中央教育審議会:基本問題部会での「愛国心」「国を愛する心」論議 → index
このページ掲載分 2003年2月〜2003年3月(最終答申)
基本問題部会:25回:2003年2月10日
基本問題部会:28回:2003年3月 3日
総会:29回 2003年3月10日
総会:30回:2003年3月20日
事務局発言は、これまでの議論の報告。
基本問題部会:25回:2003年2月10日
前文をどうするかの論議
○ 事務局 ・・・
最初は資料2でございますが、先ほど総会でも御紹介をさせていただきましたが、中間報告で主要な検討事項とさせていただいております課題を枠で囲んで、5項目に整理させていただきました。
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5ページ目は、教育の基本理念のうちの「社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自律心」につきましては、例えば積極的な意見としては、一番上で「個人の権利を大事にすることは大事だが、同時に、義務と責任をしっかり培うことを明文化すべき」という御意見、あるいは真ん中のあたりでは「個々人が、国家のみならずいろいろな意味での公を担うような社会にすべきであり、基本法にその趣旨が書かれるのは賛成」という御意見、また、右側の二つ目のところでは「公共の精神、道徳心、規範意識、郷土・国を愛する心等は、一人一人を大切にするよりも、個人が公共に仕える感じを与える」という御意見、それから「抽象的、内面的価値観に触れるべきではない」という御意見などを整理させていただきました。
6ページ目が、「日本人としてのアイデンティティ(伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心)と、国際性」という理念につきましては、ここも多くの意見をいただいたところでございます。
左側のところの4番目ですと、「伝統・文化の尊重を含め、日本のアイデンティティは重要。グローバル化の中、日本とは何かについて説明できないと国際的コミュニケーションもとれない」、あるいは伝統、文化の尊重の一番上のところでは、「日本国民として共有する伝統・文化・歴史等を学び、理解を深め、その上で他国の伝統・文化を理解し、互いに尊重し合うことのできる資質や姿勢の育成が必要」、右側の消極的な意見としては、全体的なものとして、四つ目の「○」を御紹介させていただきますと、「日本人としてのアイデンティティ、日本人の育成で教育基本法をくくってしまうのは問題。伝統・文化を共有しない人もいるし、伝統には全肯定できないものもある」という御意見、あるいは伝統、文化の尊重のところでは、「行政権力によって強制されるものではない」、あるいは一番下の行では「これ以上歴史や伝統を教える余裕はない」という御意見もございました。
7ページ目には、郷土や国を愛する心につきまして、積極的な御意見の欄のところでは、「家庭を愛する心、地域を愛する心、国を愛する心をはぐくむ教育が必要であり、基本法に理念として盛り込むべき」、右側の消極的な御意見としては「国を愛する心は重要だが、強制的に植え付けられるものであってはならない。愛国心は、自然に心の中に芽生えてくるもの」という御意見を整理させていただきました。
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○ 梶田委員 いろいろな考え方があるとは思いますが、私はこれまでの論議の中で、今回の基本法の見直しは、いわば一からやるのではなくて、戦後50何年続いてきた基本法を踏まえつつ、しかし、新たな時代の状況の中で、いわば創造的に発展していくことと理解しています。つまり、基本理念は大切にしつつ、戦後の状況の中で見落とされがちであった、しかし今となっては非常に重要になったこと、これは国を愛する心とか、日本人としてのアイデンティティを含めてですが、こういうことを盛り込むという意味での見直しだと理解しております。
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○ 中嶋委員 私もどちらかというとそういう意見なのですが、つまり、教育基本法をここまでいろいろ審議しているということは、現行の教育基本法を何らかの意味で改正するというある種のモチベーションがなければ、何のためにこの委員会がつくられたかわからないわけです。そうしますと、現行の教育基本法を改正するというところで、そのモチベーションは何かというところについて、皆さんの合意がある必要ではないかと思います。
