大阪の生野区では外国人居住反対があったり、指紋押捺があったり、朝鮮人と日本人の心中事件があったりしたころです。それに比べると今は差別はかなりなくなったと思われます。しかし、まだまだ差別はなくなっておりません。差別にもいろいろあるのですが、一番立ちの悪いのは心理的差別です。これは日本人の心に根深く残っています。それから就職差別です。大企業などでは、朝鮮人・韓国人を就職させないのは普通です。近頃の韓流ブームを思うと差別をなくすことに役立っていると思います。しかし、まだまだなくなるためには努力をしなければならないと思います。

 事件のころにある新聞社から、この事件について原稿を書けと依頼を受けました。当時私は33歳でした。私はそれまで新聞社から原稿の依頼を受けたことがなく、張り切って書きました。ところがある朝寝ていると、速達が来て、「あなたの原稿は没にします」と書いてありました。私はそれを見ると頭にきて、食事もせず、家を飛び出して新聞社に出かけました。そして「人に物を頼んでおいて没にするとは何事か。大体、新聞社も差別を取り上げないからこのような事件が起こるのだ」と抗議しました。それは出てきたデスクに抗議したものです。結局もう一度書き直すと言うことになりました。もう一度書き直した原稿をここに掲載しておきます。


日・朝にかける橋

 わたしたちの研究室では、いま朝鮮語辞典の編集に取組んでいる。隣の朝鮮民族の研究は、残念なことにまだ基礎的な段階であって、まず本格的な辞典の編集から、といった状態なのである。
 わたしたちの辞典はコンサイス版の朝・日辞典であるが、朝鮮の大国語辞典に準拠して仕事を進めている。なかでも最も恩恵をこうむっているのは「クン・サジョン(大辞典・1947年ソウル・全6巻)」である。これは朝鮮の最初の現代的な大辞典だが、この辞典には、愛国の熱情をもって苦難をのりこてきた輝かしい歴史がこめられている。

 話は1929年にさかのぼる。この年10月31日、訓民声音つまり15世紀につくられた朝鮮文字の発布430周年記念式がソウルの朝鮮語学会会館で開かれたが、式に引続き、各界の人たち108人の発起で、朝鮮語辞典の編集が決定された。

 苦難の歴史はここにはじまる。まず財政的基盤がなかった。それに朝鮮語には、確立した標準語と統一された綴り(てつじ)法すらまだ定められていなかった。辞典の編集よりも前に、まず基礎工事にかからねばならなかった。朝鮮語の標準語が決められ、「ハングル綴字法統一案」や、10年間の調査審理による「外来語表記法統一案」などが、決定・発布された。

 この基盤の上に1939年夏から、辞典全体の体系的整理は急速度でおこなわれた。1940年3月に日本官憲の「出版許可」を一部分得たが、その獲得には「苦心惨憺実に形容するのがむずかしい」ことが多かったと編集者は記している。零下十何度の極寒のソウルで、冷えたストーブと薄暗い電灯のもとに編集作業はおし進められた。衰微する朝鮮民族の魂を呼びおこすために、民族文化の維持発展のために、関係者はあらゆる困難を耐えしのんだ。そして、その苦しい生活のなかにあっても常に笑い声は耐えなかったという。

 だが、最悪の事態はせまっていた。日本官憲の圧力は日に日に激しく、ついに朝鮮語と朝鮮文字を滅ぼそうとする弾圧が、あらゆる手段ではじめられた。編集者たちはあせった。一日も早く辞典を出版しなければならない。そして1941年春、辞典原稿の一部を印刷所に渡し、百余ページの組版、校正をするところまでこぎつけた。まさにそのとき「朝鮮語学会に悪魔の手がのびた」。1942年10月、日本への同化政策に違反したかどで、幹部の全編集員33人が咸鏡南道のホンウォン(洪原)警察署に逮捕された。

 人も原稿もホンウォンから、ハムフン(咸興)刑務所へと移された。そしてついに、ふたりの愛国者は獄中で、辞典の出版を夢みつつ息を引き取った。他の人たちも、ただ辞典の完成のみを願いつつ、不安な獄中生活を送った。裁判を受けた12人のうち、最後まで残った人たちが、第一審の判決に従わず上告し、証拠物件として押収されていた辞典の原稿がソウルに送られることになったが、その数日後1945年8月15日であった。

 民族の独立をむかえるや、人々はハムフンからソウルへと戻ってきた。しかし、原稿の行方はわからない。ひとり朝鮮語学会のみならず、広く世間の人たちも憂い嘆いた。有志の人々の探索がはじまり、ついに9月8日、ソウル駅の倉庫から原稿が発見された。編者はそのときのことをこう記している。

「20年の間つもりつもった労苦が水泡に帰さなかったのは、天の助けでなくてなんであろう。この日、原稿の入った箱を開ける手は震え、原稿を手にする目からは涙があふれ出た」
 ドーデの「最後の授業」は敗戦国の悲哀と愛国の熱情を描いた名作だが、そこで彼は「ある民族が奴隷となっても、その国語を保っている限りは、その牢獄の鍵をにぎっているようなものだ」と語っている。私は毎日、クン・サジョンを手にして、その語義解説を日本語に訳しながら「牢獄の鍵を握る」ため、命をおとした二人の愛国者に思いをはせるのである。

 数年前のこと、ソウルに滞在中、わたしはハングル会会長のチェヒョンベ(崔鉉培)先生の自宅を訪れた。ハングル学会は、かつての朝鮮語学会が改称されたものであり、チェ先生はもちろんこの編集の中心人物であった。先生は京大文学部の出身であるわたしたちの大先輩にあたる。獄中生活3年の老先生は、多くと語ろうとされなかったが、私が朝鮮民族の理解のために朝鮮語研究にはげんでいると申し上げると、なんどもなんどもうなずかれるのであった。そして懐かしげに40年前の京都の話をされるのだった。

 近頃、朝鮮人差別問題が社会を騒がせた。いままで日本の知識人はアメリカの黒人問題を論じても、この問題は避けて通った。日本人が、他の民族の「国語」を奪おうとし、それに抵抗した人たちも獄死にまでおいやったことは、ほとんど知られていないし、知ろうとしなかった。それより、アメリカ人やフランス人の暴虐ぶりが話題をするのにふさわしかったようである。朝鮮人問題は、例えば、金嬉老事件や小松川女子高校生殺し事件などが発生したときなどには、いつもはなやかに論じられる。しかし、それは常に一時的であり、問題の本質をみつめ、誠意をもって解決しようとする態度は少なかった。

 私は穴倉に入ったようにもう6年間,十何万かの朝鮮語の単語を訳す生活を続けてきた。穴倉のなかから騒いでいる世間をながめ、いろいろなことを考えていた。辞典の財政的困難はクン・サジョンも私たちもかわりはない。文部省は一円もくれなかった。だが、投獄もされないで、研究室でぬくぬくとカード書きに励めるだけでも幸福だといわねばならないだろう。そんなことを思って、日本と朝鮮の両民族の理解と友好のために、今日も新しいカードに取り組むのである。

             2010年3月31日

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朝鮮語のはなし(36)

2010/2/9    塚本 勲

 今回もまた、昔話をいたします。私は朝鮮語を始めようと思ったのは言語学を学び始めて、菱山先生というロシア語の先生に接して、日本語の起源の問題を知ったことにあります。日本語が北から来たか南から来たか、あるいは朝鮮半島から来たか。この問題を解こうと思って朝鮮語を学ぼうと思いました。そのころは韓国にも北朝鮮にも行けないころで日本人が韓国に行くと海岸で拿捕されるということでした。それで、大阪の生野区にある朝鮮小学校に行って、「朝鮮語を教えてくれ」と頼みました。そこには朝鮮高校も入っていました。そこで、「京都にも朝鮮高校がある」ということを聞きました。随分昔の話ですが記憶が薄らいでいますが50年以上昔の話です。

