旭川学力テスト事件

以下は、「基本法コンメンタール 教育関係法」(日本評論社)により作成

●教育基本法 10条

第十条 (教育行政)  教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
○2  教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

・「教育と教育行政を分離し、教育行政の教育(内容・方法)へ介入・支配を禁ずることが1項『不当な支配』の主たる意味だった。」
 「しかし、その後の与党・政府・文部省の教育、学校、教師への統制政策の展開にあわせて、『支配の手続きが法律で認められた合法的なものであれば、・・・内容の正当性を推定せしめ不当な支配とはならない。』・・・とする解釈が文部省筋から展開された。」

・「(教育基本法10条) 本条をめぐり、1955年前後から今日まで、文部省と教育運動、教育法学会の通説との間には厳しい対立が続いてきた。それは教育内容の決定権限の所在をめぐる『国の教育権』と『国民・教師の教育権と教育の自由』の対立であった。」

・「対立の意味は、両説を折衷する立場をとった学力テスト最高裁判決(1976・5・21)を画期として転換したと解されるようになってきている。憲法学会においても『国民の教育権』と『国家の教育権』の二者択一を疑問とし、あるいは、教師、親、国などの諸主体の教育権の範囲を確定しようとする最高裁流のアプローチを支持する学説が有力になりつつある」

●学力テスト最高裁判決(1976・5・21)

*2つの対立する見解
・最高裁:「子どもの教育の内容を決定する権能がだれに帰属するとされているかについては、2つの極端に対立する見解がある」、
 「国の教育権」と「国民の教育権・教師の教育の自由」の2つの対立する見解は、「いずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできない」

*子どもの学習権
・憲法26条に基づき、国民各自が、自己の人格を完成・実現するために必要な学習をする固有な権利を有すること、「子どもの教育は、教育を施すものの支配的権能ではなく、子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとした。」

・「子どもの学習権の明確化は最高裁の判決として画期的であると評されている。」

*「教師の教育の自由」

・「『教師は、教授の自由を有し、公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるという見解も、採用することはできない』とした。」
 
 理由
 普通教育においては、児童生徒には大学生のような教授内容を批判する能力が無く、教師が子どもに対して強い影響力、支配力を有し、また、子どもの側に、学校や教師を選択する余地も乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定水準を確保すべき強い要請がある。

・「判決は『教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子供の間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない』という憲法解釈を示した」。

 最高裁のはじめての判断として注目され、国家の教育権に歯止めをかける論拠として今後発展させるべき解釈であるが、この部分だけを取り出して、最高裁によって教師の教育の自由・教育権が認められたとすることには無理がある。

*限定的な国の教育内容決定権能

・最高裁:「国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく・・・必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」

・「ここでも最高裁判決はそこ(『国家の教育権』)にいくつかの制限を付している。一つは、教育内容に対する党派的政治的観念や利害による国家的介入についえてはできるだけ抑制的であること。もう一つは、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、たとえば誤った知識や一方的観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことは憲法26条、14条からも許されないとした。」
 
・「ここまでの最高裁の解釈の特徴は、憲法上、国の教育内容決定権能を相当の限定をつけながら認めたということである。
  問題は『子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能』の範囲と方法ということになる。そこで『教育基本法10条の解釈』が登場する」

●教育基本法 10条に関する判決の法理

*基本理念

・「次のような解釈を示している」
 戦後の我が国の諸改革中、最も重要な問題の一つとされていた教育の根本改革を目途として制定された諸立法の中で中心的地位を占める法律。
 教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定がない限り、できるだけ教育基本法の規定および同法の趣旨、目的にそうように考慮が払われなければならない。

・「基本理念は『戦前の我が国の教育が、国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は、極端な国家主義的傾向を帯びる面があったことに対する反省によるものであり、右の理念は、これを更に具体化した同法の各規定を解釈するにあたっても、強く念頭に置かれるべきものである。』」