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やはり国際社会に発信する時代ですから、国際的な通用性と文部科学省は盛んに言っている、そういう次元で我々の教育基本法も見ていくべきだと思います。そうすると、国内にいろいろ議論があるから、「愛国心」という言葉を、仮に「国を愛する心」と言い換えたとしても、ではこれを英訳する場合に何と言うか。「国を愛する」というときに、「ラブ」という言葉を使うのか。英訳すると、ちゃんと「パトリオティズム」という言葉があるのです。それから、カールトン・ヘイズが1926年に書いた『エッセイズ・オン・ナショナリズム』に「パトリオティズム」という言葉が出てきています。それが1926年です。だけど、それがなぜ我々にとって感情的な、あるいは価値観を伴うかというと、そこに民主主義も、個人主義もない、戦前の時代があったから、すぐそれに復帰するという議論があるけれども、全くその議論はナンセンスで、その議論のほうがアナクロニスティックだと思うのは、現在の我々の環境は民主主義も、個人主義も、それが本物か偽物かは別にして保障されている社会制度の中で、そういう全く違う時代環境の中では、あえて「国を愛する心」と言ってみても、これは何か欺瞞的な気がするのです。
そうすると、前文の中でそういうことをきちんと書いておけば、私がすぐ「愛国心」を使えと言っているわけではないのですが、仮に「国を愛する心」といっても、外国の人は「パトリオティズム」というきちんとした言葉がありますので、そういうような国際的通用性からすると、当然、そういう形になる。そうしますと、その前文において、我々か仮に「愛国心」と使ったとしても、それは民主主義と本当の意味の個人主義と、それから国際的貢献とか、国際社会の中で、そういう枠組みの中で使っているということがはっきりするわけです。そういう意味からすると、前文は必要ではないかと思うのです。ちょっと長くなりましたけれども。
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○ 中嶋委員
いつも思うのですが、国際社会の中へ出ていけば、先ほど江崎さんの例が出たように、〈ああ、やっぱり日本人だな〉と。〈漬物が食べたいな〉とか、日の丸を見るとさわやかになる、これはまさにアイデンティティなのです。その場合に、日本人としての教育とか、よくそういうことが言われるのですが、その場合の日本人というのは、エスニックに見たり、ルーツからすれば、いわば後から入ってきた人たちも含めたそういう人たちが日本社会を今後構成していく。外国人労働力も必要に応じてはたくさん入ってくるでしょうし、その辺の議論がもう一つ残ると思います。
それとの関連で言うと、例の「愛国心」という言葉も、これはこの間もちょっと申し上げましたが、「愛国心」という言葉のほうがタブーなのです。感情的価値を伴う概念ですから、それを入れると、ある人はいわば「日の丸」「忠君愛国」を思うでしょうし、ある人は戦前の日本の外国侵略などを思って、いろいろ抵抗があったり、あるいは共感が強過ぎたりするから、我々は「愛国心」という言葉を避けて、「国を愛する心」と言い換えたのですよね。しかし、これを英語に翻訳するときに何て翻訳するのか。
この間もちょっと申し上げましたけれども、コロンビア大学のカールトン・ヘーズ(Carlton Hayes )が、「愛国心」とか、「ナショナリズム」についての古典である『エッセイズ・オン・ナショナリズム(Essays on nationalism )』を書いていますが、その中には、郷土を愛する気持ちが愛国心の最も健全な発露であるということがあります。私ども学生のころだいぶ読んだ本ですが、最近も読み返してみました。それは主語が「パトリオティズム(patriotism)」なのです。その説明として「郷土を愛すること(love of the natal land)」で、「love」という言葉が使ってありまして、「郷土」は「the natal land」、自分が生れ育った山の景色とか、小川の風景とか、そういうものを言っているのです。これは1926年ぐらいの初版ですから、戦前のファシズムの時代の前に、ナショナリズムや愛国心について論じたものなのです。ですから、戦時中の我々よりもっと前です。しかし、そこでもやはり主語は「パトリオティズム」なのです。そうすると、それを避けた場合に、国際的通用性ということからして、英語ではこれを何と訳すか難しい。
「愛国心」と言っても、そこにデモクラシーと、言ってみれば個人、まさに教育基本法で個人の尊厳というものがある場合の「パトリオティズム」と、そうでない場合とは全く違うわけで、戦時中はまさにそれでファシズムになっていったわけです。今でも独裁者がいる社会は、中国だって、北朝鮮だって、イラクだって、ものすごく愛国心をあおるではないですか。その愛国心は、我々の言う愛国心とは違って、まさに国家そのものが前面に出てきています。