ある日のこと、京都の電話局に行って、朝鮮高校の電話番号を調べました。大学3年ころであったと思います。記憶は曖昧です。
 その前に2年生のとき、京都大学に朝鮮語の先生がいて、講義をやっておられました。これは2〜3回出ただけでまだ本格的にやろうとは思っていませんでした。そのうちに先生は途中で韓国へ帰られました。もう名前を忘れましたけれど、その数年のちに韓国に行ったときに、この先生が旅館へ尋ねてこられたことがあります。記憶は薄らいでいますけれど、ただひとつ、私は「朝鮮」と言って「朝鮮と言うな。韓国と言え」といって怒鳴られたことがあります。

話を元に戻しますが京都朝鮮高校へ行って「校長に会いたい」と頼みました。そうすると「校長は留守だけれど私は教頭だ」という人が現れました。30代で若々しく元気があふれているという人でした。私は「言語学をやる上で必要だから朝鮮語を教えてくれ」と頼みました。「それは結構だ」と言って早速教えてくれたものです。この人に会って随分良かったと思います。人生は出会いだと言う人がありますけれど私はこの人に会って本当に良かったと思っています。それが大学3年生のころです。その人が言うには「高校へ来て習う。授業に出させてもらうのも結構だけれども、私の家に韓国から密航してきた高校生がいる。日本語が出来ない。それでその高校生と、日本語と朝鮮語の相互教育をやってはどうか」と言われました。

それで家に来いと言われて、行ってびっくりしました。家が8千坪もあったのです。その8千坪の家は、元野村財閥の家で、そこの管理人をしていたのです。その8千坪の家は福井藩の京都屋敷でした。明治維新のとき、橋本佐内という人がそこに詰めていたといいます。そこには管理人以外誰もいませんでした。その屋敷の殿様の部屋(20畳)の部屋が二つ並んでいました。屋敷に入ると畳廊下がありました。畳廊下というのは廊下に畳が敷いてあって幅3メートル位ありました。その畳廊下を何十メートルか歩いて、その部屋に行きました。そこでその高校生と二人で机に向かって座り、教頭先生に書いてもらった速成会話帳を手元において勉強しました。参考書もありませんでした。テキストに朝鮮総連が出している「国語教科書」を使ったものと思います。朝鮮高校は大変貧乏であって、教頭先生は安い月給で働いていると聞いていたので、大きな屋敷にはびっくりしたことでした。ともあれ、そんな勉強をしたり、高校に通ったりしているうちにだんだんと朝鮮の世界の魅力に取りつかれるようになりました。それで4年生になって卒業論文を出すと「講師をやらしてくれ」と教頭に頼んで、教師をはじめました。

そのときにはその学校に日本人の非常勤講師が5人ぐらい居たのですが「民族教育」は日本人には出来ないということで全部首になりました。そして、私だけが逆に非常勤講師に入れてくれました。私が後で聞いたことですが私が朝鮮語の学習に熱心であったこと、それから4年生のときにモスクワで開かれた「世界青年学生平和友好祭」に英語通訳として参加したことなどが有利に働いたものだということです。ともあれ、講師になりました。

そして大学院に進んで言語学の泉井久之助先生の講義以外はほとんど朝鮮語の学習に当てました。朝鮮学校の講師でしたが、毎日朝鮮学校に行き、「朝鮮語を教えてくれ、教えてくれ」と言って教えてもらい、それをカードにとって単語や知識を増やす毎日でした。大学では言語学を習い、基本を習っていましたので、朝鮮語の文法を一つずつ作っていくようにしていました。そういう風にしてあっという間に1年がたちました。

しかし、だんだんと言葉の壁にぶち当たるようになりました。日常生活の簡単な挨拶は教えてもらって、少ししゃべれるようになりました。けれども、言葉というものはそんなに簡単なものではありません。膨大な単語があり、複雑な体系があります。それは簡単に穴を開けることが出来ない大きな壁でありました。そんな壁に悩まされていたある日、高校生を教えているときに愚痴とも言わず失望とも言わずなんともいえない言葉を発しました。「朝鮮語を学んで日本と朝鮮の友好をやっているけれども、言葉は初歩の部分は過ぎたけれどもなかなか上達しない、参考書も辞書もないのでひどく手間取り、壁にぶつかっているような状態だ、折角日本と朝鮮の友好をと思って朝鮮語をやっているのにこのままではどうも行かない、もう挫折してしまいそうだ」と授業そこのけでぼやきと不満をぶちまけました。

その授業が終わって、廊下へ出て、しばらくしたときです。ばたばたと一人の学生が追いかけてきました。ソンセンニムといって彼は語りました。「自分は10何歳のときに日本に来ました。それで今は日本語も朝鮮語も同じように自由にしゃべれます。もし、先生が辞書や参考書がなくて勉強できないというのなら、自分を辞書や参考書の代わりに使ってくれ」といいました。もう50年も前のことですけれどもそのときの風景が今を鮮やかに網膜にうかびあがってきます。私は喜んで早速その日から一緒に連れ立って帰り勉強を始めることになりました。

その少年をS君といいました。実に熱心に教えてくれました。私が何か日本語で言うと、すぐさま朝鮮語で答えてくれるのです。これを1日に何時間もやり、日曜日には朝から晩までやりました。それでどのぐらい立ったのでしょうか1年もたつと見違えるほど単語の力もつき、表現力も豊かになり、発音も滑らかになりました。

今考えてみるとS君が居なかったら私の朝鮮語は挫折したかもしれません。S君は20歳ぐらいの高校生でしたけれども、私とはいくつも年は違いませんでした。だんだんと話しているうちにS君はきびしい生活環境にあること、心の悩みを打ち明けるようになりました。お母さんは自殺したそうです。彼の苦しい生活を聞いていて、私は在日朝鮮人の苦しい状況が身にしみて分かるようになりました。

そして、ますます朝鮮語をしっかりやらなければならないと思うようになりました。始めは日本語と朝鮮語の起源の問題であったのが、だんだんと両民族の間に立って活動しなければいけないと思うようになりました。同志社大学をつくった人に新島襄という人が居ます。この人は、「我は太平洋の架け橋にならん」と言ったそうです。私は世間知らずでまだ若く、世間知らずもよいとこで、「自分は玄界灘の架け橋になろう」と思うようになりました。今から思うと本当に世間知らずだったとおもいます。後に辞書つくる途中、北と南の複雑な問題で倒れたとき、病院に入って「自分は架け橋になろうと思ったけれども、玄界灘の人柱になるところであった」と思ったこともあります。

さて、話を元に戻しますがS君のお蔭でかなりできるようになりました。けれども朝鮮語の会話の上達にはまだまだ壁がありました。
 それは学校では日本語が禁止、朝鮮語を原則とするということだったのですが日本人にはなかなか朝鮮語をしゃべってくれません。それに外国語の会話は恥ずかしいものです。特に日本語の良く出来る外国人と外国語で会話するのは難しいことです。これはすぐに朝鮮語をしゃべっていても日本語になるということです。これは思わぬ難点でありました。

