「日高から知床へ


1.我が憧憬の日高−遥か彼方に輝く主稜線を目指して

198903.JPG
1989年3月 ペテガリ岳にて

 初めての積雪期の日高登山のターゲットはペテガリ岳だった。当時学生だった私は、周囲に登山経験を持つ人がおらず、無所属、単独、我流で登山に打ち込んでいた。当然のことながら技術も経験も圧倒的に貧弱で、肉体的に恵まれているわけでも、センスが良いわけでもなかったので、実力のほどはたかが知れているが、確固たる自分を掴み取ろうとして、とにかく必死になってもがいていた。
 そんな中途半端な若者が冬のペテガリ岳に登りたいと考え、はるばる京都から列車を乗り継いで北海道入りし、遥かなる冬のペテガリ岳を目指すこととなった。
 当時の記憶は断片的なものしか残っていない。静内駅を降り立ち、路線バスで農屋まで行き、そこから林道を約40km歩いて、まずはペテガリ山荘を目指したのだ。今の私なら片道40kmの林道を冬山装備を背負って歩くことを考えただけで気を失いそうになるが、当時は歩き通す情熱と気力がみなぎっており、まったく辛いとも障害になるとも考えていなかった。
 幸いなことに工事関係者の車で東の沢ダムまで乗せていただいたので、初日にペテガリ山荘に入ることができ、翌々日にはペテガリ岳の頂上を踏むことができた。帰路も工事関係者の車に乗せていただいたので、4日間でペテガリ岳登山を終わらせることになった。
 しかし、「羆吼ゆる山」、「秘境釣行記」の著者である今野保氏が語ってくれた静内川やコイカクシュシビチャリ川流域は、すっかり跡形無く破壊されており、登頂できた喜びや充実感よりも、寂しさと虚しさだけが強く印象に残る山行となった。
 それでも大学を卒業してからも夏と冬の日高詣が続くことになったのは、おそらく静内駅に初めて降り立った時に垣間見えた、静内の街並みの遥か遠くに輝く、屏風のように連なる純白の日高の山並みの美しさに、すっかり心を奪われてしまったからなのだろう。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

somematu.JPG
1993年12月31日、夕暮れ時のソエマツ岳、無風快晴、束の間の好天

 1993年12月25日4時、出航時間が大幅に遅れた舞鶴発、小樽行の新日本海フェリーに乗り込んだ。風邪が治らず体調が非常に悪いが、とりあえず行ってみるしかないだろう。
 翌26日、7時過ぎにフェリーを降り、あちこちで車がぶっかったり、ひっくり返ったりしているのを横目で見ながら、元浦川を目指して愛車を飛ばす。元浦川林道を走り、神威山荘の数百m手前で車を降り、山荘にスキーをデポしておく。その後は、高校時代の後輩を訪ねて帯広に移動。すっかり北海道の生活に馴染んでいるようで、焼き鳥を食いながら近況を話し合う。
 翌27日、雨。帯広から浦河へ移動。浦河警察署に登山届けを提出し、ソエマツ沢林道の入口に移動し、車中泊。
 12月28日、車を捨てて9時出発。ソエマツ沢林道を進む。林道終点から尾根に取り付き、藪漕ぎとラッセルで標高600m地点で泊。
 翌29日、寒くて十分に寝られず出発が遅れて9時発。春別山を目指してひたすらずり上がる。雪が多く、春別山の手前までしか進めなかった。遥か遠くの発砲音を聞きながら、つくづく遠い所にきたなぁとぼんやり思う。
 翌30日、体調が悪いのだろう。起床時間が大幅に遅れる。一段と雪が深くなり、ヤブの多い急斜面をラッセルしてひたすらズリ上がる。やがて尾根が痩せはじめる頃には吹雪となる。斜面を削ってテントを張る。シュラフがバリバリに凍っているので参ってしまう。
 翌31日、天候は悪いが、吹雪の中をピリカヌプリに向かう。舞い飛ぶ雪が眼球に当たって痛くて、まともに目を開けていることができない。強風の中、軟雪にうんざりする頃、ピリカの西側の肩らしき所に着くが視界が悪くはっきりわからない。ピークを目指して細い稜線をラッセルしていくと突然登りが無くなった。わずかに出ている杭を確認し、ここがピリカの頂上であることを確認する。3mぐらい先しか見えず、とにかく視界が悪い。
 ピリカを下降する。視界がきかないのでコンパスで慎重に進路を確認しながら主稜線上を下っていく。いくつかの小ピークを越えるうちにどんどん雲が切れてくるが、風は相変わらず強い。時々強風にあおられたり、耐風姿勢で強風をやり過ごしたりするので、時間がかかる。ソエマツ岳の手前でテントを張る。いつの間にか風が止み、夜は無風、星空となり、遥か遠くの街の光がはっきりと見える。
 年が明けて1月1日、あまりにも寒いので、夜通し歩いてでも神威山荘に逃げ込むつもりで出発。軟雪に苦労し、やっとの思いで踏んだソエマツ岳頂上は風が強く、雪煙が舞って日中にもかかわらずとても寒い。次の西峰までもラッセル。全く雪が締まっていない。さらに神威岳との中間ピークまで延々とラッセルを繰り返す。靴幅リッジは雪庇が発達していなかったので十勝側を容易に通過。その後もラッセルが続く。最後の神威岳の登りに取り掛かる頃から、高曇りの空がどんどん低くなり、日が落ち始めてくる。ラッセルに苦しみながら、途中で完全に日が暮れてしまった。軟雪、急斜面に阻まれ、あまりにも進まないので、ザックを捨てて空荷でトレースをつけ、ザックを背負って登り返す方法に切り替えるので余計に時間がかかる。
 急速に天候が悪化し、頂上に着く前から吹雪になり、やっとの思いで着いた頂上でもゆっくり休む余裕も無いまま下降する。あまりの寒さに新品のアルカリ電池を入れたヘッドランプがすぐに使い物にならなくなった。主稜線を離れ、コンパスのみの盲目行進で北東尾根を一気に下るつもりでいたが、頂上から200mほど高度を下げた地点で現在地がわからなくなってしまった。下ろうとしている雪の急斜面の先が、北東尾根上にあるのか、沢に向かって落ち込んでいるのか判断できなくなってしまったのだ。すぐに行動を打ち切り、テントを張ってバリバリに凍ったシュラフの中に潜り込む。あまりに寒く、ウトウトしてもすぐに目が覚めてしまう。長くて辛い夜を耐える。
 翌2日、下山の日。相変わらず吹雪いているが、視界が利くのでコンパスで確認しながら、1時間ほどで北東尾根の末端まで滑り下る。驚いたことにシカの足跡に合流したので、少しでも楽をしようとシカのトレースを利用させてもらう。雪が深くてスキーが欲しいところだが、高度が下がり、天候も良く、気温も上がって気分も上々。3〜4時間かけて延々と雪深い沢を下っていく。
 ようやく山荘に着き、インスタントラーメンを食って、デポしたスキーを履いて林道を下っていく。積雪のために車のトレースが完全に埋まっており、なかなか簡単には下山できない。日没間近、足が痛くてうんざりする頃、ソエマツ沢林道の入口に捨てた車を回収して無事に下山することができた。
 翌3日、山行が完結してしまえば何もやることがない。ドライブで時間をつぶしながらずっと自問自答する。当時、登山と仕事を両立させることに行き詰まりを感じていた私は、これからどう生きていくのかすっかり道を失っていた。登山も中途半端、仕事も中途半端。冬の南日高三山縦走の次の課題は?サラリーマン生活を捨ててでも情熱をぶつけていくに値する何かが日高にあるのか?安定した仕事に就き、仕事を続けていくことが本当の自分の生き方なのか?仕事を辞めてどうやって食っていくのか?堂々巡りの自問自答。
 翌4日早朝、舞鶴行きのフェリーに乗るために小樽に向かう。日高を離れる前にもう一度、純白に輝く日高の山並みを見たいと切望したが願いがかなうことはなかった。

追記 あれから20年以上の時間が過ぎてしまった。若かりし日に流した汗と情熱がたっぷりと染み込んだ遥か彼方に今も輝く日高の主稜線。美しい日高の山を仰ぎ見ていると、今も胸が締め付けられるような想いに駆られる。置きっぱなしになってしまった自分にとって大切なものを取り戻すため、長大な冬の日高の雪稜ルートに再び挑む夢を見ることがあるかもしれない。


2.未完の知床縦断行−夏の知床縦走記

 1992年8月9日、曇。二日間列車を乗り継いで前日の夜に斜里駅へ。朝一番の路線バスに乗って、糠真布川の橋を渡って最初の農家の前で下りる。そこから林道を歩き、植別川上流の硫黄鉱山跡に続く旧鉱山道を辿る。多少ブッシュの多いところもあるが、廃鉱から半世紀も経っているのに明瞭な道が残っている。
 北東面の直登沢を空身で駆け上がり、縦走の基点となる海別岳の頂上を踏む。ガスがかかって視界が極端に悪く、寒いのでそそくさと立ち去る。夜半より大雨となる。
 翌10日、曇り時々晴れのち濃霧。心配していた台風は、夜中に大雨を伴って一気に通り抜けて行ったので、予定通りサマツキヌプリ※を目指すことにする。旧鉱山道を歩いて硫黄鉱山跡に立ち寄ってから植別川を下る。水量が増えた植別川はすんなりとは下れずに予想以上に時間がかかる。途中、何度か毛鉤を振るが全く反応がない。標高約230m出合から支流を詰めてサマツキヌプリの南西稜へ。
 稜線に出る頃から風が強まり、ガスで視界が極度に悪くなる。ハイマツの藪こぎがひどくて時間がかかり、最後の詰めの岩峰の巻きは、途中で空腹と疲労でダウン。ハイマツの枝を切り払ってかろうじて横になれるスペースを作ってビバークする。軽量化のためにシュラフを持ってこなかったので、体が冷え切って熟睡できない。
 翌11日、晴れ。夜が明けてからは一面の雲海となり、暖かい日差しで身体をほぐしてから頂上へ向かう。頂上から金山川を下り、標高約730m地点からオンネベツ川へ下る。標高約350mで出合う小沢を詰めて稜線を越え、沢から沢をつないで大谷川の標高約310mの出合でキャンプする。
 途中で珍しく登山者に出会った。距離が離れているので意思疎通がうまくいかなかったが、海別岳を目指しているらしい。オショロコマの刺身付きの夕食。
 翌12日、晴れ。沢を詰めて遠音別岳を目指す。平凡で全く問題のない沢だったが、最後の詰めのハイマツの藪こぎが手強く消耗させられる。やっとの思いで着いた頂上からは不明瞭ながら踏み跡があるので、踏み跡を辿って知西別岳を目指す。藪はひどいが踏み跡を最大限利用して知西別岳の手前、1km強の地点でキャンプする。
 夜中、寒さと尿意でうつらうつらしていると、すぐ傍でメシッメシッとものすごい重量感のある音がしている。ナイフを握り締めて、全神経を聴覚に集中するが、ヒグマとしか考えられない。しつこく付きまとわれたらと思うと、恐怖で全身が硬直していく。しばらくすると遠ざかっていく気配がするので、十分に時間を置いてから、コンロに火を付けてラジオを鳴らして、さらに時間を置いてから小便に行く。
 翌13日、ガスのち雨。ヒグマ騒動ですっかり怖気付き、早めに出発する。小さな祠のある知西別岳から歩きにくいヤブ沢を下って、やっとの思いで羅臼湖に降り立つ。ヒグマが出没しそうな気配がする静かで暗い羅臼湖から登山道に出て、見返り峠まで一気に歩く。
 雨に打たれ、余韻に浸りながら知床峠を目指して歩いていると、すぐに車が止まってくれた。ウトロの街で車から降りると雨は上がって快晴だった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

salmon2.jpg
頭を食われたカラフトマス(テッパンベツ川にて)

