「プロローグ」(1988〜1997)


1.ある登山者の死と生−あの瞬間から本当の私の人生が始まった

 入山してから2日目。今ならそれほど苦労せずに成し遂げられると思うが、当時の私にとっては、積雪期の比良山系の全山縦走はあまりにも荷が重過ぎたようだった。予定していた行程の半分も進んでおらず、食料は明らかに不足し、イライラと焦るばかりであった。
 相変わらずの吹雪の中を、先行者のトレースを追いながら、樹林帯の軟雪に足をとられながら斜面を下っていくと、小さな雪洞の周りに登山用品が散乱していた。登山者が装備を放棄して、ここからエスケープでもしたのかと思い、さして気にも留めずに先に進むことにした。
 それから後に私の目に飛び込んできた光景は、余りにもショッキングであった。うつ伏せに倒れ、体が硬直した、明らかに死んでいるとわかる登山者が、私の足元にいるのだ。
 死というものを全く意識することもなく、一度も死と向き合った経験のなかった私を襲った「衝撃」は今でも忘れることができない。無限の時間と可能性が自分には付与されていると漠然と思っていた20歳の若者の体の奥底を突き抜けた死に対する強烈な恐怖心と、生に対する強烈な執着心。"あの瞬間"を境に私は死とひたすら向き合い、暗く苦しい自問自答の日々が続くことになる。
 しかし、長い時間がかかって出てきた結論はシンプルだった。我々、生命を持つものには死は必然であり、絶対に避けられない。そして、その時が来るのは明日かもしれないし、何十年後かもしれない。いつになるのかは誰にもわからない。
 死んでしまったら、感覚神経を通じて外界を認識することができなくなり、やがて人体を構成する有機物が腐敗・分解する。ただ"それだけ"のことである。魂が残るだの、輪廻転生だとか、もっともらしく言う人はいるが、そんなものは誰も体験したことはないし、仮にあったとしても、私にはさして興味もないし、重要なこととは思えない。
 では、なぜこの世に人は生まれてきたのだろうか?そして何のために?どう生きればいいのか?新たな問いを前にした若者は、暗く苦しい自問自答の日々が続く。
 長い時間がかかって出てきた結論も極めてシンプルだった。生命の誕生は単なる偶然にすぎない。どうしても必然性が欲しければ自分で適当に見つければいい。そして、人はどう生きてもいい。どのような生き方が正しく悪いかなんて、あくまで相対的な価値でしかなく、絶対的な価値を持った生き方なんて幻想にすぎない。自由に生きればいい。生きたくなければ自ら命を絶つことを選択しても良い。そもそも人間に生きる理由や必然性はない。全ては自分で選択するしかないのだ。