 私はここでまた会話の困難な点を見つけ考えました。授業中に朝鮮語をしゃべろうと思ったのです。それで高校生の部屋に行って朝鮮語で授業を始めようと思いました。しかし、真っ向から野次が飛んでくるのです「下手な朝鮮語をしゃべるな。日本人は日本語でしゃべれ」とこう野次られますと、恥ずかしさもあってもうしゃべれません。
 それで考えてみました。何かいい方法がないかと考えて見ますと対象を中学2年生にするということでした。私は中学2年生にロシア語を教えていました。中学2年生に朝鮮語でしゃべったら、野次らないだろうと考えそれを実行しました。教室に入っていって恐る恐る朝鮮語で言いました。「今日は第3課です。教科書の10ページを見てください。」朝鮮語でこういったので、野次られたら、日本語に切り替えるつもりでした。ところが中学2年生は何も言わずに私の下手な朝鮮語を聞いたまま丁寧に行動してくれます。大体私が、日本人であることも知らないくらいなのです。それでびくびくしながら1時間の授業を終えました。大変うれしいことでした。それを積み重ねて今度は中学3年生に実行しました。そして、高校1年生へと実行しました。高校3年生では英語を受け持っていました。日本の高校の教科書で英語を教えていました。物理学者のアインシュタインのエッセイが載っていました。中学2年生で始めて、朝鮮語で教えて、3年生、高校1年生へと段階をおって朝鮮語での授業を続けてきました。その間に何年も経っていました。

 アインシュタインの英語を朝鮮語に訳し、文法を朝鮮語で解説する、日本語を一言も使わない、この何年もの間それを夢に描いてきました。やっとそのことがある日実行できました。中学2年生に朝鮮語で教えて、3年ぐらいはたったであろうと思います。
私はその授業が終わったとき廊下に飛び出て、「やった。やった。とうとうやった」と職員室まで舞うように走っていきました。それからしばらくして、昭和38年に大阪外国語大学に朝鮮語学科ができて招かれてそこの専任講師になりました。
            2010年2月9日

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朝鮮語のはなし(35)

2009/12/10    塚本 勲





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朝鮮語のはなし(34)
2009/11/7    塚本 勲




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朝鮮語のはなし(33)
2009/10/4    塚本 勲




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朝鮮語のはなし(32)
2009/9/3    塚本 勲







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朝鮮語のはなし(31)
2009/7/24    塚本 勲






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朝鮮語のはなし(30)
2009/7/4    塚本 勲








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朝鮮語のはなし(29)
2009/6/10    塚本 勲





       

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朝鮮語のはなし(28)
2009/4/30    塚本 勲




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朝鮮語のはなし(27)
2009/4/11    塚本 勲

                 以上。
     
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朝鮮語のはなし(26)
2009/3/31    塚本 勲

                        以上。
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朝鮮語のはなし(25)
2009/3/12     塚本 勲



                 2009年3月12日
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朝鮮語のはなし(24)
2009/3/4     塚本 勲






     白帝社 発行 1,600円+税
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2009/2/16    塚本 勲
朝鮮語のはなし(23)




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2009/2/7    塚本 勲
朝鮮語のはなし(22)



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2009/1/26    塚本 勲
朝鮮語のはなし(21)








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2008/12/26    塚本 勲




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シリーズ
朝鮮語のはなし (19)         塚本 勲

 『朝鮮語大辞典』には多くの特色がありますがその一つに
ハナビラ(※注記1、2)があります。桜の花びらを形どった印を使っています。

 単語には訳と例文を書くのは当然ですが、もっと幅広くその単語を見つめていろんな角度からその特徴を書いたのはこのハナビラの項目です。

 一つの例を挙げてみましょう。 カン(江)は次のように書いています。またその単語の古語を書いています。



 このように単語の特徴をいろんな角度から見つめて生き生きと描いています。
 辞典の特色はハナビラだけではありませんがこれからも折に触れて取り上げてみましょう。海賊版で書店から姿を消した恨みの朝鮮語大辞典への弔いにもなると思います。

                ( 2008.11.30 )


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シリーズ
朝鮮語のはなし (18)         塚本 勲

 2006年5月17日に鶴橋で酒を飲んでいたところ、突然脳梗塞で倒れ、救急車で運ばれて11日間入院しました。それからは、体のあっちこっちが悪くて、朝鮮語とは縁のない生活を送っておりました。

 あっという間に2年数ヶ月がたちましたが、また「朝鮮語のはなし」を始めたいと思います。

 考えてみると、朝鮮語を始めてから50余年たちます。大学2年のときに朝鮮語の講義に出たことがあります。先生の名前はよく覚えていたのですが、今は思い出しません。2,3度出ただけで、終わりました。先生は韓国から来られて半年で帰国されました。大学3年のときに大阪の朝鮮小学校を訪ねて「教えてくれ」と言いました。そこに朝鮮高校もあったそうです。

 最近になって病院の待合室で座っていると「塚本さんですか」と声をかけられました。そして、聞いた話ですが、その人は大阪の朝鮮高校の校長をしていた人です。その人に聞いた話ですが、朝鮮高校は小学校の中にあったそうです。そこへ私が教えてほしいとたずねていったと元校長は話していました。古い古い昔の話なので自分ではよく覚えていないのですが、当時そんな日本人がいなかったから、校長のほうはよく覚えていたそうです。

 それからしばらくして私は京都に下宿していましたので京都の朝鮮学校へ行ってみようと思い、電話局へ行って京都朝鮮高級学校を探し出し電話をかけました。そしてたずねていって「校長先生に会いたい」といいました。
 すると、「校長は留守ですが、私は教頭です」と言う人が現れました。そこで私は「自分は京都大学の言語学科の学生ですが、朝鮮語は日本語にとっても、大変重要な言葉です。しかし誰も日本人は朝鮮語を勉強しない。自分はやりたい、勉強したい、教えてください」といって頼みました。教頭は金さんといいました。なかなか親切に取り計らってくれました。
 それが勉強するはじめきっかけです。そのころからの話をすると長くなりますので又別の機会にしたいと思います。

 私は今74歳ですがこの年になると自分の人生を振り返ることが多くなります。自分はいったい何をやってきたのかと思います。作ったものから考えると2つ作りました。
 一つは『朝鮮語大辞典』もう一つは「いかいの朝鮮図書資料室」です。(「いかいの朝鮮図書資料室」は現在「ハングル塾つるはし」とよんでいます)

       

 この2つを作って運動してきました。その運動については『朝鮮語を考える』と言う本に書いています。(2001年 白帝社)詳しくはその本を読んでいただきたいですが、そこでは朝鮮語とそれを取り巻く世界 ― 差別の世界を描いております。もう一冊本を書きましたがそこでは日本語と朝鮮語の比較言語学を扱い『日本語と朝鮮語の起源』を出しました。(2006年 白帝社)

   

 考えてみればX軸に朝鮮語、Y軸に差別の人生と歩いてきたともいえます。

 このように話していくと長くなりますので今日は朝鮮語大辞典について簡単に触れておきます。1963年に大阪外大に朝鮮語学科が設置されました。それまでに国立・公立では朝鮮語学科がなく私立の「天理大学」にあっただけです。それで大変張り切って辞典を作ろうと取り掛かりを初めて23年経過しました。1986年2月に全3巻・23万語を角川書店から出版しました。大阪外大のメンバー延べ300人が23年かかって完成させたものです。

 大変残念なことですが、韓国で海賊版が出て、書店には見かけなくなりました。海賊版は困ったものです。朝鮮語大辞典は5万円もして海賊版は十分の一ですので仕方がありません。朝鮮語大辞典のことについてはほとんど無数の特色がありますので一度に書くわけにはいけません。
 これからは少しずつ触れていくこともあるでしょう。