 1993年8月29日、快晴。飛行機を使って一日がかりで前日に羅臼入り。朝一番の路線バスで相泊に向い、海岸沿いを延々と歩いてモイレウシ川河口へ。モイレウシ川に入って100mほど歩くと、カラフトマスが2本並んで泳いでいるので、×××することにする。少し進んでツェルトを張って寝る。豪華な食事。
 翌30日、晴れ。川幅いっぱいにヤブが張り出していて歩きづらく、全くペースが上がらない。最後の詰めのハイマツの薮こぎに時間を費やす。突然、ウナキベツ川からのルートなのだろうか、はっきりした踏み跡が出てきたので、非常に混乱する。静かな知床沼からは踏み跡を辿り、知床岳南東面の池塘でキャンプする。独りだけの静かな世界。
 翌31日、ガスのち晴れ。風が強く、視界が悪いので停滞。昼前からガスが薄くなり、気温も上がってきたので、知床岳を目指す。取り付きがわからずに適当に登り始めたが、途中で踏み跡に合流して頂上へ。北面は切り立った崖で、ポトピラベツ川から吹き上げる風が強い。
 出発するには時間が遅いが、コタキ川を下る。薮こぎの後は歩きにくい石ころだらけの沢にうんざりしながらどんどん高度を下げる。途中から函状となるが、鹿道をうまくつないで時間短縮を図る。出発時間が遅すぎて河口まで行けずに途中で時間切れ。静かな夕暮れ。
 翌9月1日、晴れのちにわか雨。テッパンベツ川の出合まで一気に下り、テッパンベツ川を少し遡ってみる。カラフトマスの群れがあちらこちらの深みにかたまって泳いでいる。頭を食われたメスのカラフトマスを見つけてUターン。河口ではカラフトマスがウジャウジャ泳いでいる。初めて本物の川を見て感動する。
 林道を歩いてルシャ川へ移動。ここの河口もカラフトマスがウジャウジャいるが、堰堤が設置されている。水溜りにいるカラフトマスを手づかみにするがオスだったので逃がす。ルシャ川を2km程度歩くと、カラフトマスの姿が見られなくなった。途中から雨が降りだしたので、標高約80mの二股出合でキャンプする。
 翌2日、晴れ。ポンルシャ川をひたすら登り、標高約900m地点からハイマツの薮をトラバースしてショウジ川右股に入り、東岳を目指す。最後のハイマツの薮こぎは踏み跡に助けられてすんなりと稜線上に這い上がることができた。二つ池まで行く気力が失せて南岳の手前でキャンプ。
 翌3日、晴れ。縦走路を南下して一気に羅臼平へ。羅臼岳を往復し、千葉からきた夫婦連れと一緒に岩尾別温泉に下山。ウトロ市街まで送ってもらう。2年がかりの海別岳から知床岳までの11日間の私の知床縦断行はあっけなく終わった。

※注釈:「北帰行」の著者渡部由輝氏にならって「サマツキヌプリ」と記載したが、一般的には「ラサウヌプリ」と呼ばれている。


3.白銀に輝く稜線を目指して−知床の稜線にて

unabetu1001.jpg
快晴のスカイラインが印象的な海別岳

 20年以上前のことになるが、初めての積雪期の知床登山のターゲットは3月の海別岳だった。今は取り壊されて当時の面影は全く無くなってしまったが、古びた風情のある商店があった朱円のバス停から、目の前にどっかりと広がる海別岳の頂上を目指して、冒険心とプレッシャーに心を揺さぶられながら、とぼとぼと歩き続けていた若き日の自分を今でもぼんやりと思い出すことができる。
 当時の私はろくに読図もできなかったし、雪山での経験も絶対的に不足していた。ただ、登山という行為を通して確固たる自分を掴み取ることに必死だったのだ。結局、集中力が切れて途中敗退することになるのだが、雲一つ無い晴天の空と白銀に輝く海別岳とのスカイラインのコントラストだけが今も印象に残っている。
 気が付けば多くの時間が過ぎ去ってしまった。しかし、当時の私と違って、今の私は雪山での経験も増え、地図があれば複数のルートを自由に組み立てられることもできるし、ガスの立ち込める樹林帯での盲目歩行も、スキーを履いたままのヤブコギも全く動揺することはない。
 それでも、未だに厳冬期の知床登山は難しい。単独でいつも山に向かう自分にとって、1月、2月の知床登山は連敗記録ばかりでまともに頂上に立てた記憶がない。
 頂上に立てるようになるのは、天候が安定し、晴天の確立が高くなり、雪が締まってくる3月以降である。流氷が居座り、吹き付ける寒気と風は相変わらずで、荒れると全く手がつけられなくなるのは厳冬期と同じだが、感覚的には3月は明らかに春である。3月になれば静かに心を躍らせながら、山スキーを履いてあの頃と同じ、白銀に輝く稜線を目指すのだ。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 オジロワシだろうか?快晴の海別岳の頂上付近を舞うワシを見ながら、白銀に輝く稜線に誘われるように海別岳の頂上までやってきた。北西の風がそれなりに吹き付けてくるが、3月にもなればそれほど気温は下がらないので、のんびり景色を見ながら登ってくる余裕がある。
 樹林帯を抜けて、頂上の肩までの広大な斜面を登り切るまでに予想以上の時間がかかったので、のんびり頂上で休憩していると日が暮れてしまうので、早々に頂上を後にしなければならない。問題はどのルートを滑るのか?少し悩んだ末に決めたのは、頂上の肩からのノーマルルートを止めて、海別川にダイレクトに下りるルートだった。
 頂上でアイゼンからスキーに履きかえて、最大傾斜線を避けてシュカブラでデコボコになった滑りにくい右手の斜面から慎重に斜滑降、そしてフラットになった斜面にターンを刻み始めると、すぐに傾斜が出てきた。
 アイスバーンの表面を慎重にエッジで削り取るようにしてターンを重ねる。ターンの度に削り取った氷化したエビの尻尾がガラガラと大きな音を立てて斜面の上部から転がり、足元を通り抜けていくのでうるさくてしょうがない。
 何度も何度もターンを刻んでようやく核心部を通過した。息はゼーゼー、足はガクガクだが、この緊張感がたまらない。
 ホッと一息ついて、時々表面が割れて思うようにターンが出来ないモナカ雪の沢筋を下り、登ってきた時に付けた自分のトレースに合流して帰路に着く。
 プレッシャーに負け、集中力が切れて敗退した当時の思い出をぼんやり思い浮かべながら頂上を振り返ると、海別岳のスカイラインが夕暮れ色に染まるまでにはまだ時間があるようだった。「また来るよ…」と心の中でつぶやいて、雪辱戦を果たした充実感に包まれながら車に乗り込んで温泉に直行した。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 あいにくの曇天の中を、いつものようにスキーを履いて雪の斜面に取り付く。ラッセルは深くなく快適に高度を上げていく。このルートは2回目なので足取りも軽い。標高差約350mを登り切るとやや傾斜が緩くなり、白い帯のように続く沢型地形を延々と詰めていくと、細いダケカンバが生えた広い台地上に出る。初めて来た時は、あまりにも風雪が強く、この台地まで達することなく敗退したが、その時と比べると天候は悪くない。
 しかし、雪に埋まった小さな沢を渡り、急な斜面に取り付く頃から、風も強くなり、完全に雲の中に入ったようで、ほとんど視界が利かなくなった。悪天候の中、「無理して頂上を目指しても何も楽しいことは無い」という心の声をよりも、「もう少し上ってみたい、何とかなるさ」という好奇心と楽観的な感情に導かれて前進することにする。
 頻繁に地図とコンパスと高度計で現在地を推測しながら、周りの地形がぼんやりとしか感じ取れない盲目歩行を続ける。高度差約500mはなんとか登ってきたが、稜線直下は風が強すぎること、雪面が堅くクラストしているのでスキーでの行動をさっさと諦める。
 アイゼンを履こうとしてハッとした。わずかに露出していた手首の皮膚が白く変色し、感覚が無く、凍傷になりかかっている。盲目歩行に神経を取られて、外気温が下がっていることに全く気がつかなかったようだ。あわててオーバーグローブをはめて、フリースを着込んでから、スキーが吹き飛ばされないように念入りにデポして頂上を目指す。
 知床半島の稜線上はすっぽりと雲はかかっているが、どうやら上空は晴れているようだ。いくぶん明るくなってきたものの、相変わらず視界が利かないため、ダイレクトに頂上を目指すことを途中でやめ、北西方向に直上して一度稜線に出てから知円別の頂上を目指す。予想以上に疲労しているようで足が上がらない。クラストした雪面が頻繁に割れるので、その度に呼吸を整えて次の一歩を踏み出すので時間がかかってしょうがない。
 稜線に出てからは強風にあおられながら、硫黄山への分岐点まで進み、どっかりと腰を下ろして休憩する。流氷に埋まるオホーツク海を吹き抜けてきた強烈な風が、ゴーゴーと音を立てながらウブノシッタを吹き抜け、知円別のピークにぶち当たって白い雪煙の渦をグルグルと巻き込んでいる。まさに、厳冬の知床に住む魔物が呼吸している様を目の当たりにしているかのような光景だ。ちっぽけな存在でしかない私をあざ笑うかのように、白い魔物は容赦なく雪煙を巻き込んだ烈風を撒き散らしている。
 日常生活では決して見ることのできない壮絶な光景を前にして、自然の持つ圧倒的な力の前でただ呆然としている自分の中に、次にどう行動すべきなのかを冷静に考えている自分が割り込んできた。頂上まではあと高度差わずか50mばかりしかない。しかし、疲労度を考えると、烈風の中を頂上まで這い上がり、戻ってくるまでには小1時間かかるだろう。天候が急変し、視界がこれ以上悪くなると明らかにまずい。この辺りが潮時だと判断し、すぐに下山に取り掛かることにする。
 ダイレクトにスキーのデポ地を目指して下っていく。幸いなことに視界がやや開けてきた。頂上には全く未練がないので振り返らずにどんどん下っていくが、私の頭の中でイメージしていた地形と、目の前に広がるだだっ広い地形が一致しなくなり、自分が地図上のどの位置にいるのかわからなくなってきた。もし、スキーを回収できないまま下山するはめになったら一晩かかっても街まで降りられなくなるだろう。考えるだけでもゾッとするが、すぐに気を取り直し、ダイレクトに頂上を目指して登ることを途中であきらめた時に残っているはずの私の足跡を探すことにする。コンパスで常に方向を確認し、ジグザグに歩きながら高度を下げていくと、すぐに私の足跡を見つけることができた。ホッと一息つく間も惜しんで、デポ地まで一気に下る。
 風は相変わらず強いが、スキーを履いてもあおられるほどのものではない。それに視界も開けてきたのでルートを選ぶ際に不安を感じることもない。高度差1300m余り、2時間もかからずに下山できるだろう。