2.日高縦走記−北の渓谷と稜線を辿る山旅

198807.JPG
1988年ソエマツ岳にて、夕暮れ時の至福の一時

 1988年7月1日夜、舞鶴発小樽行のフェリーに乗り込み、7月3日早朝、小樽からバイクをひたすら走らせて十勝入りした。大樹の交番に飛び込んで登山届けを提出し、尾田の児童館にバイクを置かせてもらって、ヌピナイ川沿いの林道を目指して黙々と歩き出した。途中で釣り人らしい人の車に拾われ、ゲートまで送っていただいた。ゲートの登山届けに目を通して、標高300m地点でツエルトを張る。すぐそばの笹薮を得体の知れない動物がガサガサいわせながら走り抜けていったが、たぶんエゾシカだろう。
 入山2日目、5時半出発。釣竿を持ってくるのを忘れていたことが判明。途中、休憩を挟んで9時半に507m二股着。荷物が重く腰が痛い。すぐに最大の悪場となり、目がくらむような高度感のある壁にハーケン、ボルトが打ち込まれている。ここは無理でしょ!と即断し、高巻きを試みるが敗退。本気で引き返そうかと考えたが、意を決して7mm×20mの持参の補助ロープを繰り出し、恐ろしいトラバースルートを越えることができた。それ以降も気が抜けない滝やスノーブリッジを必死になって越え、15時半に790m二股に到着。
 3日目。3時半頃、あまりの寒さに目が覚める。不思議と胸が痛い。どうやらヒグマよけのホイッスルを吹き過ぎたようだ。5時前に空荷で出発し、快適な小沢と雪渓を登り、踏み跡に導かれるようにピリカヌプリの頂上に立つ。申し分のない快晴で1839m峰まで見える。帯広平野は一面の雲海で、さすがは日高、広大な空間に圧倒される。
 二股に戻り、12時過ぎに出発し、ソエマツ岳南東面直登沢を登る。いくつのも滝を越え、今にも崩れそうなスノーブリッジを2つ突破する。2つ目のスノーブリッジは出口付近が崩れていて、抜け出すのに神経を使った。最後の詰めでルートを誤り、頂上までハイマツの濃密なブッシュを漕ぐ。18時前にフラフラになりながらソエマツ岳の頂上に立つ。目の前はピリカヌプリ、振り返るとピラミダルな神威岳、そして中の岳、ペテガリ岳、1839m峰、遥か彼方はカムエクだろうか。日没までの一時、刻々と空の色が変わっていく中で、食事の準備をしながら申し分のない大展望を楽しむ。
 4日目、6時半出発。雪渓の傾斜が強いため、補助ロープにザックをくくりつけ、ザックを蹴り落として急な雪渓上を流し、身軽になってから、渓流シューズに4本爪アイゼンを装着して慎重に下降していく。大滝で雪渓が切れ、延々とガレ沢を下って11時半に中の川奥二股着。軽量化のため燃料用のガソリンを切り詰めてきているので、雨天時以外は原則として焚き火を調理用の熱源にしている。手早く火をおこして昼食後、神威岳北面直登沢に入る。側壁が発達し始め、意を決して泳いでゴルジュを突破、その後も雪渓の処理など緊張させられる。6時半前に740m二股の大岩の上でビバーグする。
 5日目、7時発。2時間ほどで悪滝の高巻き、懸垂下降と神経を使う。またもや最後の詰めが甘く猛烈な藪漕ぎとなるが、13時半に神威岳頂上に立つ。フラフラになりながら登山道を下り、17時過ぎにニシュオマナイ川430m二股着。
 6日目、7時前発。単調な沢を歩き、長大なナメ滝を慎重に登り、思い切り藪を漕ぎ、気持ちのよい草原を歩いてから頂上手前のコルに出て、再び藪を漕いで12時過ぎに中の岳頂上に立つ。頂上には誰かが置いて行った鯉のぼりがあった。この頃から天候が崩れだし、目と鼻の先にあるペテガリ岳、神威岳も雲の中に入りだした。中の岳北面直登沢を下降する。初めはガレた急斜面をすべり落ちるように下ったが、次第に雪渓が出始める。たいていは雪渓に取り付くのに苦労し、斜度が急な区間はザックに補助ロープを結び、雪渓上を流しながら慎重に下った。一度雪渓と側壁の間にザックを落としてしまい、雪渓にザックが引っかかって回収に手間取り、大いに冷や汗をかいた。800m付近の屈曲点からは安全なガレ沢となり、つくづくホッとする。ポツポツと雨が降り落ちる中、ペテガリ川650m二股まで歩く。時計が壊れたため、ラジオの電波が入らなければ時刻がわからなくなってしまった。
 7日目。終日雨で停滞。連日の行動で疲れているので良い休養だ。新品のザックは見る影もなくボロボロになり、これまで経験した沢登りとあまりにもスケール、難易度が違いすぎて10年分の沢登りをやったような気分だ。
 8日目、5時過ぎ頃に出発。C沢を詰めて頂上に登るのをパスし、最も安全なルート、西尾根登山道のコルに抜けて登山道を登ってペテガリ岳を目指す。小雨がパラついていたが頂上につく頃には天候回復の兆しで、上空には青空が見え隠れしている。主稜線上を進み16時半に1600m峰着。小雨と藪漕ぎで全身ずぶ濡れになる。夕方、山の上部のガスが取れ、ヤオロマップ岳、1839m峰、コイカクシュサツナイ岳、カムエクらしき山が姿を見せる。雲海の中、青い山並みがずっと北に続いている。当初の計画していたサッシビチャリ川に下りて、1839m峰南東面直登沢を詰めるというプランは自分の実力を考えてあきらめることにする。
 9日目、今日も雨。天候の回復の見込みがまるでないため出発する気力が沸かないが、9時頃に出発。ヤオロマップ岳を越え、1839m峰をパスし、霧雨のコイカクシュサツナイ岳に17時頃に着く。コイカクの頂上はすばらしいお花畑が広がっていた。
 10日目、6時過ぎに出発。相変わらずのガスの中、主稜線上をひたすら北上するがペースが上がらない。1823m峰、ピラミッド峰を越え、14時頃に全く視界がきかないカムエクに立つ。すぐにカムエクから春別岳に向かうが、ルートを誤り、カムエクの南西稜に迷い込んでしまい、3時間のロス。時計も壊れ、コンパスもハイマツにもぎ取られて紛失してしまっているので視界がきかないとルートがよくわからないのだ。
 11日目、久々の快晴の朝。一面の雲海の中、幌尻岳、戸蔦別岳がよく見える。6時前出発、薄いガスの中、1917m峰、春別岳を越え、1869m峰に12時着。クマの足跡や糞が多く緊張させられる。相変わらず視界があまりきかない主稜線上をエサオマントッタベツ岳まで北上し、北カールからエサオマン入りの沢を下る。ようやく天候が回復し、久しぶりの晴天となってきた。新冠川の出合いに出る途中、細く短いハンノキを切り倒し、釣糸をくくりつけ、釣り針を結んで川虫を餌にして尺岩魚を調達する。18時に二股着。豪華なイワナ定食を楽しむ。
 12日目、6時過ぎに出発。新冠川を詰めて11時前に七ツ沼カールに着く。幌尻岳頂上を踏んで、14時に戸蔦別岳頂上を踏む。北カールと幌尻岳の展望を楽しむ。ピパイロ岳が手招きしているように感じたが、計画通り戸蔦別川を下ることにする。雪渓に覆われたカールを慎重に下り、戸蔦別川をどんどん下っていく。18時前に十の沢出合着。長かった縦走行も最後の夜となった。
 13日目、最終日の朝。清々しくとても気分の良い朝ですっかり寝過ごしてしまった。7時過ぎに出発し、とても満ち足りた気分で平凡だが何の心配も要らない安全な沢を下っていく。出発して2時間も経たないうちに、七ノ沢出合いあたりで林道工事の騒音と共に突然、あっけなく僕の日高の山旅が終わってしまった。戸蔦別川も相当奥まで林道が伸びてしまっていたようだった。工事用のトラックは親指を突き立てても乗せてくれないので、夏の日差しがきつい林道をひたすら歩き、いい加減嫌になった頃に通りがかりのお兄さんの車に拾われて、清川まで乗せてもらう。途中で商店に立ち寄り、ビールを飲んでチョコフレークをつまみながらのんびり歩いていると、40代の夫婦に拾われて中札内まで乗せていただくことになった。中札内で昼食を取ってから路線バスに乗り、尾田の児童館に戻ってバイクを回収し、大樹の交番に立ち寄ってから、味付けジンギスカンとビールを仕入れて広尾のキャンプ場に向かった。