*10条をめぐる2つの論点 

・「顕著な対立点」の要点

@「教育行政機関が法令に基づいて行政を行う場合は右教育基本法10条にいう『不当な支配』に含まれないと解すべきかどうか」

A「二項にいう教育の目的の遂行に『必要な諸条件の整備確立』とは、主として教育施設の整備管理、教員配置等のいわゆる教育の外的事項に関するものを指し、教育課程、教育方法等のいわゆる内的事項については、教育行政機関の権限は原則としてごく大綱的な基準の設定に限られ、その余は指導、助言的作用にとどめられべきものかどうかである」

・@についての判決

「『不当な支配』とは、教育が国民の信託にこたえて自主的に行われることをゆがめるような支配を指すとし、結論的には、国側の主張を否定し、『法令に基づく教育行政機関の行為にも適用がある』とした」。

・Aについての判決

 『教育基本法10条は、国の教育内容統制機能を前提としつつ、教育行政の目的を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き、その整備確立のための措置を講ずるにあたっては、教育の自主的尊重の見地から、これに対する『不当な支配』となることがないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがって、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは、たとえ教育の内容及び方法に関するものであっても、必ずしも同条の禁止するところではないと解するのが、相当である。』

・『大綱的基準』

「原判決のいう『大綱的基準』とは、教育課程の構成要素、教科名、授業時数等のほか、教科内容、教育方法については、性質上全国的画一性を要する度合いが強く、指導助言行政その他国家的立法以外の手段ではまかないきれない、ごく大綱的な事項を指しているものと解したうえで、原判決の大綱的基準の範囲に関する見解は狭きに失し採用できないとした。」

・学習指導要領

1 文部大臣は、学校教育法38条・106条による中学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、中学校における教育の内容および方法につき、教育の機会均等等の確保等の目的のために必要かつ合理的な基準を設定することができると解すべきところ

2 学習指導要領の内容は、おおむね中学校において地域差、学校差をこえて全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしているとみとめられる。

3 指導要領は必要かつ合理的な基準の設定として是認することができるものと解するのが相当である。

 「判決は、学習指導要領の中には、『必ずしも法的拘束力をもって地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそのように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものも幾分含まれている』という疑問を提示している。・・・・(しかし、)・・・『全体としては法的拘束力をもって地方公共団体を制約し、教師を強制する』全国的な大綱基準であると判示したと解するのが自然であろう」


以下は、 「衆議院憲法調査会事務局:基本的人権の保障に関する調査小委員会作成資料」 による

(最大判昭和51 年5 月21 日判例時報814 号33 頁)

※ 1961 年、文部省(当時)の実施した全国の中学2,3 年生を対象とする全国一斉学力テストに反対する教師が、学力テストの実施を阻止しようとして公務執行妨害罪等で起訴され、裁判の過程で、文部省による学力テストの実施が教育基本法10 条等に反し違法ではないかが問題となった事件。

 教育権の所在について、国家教育権説も国民教育権説も「極端かつ一方的」であるとして否定し、結論としては、教育内容について、「必要かつ相当と認められる範囲において」決定するという、広汎な国の介入権を肯定し、学力テストを適法とした。

 「わが国の法制上子どもの教育の内容を決定する権能が誰に帰属するとされているかについては、二つの極端に対立する見解があ」るが、それらは「いずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできない」。

 憲法26 条の「規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己の施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる」。しかし、このことから、教育内容決定権の帰属をめぐる問題についての一定の結論は、当然には導き出されない。

 「憲法の次元における……(教育内容決定権帰属の)問題の解釈としては……(子どもの教育に関心を持つ)関係者らのそれぞれの主張によって立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである。」

 「まず親は、……子女の教育の自由を有すると認められるが、……(それは)主として家庭教育等学校以外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や……教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当である」。

 「それ以外の領域においては、……国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」。

 「もとより、……教育に……政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する……国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、……子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26 条、13 条の規定上からも許されない」。