4.幻の渓ある釣り人の夢物語

resize1062.jpg
釣り人は夢追い人かもしれない。
(写真は本文と全く関係がない川です)

 ヒグマの足跡を追うように深緑に覆われた早朝の渓谷を遡る。陰鬱な函を巻くいつもの草付きのガレ場に取り付くが、人間のものとは明らかに違う踏み跡が明瞭に刻まれている。ヒグマもこのルートを使っているのであろう。ガレ場を登り切り、深い笹薮の弱点を繋ぎ、時には踏み潰されたミズバショウが転々と続くヒグマの踏み跡をたどって、ようやく函の出口に降り立った。
 ここから釣竿を出して釣り上がるが、今年は非常に魚影が濃く釣果は上々だ。釣っては逃がし、釣っては逃がしを繰り返しながら久しぶりに釣りを楽しんだ。しかし、食うための釣りと違って、遊びの釣りには強い罪悪感が伴う。もうそろそろ止めてもいいよね、という心の声に従って帰路を急ぐことにする。
 途中、川の流れに沈めて石で囲んでキープしておいた大物二本を回収しようとしたが、魚が完全に消えていた。キツネの足跡もヒグマの足跡も全くないので、首をかしげながらキョロキョロしていると、中骨と皮だけになってしまった魚を発見することができた。
 よくよく考えてみると、私が釣りをしていた時に近くにカラスがいたこと、帰る途中にオジロワシとすれ違ったことを思い出した。おそらく沈めた魚が食えずにイライラしていたカラスの鳴き声を聞きつけたオジロワシが、魚を見つけ出してペロリと食べてしまったのだろうと想像してみた。手ぶらで帰ることになったが、これほど楽しい釣りはそうそう経験できないだろう。
 函の巻き道の入口で休憩しながら、初めてこの函を遡行し、途中で敗退した十数年前のことを思い出す。あの時は無鉄砲にも、函の入口に懸かる滝を越えるために、白泡渦巻く滝の落ち口に向かって流れる反流に身を任せ、白泡に巻き込まれる直前の一瞬のタイミングで水中のスタンスを確保し、滝が懸かる岩場を越えていったのだ。
 最終的には函の完全遡行は成し遂げられず、空白区間があることがずっと気になっていたので、今回は函を巻かずに川通しに歩いて下ってみることにする。
 期待に胸を膨らませながら川通しに歩いて行くが、すぐに行き止まりとなってしまった。ここを無理やり通過しても通常よりも水量が多いので、ロープなしで函の入口に懸かる滝を降りるのはあまりにもリスキーだ。
 あきらめムードで両岸切り立った岩場を流れる川に視線を移すと、今まで見たこともない光景に衝撃を受けることになる。それは今でも忘れることができない光景、50本近いサクラマスが川の深みにひしめき合って泳いでいるのだ。岩場に座り込んで、もう二度と見ることのできないであろう素晴らしい光景を思う存分に楽しんだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 朝霧が充満する新緑に覆われた早朝の渓谷に降り立つ。オジロワシが立ち木に止まり、まるで水墨画のようなイメージで景色に溶け込んでいる。増水期にここまでやってくる人間なんていないだろうから、警戒心の強い彼等も安心し切っているのであろう。しばらくは驚かせないように静かにしていたが、いつの間にか渓谷の奥に消えて行った。
 ところどころ腰まで浸かって函の入口までやってきた。ここで対岸に渡らないと目的とする滝壷まで到達することが出来ない。まるでダムの放水口のようにゴウゴウと音を立てて、白い水柱となって落下している滝が見える。やはりダメだ。渡渉できない。腰以上の深さで流れる強い流れでは到底太刀打ちできない。転倒して水をしこたま飲むくらいならまだ良いほうで、岩に頭を打ち付けて死ぬのが関の山だ。
 回れ右、いつの間にか朝霧は消え、新緑の明るい緑が渓谷に充満し、キラキラと輝いている。釣果は全くなかったが清々しく美しい光景に十分に満足した。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ここ1週間の間にその場所で竿を出した最初の釣り人は私だったようだ。サクラマス十数本が泳いでいるのが見える。こんな光景はそうそう見られない。餌を流すと食いついてくる!しかし、釣り針の返しを潰し、魚体に触れずにリリースしたとしても、死に物狂いで抵抗し、相当のダメージを受けている魚のことを思うと、「食うために獲る釣り」ではなく「ただ単に遊ぶためだけの釣り」が止められそうもない自分がつくづく嫌になる。
 適当に切り上げて、いつもの草付きのガレ場に取り付いて滝を高巻きし、深い笹薮を漕ぎ、そして真新しいヒグマの踏み跡のある湿地帯を歩き、立ち木を支点にロープを使ってゴルジュの真っ只中に降りる。
 結果は、一匹のオショロコマすら釣れなかった。数年前に目にした50本近いサクラマスが川の深みにひしめき合って泳いでいる光景は幻だったのだろうか?サクラマスのいないエメラルド・グリーンの流れを見つめながら、「いつかまたきっと…」と呟いてから帰路についた。


5.知床の森を歩く−9月のある日…

15.JPG
手元に残ったのは巨木を写したパッとしない
デジタル画像とずしりと重いマイタケだけだった。

 9月のある日。いつもの通いなれた尾根筋を駆け下る。過去にマイタケを見つけたミズナラの根元を覗き込むが残念ながら全く収獲がないので、尾根筋を外れてみることにした。鹿道を辿って以前から気になっていた斜面に足を踏み入れてみる。ヒグマの真新しい足跡がベタベタと付いているが、ここで引き返すようでは知床の森歩きは楽しめない。警戒レベルを引き上げて、マイタケ探しを続行するものの成果は芳しくなく、子実体を広げ始めた小さめの株を一つ拾っただけだ。
 歩いてきたルートは、ホウノキが非常に良く目立ち、倒木が全くといっていいほど見られない。下生えもほとんどなく、都会の公園の中を歩いているように感じるほどの明るい雰囲気なのだが、恐らく繰り返し伐採を受けてきた森だと推察される。
 もう少し斜面を登っていくと幹周り6mを超える伐採の手から逃れたミズナラのある尾根筋に出るのだが、このまま歩いても成果は期待できそうもない。これからどうしようかと考えていると、私の頭上を音もなく何かが滑空し、森の奥へと一瞬で消えていった。思わず心の中で「鷹だ!」と叫んだが、オオタカかハイタカのどちらかであろう。強烈な存在感を放つ彼らとの出会いはいつも一瞬だが、いつも心に残る出会いとなる。
 最初の尾根筋に戻って小一時間ほど歩いて、数年ぶりに訪れるある尾根筋を歩くことにする。残念ながらこの尾根筋も下部の斜面は抜伐されているが、比較的良好な状態で植生が残っており、マイタケが期待できるのだ。
 尾根の末端に取り付いてから5分も立たずに、複数株のマイタケを発見する。残念ながら収獲適期は過ぎてしまっているが、比較的状態の良い株だけを回収し、子実体を開き切っている一番大きな株には手を付けずに放置することにした。
 その後は空振りのまま尾根を登っていくが、途中からやたらとドングリの皮入りのヒグマの糞が目に付くようになる。明らかにヒグマのテリトリーに侵入しているようだ。深追いは禁物で、彼らと遭遇する確率が確実に上昇している。急な尾根筋を登り切り、左手の斜面をヒグマに警戒しながら下っていくことにする。ここから先は初めて足を踏み入れるエリアだ。
 濃緑のユズリハの下生えを掴みながら、ミズナラが点在する斜面を下っていくと、ミズナラの老木の根元で腐りかけたマイタケを発見する。エゾシカが踏み潰した足跡がはっきりと残っている。こうやって誰の目にも触れずに発生しては腐っていくマイタケがどれほどあるのだろうかとぼんやり考えながらも、秘密の地図に丸印を付けることを忘れない。
 斜面を下って大きなボール状の地形の底を流れる小さな沢の水で喉を潤し、しばらく歩いてから気が付いた。沢をはさんで一方は苔むした岩石が所々顔を出し、太いダケカンバが林立する急斜面であり、もう一方は林床がユズリハに覆われたトドマツとミズナラが混在する緩斜面となっている。知床ではよく見かける特徴的な植生だが、恐らく、火砕流か山体崩壊によって大岩で埋め尽くされた斜面が侵食され、数千数万年の時間をかけて植生が遷移している過程を目の当たりしているのであろう。
 そろそろ帰りのルートを決めなければならない。ヨレヨレの地形図を見ながら、このまま斜面をトラバースし、迷うことなく沢まで導いてくれる急な尾根筋を下降し、沢を下っていつものルートに合流して戻ることにする。
 初めて歩くルートはいつも緊張と期待が入り混じった複雑な想いを持ちながら歩くことになる。ヒグマとばったり遭遇してしまうのではないか、ルートを誤って予定していた場所とは全く違う所に迷い込んでしまって修正できなくなってしまうのではないか…。不安な気持ちで一杯になってしまうのはいつもの事だが、期待を裏切らない予想外の偶然がそんな気分を吹き飛ばしてくれるのだ。この日も偶然は突然やってきた。鹿道を辿りながら急な斜面をスリップしないように慎重に歩いていると、不思議な違和感を感じる1本のミズナラに目が止まった。導かれるようにそのミズナラに近づいていくにつれて、どんどん期待が膨んでいき、興奮し始めている自分に気付く。
 そう、それは幹周り6mを超える威風堂々たる巨木だったのだ。目の前にあるミズナラが何物にも替えがたい、特別な存在であると感じられたのは、全く切り株が見当たらない森で出会ったからこそなのであろう。恐らくこんな山奥まで歩きに来る物好きはそうそういないだろうから、もしかすると誰にも知られていない巨木かもしれない。
 決して良いとは言えない環境の中で数百年の年月を耐え抜き、今現在も力強く生きている巨木との数々の偶然の出会いがあるからこそ、森歩きは止められない。
 予定通り、急な斜面をトラバースし、目星をつけた尾根筋を沢まで下り、いつものルートに合流し、ホッと一息をついてから帰路についた。

追記 大いなる自然の中で出会う特別に素晴らしい偶然は、例外なく捉えどころがなく、夢まぼろしのようだ。あの一瞬に確かに感じた、心に刻まれた「何ものか」は、気が付けば一瞬にして遠い彼方に消え去ってしまっている。今回も、手元に残ったのは巨木を写したパッとしないデジタル画像とずしりと重いマイタケだけだった。