                     (2008.11.28)
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シリーズ

朝鮮語のはなし (17)          塚本 勲

          
 はやいもので今年も12月になりました。どういうことか、今年は5冊もの本をつくることになりました。こんなことは始めてです。

今月は、
   『日本語と朝鮮語の起源』(白帝社) 
 が出ます。

 わたしは51年前にこのテーマにとらわれて朝鮮語をはじめました。しかし、とてもとても、簡単にできるようなものではありません。植民地支配の時代に京城帝大という大学がありましたが、そこの朝鮮語教授の小倉進平氏は、学生たちに、
「朝鮮語をやるだけでも、一生も二生もかかる。とても、とても…」
と語っておられたのを、直接聞いた方からうかがったことがあります。

 それで今日は、その本の中から、一般の人にも面白そうなところを取り出して書いてみようと思います。

 まずこのテーマについて最初に取りあげたのは新井白石です。
大阪外大朝鮮語研究室編の『朝鮮語大辞典、全3巻(角川書店1986)』が、日本の大きな書店から姿を消してしまい、たいへん残念なことで、今の日本では誰もそんなことを問題にしてくれませんので、『辞典』の心情も察して、ここで引用させてもらいます。


[語源]
1.新井白石 海ウミ ワタの義は不詳。海をワタと云うは 韓地の方言と見えけり。日本紀に海をホタイといふは、百済の方言なり。今も朝鮮の俗バタヒといふなり…『東雅』1719.
2.金沢庄三郎…『日韓両国語同系論』1910.
3.大槻文彦、わた(名) 渡る意と云フ、
百済語、ホタイ、朝鮮語 パタ。『大言海』1937.
以下、大野晋、村山七郎と続いています。
(みなさん、この『辞典』を愛用して下さい。)

 アストン(Aston,1841〜1911 在日英国公使館)の「日本語と朝鮮語の比較研究」には
     wata(海)  pata、patang(海)
 とあります。アストンの対比表を見ていると
     ifu(言う)  ip(口)
 というのが目につきました。「言う」は動詞で、「口」は名詞ですので、これでもいいのか、と思われる方もいることでしょうが、この例は服部四郎・大野晋教授も取り上げておられます。

「耳」と「聞く」の対比もあります。

    mimi(耳)  kui(耳)
とは類似しません。そこで、動詞の「聞く」を持ってきて
     kiku(聞く)  kui(耳)
と対比させるのです。服部・大野氏はこの例も取り上げておられます。
なおmimiは阪倉篤義教授によるとmiを束ねた形ということです。

 ここでニブヒ語を見てみましょう。ニブヒ語は旧ギリヤーク語のことで、アムール河・ニブヒ語とサハリン・ニブヒ語とに分かれます(現在ロシアで人口4千人、とあります)。高橋盛孝氏(元関西大学教授、大阪外国語大学講師)の『樺太ギリヤク語』(1942年)を見ますと、

    耳  mla 、mlag
    聞く mund 、mond
       jototund、jototnd

とあります。

 これを下の表のように整理してみます。

日本語 朝鮮語 サハリン・ニブヒ語 アイヌ語
mi kui mla
mlag
kisar
田村すず子氏による
聞く kiku twtta

mund
mond

jototund
jo:totnd
kokamu
田村すず子氏による

 上の表をみて、いろいろなことを考えてみる、あるいは推察してみようとするのですが、この表一枚では、やはりむつかしいようです。
もうひとつ例をあげてみましょう。

日本語 朝鮮語 ニブヒ語 アイヌ語
te
ta
シー∫i
(沖縄竹富島)
中本正智氏による
son
tamyk
tamk
サベーリエバ・タクサミ氏による

*1)
tek

田村すず子氏による
 < *1)サベーリエバ氏はロシア人、タクサミ氏はニブヒ人の名前です『ロシア語ーニブヒ語辞典』と『ニブヒ語ーロシア語辞典』の2冊を共著で作りました(1960年代)>

 このような例
を『比較』でいくか、かりあげて表にしてみました。ごらん下さい。

  うっかりしておりましたが、この「朝鮮語のはなし(13)」で次のような表がありました。

日本語 朝鮮語 「高句麗語」 ニブヒ語
ωata

(新井白石)
badal
baral
(李基文)
patan
〔波且〕
ftok
(金芳漢)

 それでは『朝鮮語のはなし』は今日はこれぐらいにしますが、「ハングル塾つるはし」 では毎月か隔月にこの話をしております。

 さて一服してアン・パンかタコヤキでも食べることに致します。

                     (2005.12.7)

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シリーズ

朝鮮語のはなし (1)              塚本 勲 

 朝鮮語(韓国語、ハングル)は、楽しくて面白い言葉です。なにより日本人にとっても、在日韓国人・朝鮮人(以下、在日)にとってもやさしい言葉です。

 わたしは五十年ほど前に軽い気持ちでこの言葉に接しましたが、その魅力に取りつかれ人生の大半をすごしました。

 朝鮮語はまた、日本人にとっても在日にとっても重要な言葉です。わたしはこんなに楽しくてやさしくて、そして重要な言葉は他には、ほとんど見られないと思っています。

 それで今からその楽しさと重要さについて、少しづつお話したいと思います。文字も何も知らない人を対象に、やさしく話したいと思います。やさしいといっても程度が低いということではありません。どの本や辞典にも書いていないことを話すこともあります。
                       (2002.9.26)

シリーズ
朝鮮語のはなし(2)

 近頃、朝鮮語を学ぶ人が増えました。近頃と言っても、ここ5,6年です。
 私は、カルチャ・センターでも教えていますが、最初の時間に、なぜ、朝鮮語を始めましたか、と動機を書いてもらいます。『朝鮮語は、日本語とよく似ていて、文法がやさしいからです』と言う答えがよくあります。ところが、学習し始めると3ケ月、6ケ月で辞める人が多いのです。辞める人には文字が難しいという人が多くいます。

 ハングルは、15世紀に言語学的に作られた人造文字(人工的に作られた文字)で立派な文字だと言われています。それが難しいのは、マル(○)やシカク(□)、曲がった釘(L)のような文字が複雑に組み合わさって、とても理解できないと思われるようです。ハングルは基本的には24文字で、英語の26文字(ローマ字)に近いのですが、man(人)と言ったように並べるだけでなく、と言うように組み合わせをします。それでハングルは一字で一音素を表す単音文字であって、組み合わされると一字で一音節を表す音節文字であるとも言われています。

 24の文字が組み合わされると2千数百になります。当用漢字の1850よりもっと多くなるわけです。

 「海」と言う漢字はシと├─と母と三つの部分からできています。ハングルでも(・柿)はフとトと□の三つからなっています。「シ(サンズイ)」は(水)の意で、「ト」は(草木の芽の伸び出た形)の意で、「母」は(母)の意です。これに対して の「フ」「ト」「□」には何の意味もありません。漢字とハングルのこの違いは、このような場合ハングルは単調で機械的で特徴がなく捕らえにくい、という印象を与えるのかも知れません。

 三好達治(1900〜1964)の詩に、

  海よ、僕らの使ふ文字では、
  お前の中に母がゐる。
  そして母よ、仏蘭西人の言葉では、
  あなたの中に海がある。


 フランス語では母はmre、海はmerです。
 この詩を読んだのが先か、ハングルを学んだのが先かわかりません。ずっと昔から、ハングルを使ってこのような詩を作れないか、と試みたことがありました。
                   (2002.10.16)

シリーズ
朝鮮語のはなし(3)

 
2回で三好達治の詩がでてきました。そこでみなさんは、お気づきになりましたか?