そうすると、この点については、皆さんも御承知かもしれませんが、いろいろな評価があるにせよ、清水幾太郎さんが昭和25年に『愛国心』という本を岩波新書で書いているのです。当時、だいぶ話題になりました。かなり進歩派の時代の清水さんですが、そのとき清水さんもそれらの問題に触れています。そういう経過を見ると、我々が「愛国心」と書くとすぐマスコミにたたかれるということで遠慮とか、あるいはすぐ戦前の反動的な教育に復帰するのではないかということを懸念するあまり、そこを避けていると思いますが、その辺はどのようにすべきなのか。口先だけで「愛国心」という言葉を避けて、「国を愛する心」と言ったところで、果たしてそれで問題が解決するのかどうか。もうちょっと堂々と日本のこれからの在り方、あるいは民主主義、個人の尊厳を基本法でうたう中で、この「愛国心」を―私はあえて「愛国心」と言わなくてもいいと思うのです。いろいろな配慮があってもいいと思いますが、やはり位置づけると、その辺の本質論もやる必要があるのではないかという気がします。少し長くなって恐縮です。
○ 山本委員 今の点でございますが、「アイデンティティ」という言葉でいろいろなことを言っているのですが、この中身はたぶん三つぐらいに分けられて、それを全部まとめて「アイデンティティ」と言ってしまっていると思います。
その一つは、我々のほうでいくと「信念」または「観念」(belief or idea)の体系の部分と、それから「感情的態度」ですね、「感情」の部分と、それから「価値志向」と「価値観」は違いますが、「価値観」とか「価値志向」と言われる部分、その三つを全部トータルに我々は議論していると思います。確かに日本語にしていかないとわかりにくいので、日本語にしていく場合には、その中で特にここのところを今回は強調してどうしても取り出さなくてはいけないところを議論すればいいのかと思います。
その点が、「伝統、文化の尊重」と「郷土や国を愛する心」というところだと思います。これについても、この中の何を問題にするのかということは議論しておく必要があるように思います。
具体的に申し上げますと、後の問題になりますが、宗教とのかかわりです。教育で取り上げていく場合でも、もし「国を愛する心」と信仰とがぶつかったときにどうするのかという問題があるわけです。そのときに私の考えは、「国を愛する心」とか、「伝統の尊重」という場合には、経験的な世界の話です。経験的な世界と言うと言い方が変ですが、我々のほうですと、例えば宗教とか、イデオロギーとか、社会的な統合を図る考え方というところは、経験的か非経験的かと分けるのです。「経験的」というのは、experience のほうではなくて、empirical science(経験科学)のほうでとらえられる世界ということです。その部分にかかわるところでこれは問題にすべきであって、それを超えたところ、つまり宗教の心へ入ってきますと、これは大変厄介な問題になって、憲法で保障しているところにも触れてくることになるわけです。恐らくこれはこれから先、いろいろなところで、教育基本法改正の議論の中で出てくると思うのです。
教育で取り上げる場合、例えば宗教的な心情とか、そういうものを冒すものではないというあたりの議論をしておかないといけないのではないか。「愛国心」とか、「国を愛する心」というのは、あくまで今申し上げたようなところでの話だということで理解していかないと、これは大変な問題を引き起こすだろうと思っています。
もう少し具体的に言いますと、中間報告では、22ページのところでちゃんと書いてあるのです。何を書いてあるかというと、こういうことが「国家至上主義的な考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない」と書いてあるのです。これはイデオロギーとか、信念または観念の体系だけの話であって、感情的態度のところは触れていないのです。ですけれども、「国を愛する心」というのは教育の中でだんだん取り上げられてきて、例えばですよ、こんなことはないけれども、昔の「軍神」とか、そのようなものが出てきたりして、それに対してユニバーサルな心を持ってよしとする宗教のほうとぶつかってきたらば、これは大変厄介な問題になってくるわけです。したがいまして、そのあたりのところでの検討をやっておく必要があるのだろうというのが1点でございます。
基本問題部会:28回 2003年3月3日
○ 事務局 お手元に配付させていただきました資料1と参考1の二つの資料を御覧いただければと思います。
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4ページ目の「」「」の関係では、有識者の方をはじめ、幅広くヒアリングにおきまして、従前、「」「」にまたがっておりました、伝統、文化を理解・尊重すること、あるいは郷土や国を愛する心などにつきましては、「」の国際性の視点の観点から記述するという形で、「」にも含まれておりました伝統、文化の理解・尊重、あるいは郷土や国を愛するという面は、「」の中で記述するという形で整理してございます。