6.厳冬を舞うワタリガラス−今も語り継がれる創世神話の主人公との出会い

raven2.jpg
早春の知床の海、流氷が消え、
ワタリガラス達が北に向かう日も近い

 道東の厳しい冬の始まりを私が感じるのは、やはりなんといっても白鳥の飛来です。平野部ではまだ紅葉が残り、それほど寒さを感じませんが、シベリア方面からやってきた多くの白鳥の姿を見ると、すぐそこまで、厳しい冬が訪れていることに気づかされ、あたふたと落ち着きをなくしてしまいます。くそ寒い冬の生活を思うと正直なところ、あまりいい気分になれないのですが、それでも、またいつものように冬が来るんだと、あきらめにも似た覚悟と、妙な安心感も感じるものです。そして、厳しい寒気で湿原を流れる川が結氷し、知床の山に雪が降り積もると、やがて突然、オホーツクの海岸に流氷が到来し、冬本番を迎えます。
 この季節になると、待ってましたとばかりに、私はスキーを履いて山に向かいます。森林限界を越え、すべてが凍りつく、寒気と強風に支配された厳しい空間にあえて自分の身を置くことで、極度の緊張感と解放感、恐怖と歓喜がごちゃまぜになった非日常的な感覚に、私はたまらない魅力を感じます。
 冬の知床の稜線上は人間にとっては非常に厳しい環境ですが、そんな厳しさをものともせず、優雅に滑翔している鳥がいます。オオワシのような威厳や力強さは感じられませんが、風と好奇心にまかせて、ただ気の向くままに天空を自由に舞っているかのように見える鳥、ワタリガラスです。彼らこそ、厳しい自然を何の気負いもなく、飄々と生き抜いている、知床を代表する非常に印象的な隣人だと私は感じています。
 さて、ワタリガラスとは、北極圏を含めて、北米からアジア、ヨーロッパにかけての北半球の非常に広い地域に分布している大型のカラスですが、日本ではあまり馴染みがありません。日本ではカムチャツカ方面から越冬のために飛来しますが、冬季の道東地域以外ではほとんど見ることができない珍しいカラスなのです。
 ヨーロッパなどでは、日本人の持つカラスのイメージ以上に、不吉な鳥として忌み嫌われているようです。しかし、北米の先住民達は今でも、ワタリガラスを地球、月、太陽、星、そして人間を創造した神として敬っており、数々の創世神話の主人公として、伝説を語り継いでいるのです。この鳥を知るようになったきっかけは、カムチャツカで亡くなられた星野道夫氏の影響です。星野氏の数々の著書の中で語られる、独自の文化を発展させてきた北米の先住民族の歴史と、彼等が伝えてきたワタリガラスにまつわる印象的な神話に興味を持ったからです。

 厳冬の知床では、天侯の穏やかな日であれば、必ずと言っていいほど彼らに出会えます。普通のカラスとワタリガラスを区別するには、彼等の特徴である大きな体格や、くさび型をした尾羽で見分けるよりも、明らかに普通のカラスとは違う鳴き声を聞き取ることのほうが簡単です。知床の山の中を歩いていると、頭上から妙な音が聞こえてきます。ハッと気づいて目をやると、ワタリガラスが優雅に滑翔していることでしょう。巻き舌気味で、痰を絡ませたような感じでしょうか、クワークワーという特徴のある鳴声や、キョポン、キョポンとなんだか珍妙な音の発生源が彼等なのです。
 川に沿ってスキーで歩いていると、時々エゾシカの死骸のそばで、オオワシやオジロワシに混じって、ワタリガラスを見ることがあります。面白いことにワタリガラスのくちばしでは、大型哺乳類の堅い毛皮を引き裂くことができないそうです。もし獲物の第一発見者が彼らだとすると、どうやって肉をついばむのでしょうか?写真集ブラザーウルフの中でジム・ブランデンバーグ氏は、獲物の皮を引き裂いてくれるオオカミを、ワタリガラスが意識的に呼び寄せ、おこぼれにありつくと考えているようです。
 北海道に住んでいたエゾオオカミが絶滅して百年以上が経ちますが、知床のワタリガラスがオオカミを意識的に呼び寄せていたかどうかを検証することは今となっては不可能です。しかし、そんなことはありえないという考え方には私は否定的で、オオカミだけではなく人間さえも、きっとこの騒がしい連中とお互いに付かず離れずの絶妙な関係を保ってきたと考えています。
 少し想像が飛躍しますが、トリカブトの毒矢や、仕掛弓を利用した高度な狩猟技術が普及してなかった頃、つまりアイヌ民族よりも遠い昔の人達が使った最も手っ取り早い狩猟技術を考えてみましょう。きっと彼らは、集落近くの見晴らしのいい所に立ち、弱り果てた動物や、死骸を前にして興奮気味に鳴き騒いで飛び回るワタリガラス達を探し出しては、獲物を横取りしていたのではと考えています。ワタリガラスは確実に食料のある場所まで導いてくれる狩猟神のような存在だったのではと想像が膨らみますが、アイヌ民族には残念ながらカケスやフクロウのように獲物まで導いてくれるカムイであったとの話は伝わっていないようですし、北米の先住民族のようなドラマチックな神話にもまだ出会っていません。
 例年、3月の終り頃にやってくる彼岸荒れを境に、オホーツク海沿岸の流氷は本当にあっという間に消えてしまいます。そして、ワタリガラス達も知床を離れ、オオワシやハクチョウも北に向かって旅立っていきます。そして短い夏があっという間に過ぎ、いつの間にか秋が終わると、また彼らに再会できる季節となるのです。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

raven1.jpg
早春の頂上、ワタリガラスの群れが私の頭上を旋回し、
好奇心を満たして飛び去っていった。

 ある年の3月下旬、知西別岳の頂上で休息していた時のことです。午後からはあいにく雲がかかり、風も強くなってきましたが、季節はもう確実に春。オーバージャケットがガチガチに氷つくこともなく、風に吹かれながらぼんやりしていました。すると、数羽のワタリガラスが遠音別岳方面から羅臼岳方面に向かって、いつものようにユニークな鳴き声を発しながら飛んで行きました。しばらくするとまた同じように、別の群れが羅臼岳方面に向かって飛んで行くのです。よくよく見ていると、遠音別岳方面からまた別のワタリガラスの群れがこちらに向かって飛んでくるのです。それも、次から次へと数羽単位の群れが断続的に飛んでくるではありませんか!
 すかさず彼らにコールしてみると、わざわざ私の頭上に飛んできて数回旋回し、念入りに私を観察してから羅臼岳の山腹に消えていく群れもあります。全ての群れが私の頭上を旋回するわけではありませんが、いくつかの群れが私の頭上を旋回し、好奇心を満たして飛び去っていきました。
 おそらく、オホーツク海から吹き付ける風が知床連山にぶち当たることで発生する上昇気流をワタリガラス達はうまく掴まえて一気に上昇し、そこから全く羽ばたくことなく滑翔しながら移動しているのでしょう。たぶん、その日のうちに、知床岬を抜けて国後島に渡ったのではないでしょうか。次から次へと群れになって北に向かってワタリガラスが滑翔していく光景はもちろん、私のコールに答えるかのようにわざわざ私の頭上を、それも手が届くのではないかと錯覚するぐらいに近づいて旋回していくワタリガラス達に出会うのは初めての経験です。
 野生に生きるワタリガラスの寿命は定かではありませんが、もしかすると別の機会に彼らと出会うことがあるかもしれません。私ならとても生きていけないような厳しい環境を生き抜いてきた尊敬すべき彼らと、限りのある生命を持ち、今を生きている者同士が、同じ時間、同じ空間を一瞬でも共有できたことは、私にとってかけがえのないことです。そしていつの日か、雪と氷に覆われた知床の稜線上で、またあの時のワタリガラス達と再会できる日を待ち望んでいます。


7.クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷の乱)−血塗られた歴史から人は何を学ぶのか

sunrise.JPG
朝焼けの国後島、血塗られた歴史から何を学ぶ?

 1789年5月、クナシリのフルカマップ首長マメキリ、セツハヤフら41人が一斉に蜂起し、松前藩の足軽、飛騨屋の現地支配人・通辞・番人ら22人を殺害、シベツ付近のアイヌ89人も加わり、メナシ地方(標津・羅臼付近)の支配人、番人ら49人を殺害しました。
 和人で生き残った者はわずかに4人。この事実が松前城下に伝わり、260人の鎮圧隊が組織され、ノッカマップ(根室)に到着した鎮圧隊は、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリのトウフツ首長ツキノエらに取調べを行わせました。
 翌日、直接の加害者である37人に死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引きだして次々と首をはねていきましたが、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげ、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、牢を引き倒して37人全てを処刑しました。
 その後、処刑した者全員の首を塩詰めにして松前に運び、胴体はその場に穴を掘って埋めて標柱が立てられましたが、現在もその場所は特定されていないそうです。

 辺境の地で起こったクナシリ・メナシの戦いのはなぜ起きたのでしょうか。取調べの記録によると、飛騨屋の支配人、番人らが行ったアイヌの人々に対する非道、漁場労働の報酬としてはるかに少ない物品(米・煙草・マキリ)しか与えなかったこと、女性に対する暴行が日常化していたこと、毒殺あるいは釜で煮殺すと常に脅迫していたことなどが重要な背景として挙げられます。
 そして、戦いのリーダーであるマメキリの兄、クナシリの総首長サンキチが、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛が持ってきた酒を呑んで死に、マメキリの妻が和人からもらった飯を食べて死んでしまいました。毒殺であったのかどうかの真相は今となってはわかりませんが、「アイヌを根絶やしにする」という脅しが現実味を帯びてきたのです。平和な時代に生きる我々には想像もつかないような悲惨な状況の中で追い詰められ、起こるべくして起きた悲しい事件だったのかもしれません。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 さて、江戸時代以降の北海道の歴史を振り返ります。
 1582年の本能寺の変で急死した織田信長の後、豊臣秀吉が全国統一を果たした後の1593年、コシャマインの乱(1456)以降、安東家に代わって松前地を統括していた武田信広の五代目の孫、蛎崎慶広が豊臣秀吉から独立大名として朱印状を与えられ松前藩が成立し、アイヌとの交易のために集まる船舶からの税金徴収の権利を得ます。蛎崎氏は1599年に徳川家康に臣従して松前氏に改名、1600年の関が原の合戦、1603年の江戸幕府の成立を経て、1604年に松前氏は徳川家康から黒印状を与えられ、蝦夷地における交易の独占権を握ることになります。
 当時の蝦夷地は米が獲れず、本州のように年貢をとることができないため、松前藩はアイヌの人々との交易による利益で藩が成立していました。交易品には、和人側からは米、酒、煙草、あらゆる儀式(カムイノミ)に必要な用具が作られるマキリやサケの安定的捕獲を可能にするマレックや斧、針などの鉄製品、木綿、絹布、鍋、漆器などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは干鮭などの海産物のほかに、熊やラッコなどの毛皮、弓矢の羽に使う鷲羽、熊の胆などの産物がありました。不安定な財政の安定化を図るため、交易のほかにも、松前藩は、幕府への献上品としての鷹の捕獲、砂金や砂鉄などの鉱物資源の活用、木材生産などによる収入もあったようです。
 やがて、1643年には松前藩成立後最初にアイヌが蜂起し、1669年にはシャクシャインの乱が起こります。当時のアイヌは部族間の抗争を激しく繰り返していたことが知られていますが、松前藩に不満を持ち、和人を排斥しようとしたシャクシャインを中心に一部のアイヌが結束した様子が、津軽一統志からも読み取れます。
 しかし、民族としてのアイデンティティを確立する転機になったかもしれない可能性も、シャクシャインの死によって失われ、松前藩はアイヌの人々に対して絶対服従を要求する起請文を受諾させ、支配を強化していきます。特に、シャクシャインの乱以後、良質の鉄器、刃物はもちろん、農具も与えなかったようです。アイヌといえば狩猟採取民族のイメージがありますが、労働力としての搾取を強化し、一方的な交易を徹底するための政策として、自給体制を奪うために本格的な農耕を排除する意図があったのでしょう。