追記 ピリカヌプリから戸蔦別岳までの縦走行は、大切な山旅の記憶として今も私の心に刻まれている。長大な日高の山並みを自分独りきりの力で歩き抜くため、情熱と力の限りをぶつけ、全身全霊、全力で立ち向かった青春の思い出である。登山記録としては中途半端な価値のないものだが、今の自分にとって大切な財産の一つになっている。


3.北海道移住記−知床連峰を望む街に移住して

 北海道への移住を思いついたのは25歳の冬の夕暮れ時だった。凍りついたシュラフの中でガタガタ震える夜を過ごした厳冬の南日高の稜線上から下山し、襟裳ユースの乾いた布団の中で好きなだけゴロゴロと時を過ごすつもりだったが、風雪の稜線上でずっと張り詰めてきた緊張感が解けず、神経がやけに高ぶってほとんど眠れない始末。仕方なく、襟裳岬から帯広に向かって車を走らせることにした。
 目的はただ一つ。坂本直行の愛した日高連峰の素晴らしい山並みを眺めるため。十勝平野は雲ひとつない素晴らしい快晴だったが、残念ながら日高の山には雲がかかり、すっかり目的を失ってしまい、行く当てのないドライブで時間を潰していた。

hidaka.jpg
ソエマツ岳から神威岳を望む(5月)