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○ 中嶋委員 3ページ、4ページ、5ページにかけてのところですが、全体的に大変よくなってはいると思うのですが、これまでの様々な機会での論点として、「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」という、いわば今回の改正の一つの基本的なトーンが出てくるわけです。私もこれ自身は結構なことだと思いますが、いろいろな意見の中に、「たくましい日本人」という日本人像が出てくるわけです。ここは、もちろん「たくましい日本人」が必要なのですが、必ずしも「たくましい」というところだけで21世紀の日本人像を求めていいかどうかということについては、若干気になるところなわけです。それに関連してです。
それを受けるような形で、「」があります。先ほどの「郷土や国を愛し」というような、あるいは「伝統、文化」というところを「」に整理していただいたのは非常にいいと思います。国際社会との関連の中の文脈でそれを入れていただいたのはいいと思います。4ページの「」です。
そこで、3行目は「自国の伝統、文化についての理解を深め、豊かな教養を身に付けるとともに、」、ここは大変結構だと思います。いつも異文化理解のことが出ている。
その次に「諸外国の伝統、文化をも大切にする態度を身に付けることが必要である。」という、この「大切にする」というのが今回の修文でたしか初めて出てきたような気がするのです。自分たちの国の伝統、文化について理解を深める。それが同時に豊かな教養につながるということは、皆さん異存がないと思いますけれども、「諸外国の伝統、文化を大切にする」という言い方がちょっと気になります。
つまり、「諸外国の伝統、文化」というのは、今、例えばイスラム原理主義も一つの伝統、文化でしょうし、いろいろなものがあるわけで、それを「大切にする」と言ってしまうと、自分たちの主体を離れて、同感するとか、共感するということをもっと踏み込んだような表現になりますので、ここはむしろ「尊重する」と。自分たちの国については「理解」で、あるいはここももう1回「理解」でもいいと思いますが、そのほうがいいのではないかと思いました。
それから、その後のところもいろいろ議論になった大事なところだと思いますが、「我が国の伝統、文化を深く理解し尊重する態度は、郷土や国を愛し、誇りに思う心をはぐくむ。」と。私も今まで発言させていただいたように、郷土愛というものは「愛国心(パトリオティズム)」の一番健全な発露であるということを申し上げましたから、表現上、「愛国心」をあえて避けて、「国を愛し」という言葉を使っても、英語あるいは中国語に直せば「愛国心」ではないかと申し上げました。
ただ、ここはかなり議論もあった言葉で、私は前に申し上げましたように、「愛国心」というのは、民主主義や個人主義によって担保されている現在のような場合と、戦時中とは全く違うので、それをあえて怖がる必要はない。つまり、今の我々の時代は戦時中と全く違うわけですから、そういう持論を持っているのですが、文章は割合に素直にきていますから、ここはこれでいいと思うのです。
その次に、「誇りに思う心」となりますね。ちょっと飛躍があるような気がするのです。「誇りに思う」ということを言うよりも、そこはむしろ「日本人であることを誇りに思う」とか、何か入ったほうがいいと思います。
この場合の「日本人」とは何かという議論は、実は今回はしていないわけで、ある意味では「アメリカ人とは何か」という議論につながりますから、そこは全体的に、あえてこの場合、皆さん議論は避けていいと思います。しかし、「アイデンティティ」という言葉を「日本人であること」と置き換えたほうがいいという識者の意見もありましたし、「日本人であること」というのをそこに入れるのは、むしろそのほうが自然ではないか。どこにも「日本人」という言葉が消えてしまっているわけです。
それで最後の5ページのところへいくのですが、ですから、自分たちの主体性については、そこをきちんと胸を張って言ってもいいと思うのですが、さて、では教育基本法全体が、さっき言いましたような「たくましい」とか、「」の最後のところですが、「世界を舞台に活躍し、世界に貢献する教養ある日本人の育成を目指す必要がある。」、これは全くそのとおりで、私自身も近く、国際的に活躍できる人材を養成する新しい大学を立ち上げようかと思って、今、その渦中にあるのです。しかし、教育基本法全体が、世界を舞台に活躍する人材を対象にしているとは必ずしも思いません。私はそれを否定するということではないです。それを人一倍強調したいわけです。今、日本にとって重要なのは、世界を舞台に活躍する人材であり、外国語の運用能力のある人材であり、国際的なマインドを持った人材だと思うのです。そのことを強調することにおいては人後に落ちないつもりでいながらも、教育基本法全体のトーンが、最後の締めくくりとして「世界に活躍する人材」となりますよね。そこは再考の余地があるのではないか。一連の関連の話で恐縮です。