 松前藩とアイヌとの交易は当初、道南の和人地を中心に行われていたようですが、土地の支配権を得た藩士がアイヌコタンへ年に1〜2回商船を仕立てて交易する、商場知行制が行なわれるようになります。1600年代半ば以降は近江商人が進出し、昆布、フカヒレ、ナマコ、アワビなどを長崎経由で送り、清王朝と貿易していたようです。そして、1700年代初頭には、商人が権利金としての運上金を支払って交易する場所請負制に切り替わっていきます。
 やがて商人自身が漁業経営を行うようになり、アイヌの人々を交易相手ではなく、海産物を直接生産するための労働力へと転化・従属化させ、強制連行、強制労働を行わせるようになります。
 ちなみに、1700年代末の和人地の人口は2万6千人と言われていますが、一方のアイヌは1800年初頭で約2万7千人、1800年代半ばには1万9千に激減したと言われています。その原因の一つとして、天然痘や麻疹などの伝染病の流行が考えられています。
 さて、交易の話に戻ります。1669年までには宗谷、厚岸まで交易場所が開かれました。つまり、サハリン以北、根室・知床半島以北については、、交易活動は別にして和人の影響があまり及んでいなかったのかもしれません。
 それからしばらくたった1774年、松前藩への貸し金5000両余りの代償として、飛騨屋が厚岸、キイタップ、クナシリ、宗谷などの各場所を請け負うことになります。しかし、クナシリの首長ツキノエは飛騨屋の荷物を奪い取るなどして、1782年に交易が再開されるまでの8年間、飛騨屋はクナシリ場所での交易ができない状況になりました。
 その間、そのツキノエが案内人となって、1778年と1779年に交易を求めてノッカマップと厚岸に、ロシア人のシャバーリンが来航し、最終的には松前藩から交易を拒否されています。
 ちなみにシャバーリンは非常にマイナーな人物ではありますが、1792年にロシアの代表として通商交渉のため、エカテリーナ号で根室に来たロシアの使節ラクスマン達の先導も務めた人物です。翌1793年に函館での通商交渉の結果、1783年に遭難し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した神昌丸の船頭大黒屋光太夫らが日本側に引き渡され、ラクスマン側には幕府から長崎への通行許可書が渡されています。
 さて、ロシア人の来航の影響により、2年間飛騨屋はおそらく場所経営がまともにできなかったと思われますが、追い討ちをかけるように1786年には厚岸、キイタップ、クナシリ場所が幕府によって1年間借り上げられています。蝦夷地での交易の莫大な利益に目を付けた老中の田沼意次は、1785年に蝦夷地調査事業を行い、青島俊蔵らによって東蝦夷地、国後島、択捉島を調査し、竿取の最上徳内がウルップ島を調査しています。翌年の1786年に田沼が失脚したために事業は中止されましたが、この事業の一環として、幕府が飛騨屋から借り上げたのではないかと想像されます。
 このように、松前藩から場所経営を押し付けれらた飛騨屋ですが、厳しい経営状況を切り抜けるためにアイヌの人々を酷使した結果として、1789年の5月を迎えたのかもしれません。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ここで少し話題を変えます。1492年にコロンブスが新大陸を発見して以来、莫大な富を求めて地図上の空白地帯を駆け巡る動きが一段と激化します。ロシアも広大なシベリア大陸を東進し、高価な黒テンやラッコの毛皮を求めて、カムチャッカ半島からアリューシャン列島・千島列島に進出します。カムチャッカ半島をロシアの支配下に治めたのが1697年以降、アリューシャン列島からアラスカに到達したのが1741〜1742年です(ベーリングとシェリコフ)。千島列島については、1711年以降、次々と南下しながらロシアの支配下におき(毛皮税の徴収)、択捉島に到達したのが1767年です。1778年と1779年にはシャバーリンが松前藩士に交易を求めてノッカマップと厚岸に来航し、1792年にはラクスマンが通商交渉のために根室に入港し、越冬後の翌年、函館で長崎への通行許可証を受けています。その後、1807年にロシアによる択捉島などでの襲撃事件が起こり、幕府による報復措置として1811年に国後島においてゴローニン事件が起き、後にロシア人に拿捕された高田屋嘉兵衛平によって紛争が解決されています。
 この他にも、1738年にはベーリング探検隊のスパンベルグが宮城県牡鹿町沖で藩の役人と接触、同行のウォールトンが千葉県安房郡に上陸しています。また、オランダ東インド会社の船長フリースが、1643年に北海道、サハリン、千島列島を測量しながら地図を作成し、厚岸湾にも停泊していることが知られています。
 一方、江戸幕府が国後島以北に目を向けたのは1785〜1786年に実施した蝦夷地調査、1791年の最上徳内による調査、1798〜1802年までの近藤重蔵による調査・経営、1806年には間宮林蔵による測量があり、1854年には松浦武四郎による蝦夷地・樺太・千島の地図が幕府に献上されています(伊能図は1821年に大成)。
 なお、東蝦夷地は1799年に幕府直轄地となり、1803年にアイヌがウルップ島への渡航が禁止されました。当時、ウルップ島には土着のアイヌはおらず、シムシル島以北の「チュプカアイヌ」と択捉島以南のアイヌとの入会地となっていたそうですが、これを契機に交易が途絶えることになります。(付表参照)

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ところで、和人を殺害したアイヌを明らかにするために松前藩に協力することになった他の首長たちの事件発生時の動きを見てみます。クナシリの首長ツキノエは択捉島・ウルップ島で軽物(鷲羽や毛皮、熊の胆などの物品)交易を、ノッカマップの首長ションコは斜里方面からの帰路の途中、アッケシの総首長イコトイは、ツキノエの末子イコリカヤニと船団を組んで択捉島・ウルップ島で漁・狩を行っていたそうです。彼らはどのような思いを持って松前藩に協力したのかは今となっては知る由もありませんが、和人を殺したアイヌの人々が徹底抗戦するつもりで準備していたのをなだめてノッカマップに集めたといいます。
 銃を入手して白人と交戦した南東アラスカのクリンギット族と違い、鉄砲を持たなかったアイヌの人々が、松前藩と交戦したとしても武力の差は明らかなものがあったことでしょう。ロシアの支配下に置かれている北千島やカムチャッカに逃げることも現実的ではないでしょう。そうすると、現状維持が妥当な選択肢と判断せざるを得られなかったことも分からなくもありません。
 特にクナシリの首長ツキノエは18人もの妻、妾を各地に住まわせていたと言われるほどの、強い影響力を持った人物であったことも知られています。自分の息子であるセツハヤフが和人襲撃の中心メンバーであり、結果的に松前藩に殺されることになったとしても、飛騨屋に一方的に酷使・搾取される名もなきアイヌとは違って、松前藩やロシアとの交易によって得られる莫大な利益と揺るぎのない地位を捨てる選択肢はありえなかったことは、誇り高きアイヌの猛者である彼自身が他の誰よりも理解していたのではないでしょうか。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 1789年に起こったクナシリ・メナシの戦いを物語るものとして、現在、我々が目にすることのできるものとして、蛎崎波響による「夷酋列像」があります。これは、和人を殺害した者を明らかにするために松前藩に協力するなどした12名のアイヌを描いたものです。この他にも、「横死七十一人之墓」と彫られた石碑があります。現代語訳で、「寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」と刻まれています。「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれていることから、1812年に造られたようですが、1912年(明治45年)に根室の珸瑤瑁の浜で発見され、珸瑤瑁地区の墓地にあったのですが、現在は納沙布岬に移されています。
 また、1974年から毎年9月末に根室のノッカマップで「イチャルパ」、アイヌ語で供養祭という意味の催しが行われています。ウタリ協会根室支部などの人々が中心になって、クナシリ・メナシの戦いの犠牲者であるアイヌと和人の供養をための祭事が催されています。
 北海道に移住する前までは、厳しい環境の中でも発揮される卓越した能力を持つアイヌ民族が、無限とも言える食料が得られる野山を自由に跋渉している姿を漠然とイメージしていましたが、今では交易活動抜きに当時のアイヌの人々の生活を考えることはできないと考えています。
 そして、交易活動の末路は、搾取する者と搾取される者を生み、搾取される者が辿る運命は、例外なく悲惨な結末を迎えるように私には思えます。搾取する者は人の生命を踏みつけながら、とどまることを知らない欲望を追及するのが世の常であり、同じような悲劇が、現在を生きている我々の時代にも普通に存在し、そのような経済システムを基礎にして我々の豊かな生活が成り立っているように私には思えるのです。

付表 日本人漂流民から見たカムチャツカ周辺の歴史(1648〜1855)