    母がゐる。
という言葉と
    海がある。
という言葉がありました。

 日本語では、存在を表す動詞(存在詞)の「ある」と「ゐる」とが、存在を表すものが、無生物であるか、生物であるかによって使い分けられています。

 服部四郎氏(元東大教授)はこの使い分けは、他の言葉に見られず、これは日本語の特徴であると述べられておられます。
 朝鮮語ではどうでしょうか?
朝鮮語でもこの両者は区別しません。両方とも
です。


このように朝鮮語にも「ある」と「ゐる」の区別がありません。


しかし敬語の形をみてみましょう。
 
先生さまが いらっしゃる



先生さまは 家がおありである

という風に、敬語では、kjesita issωsita と使い分けます。
日本語と朝鮮語とは、たいへんよく似ています。そこが朝鮮語を学習するときの魅力です。しかし、だんだんと上級に学んでいくと、小さな小さな微妙な点で、日本語と朝鮮語が大きく掛け離れているのに気付くことがあります。そんなことに気付く時に、言葉というものは不思議なものだと心打たれます。それがまた朝鮮語を学ぶ大きな魅力だと思います。

                                 (2002.10.25)
シリーズ
朝鮮語のはなし(4)

「これからは日本の若い人が
(
ウリマル・韓国語)をしっかりやってください」といわれたことが二回あります。

ひとりは金素雲
(
・キムソウン・190781)先生です。もうひとりは崔鉉培
(

・チェヒョンベ・18941970) 先生です。

1963年に大阪外国語大学に朝鮮語学科が設置されました。

この頃のことは拙著『朝鮮語を考える』(白帝社・2001)にくわしく書いてありますのでやめますが、ある日のこと、研究室に金思Y
(
・キムサヨプ)客員教授といっしょに居ますと金素雲先生から電話がかかってきました。「今、大阪に来ている。これからちょっとそちらに行く」ということでした。金思Y先生にそのことを話すと、急に帰ってしまわれました。

しばらくして金素雲先生があらわれました。半ズボンでスネは丸出し、軽そうな靴をはいておしゃれな帽子が頭にのっていました。先生は、東京の山手の日本語というのでしょうか、たいへん見事な日本語でした。

先生はまず『ユンボギの日記』(19656)の訳がいい、とほめて下さいました。わたしは先生の名訳を読んでいましたので、本当に恐縮致しました。
 しかし勇気を出して「誤訳とか、まずいところがあるでしょうか。教えてください。」とたのみました。

先生はしばらく原著

(チョハヌレドスルプミ・あの空にも悲しみが)を見ないで訳書をあちこちちらちら見ておられましたが、「ここに ・・・が問題だ と訳しているでしょう。これは

(ハングゴ・韓国語)

” (・・・イ ムンジェダ)を訳したのでしょうが、漢字(問題)に引っぱられてはいけません。ここを大和ことばにかえたら日本語の流れがスッキリします」といわれました。わたしは、なるほどとうなずきました。

                                          (2002.11.29)

シリーズ
朝鮮語のはなし(5)

金素雲先生は、よく話されました。流暢な日本語です。流暢というよりもあざやかな日本語といつた方がいいのかも知れません。

「何年前でしたかね」と先生が言われました。
「朝日新聞が、元旦の新聞に志賀直哉先生(1883〜1971)に随筆を依頼しましてネ」
 何の話かと思って先生の顔を見ます。
「志賀先生が、その随筆を
"朝鮮の詩" という題でお書きになりました。」
 そういえば、その文章を読んだ記憶がありました。
 若い人たちのために付け加えると、志賀先生は、『暗夜行路』などの名作があり、その頃、小説の神様といわれていました。

「志賀」先生が "朝鮮の詩" という文章をお書きになったので、朝日新聞が原稿料五万円をもっていきました。ところが、志賀先生がお受けとりになられません。おっしゃるには、この原稿は、金素雲氏の "中央公論" にのった翻訳をもとにして書いた。だから原稿料は金素雲氏に払ってほしい。しかし、五十年前の翻訳だから、その時三十才にしても、今は八十才、健在だろうか」
 ということで、朝日はソウル支局で調べさせたそうです。そうすると金素雲先生は東京に居られることが、わかりました。

 これからが金先生の言いたかったことです。「あの詩を "中央公論" に掲載したのは、十六才の時です。」
 その得意そうなお顔を今も覚えています。「五万円」という数字もよく覚えています。
 というのは、そのすこし前に「金嬉老事件」(1968年)があって、わたしは朝日新聞に文章を書き五千円いただきました。なるほど大作家は若輩の十倍なのだなと思ったのでよく覚えています。

 いま北朝鮮のことでカンカンガクガクです。敗戦後の混乱を思い起こします。いやいや、「敗戦後」はもっときびしく大きかった。もし比較するのなら、「金嬉老事件」なのか、と思ったりもします。
 しかし、これからどうなるかわかりません。
 日・朝・韓の親善。平和を願います。
                                            (2003.2.6)

シリーズ
朝鮮語のはなし
(6)

 金素雲先生の昔話が続きましたので、ここで詩と訳を味わいましょう


のちの日
いや遠き のちの日に
君に逢いなば 「わすれたり」
つれなしと きひ怨じなば
「想いわびてぞわすれたり。」
かさねてきみの咎めなば
「待つよしなくにわすれたり」
きのふも けふも 得わすれず
遠きのちの日 「わすれたり」

       金素雲 訳『朝鮮詩集』(岩波文庫)

 訳詞は、「新体詩」の島崎藤村を思わせるような文体です。
二・三十年前に、この詩を現代語に訳せないか、と思いました。
 (忘れたり)が詩の柱になっているようですので、
まずここから考えてみようと思って、
「あなた、どなた?」「あなた だあれ?」などとして
訳を試みてみましたが、なかなかうまくいきませんでした。

                              (2003.3.25)

朝鮮語のはなし(7)
                   塚本 勲 

 先日、東京で「三上章 生誕百年記念会」と言う会が行われたそうです。
三上章といっても、よく知らない人が多いでしょうが、「象は鼻が長い」
(くろしお出版・1969)という本を書いて、「主語廃止論」をとなえた文法学者です。

 日本語には、確かに、主語はありません。すくなくとも、英語やフランス語等にあるような主語はありません。朝鮮語にも主語はありません。日本語とよく似ています。ふたつの言葉は大変よく似ています。しかし百%同じというわけではありません。やはり別の言葉です。別の言葉はやはり別の言葉です。違うところは違います。今日は「生誕百年を記念して」、両語の「主語廃止論」の相異点について考えてみましょう。

 例えば、

A.京都に行って東京に行った。

という日本語があります。この文には主語はありません。普通に考えると、「私は」という言葉が「ない」というか、「省略されている」ということです。

では、これを朝鮮語でいうと、どうなるでしょうか。



と、ふたつの朝鮮語があります。B.Cともに主語がありません。これも普通にいえば、B.Cともに  
という主語が「ない」あるいは「省略されている」ということです。ここまでは、日本語と同じです。しかし、朝鮮語はやはり別の言語です。異なる形態をもっています。

これは、
こういう形態は日本語にはありません。それではBCとはどう違うか?