 学生時代から何度も足を運んだ日高の山々。最も近い人家に逃げ込むにも2、3日はかかるような山の中では、どんなに困難な状況に追い込まれても誰の手も借りることができず、全ての結果を自分で引き受けなければならない。独りで判断し、選択して行動しなければならない"緊張感と自由"は、まさに人の心と身体を掴んで離さない麻薬のような魅力を持つものであり、単独行者だからこそ味わえる登山の魅力に私はどっぷり浸ってきた。
 しかし、冬の南日高三山縦走を終えた私には、次の課題が明確に心に描けず、サラリーマン生活を捨ててでも情熱をぶつけていくのに値する何かが日高にあるのか、車を走らせながらずっと自問自答していた。確かに、技術的に困難な険悪な沢や、長大で魅力的な雪稜ルートを数えれば、両手の数では収まらないが、私が求めてきたのは何だったのだろうか?
 坂本直行が見てきた原野の向こうに広がる日高の山並みと、私が今、見ることのできる日高は明らかに違っていることにふと気が付いた。見渡す限り続いていた鬱蒼とした手付かずの原生林、山野を跋渉していたアイヌ民族の血を引く狩猟者。そして激しく美しい渓谷。もしかしたら人跡未踏かもしれない、地図上の空白地帯が存在した時代。私が探し続けていたそんな夢物語は今の時代にはどこにも存在せず、生まれてくる時代が遅すぎたことを思い知らされたのだった。
 夕暮れの中を車を走らせながら、一つのアイデアが浮かんできた。私が追い求めてきたものはすでに存在していないとはいえ、特に不満のなかった京都での生活よりも、きっと北海道のほうが自然がより身近に感じられ、時間的にも精神的にもゆとりのある生活ができるのではないか?それならいっそうのこと北海道に、それも長大な日高の山並みが見える街に移住してみようじゃないか!
 心の中でそう決めたあの日から、迷走飛行を重ねること数年。幸運なのか、偶然なのか必然なのか、たまたま仕事が見つかった”知床連峰が望める街”で暮らすことになった。

 思い入れと愛着のある日高の山々と比較すると、私にとって知床は印象の薄い所で、初めて知床を訪れたのは大学2年の夏。125ccのオフロードバイクに山のように荷物を積んで、北海道内を1ヵ月半ほどかけて回った旅の終りに立ち寄った。今ではすっかり熱は冷めたが、当時の私は渓流釣りがとにかく好きで、知床の川でバカ釣りしようと思って立ち寄ったのが初めての知床だった。熊の湯のキャンプ場をベースにして釣りを楽しんだが、日高や道北で散々釣ってきたので、キャンプ場で知り会ったチャリダーと知床岬まで歩いてみたり、カムイワッカの滝に行った程度で、長居をすることも無く、早々に移動することになった。
 その後、大学を卒業するまでに2回、いずれも早春の3月に知床を訪れた。1度目は海別岳登山を計画したものの、登る気力が途中から失せて撤退。2度目は知床横断道を歩くつもりで羅臼入りしたものの、彼岸荒れであえなく敗退。いずれもそそくさと知床から移動した。
 自分がどのような人生を送るべきなのか、全くあてがなくて途方にくれていた当時の私の記憶を振り返ってみると、知床の地で出会ったいくつかのイメージ、原風景が今も頭の中に浮かんでくる。夕日に照らされながらバイクで走った斜里からウトロへと向かう夏の海岸線。雲一つない青空に純白のスカイラインを輝かせる早春の海別岳。今にも雨が降り出しそうな陰鬱な函の中を流れる植別川。羅臼岳から吹き降ろす猛烈な地吹雪の中を歩いた羅臼の街並み。そして、自分の生活基盤とはあまりにも遠く離れており、この地で暮らすことなど想像もすることができなかったあの頃の自分…。

 sayaridake333.jpg
快晴の斜里岳

 偶然にしてこの地で暮らすようになり、旅行者の視点では見えなかったことが、移住をきっかけに少ししづつ見えてくるようになった。
 知床といえば”手付かずの原始の自然が残された所"というイメージを思い浮かべるかも知れないが、実際は、驚くほどの山奥にまで林道が走り、千古不伐の手付かずの森を見ることはない。山野を自由に駆け回っていたであろうアイヌ民族や、砂金を求めて漂泊した山師の面影はなく、すっかり忘れ去られるばかりの過去の昔話となってしまっている。もちろん、海は定置網だらけで、漁船やプレジャーボートが走り回っており、朽ち果てた番屋に象徴されるように、漁師の暮らしも大きく変遷してしまった。
 しかし、ヒグマがその辺から飛び出してきそうな威圧的なプレッシャーを感じる深い森や、北洋の海で育ったサケ・マスがガンガン遡ってくる美しい渓流が未だに残っており、寒気の厳しい冬でも、エゾシカはもちろん、オオワシ、オジロワシの威厳ある飛翔があちこちで見かけられるほど、野生生物が数多く生きていける豊かな自然環境がかろうじて残っている。
 彼らが生きている厳しい自然環境の中に身を置くと、必死で生き抜こうとしている彼らから、時としてハツとさせられるほどに輝いている、"生命のきらめき"を感じ取ることができる瞬間に気付かされる時がある。日常生活では"生きるということの意味"が希薄になりがちであるが、"この一瞬を確かに生きている"という実感を求め、自らの限りある生命を輝かせるための舞台とするには、知床はなかなか魅力的なエリアだと思う。


 BACK TO HOME