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○ 鳥居部会長 まず確認しておきたいのですが、「第1章」は教育基本法そのものの内容を規定するために書いたものではありませんので、この書き方の「世界を舞台に活躍し」云々というのが、そのまま教育基本法の中に入るとは毛頭言っていないということです。
それから、御指摘の4ページの下から2行目でございますが、「誇りに思う心をはぐくむ」というのは、表現は自動詞、他動詞という考えで読んでいただきたいのですが、これは自動詞の「はぐくむ」なのです。ですから、自動詞であることがよくわかるような表現に置き換えたほうがいいことは、わかります。
もう1回読んでみますと、「我が国の伝統、文化を深く理解し尊重する態度は、」何々をはぐくむ。別の言い方をすると、「我が国の伝統、文化を深く理解し尊重する態度は、郷土や国を愛し、誇りに思う心をひとりでに引き出す」、おっつけてはぐくむつもりは毛頭ないという自動詞なのですが、それがちょっと理解していただきにくいかもしれませんので、後で工夫させていただきたいと思います。よろしゅうございますか。
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○梶田委員
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もう一つ、これは論議があるところだと思いますが、例えば7ページ、基本法に入りまして、理念を書いている「」は、「日本の伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心」があって、「国際社会」なのですね。ところが、4ページのほうの「」は、「国際社会」だけになっているのです。4ページの「」と7ページは平仄を合わせておいたほうがいいだろう。
したがって、「日本の伝統、文化を理解」でもいいし、「尊重し」でもいいですね。それが入って、「国際社会を生きる力を」というね。これは生きなくたっていいのです。しかし、力は欲しい。「国際社会を生きる力のある日本人」ということです。
「教養」というのは多義的です。今、マンガ文化も理解しなければ教養ではないという話が、前の総会であったりしましたので、そういう言葉は多義的な言葉ですから、削ってもいいかなと。
要は、4ページのほうの「」、「日本の伝統・文化を尊重し」とか、あるいは「理解し」とか、あるいは「受け継ぎ」とかね。で、「国際社会を生きる力を持つ日本人の育成」というふうにでもしてはどうかと思います。
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○ 中嶋委員 先ほどの私の発言とも関連するのですが、10ページの「」の「日本の伝統、文化」のところですが、その最後に、ここだけ断り書きがあるのです。「なお、国を愛する心を大切にすることや我が国の伝統、文化を尊重することが、教育改革国民会議報告においても指摘されているように、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない。」と。これは我々の議論では、こういう国家至上主義とか、全体主義の議論が出たわけではないわけです。逆に一部のアナクロニスティックな反対をする人に対して、あえてこういう注意書きをしているのだと思いますが、我々は日本の伝統、文化を論ずることをもうちょっと胸を張って、堂々と中教審として言っていいわけで、ここのところの注意書きはほかにはないのです。ここだけこれがあるというのは違和感がありますので、この3行は要らないのではないでしょうか。
もしそのような意見が出たら、「いや、全くそれは違うのだ。時代錯誤も甚だしい」ということをちゃんと言えばいいわけです。私も教育改革国民会議の報告は尊重したいと思いますが、ここだけをあえてこういうただし書きをつける必要はないのではないかと思います。
総会:29回 2003年3月10日
○佐藤委員
・・・前回の私の意見の言い方がまずくてこういうことになったのか、私の意向を意向として、しかし「尊重」というのは入れるべきだという明確な意図のもとにこれが入っているのか。皆さんがそれでもいいのだとおっしゃれば、もうこれ以上申しません。最後の段階ですから、申しませんけれども、やはり「新しい『公共』」との連関で、「尊重」ということをここでくどく、これほどくどく言う必要があるのか。後の文章は、「人間としての教養の基盤を培い、日本人であることの自覚や、郷土や国を愛し」云々と出てくるわけですから、ここでさらに「伝統を尊重する」ということを―ここだけではありません。後でもずうっと何回も出てきます。これをこれほど強く主張する必要があるのかということについては、私自身はある種の深い懸念を持っておりますけれども、皆さんがこれでいいとおっしゃるなら、これ以上申しません。
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○ 寺島委員 その点については、今の流れでもっていいかと思います。