考えてみましょう。

 韓国人ネイティブスピーカーによると、

という風に思われる時もあるということです。つまり日本語では「ない」のは「ひとつの主語」ですが、朝鮮語では、「ふたつの主語」があらわれることもあるということです。


(
むかしむかし虎がタバコを吸っていたころ)大阪城の見える追手門中学で大道久先生が図書部をつくられ、木村行男君と知り合いました。その木村君が大阪の山本高校で数学とフランス語を習った三上章さんを紹介してくれました。三上さんは若輩のわたしの朝鮮語・辞典編纂に興味をもたれ、三十才も年上なのに対等で議論して下さいました。媒垣実さんや寺村秀夫さんが加わることもありました。

 ほぼ同じ頃、泉井久之助先生の「言葉の構造」論や阪倉篤義先生の橋本・時枝・山田の文法論、それに菱山忍先生のロシヤ語文法論。ありがたいことでした。先生方はみな亡くなられ、今木村君は健在です。その木村君は、数年前、考古学者の坪井清足先生を紹介してくれました。その坪井先生には幸いなことに「朱雀門」をご案内・解説をいただき、日本語
(民族)と朝鮮語(民族)との茫茫たるふるさとについて話合える好機にめぐまれました。
 
 朝鮮半島問題、風雲急でありますが、時折、茫漠たるバイカル湖の原野をさまようようにしております。
                                           (2003.5.29)

シリーズ
朝鮮語のはなし(8)
                   塚本 勲 

 毎週日曜日の夜は、NHKの「宮本武蔵」を楽しむようにしています。子供の頃に吉川英治氏の「宮本武蔵」10何巻(?)を読み、はじめてそんなに長いものを読んだせいもあって、いまも記憶に残っているのです。
 青年武蔵は、剣を人生の目的とし、求道的な生き方をします。吉川氏の作品ではそうなっています。

 文化は民族により異なります。剣道は伝統的な日本文化です。
ところで韓国の第一線の作家で新聞社の主筆でもあった鮮千輝氏(1922〜86)の作品のなかだったと思いますが、

 韓国では、家の中で刀をふりまわすことは、忌み嫌うことで、たたりを受けるといわれているのだが、それを日本人は「道」とする。という言葉があって、これが胸にドンとぶつかってよく覚えています。じっくりと受けとめて考えてみようと思っているのですが、いまだ考え方がうまくまとまっていません。忙しすぎることもありますが、浅学非才勉強不足もあります。

 なお大野晋氏他編の「岩波・古語辞典」にはカタは片、ナは刃の意朝鮮語nal(刃)
と同源とあります。

 大阪外国語大学朝鮮語研究室編の「朝鮮語大辞典」(角川書店、1986)には金沢庄三郎やS.E.Martinの説が紹介されています。(下巻2341ページ)

 吉川氏のように国民的作家といわれる司馬遼太郎氏は、高句麗壁画の美人図が発見された頃「朝鮮語は重要だ。日本の大学の国語国文科は朝鮮語を必修単位にせよ」と著名な雑誌に書いておられました。「必修単位」というのは、その単位がないと卒業できないということです。「必修単位」にした大学は、どこにもなかったようです。

 朝鮮半島風雲急を告げ、高句麗美人画は、カビ、カビと騒いでいます。「朝鮮語を学び、朝鮮民族と親善を」と口にカビがはえるほどいってきました。ちかごろ、敗戦後のどさくさを想い出します。「一億総ざんげ」という言葉もありました。

 しかし落ち着いて、「日本語と朝鮮語と高句麗語の起源」の研究に取り組んでいます。

                                     (2003.6.28)

シリーズ
朝鮮語のはなし(9)
                   塚本 勲 
 

 前回、司馬遼太郎氏が高句麗美人図発見のころ「朝鮮語を必修単位にせよ」と主張しておられた、と書きました。 わたしは大学では言語学専攻で、そこの「ヒッシュウ」はラテン語かギリシャ語か、どちらかひとつ(四単位)、でなければ卒業させない、というものでありました。やむをえず、親切な友人に教えてもらってラテン語を速習して事なきを得ました。その時にひとつだけ記憶に残ったことがありました。

 それは諺で「山が産気づいて鼠が生まれた」というもので、それは「大山鳴動鼠一匹」と訳されている、というものでありました。
 
先日韓国の新聞を読んでいると、

と書きます。
これを大阪外大編の「朝鮮語大辞典」(角川書店、1986)をみると

 泰山鳴動して鼠一匹、・・・・・・

とありました。



 友人のラテン語の専門家にたずねてみますと、大きな辞典(「ラテン語−英語」の)にはでているそう
です。

 そこで、諸橋(モロハシ)の「漢和大辞典 15(?)」をみますと「泰山」のところにはでていません。それで、しっかりした図書館に出かけて調べてみました。
 結論は、明治時代のラテン語学者が、はじめ「大山・・・・」と訳したのが、当時は漢文の達人が多かったことでもあるので、誰かが、「好字にかえて」つまり「大山(大きな山)」を中国の名山の「泰山」と書きかえたようです。また「大山」と「泰山」が混用される頃もあったそうです。

 なお、「好字にかえる」という日本語は、金沢庄三郎の高句麗の地名研究にでてきます。金沢
(18721967)は有名な「日韓両国語同系論」(1910)や「日鮮同祖論」を表したが、植民地支配のカイジュウ(懐柔)策と批判を受けています。「同系論」はアストン(1841〜1911、イギリス人)の研究を発展させたもので、言語的には評価されます。

 念のため付け加えますと、高句麗の地名研究は

の読んだ内藤湖南
(18661934、朝日新聞記者から京大東洋史教授)が気付き広辞苑の新村出(18761967)が論文を発表したものです(1916)今では韓国の李基文氏などが研究の中心になっています。

追記

 英語やフランス語でこの諺を調べますと、ほぼラテン語の直訳になっていました。

                                          (2003.7.26)


シリーズ
朝鮮語のはなし(10)

 十日ほど前にソウルへ行って、「日本語と朝鮮語の起源」というお話をして来ました。

一番前に代表的な学者がすわっておられたので、なかなか話しにくいことでありました。

「日本語の起源」の問題とともに、日本の言語学が発達した、といわれるように、
この問題は古くから、学者の関心の的でありました。
 
 日本語と朝鮮語の起源について、最初にとりあげたのは、新井白石(1657〜1725)です。
白石は朱子学者であり政治学者でもあり、朝鮮使節の待遇改革もしました。
白石は『東雅』を表し、日本語と朝鮮語の関係について述べました。

 大阪外国語大学朝鮮語研究室編『朝鮮語大辞典』


[語源]

1)  新井白石
海ウミ ワタの義は不詳。海をワタと云うは、韓地の方言と見えけり。日本紀に海をホタイといふは、百済の方言なり、今も朝鮮の俗パダヒといふなり、井(とも)にこれワタの転語なり。秦姓をハタというも此義なるべし。
(略)『東雅』1719.

2) 金沢庄三郎
……韓語pata(海)は国語にてはωata或はωadaとなり……。『日韓両国語同系論』1910.

3) 
大槻文彦
わた(名)渡ル意ト云フ、百済語、ホタイ、朝鮮語、パタ『大言海』1937.

4) 大野晋
pata《海》
ωata『日本語の起源』1957.