1648 ・セミョン・デジニョフ(コサック)が、ヤサーク税徴収のため、商人フェドット・アレクセイエフとコリマ川を出帆後にベーリング海峡を南下。途中ヤサーク税納入を拒否したチュクチ人と衝突、暴風により漂流・難破するものの、デジニョフはアナディーリに生還する。
※フェドットは行方不明となるが、ロシア人で初めてカムチャツカ半島の地を踏んでいたというカムチャダールの言い伝えが残されている。
※ベーリング探検隊よりも先に、アジア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことが確認されていたことになる。
1669 ※シャクシャインの乱。
1695 ・ウラジーミル・アトラソフ(コサック)が、アナディーリ城砦司令として派遣される。
◎伝兵衛ら一行15名が、大坂から江戸に向かう途中に漂流。
1696 ・アトラソフの部下、ルカ・モロズコがカムチャッカ半島を南下し、チギリ川まで到達する。
◎オパラ川付近に漂着。伝兵衛はクリル人の捕虜となった後、カムチャツカ川下流域のイテリメン人集落に送られる。
1697 ・アトラソフら、ベンジナ川を経由し、西海岸側を南下。チギリ川付近まで南下後、カムチャツカ川下流域に移動。
各地の原住民からヤサーク税(主に毛皮類)を徴収する。
◎伝兵衛、アトラソフら一行に保護される。
1698 ・アトラソフら、西海岸側に出て、ゴルィギン川まで南下し、イチャ川で越冬。
1699 ・アトラソフら、アナディーリに帰還。"◎伝兵衛、ヤクーツクを経由してモスクワに送られるが、後に  日本人であることが判明する。
1702 ◎伝兵衛、ピョートル一世に拝謁するが、日本帰国の許可されなかった。
1705 ◎ペテルブルグに日本語学校が開設され、伝兵衛が日本語教師となる。
1706 ・ワシーリー・コレソヴ(カムチャダール城砦隊長)が、ミハイル・ナセッドキンをカムチャッカ半島最南端ロパトカ岬に派遣し、ロパトカ岬以南に島があることを報告。
1710 ◎アバチャ湾北方カルィギリ湾に10名が漂着。サニマ(三右衛門)以外の8名は殺害、1名は行方不明。
1711 ・アトラソフら殺害事件に関与したイワン・コズイレヴスキー(コサック)らが北千島列島の占守島に逃亡。
1713 ・ヤサーク税の徴収と千島列島及び日本国の調査のため、イワン・コズイレヴスキーらが派遣され、占守島、幌筵島に到達。
◎コズイレヴスキーら一行に、サニマが同行する。
クジマ・ソコロフ(ヤクート官史)が、ピョートル1世より、オホーツクからカムチャツカへの新航路の調査命令を受ける。
1714 ・ソコロフら、ヤクーツク出発。
◎サニマ、ペテルブルグに送られ、日本語学校で伝兵衛の助手となる。(伝兵衛 没年不明、サマニ 1734年死去)
1716 ・ソコロフら、オホーツクを出帆後、チギリ川に到達。コルパコワ川付近で越冬。
1717 ・ソコロフら、オホーツクに帰還し、オホーツクからカムチャツカへの新航路を開拓。
1720 ・ピョートル1世の秘密命令により、ヒョードル・ルージンとイワン・エブレイノフがオホーツクを出帆。イチャ川に到着、ニジニ・カムチャツカで越冬。
1721 ・ルージンら、千島列島を調査し、新知島と推定される島に到達する。
※秘密命令の内容は、千島第6島に存在すると過去に報告されていた銀鉱山の調査と考えられている。
1724 ・ピョートル1世より、カムチャッカ方面から北方に続く海岸を進航し、やがて現れるであろう陸地がアメリカに至ることを明らかにするよう勅命が下り、探検隊が組織される。
1725 ・隊長ヴィトゥス・ベーリング(デンマーク人)ら、サンクトペテルブルグを出発。
※ピョートル1世死去。
1727 ・探検隊、オホーツクに到着。アフアナシ・シェスタコフ(カザーク)によるヤサーク税徴収を兼ねた探検隊が組織され、ペテルブルグを出発、オホーツクに到着。
1728 ・探検隊、オホーツクを出帆、ボリシャ川河口付近のボリシュレックに到着後、ニジニ・カムチャツカまでの陸路約900kmを移動。
・探検隊、聖ガヴリール号を建造・出帆後に、ベーリング海峡を北上、8/15に北緯67度18分まで到達するが、明確な確証を得ないまま、アジア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないと判断し、ニジニ・カムチャツカに帰着。
1729 ・探検隊、6月にアメリカ大陸を目指して再度出帆するが、すぐに帰還を決定し、ロパトカ岬を回って、7月にオホーツクに帰着、8月にヤクーツクに帰着。シェスタコフら、探検隊がオホーツクより出帆後、船が難破。
◎薩摩より江戸に向かった一行17名が、ロパトカ岬北方海岸に漂着。ゴンザ(権蔵)とソーサ(宗蔵)の2名が生存。
1730 ・探検隊、3月にペテルブルグに帰還。
・ベーリングがピョートル2世に新しい探検計画を提出。"チュクチ人との戦闘でシェスタコフが死亡。新隊長パウルツキーにより探検を継続。
◎ゴンザとソーサ、ペテルブルクに送られる。
1732 ・ベーリングらに探検準備命令が下る。"7月に隊長ヒョードロヴ(副舵手)、副隊長グブォズデヴ(測地学者)らがニジニ・カムチャツカを出帆。
・アジア大陸のデジネフ岬周辺、アメリカ大陸のプリンス・オブ・ウェルス岬周辺を航行・調査し、ニジニ・カムチャツカに9月帰着。
※ベーリング隊よりも先に、アラスカが発見されていたことになる。
1733 ・探検隊、ペテルブルグを出発する。
1734 ◎ゴンザとソーサ、女帝アンナに拝謁。ロシア科学アカデミー付属の日本語学校の教師となる。
1736 ◎ソーサ死去。
1737 ・探検隊、ヤクーツクからオホーツクへ移動。
1738 ・日本探検のための別動隊が出帆。
・隊長マルティン・シュパンベルク(デンマーク人)が指揮する「ミハイル号」は、6月にオホーツクを出帆。7月にボリシュレックを出帆後、千島列島を南下。ウルップ島を通過した時点で帰還を決意し、8月にボリシュレックに帰着。
・海軍大佐ウォルトン(イギリス人)が指揮する「ナジェジダ号」は、北緯43度(北海道と同緯度)に達したが、海岸を発見できずにボリシュレックに帰着。
1739 ・シュパンベルクが指揮する「ミハイル号」は、5月に再度出帆し、6月に海岸線を発見。6/22に牡鹿半島の宮城県網地島沖に投錨。住民や役人と、船上で物品の交換や酒席が設けられたが、およそ900人80隻の船が押し寄せたことを知り、敵対行為を恐れ、上陸せずに北上。8月にボリシュレック経由でオホーツクに帰還。
・ウォルトンが指揮する「ナジェジダ号」は、5月に出帆後、故意にシュパンベルクと別行動をとり、6/19に房総半島の千葉県天津沖に投錨。淡水を得るためボートで上陸、現地住民と物品や酒の交換等を行ったが、百隻以上の小船が集まってきたため、敵対行為を恐れ、すぐに揚錨し、帰還を決定。8月にボリシュレック経由でオホーツクに帰還。
※シュパンベルクとウォルトンが日本沿岸に到達したとする報告は、しばらくの間は信用されなかった。
◎ゴンザ死去。
1740 ・ベーリングが指揮する探検隊本隊が、オホーツクから「聖ピョートル号」、「聖パーベル号」出帆。ボリシュレックに入港、アバチャ湾で越冬。
1741

・隊長ベーリングの乗る「聖ピョートル号」とチリコフの乗る「聖パーベル号」は、6/4に出帆、6/20に強風に見舞われ、以後離ればなれとなる。

・ベーリングら、7/16にヤクタット湾沖の海上よりセント・エライアス山地を発見。7/20にコッパー川河口付近のカヤック島に上陸。
・ベーリングら、アラスカ半島沿いに西進し、8/30にシュマージン諸島のナガイ島に停泊。9/4に2隻のバイダルカと2名のアレウト人と接触。ゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラー(博物学者)らがボートで上陸する。翌9/5にも10名のアレウトと接触。9/6に出帆。
・ベーリングら、暴風が続き、壊血病患者と死者が徐々に増え、11/5にコマンドルスキー諸島(現在のベーリング島)に漂着の末に難破。
・12/8にベーリング死亡。以後、ゲオルク・シュテラー(ドイツ人医師・博物学者)が隊長となる。
※1991年ロシア・デンマーク合同調査団によりベーリングの墓が発見され、翌年に再埋葬されている。

・一方のチリコフら、7/15に南東アラスカのアレキサンダー諸島(プリンス・オブ・ウエルズ島周辺)に到達。上陸適地が無いため北上。7/17にチチャゴフ島リシャンスキー海峡に停泊。飲料水を得るため、ボートで11名を島に向かわせるが行方不明となる。7/24に再度4名を陸に向かわせるが、同じく行方不明となる。
※現地のトリンギット族に殺されたとの説より、干満の際に発生する潮流に引き込まれて沈没したであろうとの説の方が有力。"
・チリコフら、7/25に2隻の船に乗る原住民が「アガイアガイ」と叫び、手を振るのを認める。※アガウ=ここに来いという意味との説あり。"
・チリコフら、ボートを失い、飲料水の補給ができなくなったため、アラスカ湾を北上し、アリューシャン列島を西進。9/8にアダーク島投錨。
・チリコフら、翌9/9にアレウト人7人が乗るバイダルカ1隻と接触後、同日揚錨。アリューシャン列島を西進、10/9アバチャ湾帰還。70名中49名生還。
1742

・チリコフら、5/25に再度出航、6/8にアッツ島発見後に帰還を決定。「聖ピョートル号」生存者がいたベーリング島を通過、7/1にアバチャ湾に入港。8月にオホーツクに帰還。