再度、別のことで、8ページの先ほど佐藤先生がおっしゃった「日本の伝統、文化の尊重、……国を愛する心」のところで発言しておきたいのです。
私は、ここに書いてあるような我々自身のアイデンティティがなくして、国際社会は生きていけないということを、この間も発言したのですが、ただ、ここで「自国の伝統、文化」―日本の伝統、文化ということに対して極端にこだわっているわけです。それと「他国の伝統、文化にも敬意を払い」ということでバランスをとろうとしているのです。
もう一つの考え方として、それをここに採用すべきだという意味で、固執する意味ではないのですが、こういう考え方はどうお考えになりますかという意味なのですが、例えば「自国」という言葉を「アジア・太平洋」とか、「日本」とか、地域社会、「郷土」という言葉を三つ並べて、「……の伝統、文化」についての理解を深めていったら、まるでパラダイムが変わってしまう。
というのは、私はアメリカに10何年生活してきましたが、国勢調査というのに何回か協力させられましたが、「あなたは何民族ですか」というときにチェックしなければいけなくなるのですが、「ジャパニーズ」というところにチェックできれば一番すっきりするのですが、そんな項目はなくて、「オリエンタルズ・アンド・パシフィックアイランダーズ」ということになるのです。要するに、我々自身のアイデンティティというときに、アジアというものは西欧の対置概念から出てきていますから、アジア概念そのものにこだわる必要はないですが、我々が「日本の伝統」というときに、例えば飛鳥一つとったって、あそこに持ち込まれている仏教文化はほとんど朝鮮半島からきているということを広く理解しなければいけない。
「日本の伝統、文化について」ということを極端に強調すると、この国の伝統、文化だけがすばらしいみたいな視界にパラダイムが限られてしまう。
例えば、ここで、「伝統、文化の尊重」はものすごく大事なのです。私は大賛成なのです。「国を愛する心」も大賛成なのです。だけど、「アジア・太平洋」とか、「日本」とか、「自国」とか、「地域」というものを並べて、伝統、文化への理解を深めていくことになると、さっき佐藤先生がおっしゃったような、偏狭なナショナリズムとか、偏狭な国家主義ではない、極めて自然な、多くの人が共有できるこの国の伝統とか、文化に対して、大事にしていこうという視界が思想性を持って広がるのではないかということを、私はもう一つ発言しておきたいです。
○ 鳥居会長 おっしゃる意味は非常によくわかるのですが、まず1番目の「自国の伝統、文化についての理解を深める」ということの中に、我々が持っている文化自体が、例えば朝鮮文化の要素とか、漢文化の要素とか、いろいろなものをもともとその原点において持っているということは入っていると考えて書いているつもりではあるのですが、だめですかね。これが第1点。
第2点は、まさにおっしゃる、日本以外の海の外側の世界をどう表現するかということなのですが、これは非常に難しくて、スペシフィックに例えば「アジア」と言うと、どこまでそれを上げていくかという問題にぶつかってしまうので、どう表現するかです。
もう一つは、この文章の修文上、「このことを通じて」と書いてありますね、2行目の右端に。これは確かに文脈を無理につくってしまっていておかしいのです。これはやめたほうがいいのかな。「……極めて大切である。」、それから全く並列的に「他国の伝統、文化に敬意を払い」というふうに持っていったほうがいいのではないかという感じはしますが、その辺を含めて、もう1回、寺島委員、御意見を聞かせてください。
○ 寺島委員 私は何も言葉にこだわらないのですが、「自国」「他国」という枠の視界のほかに、「地域」といいますか、「広域」といいますか、こういう視界が入らないかなということなのです、最後のこだわりとしては。国対国という枠組みから違ったパラダイムが起こっていると思うのです。例えば近隣アジアにおいてもそうですし、例えば欧州共通の歴史教科書みたいなイメージを私は考えているわけです。
そういう中で、「自国の」「自国の」ということを掲げた教育基本法が50年たったときに、「あのとき議論していた人たちというのは、そういう視界だったのね」という話になりかねませんねという部分を申し上げているのです。
○ 鳥居会長 表現をどう持っていくかが非常に難しいのですが、御趣旨はわかったつもりです。ありがとうございました。
○ 浅見委員 13ページの「教育の機会均等」のところですが、これは現行法の第3条を受けているところでもあるわけですが、やはりその能力に応ずる教育―この前もちょっと申し上げたのですが、ここをやはりもうちょっとはっきり示したほうがいいのではないかという気がします。前回も申し上げたのですが、いわゆるエリート教育と言うとまたいろいろな御批判もいただくのかもしれませんけれども、素質の優れた者に対して、それを世界のトップまで引き上げていく教育というのは、どうしても重要なものであります。それはノーベル賞、あるいはオリンピックの金メダル、芸術での世界のトップのところにいく人を日本人から出すというのは、教育の重要な仕事だと思うわけです。