5) 村山七郎(略)

6)G.J.Ramstedt(略)

7)S.E.Martin(略)

 明治維新の頃から、ヨーロッパの言語学が来日することとなり、
W.G.Aston(英国外交官.1841〜1911.)のA Comparative Study of the Japanese and Korean Language.(1879.「日本語と朝鮮語の比較研究」)がでます。これは従来の研究に比べて格段に秀でたものでした。


1) 音韻体系.  2)文法の機能.  3)文法的手順の特質 のみっつに分けて論じています。

 次に金沢庄三郎(1872〜1967)の『日韓両国語同系論』(1910)がでます。これは英訳が付されていたこともあり、大きな反響を呼びます。
 次に大野晋教授の『日本語の起源』(1957)がでました。大野氏は言語学に隣接諸学問(考古学・人類学など)を合わせ論じられました。

 これらの研究に対して、泉井久乃助、服部四郎氏らの批判があって、問題は未だ解決していません。

 これらの研究は、韓国北朝鮮でも行われて来ました。

 わたしの記憶では、一番古いのは李崇寧氏(1908〜1994)で、日朝両語の「糞尿語」について論じたものです。その論文は、1960年頃のもので注記があって、「このようなことを論じるのは、韓日同源論ではない」と書かれていました。これは金沢氏<日鮮同祖論>への批判が韓国であってそれに対する配慮として書かれたものだと思って読みました。

 北朝鮮のものはふたつ読んだ記憶があります。1960年ごろ
その中で読んだのですが、どちらも日本でいう民間言語学だったと思います。
 この雑誌は創刊号から保存しておいたのですが、1977年「猪飼野朝鮮図書資料室」に移し公開したところが、ほとんど無くなってしまいました。おしいことをしたと思っています。


という専門雑誌がありました。

 日本語と朝鮮語の系統については、
アストン-金沢-大野という流れがあり、泉井久乃助先生の 
日本語-南島語(マライポリネシア語)-ウラル語という研究があり、
服部四郎氏の 日本語-朝鮮語-アルタイ諸言語という研究がありました。

 これらとは別に「日本語と高麗語との数詞が類似する」という研究がありました。
これは1907年に内藤湖南教授(京大 東洋史)が比叡山の上での朝日新聞講演会で行ったのが最初でした。
 その内藤氏の考えを1916年新村出教授が論文にまとめました。

 その後韓国の李基文教授(ソウル大)が村山七郎教授(アルタイ言語学)にその話を伝え、1960年代のはじめごろ数詞以外の高句麗語の研究も両者によって進められました。
 金芳漢教授(ソウル大 言語学)も独自の研究の開拓を始めました。

 不肖わたくしは「村山七郎論文」(『国語学48』『朝鮮語学報26』)を読んで
胸を高まらせ、この研究をしたい、と思っておりましたが、その頃、朝鮮語の基礎づくりで精いっぱいでありました。

1959年からの北朝鮮への「帰国船」「日本人妻」「60年安保」……
……『ユンボギの日記』「金芝河」……
……『朝鮮語大辞典』「猪飼野朝鮮図書資料室」……
光陰矢の如く1993年

「高句麗・新羅・百済語の数詞と日本語」
(『日本人と日本文化の形成』埴原和郎編 朝倉書店)
を書いて、「高句麗語」を「三国史記地名語」と記しました。

 読者には申しわけありませんが、紙幅が尽きましたので、この後は別の稿とさせていただきます。

                           (2003.12.4)

シリーズ
朝鮮語のはなし(11)                   

 読者に申しわけありませんが、と原稿 (朝鮮語のはなし-10-) が終わってから、もう2ケ月たちました。本当に申しわけがありません。今日は2004年2月27日です。
  その間、決して怠けていたわけではありません。小さな「朝鮮語辞典」をつくる仕事をしたり、「日本語と朝鮮語の起源」という本を書いたりしました。
  この本は93年の拙論と、雑誌『日本語学』(明治書院)に掲載した「日本語の系統1〜10」(1998年7月号から1999年4月号)という拙文を合わせ、それに韓国の研究を勉強して書いたものです。
  この本の「近刊案内」(白帝社 2003年10月)がでておりますので、それを写させていただきます。

  日本語と朝鮮語の起源論は、新井白石の「東雅」からはじまり、ヨーロッパの言語学の来日によって、アストン(1879)、金沢庄三郎(1910)、大野晋(1957)と発展したが、泉井久之助、服部四郎らの批判により未だ解決していない。
  著者は韓国の金芳漢、李基文らの業績を引用しながら、日朝2言制であった従来の研究に、「高句麗語」、ニブヒ(ギリヤーク)語なども合わせ考論し、壁に突き当たった研究を打開しようと試みている。

  故 金芳漢 教授(元ソウル大、元韓国言語学会会長)と 李基文 教授(元ソウル大、元韓国国語学会会長)とが意見が異なります。李教授や日本の故村山七郎教授は、「高句麗語」を当然のこととして論考していますが、金教授はこれを「原始韓半島語」であると主張されました。93年の拙論では次のようにあります。

  『三國史記地理史』(1215)より浮かびあがってくる単語→言語を、かりに「三國史記地名語」と呼ぶことにする。高句麗・新羅・百済の三國の各地域にまたがっているものとして、とらえたい、地図に見られるように。

  「高句麗語」か、「原始韓半島語」か、「三國史記地名語」か、頭がクラクラします。
  それで、おとつい明日香にでかけ、高句麗の美人達に会ってきました。何も語ってくれません。あたり前のことです。
  それから、聖徳太子生誕の橘寺に出かけ、ローソクを2本そなえて、父母への不孝を詫びました。
  思いついて、もう1本ローソクをそなえて、

  神さま、仏さま、○○先生さま、いい知恵をお与え下さい。

  川原寺の前でアンパンを食べていると、春うららかで、のんびりした風景でありました。六者会談とか、中国と韓国とが高句麗をめぐって争っているとか、夢のようでありました。

                                  (2004.2.27)


シリーズ
朝鮮語のはなし (12)        塚本 勲 

あついあつい夏で、バテ気味であります。
そこへ、

火花 - 鮮干W翻訳集』  (白帝社・1,600円 <税込み 1,680 円>)

      

を送っていただきました。何年も前から、この本のことを聞いていましたので、ハット目がさめたようになりました。
 そして何気なく「統一日報」を広げていますと、「新刊紹介」に次のようにありました。

新刊紹介『火花 - 鮮干W翻訳集』

 声高にイデオロギーを叫ぶのではなく、冷徹かつ暖かな視線で朝鮮民族を描いた韓国を代表する作家・鮮干W氏の作品。韓日併合から朝鮮戦争に至る朝鮮半島の過酷な時代を誠実に生きた市井の人々を描いている。
 韓国・北朝鮮に注目の集まる昨今、目前で起きている大きな出来事のみならず、これまでの課程で朝鮮半島に生きた普通の人々がどのように感じ、生きてきたのかを語っている。

    鮮干W著 白帝社 出版 定価 1,600円


                      2004.7.7  統一日報

 この「紹介」は、なかなか要を得たもので、ここにつけ加えることはありません。

 先ほどもテレビを見ているとSさんが、インドネシアに出かけたという飛行機を見ました。

 このところ、確かに目がまわるように世の中が激しく動いています。多分日本が戦争に負けた59年前から、最大の動揺の時でありましょう。
 あの日も暑い日だったと思います。祖父や祖母の姿を想いおこします。
 三月には大阪が真赤に焼かれ三万人の人が殺戮されたのを羽曳野から見ていました。燃え上がる赤い大空は京都からも見えたそうです。それから広島、長崎、敗戦。 敗戦という言葉はいつのまにか終戦とかわっていました。

 それから59年。 59年といっても去ってみれば一瞬であります。
ながい、ながい。そして一瞬であります。

 なんとか戦争反対、差別反対でやってまいりました。

 この世が平和でありますように。

 日・韓・朝が親善・平和でありますように。

                      (2004.7.8)


シリーズ
朝鮮語のはなし (13)           塚本 勲

 この「朝鮮語のはなし」の「10」「11」で日本語の系統と高句麗語についてふれました。

 今日は、「高句麗語」について述べてみたいと思います。「高句麗語」と「 」をしたのは、わたしはそれは高句麗語というのは適切でないと思っているからです。そのことは、またあとでふれます。
 雑誌『国語学48』(1961年 国語學会編輯)に村山七郎氏が「日本語及び高句麗語の数詞-日本語系統問題に寄せて-」という論文を発表しています。すこしながくなりますが、その論文から引用してみます。

 数詞の考察が言語系統問題の研究において大切であることは、一般に比較言語学研究書に述べられているから、ここにはそれにふれない。ところで日本語の数詞についての、内・外の学者のこれまでの研究のうちで、もっともすぐれているのは新村出氏の論文「国語及び朝鮮語の数詞について」(1916)であることは万人のみとめるところであろう。これは、あとで見るように、3、5、7、10を表わす高句麗語の形が日本語のそれにきわめて近いことを指摘したものである。(略)

 村山氏はこのあとで、籏田巍(タカシ)氏『朝鮮史』から「高句麗族」をまとめて解説しています。そうして、最近亡くなられた金田一春彦氏の著書を引用して次のように書いています。

 金田一春彦氏はその著「日本語」(1957)のなかで、「新村出博士は、昔の朝鮮に行われていた言語の中には、日本語に近いものがあったのではないかと言って注目を引いた。これは朝鮮の『三国史記』の「地理志」に出ている数詞を含んだ地名の考察である、が、語例が少ないためにどうとも言えなかった。」と述べておられる。これは(中略)、誤解をひきおこすおそれのあることばであると言わねばならない。なぜなら、この文を読むと、あたかも三国史記(西暦 一一四五年。しかしその資料はそれよりはるかに古い時代にさかのぼる)の高句麗地名において、日本語との比較研究に利用しうる言語資料が少ししかふくまれていないかのような印象がうけとられるから。「語例が少ない」というのは実は新村論文中にあげられている語例が少ないということにすぎないのであって、三国史記地理地理志に語例が少ないわけで決してない。
 
 それから李基文氏、村山氏、そして金芳漢氏たちの研究がはじまります。

            

 それでここでは 数詞以外の高句麗で日本語と朝鮮語と類似する単語をいくつかあげてみることにする。

 ニブヒ語(ギリヤーク語)という言葉があり、間宮海峡をはさんで、「アムール・ニブヒ語」と「サハリン・ニブヒ語」に分かれます。ニブヒ語も合せ考えて見ましょう。

日本語 朝鮮語 「高句麗語」 ニブヒ語












* アイヌ語で、
「兎」はoske
借用との説もある。


* 松本克己氏の「環日本海」という言葉を思い出す。
kuma
kom
komok
〔功木〕

(金芳漢)
mok
(高橋盛孝)
namari
nap

(白鳥庫吉)
namul
〔乃勿〕

(李基文)
nengal
usagi

ωusiga
(ミラー)
thokki
ωusigam
〔烏斯含〕
(村山)
osk
(高橋)
ωata

(新井白石)
badal
baral
(李基文)
patan
〔波且〕
ftok
(金芳漢)

 注記 @ 〔 〕は「三国史記」の原文
    A ( ) はその人の表記


 この夏は、ことのほか暑く夏バテですので、このくらいでやめます。

                      (2004.8.25)



シリーズ
朝鮮語のはなし (14)           塚本 勲 

今年もおしせまって1218日になりました。これからは飲むことも多いでしょう。今日はお酒の話をしましょう。


では朝・日辞典ではどうでしょうか。

素雲 氏の『精解・韓日辞典』(1996)

ほろよいきげんである、かなり酔っている

ほどよい酔い心地である

大阪外大朝鮮語研究室編『朝鮮語大辞典』(1986 3)

(ほろ酔い加減と泥酔の間)

酔いが回っている、ほろ酔い機嫌を少し越えている

小学館・韓国 金星出版社『朝鮮語辞典』(1993)

ほろよい機嫌だ、一杯機嫌だ

小学館『ポケットプログレッシブ韓日・日韓辞典』(2004)

ほろよい機嫌だ

このようなことを何日か調べてみました。

だいたい日本語の「ほろよい(機嫌)」というのがどのような意味、状態を指すのか、いろいろな文献・人物に当たっていても、すこしずつ差があって、むつかしいものです。朝鮮語の方も同様です。いちどゆっくりと時間をかけて調べてみたいとおもっています。

 江戸時代の英語学者が誤訳して切腹した、という話をテレビ「忠臣蔵」を楽しんでいて思い起こしました。それでこんなことを書いてみました。

なお大阪外大の『朝鮮語大辞典』は10年ほど前から日本の書店からは姿を消しました。


                      (2004.12.18)



シリーズ
朝鮮語のはなし (15)           塚本 勲


 

( いまも忘れないのは

いまも忘れないのは
霧の中に帆をあげていった舟

風もない朝の波間に
音もなく行った舟

舟も行き歳月も行ったが
霧のような幼い夢は

あの日の帆をあげて行った舟のように
霧のなかに消えて帰らない舟のように )


なんとなく思いだすままに、三好達治氏の詩をひとつ。

  わが名をよびて

わが名をよびてたまわれ
いとけなき日のよび名もて
わが名をよびてたまわれ

あわれ
いまひとたび
わがいとけなき日の名を
よびてたまわれ

風の吹く日のとおくより
わが名をよびてたまわれ

庭のかたへに茶の花のさきのこる日の
ちらちらと雪のふる日のとおくより
わが名をよびてたまわれ

よびてたまわれ
わが名をよびてたまわれ


もう一句、思い出しました。

うどん供えて
母よ
わたしもいただきまする

       山頭火
                      (2005.1.13)



シリーズ
朝鮮語のはなし (16)          塚本 勲

          
 
 うまい具合に 金 素雲(1907〜1981年) 氏の訳がありました。
『朝鮮詩集』(大阪、昭和28年)という本で島崎 藤村(1872〜1943年) の
「序の言葉」が巻頭にあります。


        芭蕉
               金 素雲 訳

   祖国を離るいくとせ
   芭蕉のゆめあはれ。

   南國へ向けし郷愁 火と燃えて
   爾が魂は修道女のごと病めるかな。

   夕立を戀ふる爾 情熱のをみな子よ
   泉汲みてぞ爾が足に濺がなむ。

   夜寒し、
   が枕邊に爾を置かばや。

   われまこと 爾がために跪く僕とならむ
   爾が垂れし裳もて われらが冬を蔽ふべし


 藤村といえば、有名なこの詩があります。


    椰子の実

   名も知らぬ遠き島より
   流れ寄る椰子の実ひとつ

   故郷の岸をはなれて
   汝(なれ)はそも波に幾月

   旧(もと)の樹は生いや茂れる
   枝はなほ影をやなせる

   われもまた渚を枕
   孤身(ひとりみ)の浮き寝の旅ぞ

   実をとりて胸にあつれば
   新(あらた)なり流離の憂(うれい)

   海の日の沈むを見れば
   激(だぎ)り落つ異郷の涙


 民俗学者の 柳田 國男(1875〜1962年)は、岬(愛知県伊良湖岬)に流れついた椰子の実から日本(人、文化)のふるさとに思いをはせました。
それを耳にした藤村はこの詩を生み出したそうです。

 この詩を学び、その解説を聞いたのは高校生のころです。

 日本語が南方から来たというのは『広辞苑』の新村 出 氏の説であったようです。その南方語に北方(朝鮮半島)からの言葉がおおいかぶさったという説もあります。

 椰子の実は何千年、何万年前の話か知りません。それを語られた先生も今はなく、茫茫50数年たちました。お隣は朝鮮戦争(1950〜1953年)で、日本は特需景気でわきたっている頃でした。
                      (2005.3.22)

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朝 鮮 語 の は な し
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