・ベーリング隊生存者、難破した「聖ピョートル号」を解体し、8月に小型船を建造。シュテラー、副官スヴェン・ワクセル(スウェーデン人)ら生存者46名が乗り込み、8/13に脱出し、8/26にペトロパブロフスク湾に入港。
※ベーリング島で捕獲した700頭以上のラッコの毛皮が持ち帰られる。
1743 ・ペテルブルクにベーリング死亡の報が伝わり、探検事業が中止となる。
・ベーリング隊の生存者 シュテラー、ワクセルら、オホーツクに帰着。
・ラッコの毛皮を求めて、農民エメリヤン・バアソヴがベーリング島へ向かい、越冬する。
1745 ・ミハイル・ネヴォドチコヴとヤコヴ・チュープロヴ以下、45名の狩猟者・イテリメン人がアリューシャン列島に向かう。アッツ島にて多数のアレウト人を殺害するが、後に処罰される。
◎南部下北より江戸に向かった多賀丸一行17名が千島列島オンネコタン島に漂着。生存者10名がボリシュレックに送られる。
1746 ・ベーリング隊の生存者 シュテラー、チュメニにて死亡。ワクセルらはペテルブルクに帰還(生存者77名中45名)。
◎多賀丸生存者のうち5名、ペテルブルグに送られる。
1753 ◎ペテルブルクの多賀丸生存者3名(勝右衛門、伊兵衛、久太郎)、イルクーツクに送られる。
1754 ◎イルクーツクに日本語学校移設する。
1766 ・イワン・チョールヌイ(コサック)らが派遣され、1769年まで新知島や得撫島、択捉島に滞在。
◎ボリシュレックの多賀丸生存者4名(三之助、利八郎、久助、長助)、イルクーツクに送られる。
1774 飛騨屋が厚岸、キイタップ、クナシリ、宗谷などの各場所を請け負う。
1775 ・カムチャツカ長官ベムとヤクーツク商人ラストチキンにより、南千島探検隊が組織される。
1777 ・シャバーリン(商人)ら、探検隊がオホーツクを出帆
1778 ・探検隊長アンチービン(貴族)とシャバーリンら、北海道厚岸に到達。松前藩役人に通商を申し入れるが、翌年国後島に再訪するよう回答され、得撫島で越冬する。
1779 ・アンチービンら、北海道根室(ノツカマップ)に滞在、8月に厚岸を再訪し、松前藩役人と再交渉した結果、通商を事実上拒否される。
※1778、1979年共に案内役となったのが蠣崎波響作の夷酋列像で有名な国後島アイヌ首長ツキノエ。
1782 ◎伊勢白子港から江戸に向った神昌丸一行17名が漂流。アリューシャン列島アムチトカ島に漂着。先住民のアレウト人やロシア人毛皮狩猟者らと約4年間生活する。
1787 ・ショリホフ・ゴリコフ毛皮会社が設立され、コディアック島に入植地を築く。
◎船頭大黒屋光太夫光ら、ロシア人と共に船を建造し、アムチトカ島を脱出。
1789 ◎光太夫ら生存者5名、イルクーツクに送られる。
※クナシリ・メナシの戦い。
1791 ◎博物学者キリル・ラクスマンらの協力を得て、ペテルブルグにてエカテリーナ2世に謁見し、光太夫、磯吉、小市の3名の帰国が認められる。新蔵、庄蔵はイルクーツクで帰化、残留。
1792 ・ロシア最初の遺日使節アダム・ラクスマン(キリル・ラクスマンの次男)が派遣され、「エカテリーナ号」にて北海道根室に入港し、越冬する。
◎アダム・ラクスマンと共に「エカテリーナ号」にて光太夫、磯吉、小市が北海道根室に入港(小市1793年死去)。
1793 ・ラクスマンら、北海道松前にて、漂着民大黒屋光太夫らを送還。江戸幕府との通好交渉は成功しなかったが、長崎への入港許可証を得て帰国。
◎光太夫、磯吉、松前から江戸に送られ、帰国を果たす。(1828年に光太夫死去、1838年に磯吉死去)
1794 ◎石巻から江戸に向かった若宮丸一行16名が漂流、アリューシャン列島に漂着。
1795 ◎若宮丸生存者15名が、オホーツクに送られる。
1796 ◎若宮丸生存者14名がイルクーツクに送られる。(神昌丸漂流民の新蔵、庄蔵とも交流を持つ)。
1799 ・ロシア領アメリカの領有を宣言する。
1803 ・世界一周航海艦隊隊長であり第2次遺日使節であるニコライ・レザノフ(ロシア官僚・外交官、露米会社総支配人)と、帰国が許された津太夫ら4名と善六はナジェージダ号に乗船し、バルト海クロンシュタット港から大西洋を横断、南米を回り、ハワイ経由でカムチャッカに向かう。
◎ペテルブルグにてアレクサンドル1世に拝謁。津太夫ら4名の帰国が許される。善六ら9名は帰化、残留。
1804 ・ナジェージダ号、ペトロパブロフスクに到着後、長崎に寄港。江戸幕府との通好要求を拒否される。津太夫ら4名は送還される。※善六はペトロパブロフスクで下船。
◎南部下北から函館で荷を積み、江戸に向かった慶祥丸一行14名のうち、千島列島パラムシル島に6名漂着。ペトロパブロフスクに送られる。
1805 ・レザノフら、長崎からペトロパブロフスクに帰港。
◎慶祥丸船頭継右衛門ら、カムチャッカを脱出し、パラムシル島に漂着。アイヌと共に羅処和島で越冬。
1806 ・ニコライ・レザノフの部下ニコライ・フヴォストフによるサハリンでの襲撃事件が起こる。
◎継右衛門ら、羅処和島から択捉島に帰着後、南部藩に帰郷。
1807 ・ニコライ・フヴォストフによる択捉島での襲撃事件が起こる。中川五郎治と佐平が捕虜となる。
◎中川五郎治と佐平、オホーツクに送られる。
1809 ◎中川五郎治と佐平、逃亡し、ウリヤ川に潜伏の後、オホーツクに戻る。
1810 ◎中川五郎治と佐平、再び小舟で逃亡。佐平死去。
1811 ・国後島で測量中のロシア海軍中将「ディアナ号」艦長ゴローニンが江戸幕府の役人に捕らえられる。
◎中川五郎治、コサックに発見され、イルクーツクに送られる。
◎大坂から江戸に向かった歓喜丸一行16名のうち、カムチャツカ半島に7名漂着。ニジニ・カムチャツクに送られる。
1812 ・根室・国後・択捉場所請負商人 高田屋嘉兵衛らが観世丸にて国後島付近を航行中、「ディアナ号」副艦長ピョートル・リコルドにだ捕され、高田屋嘉兵衛ら6名がペトロハバロフスクに連行される。
◎ゴローニン解放交渉の使者として中川五郎治と歓喜丸生存者6名が送られるが、国後島で逃走、帰着。
1813 ・リコルドが高田屋嘉兵衛らを国後島に送還。フヴォストフ事件に対するオホーツク長官の謝罪文を幕府に提示するため、リコルドらが「ディアナ号」にて函館に入港。高田屋嘉兵衛と再会し、交渉の結果、ゴローニンが釈放される。通訳として善六も同行。歓喜丸の久蔵を函館にて送還。
◎歓喜丸の久蔵、函館にて送還。
◎薩摩藩船 永寿丸一行25名のうち、千島列島ハラマコタン島に12名漂着。
1815 ◎尾張藩船 督乗丸一行14名が漂流の末、カルフォルニア沖でイギリス船に3名救出され、ペトロパブロフスクに送られる。
1816 ◎永寿丸 船頭喜左衛門ら3名、督乗丸 船頭小栗重吉ら2名が択捉水道まで送還され、離船後に択捉島へ帰着。
1853 ・ロシアとオスマン帝国軍が交戦する。
・海軍中将エフィム・プチャーチンが長崎に来航し、開国交渉を行う。
1854 ・英仏連合軍によるペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦が行われる。
1855 ・プチャーチンによる開国交渉の結果、日露和親条約が締結される。


8.白鳥を狩る民の足跡を探して−交易の歴史から未来を考える

 ポトピラベツ川。知床岳の北面に突き上げる沢であり、知床でも最もアプローチが難しい川のひとつ。私がこの川を強く意識し始めたのは、元獣医師であり写真家でもあるT氏の著書がきっかけだった。筆者によると、ポトピラベツ川はヤマメやイワナ、オショロコマで満ち溢れていたという。
 長い間、地図を眺めながら、想像を膨らませるだけの憧れの川となっていたのだが、2002年の夏、シーカヤックを使って初めてポトピラベツ川の河口に降り立ち、幻の魚止めの滝を目指して川を遡った。
 相当に期待していたのだったが、結果は見事な空振りだった。事前にチェックしていた1988年北海道大学図書刊行会発行の「知床の動物」には、ポトピラベツ川では淡水魚が採取されなかったとの調査報告があるが、その調査報告書のとおり、魚影は全くなく、首をひねりながら帰路に着いたのだった。
 おそらくT氏に悪意はなかったと思うが、前後の話の筋から推測してみると、入れ食いで釣れたという川はコタキ川のことであり、川の名前を間違ったか、勘違いして記述したのだろうと私は結論付けた。

 さて、ポトピラベツ川については、渡部由輝氏による「北帰行」にも記されている。渡部氏は昭和29年に発行された「網走道立公園審議会 網走道立公園 知床半島−学術調査報告−知床半島の地形及び地質」にある知床沼に関する記述に着目し、「知床岳頂部の湖として、プトピラウンベツ川を遡行して本湖に達する。アイヌ古老によれば、古来、鴨や水鳥を猟するところである(以下省略)」と引用している。
 相当の昔から「北帰行」にこの記述があることは知っていが、昔からその地に住んでいたアイヌの人々が、目と鼻の先の海に出れば全く苦労せずにタンパク源を得ることができるのに、なぜわざわざ山奥の湖に鴨を獲りに行く必要があったのか、さして興味を持つこともなかった。それに、河口からたかだか7km程度の距離ならば、驚異的な身体能力を持っていたアイヌの人々であれば、恐らく日帰りで十分往復できただろうとぼんやり考える程度で、いつも軽く読み飛ばしていたのだ。
 しかし、この学術調査報告書の引用元となっている大正5年に発行された「地学雑誌第28年 第336号 知床半島の地形及地質」のコピーを入手してからは興味が深まるばかりで、当時の人々がどのようなルートを辿ってポトピラベツ川の河口から知床沼まで到達したのか、この目で、この身体で確認しなければ気が治まらなくなった。
 門倉三能氏によるこの調査報告によると、現在、知床沼と呼ばれている沼について、「位置はサマツキヌプリ(1255m)西側頂上、大きさは未詳、オホーツク海より望めば山頂に滝見ゆプトピラウンペツより遡れば本湖に達すを得、アイヌ古老坂井文吉の談に依れば鴨、白鳥を猟する処なりと云う」と記述している。
 アイヌの古老、坂井文吉氏といえば、1984年斜里町立知床博物館協力会が発行した「知床半島西岸の地名と伝説」に記されている、知床半島先端部にある文吉湾周辺で明治時代に漁をしていたとされる人である。
 そして、アイヌの青年ラフィシュイと娘ユリカの恋物語と部族間の抗争を主軸とし、人としての生き方、生きることの喜び、幸せ、悲しみ、苦悩を語った非常に印象的なアイヌの伝説を、明治10年に入植した斜里町農業開拓の祖と言われる鈴木養太氏に伝えたとされる人物が坂井文吉氏なのである。※参考:栗沢喜重郎著書「反逆−哀愁のアッカンベツ」(昭和48年斜里郷土研究会発行)
 門倉氏が、当時案内役として坂井文吉氏を雇って調査に同行させたかどうかはわからないが、坂井文吉氏が語ったとされる、さして重要とは思えない昔話を、先入観や偏見を全く加えずにきわめて正確に書き留めたのだろう。
 長い間、わざわざ鴨や水鳥を獲りになぜ山奥の沼まで苦労して行かなければならないのか全く理解できなかったのだが、先述の記述を読んで、私の疑問は一気に吹き飛んだ。「水鳥ではなく白鳥なんだ!そうだ!白鳥狩りのために知床沼に行くんだ!」
 晩秋の11月、結氷前の知床五湖で白鳥を見たことがあるが、きっとシベリアから渡ってくる秋のきわめて短い期間のみ、集落の男たちが弓矢を携えて、こぞって山奥にあるその小さな沼に狩りに出かけたのだろう。
 交易品として珍重されたとされるタンチョウを、罠を使って捕獲していたと何かの記録で見た記憶があるのだが、きっと白鳥の白く美しく大きな羽根、そして柔らかな羽毛も交易品として珍重されたはずだ。
 いつの頃から白鳥を狩る人々のことが昔語りになったのかは定かではないが、知床の地で暮らす一部のアイヌの人々によって白鳥狩りが行われていたという昔話をかろうじて記憶していた人がいたこと、そして歴史から完全に消え去る運命だった昔話をギリギリのタイミングで書き留めた人がいたこと、この2つの偶然が重なりあったことは奇跡と言ってもいいだろう。 
 たった数行の記録であり、恐らく学術的には何の価値もないだろうが、私にはとても興味をそそられる物語である。今を生きる我々にとってどれほどの価値があるものなのか?これからの我々の生き方にどのような影響を与えうるものなのか?それらを自分の身体と頭で見極めるために、私はポトピラベツ川を再訪しなければならないのだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 2006年8月14日早朝、シーカヤックに沢歩きに必要な荷物を積み込んでキャンプ地を出発。今日は快晴で波も高くなく、ポトピラベツ川の河口付近のゴロタ石の海岸にもスムーズに着岸できた。波の影響を受けない高い位置にカヤックを固定し、いつものとおり渓流シューズに足を通していざ出発する。
 ポトピラベツ川から知床岳にいたる遡行記録についてはI氏によるものがあるが、あえて事前にチェックしなかったので、沢の情報は全くの白紙だ。知床で通過不能なルートなどはないだろうと常日頃から思っているのであまり不安感は感じない。
 出発してから鹿道をつないで極力足を濡らさないように歩いてきたが、標高75m付近の屈曲点からは沢が狭まり、水流の中を歩かなければならない。一度だけ倒木をスタンスにして低い滝を越えた程度で難しい滝もなく、そろそろ標高235m付近の二股に近づいてきた。やはり魚影は全くない。
 両岸は知床岬層と呼ばれる見るからに脆そうな礫層が侵食されて高い壁となっており、さらに右岸は安山岩質の溶岩がその礫層の上を流れて見事な柱状節理を発達させて固まり、そそり立っている。やがて目的としているタキミ川が垂直の滝となって流れ落ちている光景が見えてきた。ダメもとで確認したが本流にも垂直の高い滝が懸かっており、周囲は礫層の高い壁で完全に取り囲まれ、全くお手上げの状態だ。
 だが、長年沢歩きをやっているとこの程度ではあきらめることはない。2時間かかろうが3時間かかろうが高巻きして越えてやろういう気になるものだ。礫層の壁が切れるまで下流に戻って、左岸側から取り付いて斜面を登り切ると、明瞭な鹿道に合流することができた。鹿道に導かれてどんどん先に進むことにする。
 しばらく進むと、シュラフやビニールシートなどが散乱している場所に出くわした。いやいや参ったぞ、これはひょっとして?と思い、しつこく辺りを探してみたが、幸いなことに人骨は見当たらなかった。誰がどんな目的でここまでやってきて、装備を放棄して、どうやってこの場所から逃げ帰ったのか、さっぱり想像できなかったが、気持ちを切り替えて先に進むことにする。
 明瞭な鹿道は標高300m付近まで続き、滝を大きく巻いてポトピラベツ川本流に降り立つことができた。本流はガレ沢で、知床岳の北面が大きく崩れて、岩屑をここまで流し込んできたのだろう。
 クマの足跡を追うようにして対岸の斜面に取り付き、タキミ川と本流を分かつ中間尾根を登っていく。タキミ川にそろそろ降りようと下降点を探すのだが、滝が連続して懸かっており、結局高度差200m程度を直上してから、急な斜面を下ってタキミ川に降り立った。
 クマも同じルートを歩いているようで、少し古い足跡が所々残っている。沢は狭いが平坦で歩きやすく、誰かが残した赤テープも見られる。しかし、標高470m付近に懸かる滝の落ち口に下りるルートが見出せない。地図を見る限り、ここの滝を越えれば後は平坦な沢を詰め上るばかりだと思うのだが、10m足らずとはいえ、足元の急な斜面をロープなしで無理して降りるのはちょっとまずそうだ。ここから降りられないとなると、30分ばかり高巻きを強いられそうなのだが、クマもどうやら高巻きルートを選んでいるようだ。
 単純に沢筋を詰め上がれば、最も早く、最も楽に知床沼に到達できるだろうと考えていたが、それなりに神経を使わなければならない沢筋のルートをアイヌの人々も歩いていたのだろうか?このルートは違うのではないか?との思いが自分の中でどんどん大きく膨らんでいく。しばらく考えて、今回はここで行動を打ち切ることにした。
 戻るとなると行動は早い。沢と尾根筋を一気に駆け下り、ポトピラベツ川本流を渡って、鹿道を辿って高巻きを開始した地点まで戻ってきた。同じルートを歩くのも面白くないのでここから沢に下りずに、引き続き鹿道を歩いてみることにする。
 鹿道は想像以上に明瞭で歩きやすく、標高75m付近の屈曲点近くまで続いていた。少し川伝いに下ってから、屈曲点の右岸に続く鹿道をルートに選ぶ。
 屈曲点の右岸側の尾根の末端部は、すばらしく見晴らしの良い高台となっており、前回来た時もこの場所に座り込んでオホーツクの海をのんびり眺めながら休憩した印象深い場所なのだ。今回も同じようにさわやかな風に吹かれながらこの高台で休憩しながら、歩いてきたルートを振り返ることにする。
 当時の人々が知床沼に行く時に選んだルートは、この屈曲点から明瞭に続く踏道を辿り、一度ポトピラベツ川の本流に出てから、そこからしかるべきルートを選んで知床沼を目指したのだと思う。感覚的には忠実に沢筋を辿るルートとは思えないが、尾根通しのルートとも思えない。ただ言えるであろうことは、おそらく今自分が座っている高台に彼等も同じように腰を下ろして、オホーツクの海を眺めながら、狩りの成果を語りながら穏やかな時間を過ごしたに違いないことだろう。
 私の確信を実証するためには、ポトピラベツ川二股からいかにして知床沼までルートを繋いだのかを明らかにしなければならない。


8.アブラサンバ金山−黄金の夢のかけらを求めて

 平成8年に発行された改訂増補 静内町史によると、砂金の宝庫として知られる静内川(染退川)にまつわる昔話として次のような伝説が記録されている。

「日高染退川の上流には金山があったが、いまから約三代ばかり前の古老時代から口止めになって誰も知るものがない。
 昔、染退川の清冽な流れこそ、下流コタンの人々を潤す生命の水であった。そのうえ、ある時、ここの古老がはるばる石狩の千歳川から川砂を拾ってきて、この川に投げ入れてからは、不思議にも毎年秋になると秋味(鮭)が、まるではんらんするように遡るので、何不自由なくみんなが豊かに平和な日を送っていた。
 ところがある年、この川が急に濁り出し、唯一の糧たる鮭が獲れないばかりか、果ては飲料水にさえこと欠く状態になって、コタンの人々の生活は極度に脅かされていった。
 それはこの山奥に金山が発見されて、いつの間にか海岸のシンヌツから、染退川の支流シュンベツ川の川上アブラサンバまで約七十年間もかかって開かれた道路が、嶺を伝って延々と続き、そうして和人がたくさん入り盛んに採金されていた。そのために川が濁ることを知った古老たちは、みんな集まって相談した結果、ついに金山の所在を、和人はもちろん同族の子供にも一切口外しないことを堅く誓ったのであった。それでいまは誰も知らないのだ。」

 この手の伝説は、まるっきりのでたらめな話とは思えない不思議な魅力があるが、同じく静内町史には、昭和40年および41年にかけて行われた北海道立地下資源調査所による調査結果として、春別川の支流、ペンケアブカサンベ沢の支流に金鉱床が見られた記録している。二本確認されている含金石英脈のうち一本には肉眼で識別できる程度の金粒を多く含んでいるという。
 アブカサンベとアブラサンバ、どう考えても同じ地名としか思えない沢のどこかにあると想像される幻の金山跡と金鉱脈を探しに静内川を目指した。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

gold.JPG
砂金の夢は焚き火の煙のように消えていった

 大雨の降る真っ暗闇の林道を1時間以上走り、シュンベツダムで仮眠。翌朝、ペンケアブカサンベ沢の奥地を目指す。
 食料で膨れ上がったザックを背負い、ところどころ崩壊した林道を1時間ほど歩き、適当な地点から沢に降りて目星をつけた小沢を目指す。河原に転がる石ころを拾っては捨て、あれこれ眺めては捨てることを繰り返しながら、その小沢の入り口に到着した。すぐにザックを置いて上流を目指して遡る。手にはハンマーとバール、そして100円ショップで調達してきた選鉱パンの代用品のプラ皿と石ころを取り除くためのプラカゴを握りしめ、小さな落ち込みを探ってみることにした。
 お目当てのものが全く見つかりそうもないので、すぐに諦めて別の小沢の小さな滝つぼを探ってみた。結果はトータルで1時間ほど砂利すくいに熱中しただけで、砂金はもちろん、期待していた含金石英脈を探し出すことも、金を含んだ石英質の岩石を拾うこともできなかった。
 初日からすっかり意気消沈し、完全に目的を失ってしまったが、吸血昆虫類が思いのほか少なかったため、とりあえず久しぶりに真昼間からビールとウイスキーをだらだらと飲みながら、暗くなるまで焚き火で時間をつぶしてから寝袋にもぐりこんだ。
 のんびりするにも限度があるので、翌朝はイワナ釣りも兼ねて、再度、含金石英脈探しに出かけてみたものの、やはりそれらしいものが全く見つからないので、またまた真昼間からビールをあおり、だらしなく昼寝と焚き火で時間をつぶしてしまった。
 翌朝、すぐに下山し、昼前には静内の街に戻ることになったが、帰路、長い長い林道を走りながら、幻のアブラサンバ金山が存在していた頃のシュンベツ川をイメージしてみた。
 深い沢と急峻な山が幾重にも重なる深山幽谷の気配が漂うシュンベツ川流域は、25年前に初めて訪れた時と変わらず、清冽な水が流れる美しい川ではあったが、川はすっかり死んでしまっていることに気付いた。いくつものダムによって川の流れは分断され、ヤマメやサクラマスの姿を全く見ることはできないし、発電用と農業用に水を抜かれ、下流に行くほど水量が少ない。山中に林道が張り巡らされ、至る所で茶色の地肌をさらし、山肌が大きく崩壊している。川はすっかり土砂で埋まってしまっており、往時の美しいシュンベツ川の流れはどこにもなさそうだ。
 当時、アブラサンバ金山を目指した人々はどんな思いで、命を懸けてこの地にやってきたのか、そしてどんな思いで金山での過酷な労働と生活に耐えてきたのだろうか。
 戦に負け、敗走を重ねた末にようやく新たな生活基盤を見出だそうとした人々、貧しくて食っていくことができない故郷を飛び出したもののいずれは故郷に錦を飾る夢を見た人々、信仰を捨てられず安住の地を求めて迫害から逃れてきた人々。きっといろんな事情を抱えた、いろんな人達がこの地を目指し、この地で生活の糧を得るために死力を尽くしたのだろうと思う。
 それに引き換え、私はシュンベツ川の出会いに近い農屋の集落から四駆の車で1時間、そして2時間ばかりの鼻歌交じり山歩きでペンケアブカサンベ沢の奥地にやってきた、砂金が見つからなくても何も困ることのない、山や渓谷、木々や雲を眺めながら、昼間から酒をあおり、ぼんやり時間をつぶすだけの遊び人である。
 我々は美しく豊かな自然を失ってしまったが、それと引き換えに、常に生命の危機を全く感じることがない、食うことに困ることが全くない、豊かで快適な気楽な生活を得ることができた、とても恵まれた幸せな人間であるとつくづく思い知らされた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 様々な人々がこの地で生きる糧を得ながら暮らしていたシュンベツ川流域には今は誰も住んでいない。昔のような豊かな自然を取り戻せたらと夢想することはナンセンスであり、失った自然を二度と取り戻せるわけもないし、時計を逆回転できるはずもない。たぶんこの地で人々が暮らすことはもうないし、昔のような暮らしを送ることができる人間をもう見ることもないだろう。
 生活の場として原始性あふれる濃密な自然の中で生きてきた人間達の記憶が薄れ 自然からどんどん人が遠ざかり、自然を全く、あるいはほとんど必要としない暮らしが当たり前になってしまった現代社会において、わざわざ自然というものの本質と価値を改めて問い直す必要性が果たしてあるのだろうか。
 確かに我々の生活には自然はほとんど必要ないように見える。しかし、それが本来の人間の暮らしと言えるのだろうか。我々はこの世に生を受け、この手に何を掴もうとして生きているのだろうか。その答えは、その人それぞれの心の内にあるだろう。


BACK TO HOME