イギリスのブレア首相もはっきり言っているのですが、「オリンピックでの金メダルはナショナル・プライドを高めるものだ」と。既に皆さんは十分御承知ですけれども、ノーベル賞をとっても、金メダルをとっても、日本の国民に対するインパクトは非常に強いわけで、教科書などで「国を愛する」と教えるよりも、はるかに大きな効果を持つと思います。
その辺で、下に「障害者」はあるのですが、「非常に優れた人」に対する教育もどこかで触れておくべきではないかという気がして、もう一度発言させていただきます。
総会:30回:2003年3月20日
○事務局
・・・続きまして、「」の「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」につきましては、前回も御議論いただきまして、記述としては冒頭に「グローバル化が進展する中で、」ということをつけ加えて、世界的な視点の中で自らの国や地域の伝統・文化という形で、記述を少し修正させていただいているところでございます。
・・・
次が「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」についてでございます。こちらも先ほど御説明したところと同じように、「グローバル化が進展し」という書き出しで、3行目のところでは、「まず自らの国や地域の伝統・文化について理解を深め、尊重し」、その後では、「日本人であることの自覚や、郷土や国を愛する心の涵養を図ることが重要である。」、そして「さらに、自らの国や地域を重んじるのと同様に他の国や地域の伝統・文化に対しても敬意を払い、国際社会の一員として他国から信頼される国を目指す意識を涵養することが重要である。」。
そして、「なお書き」は先ほども触れさせていただきましたが、この「なお書き」が答申全体にかかると御理解いただけるものとして、ここに「なお」ということで、「国を愛する心を大切にすることや我が国の伝統・文化を理解し尊重することが、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない。」ということを、なお書きとして記述いただいているところでございます。
○教育の現状と課題
日本の伝統・文化を基盤として国際社会を生きる教養ある日本人の育成
グローバル化の中で,自らが国際社会の一員であることを自覚し,自分とは異なる文化や歴史に立脚する人々と共生していくことが重要な課題となっている。このためには,自らの国や地域の伝統・文化についての理解を深め,尊重する態度を身に付けることにより,人間としての教養の基盤を培い,日本人であることの自覚や,郷土や国を愛し,誇りに思う心をはぐくむことが重要である。こうした自覚や意識があって初めて,他の国や地域の伝統・文化に接した時に,自他の相違を理解し,多様な伝統・文化に敬意を払う態度も身に付けることができる。このような資質を基盤として,国際社会の責任ある構成員としての自覚を持ち,世界を舞台に活躍し,信頼され,世界に貢献できる日本人の育成を目指す必要がある。
○改正の必要性と改正の視点
日本の伝統・文化の尊重,郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養
グローバル化が進展する中で,自らの国や地域の伝統・文化について理解を深め,尊重し,郷土や国を愛する心をはぐくむことは,日本人としてこれからの国際社会を生きていく上で,極めて大切である。同時に,他の国や地域の伝統・文化に敬意を払い,国際社会の一員としての意識を涵養することが重要であり,これらの視点を明確にする。
○前文および理念
(新たに規定する理念)
法改正の全体像を踏まえ,新たに規定する理念として,以下の事項について,その趣旨を前文あるいは各条文に分かりやすく簡潔に規定することが適当
・日本の伝統・文化の尊重,郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養
日本の伝統・文化の尊重,郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養)
○ グローバル化が進展し,外国が身近な存在となる中で,我々は国際社会の一員であること,また,我々とは異なる伝統・文化を有する人々と共生していく必要があることが意識されるようになってきた。そのような中で,まず自らの国や地域の伝統・文化について理解を深め,尊重し,日本人であることの自覚や,郷土や国を愛する心の涵養を図ることが重要である。さらに,自らの国や地域を重んじるのと同様に他の国や地域の伝統・文化に対しても敬意を払い,国際社会の一員として他国から信頼される国を目指す意識を涵養することが重要である。
なお,国を愛する心を大切にすることや我が国の伝統・文化を理解し尊重することが,国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない。