「モノローグ」


1.持続可能な社会を考える生きる指針を求めて

 個々人にとって「幸福の実現」は、総論としては共通の価値観であるが、社会集団の中で生きる我々にとって「持続可能性」も共通の価値観であろう。持続可能性を考えていく上で、環境問題は避けて通ることができない問題であり、人類共通の課題であることは誰しもが認めるものであろう。
 環境団体である「ナチュラル・ステップ」(現国際NGOナチュラル・ステップ・インターナショナル)は、環境問題に対する解決手法として、環境問題を考える際に自然環境と人間社会双方を含めた持続可能な社会システムの総括的な原則である4つのシステム条件(以下参照)を提唱している。

「ナチュラル・ステップが提唱する4つのシステム条件」

@地殻から掘り出した物質の濃度が増え続けないこと
・例えば、石油・石炭・金属等の鉱物を、地殻での生成速度よりも速いスピードで掘り出さない。
A人間社会の作り出した物質の濃度が増え続けないこと
・例えば、自然界に存在しない人工的に生産・排出される物質、PCB・フロン・NOxなどの分解しづらく、生物に有害な影響を与える自然界には存在しない物質を増やさない。
B自然が物理的な方法で劣化しないこと
・例えば、生産性のある緑地の砂漠化、アスファルト、乱伐、塩化、侵食などの人為的な原因による土壌面積の不毛化を止める。
C資源を節約する、効率的かつ公平に資源を利用すること
・例えば、人間のニーズを満たし、かつ資源を節約する洗練された方法、技術を求めること。そして、富める国と貧しい国の不公平な資源配分を避ける。

※国際NGOナチュラル・ステップ・インターナショナルは、4番目のシステム条件の日本語表記を変更しているが、あえてナチュラル・ステップ当時の表記をここでは記載する。

 これらのシステム条件を満たすためには「ファクター4」の概念が効果的であろう。簡潔にまとめると、豊かさを2倍にすると同時に資源消費を半分にすること、エネルギー・物質・輸送を効率化することによって生産性を4倍化すること、生活の質を高めるだけではなく、環境汚染や資源浪費を減らすことで収益を上げ、新しい資本を発展途上国にも投下することで山積している地球規模の問題の解決を図っていこうとするものである。
 しかし、冷静に考えてみると絶望を感じている自分に気付くのである。
 個々の幸福の正しい追求と社会の永続的な維持・繁栄を、我々は同時に実現できるだろうか?
 ナチュラル・ステップの提唱するシステム条件を見て、未来に希望を托せる人がどれほどいるのだろうか?
 ナチュラル・ステップの理念が我々の生活に速やかに浸透しない原因はなぜだろうか?
 富める者と貧しい者の格差がますます拡大し、紛争が世界各地でますます激化する中、なぜこのような悲惨なことが起こり続けるのだろうか?
 欲望渦巻く現代社会に生きる人々にとってナチュラル・ステップの理念はナンセンス以外の何ものでもないのではないか?
 私たち人類が、資源を節約し、効率的にできるスーパーテクノロジーを、たとえ手にすることができたとしても、富める国、富める人たちが、貧しい国、貧しい人たちに対して、不公平な資源配分を避ける英知と勇気を持たない限り、誰一人として本当の幸福に近づくことはできないのではないか?
 そして、今の仕事ですら思うように成果を上げることができていない私にとって、社会が永続的に維持・繁栄するために何らかの貢献をしていくことなど、何もないのではないか?
 確かに、私があれこれと考えてみたところで何ら世界は変わらないであろうが、「ナチュラル・ステップが提唱する4つのシステム条件」は混沌とする現代社会の羅針盤であり、少なくとも私にとっては、良き人生を求めて生きていく上で、目標とすべき「不変の光の一つ」であることを放棄してはならないと考えている。


2.管理人の精神的プロフィール

@日高山脈縦走記−生への渇望

 沢を登って頂上に至り、そして沢へと下って、また次の頂上へと渡り歩くという、夏の日高にこそ最も相応しい独特のスタイルをフル活用して、ピリカヌプリから戸蔦別岳まで単独縦走した13日間は印象的な山行だった。特にソエマツ岳頂上での一時は、今でも忘れることができない。
 今にも崩れ落ちそうな雪渓を潜り抜け、次から次へと現れる滝を越え、急斜面に密生するハイマツの中を這い上がって、誰もいない頂上へ。夕日に照らされて美しく輝く、見渡す限り続く日高の山並、太平洋、そして、雲ひとつない広大な空間。
 きっと、私が目にしている光景は、私の持つタイムスケールで見る限り、私が生まれるずっと以前から変わることなく存在し、そして私が死んだ後もずっと変わることなく存在し続けるだろう。
 古今東西、人は永遠性を有する存在を求めて苦悩してきたが、人間はほんの短い時間しか生きることができない、有限的な存在でしかないが、自然は人間の存在に関わりなく存在し続ける、まさしく永遠性を有する存在であると、私はその時に確かに体感したのだった。

 それから数年後、春別山を基点にピリカヌプリから神威岳への縦走の途中、厳冬のソエマツ岳の頂上を踏んだ。雪煙が舞う強風の頂上、束の間の快晴。夏の頂上と違っていたのは、歩き続けることを放棄してしまえば、確実に死が訪れる厳しい自然の中にいることだった。頂上からは、飛び込んでしまえば確実に死ねるだろう、急峻なソエマツ沢の沢底を横目で見ながら、痩せた稜線を歩いて神威岳を越え、翌日の夜には浦河の街に下山することができた。
 なぜ、緊張感と恐怖感に押しつぶされそうになりながら、危険な雪渓や困難な滝を越えて頂上を目指すのか?誰もいない深雪の斜面のラッセルに苦しみ、シュラフも凍る厳しい寒気に眠れない夜を重ねながら、足元からすっぱり切れ落ちた痩せ尾根を越えて、強風吹きすさぶ頂上を目指すのか?
 私にとって山に向かうことが、生きるということに他ならなかったのである。死を意識する事もある張り詰めた緊張感。次々と現れる困難を全身全霊で突破する時、自分の限界状況を超越する際に感じる一瞬の歓喜。自分の内側から沸き上がってくる、”今この一瞬を自分は確かに生きていると感じる「生の実感」”。
 私の存在を拒絶するかのような圧倒的なスケールと力を見せつける、大いなる自然と対峙する非日常的な瞬間を渇望していたのだ。

A斜里岳北稜にて−早すぎた「K」の死を想う

19891125.JPG
山仲間KとY、そして私、1989,11.25
快晴の奥穂高岳頂上にて

 北海道に移住してからいくつかの時が流れ、学生時代からの知り合いで、私の大切な山仲間であるKと北海道の旭岳温泉で久しぶりに会うことになった。お互いに登山のスタイルが違っていたので、彼と一緒に山に行くことはほとんどなかったが、初冬の北アルプスの西穂高岳から奥穂高岳への縦走行と、新潟県焼岳の山スキー登山は、今も記憶に残る、彼と共に過ごした楽しい山行だった。
 単独行ばかりで技術的に未熟だった私に、本格的な雪山登山というすばらしい世界に踏み込むきっかけを作ってくれたのはまぎれもなく彼のおかげである。
 悪天候で旭岳頂上からのスキー滑降は次回延期となったものの、二人ともアラスカへの夢を語り、「マウント・フェアウェザーなんかどうや?」なんて調子で、怪しげな遠征計画をネタに軽口を叩き合っていた。お互いに中年予備軍と言っていい年齢を重ねても、未だに相変わらずバカみたいな夢を持ち続けているのがKであり、私なのである。
 彼は、ヒマラヤ、ヨーロッパ、ニュージーランド、北米と、まさに世界を駆け回った経験豊かなアルピニストである。そんな彼が、登山道の整備された、さして危険なルートとは言えない低山で転落死したのだ。理由がどうであれ、事実を受け入れる以外にはない。山ではほんの些細な、不運の積み重ねによって、あっさりと命を落とすこともあるし、単なる偶然から命拾いをすることもある。もちろん、彼だってそんなことは当たり前のことと思ってきたはずだ。
 私にできることといえば、彼と共に過ごした時間を想い、残された遺族の方々のことを想い、そして「限りある自分の人生をどう生きていくのか」を、改めて問い直すことしかない。私のほうが先に山で命を落としたとしても、たぶんKも同じことを想っただろうが、あまりにも早すぎる死だったように思う。

 2004年4月、早春の斜里岳北稜は快晴の登山日和だったが、雪が固く締まり、トレーニングらしいトレーニングをサボってきた自分にはこのルートは歯が立たないと判断した。ナイフリッジの稜線を仰ぎ見ながら、もう二度と会うことのできないKのことを長い間ぼんやりと想いながら下山したあの日から、かなりの時間が経ってしまった。
 「死の恐怖」そして「生への渇望」に向き合った若かりし自分も、気がつけば人生の折り返し点をかなり通過してしまった。しかし、「自らの死を自覚して、今、自分はどう生きるのか?」、それこそが今も変わらない私の根幹をなすべき最も重要な行動指針となっている。

B失われたものを求めて−幸福とは何か

 飛騨加須良と越中桂、日本最後の秘境とも呼ばれた集落。石川、富山、岐阜のそれぞれの県境に位置する深い山間に、小さな峠を隔てて古くから人々が支えあって暮らしてきた、全戸合掌造りの2つの集落は今はもう存在しない。昭和42年に加須良が廃村、昭和45年に桂も廃村、そして平成5年に境川ダムの湖底に桂が沈んでしまった。
 私が加須良と桂の地を踏んでみたいと強く想ったのは、山本素石氏の著書「渓流物語」がきっかけである。今であれば、加須良と桂での古くからの暮らしの記録や、合掌造りの家々とそこで暮らす人々の写真を目にすることができるが、当時の私は山本素石氏が語る加須良と桂しか知るよしもなかった。
 加須良と桂を訪れてみたいとの願いは長らく叶わなかったが、境川ダムによって桂が沈む前のぎりぎりのタイミングでその地を訪れることができた。当時のことはほとんど記憶に残っていない。おそらく平成5年の3月だったと思う。加須良川の左岸の山腹に刻まれた雪に埋まった林道をスキーで加須良まで歩き、峠を越えて桂に降り立った。
 当初の計画では桂から大笠山の頂上を目指すつもりだったが、心にぽっかり穴が空いてしまい、頂上を目指す気力が完全に失せてしまった。廃村から20年以上が経ち、加須良にも桂にも合掌造りの家々は跡形もなく、私が求めていたものが何も残されていなかったからであろう。
 周囲をぐるりと高い山に取り囲まれた急峻で雪深い境川の谷底に差し込む午後の柔らかな日差しを受けながら、きらきらと輝く境川と大畠谷の水の流れをしばらく間、ずっと眺めていた。外界と孤立する冬、猫の額ほどの平坦地を暮らしの基盤としていた桂の人々は、どのような暮らしをしていたのか…、私ならとても暮らしていけないだろうなぁ…など、同じようなことを繰り返し、繰り返し、ぼんやりと考えていたように記憶している。
 結局、加須良に戻り、廃村を記念して建てられた石碑の前にテントを張って、静かな夜を過ごして翌朝早々に下山した。

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手元に残った唯一の写真、蓮如伝説が残る楢の木と石碑が写った廃村「加須良」

 加須良と桂を訪れてから20年近い歳月が経ち、あの時の心象風景は私の記憶の片隅で完全に眠っていたが、飛騨白川郷野外博物館合掌造り民家園の元事務局長N氏のホームページとの出会いをきっかけに、当時の記憶が蘇り、強烈に私の心を揺さぶり始めた。非常に残念なことにN氏のホームページは閉鎖されてしまったが、五箇山・白川郷にまつわる過去の物語と、ユネスコ世界文化遺産に指定された後の観光客で賑わう今の五箇山・白川郷の姿を紹介しながら、「今を生きる我々が失ってしまったものが何であったのか?」とN氏は私たちに痛烈に問いかけてくるのである。
 多くの人たちが、高度経済成長期以降、便利で物質的に豊かな生活を得た代償として、決して取り戻すことのできないものを私たちは失ってしまったと言うが、私は高度経済成長期以前の時代を知らないし、そもそも私には古き良き時代が残っていた頃の「ふるさと」の思い出というものがないのである。
 加須良と桂で探していたものは何か?「ふるさと」や「桃源郷・ユートピア」に対する漠然とした憧憬とは異なるもの、我々が失ってしまった本当に大切なものとは何だったのだろうか?
 「さよなら、桂」の著者である寺ア満雄氏は、その著書の中で、廃村となってしまった越中桂での分校生活の中で学んだことの最も大きなこととして「純粋さ」であったと振り返っている。
 加須良と桂のような隔絶された山峡での暮らしは想像を絶するものがあるが、数百年にわたって集落の歴史を刻むことがきたのは、いついかなる時も、共同体のメンバーが一致協力して生きていくという無意識のレベルの宿命に従うという「純粋さ」という言葉に集約されていい価値観があればこそであったと思う。
 今にして思えば、廃村となってしまった飛騨加須良と越中桂に、私が無意識のうちに本能的に求めていたのは、同じ価値観を持って、お互いに助け合い、認め合い、必要とし、必要とされながら、お互いに幸福に生きていけた共同体の面影だったのだと思う。
 一方で我々の暮らしは本当に幸福といえるのだろうか?自然と向き合い、自然との闘いの中で必死で生きていく必要がなくなったら、共同体は必要なく、最後の砦であったはずの家族も、価値観はバラバラ、食事もバラバラ、お互いに好きなことを優先し、お互いに助け合い、認め合い、必要とし、必要とされながら暮らしていかなくても、さほど不都合なく生きていける時代に我々は生きている。
 自然の中での暮らし、生きていく技術・能力・機会を完全に失うことは、人間本来が持っていた人間性を失ってしまうことに直結してしまうのではないかと私には思えるのだ。

C回想の日高−本当の幸福とは何か?

 40代後半となった今でも、山登りはそれなりに楽しいものだが、登山が人生の中心にあった20代前半の頃とは明らかに違って、今現在の生活においてその位置付けは大きく変質している。
 登山という行為が現代社会においてどれほどの普遍的価値を持っているのかという問いを前にして、今の私なら優れた普遍的な価値など何ら見出せないと即断するだろう。確かに主観的な視点で見れば、自分の内面と徹底的に向き合い、本当の自分を掴み取るための実践手法の一つとして、個人的には極めて優れた価値が存在していることは認められる。
 しかし、社会的、経済的な視点で登山という行為は考えれば、エネルギーと時間をただ単に消費あるいは浪費する行為であり、消費文化を下支えし、経済を活性化させるための商品としての価値があるだけに過ぎないだろう。突き詰めて考えてみると、登山愛好家には申し訳ないが、富める国に生まれたごく一部の恵まれた人間だけが楽しめる単なるお遊び、暇つぶしにしか思えなくなってしまったのである。登山は人生において最高の趣味であり、生きがいの一つになりうると思うのだが、どうやら私はそう思えなくなってしまったのである。

 29年前のソエマツ岳頂上での一時を今でも思い起こすことができる。頂上直下の小さな平地にツエルトを張り、食事の準備をしながら、見渡す限り続く日高の山並と太平洋、そして、雲ひとつない広大な空間を、夕暮れ時の刻々と変わりゆく光景を独りでただただ眺めていた。あの時に確かに感じた言葉にすることができない不思議な幸福感は何だったのであろうか?
 これまでに何度も心の奥底に焼き付けられたものが何ものであったかを明らかにしようと試みてきたが、禅定というものを知る機会を得て、どうやら私は色界第二禅と考えられる状態を、その時に経験したように思われる。
 今にして思えば、次から次へと現れる難所を全力で越え、ただただ頂上を目指して進むことだけに極度に集中していったことで、一切の苦しみや欲望を完全に忘却し、さらには感覚器官から得られる種々の情報に惑わされることなく、思考や雑念の一切が消え去り、心が静かに落ち着き、私の精神がどんどん澄み渡って、ついには私が私であるために絶対に必要不可欠であると確信していた自我までもが完全に蒸散してしまったようだ。
 そして、突然、私の心の奥底から、「私という存在は、いつの日にか命が尽きてしまう有限的でちっぽけな存在でしかない。しかし、私が今まさに存在している広大無限な自然空間は、自分の命が尽きたとしても存在続けるであろう永遠性を有する存在である」という一つの真理が激しく湧き上がり、同時に、私の身体の全体を静かに染み渡るように「この瞬間を確かに私は生きている」という穏やかな”生の実感”と共に、強い”喜悦感”に包まれる経験を得た。
 恐らくは、あの瞬間を境に、死が宿命付けられた空虚で孤独な人生を生きていくために必要な精神的な強さが私には備わり、ようやく、この世に生を受け、この一瞬を生きていること自体、奇跡といっても言っていいほど幸福なことであり、感覚器官を通じて感じ取ることができる自分と外界の全ては、とてもかけがえのない存在であることが理解できるようになってきた。

 これまで私が長い時間をかけて思考し、求め続けてきたものはただ一つ、「幸福な人生」に尽きる。幸福な人生とは、一般的には「自分の身体と脳が欲する刺激的な欲望を満たすこと」にあるだろう。しかし、どうやら私は、それらの執着を捨て去り、様々な欲望や怒りにまみれた自我、妄想、虚勢で固められた自分の殻が砕け散り、本当の素の自分という存在が露出してしまった時に感じられる異質な幸福感を無意識のうちに知ってしまったらしい。
 長い間、私は漠然と幸福な人生を追い求めてきたが、若き日の私のように、自分の存在の意味を必死で問い、思い悩み、もがき苦しみ、他者との比較や競争という手法によって、必死になって自分という存在を築き上げようとすることはもうないだろう。私という存在は、存在の必然性や意味を完全に超越して、すでにもう今この一瞬を確かに生きており、自我や思考よりも先立って肉体としてすでに存在している。肉体に散らばる無数の感覚器官を通じて、決してとどまることなく変化している外界を、妄想を膨らませながら都合の良いように適当に認識し、様々な現象に対して快・不快の感情に振り回されながら生きているだけの典型的な無智な存在でしかない。
 もし異質な幸福感を求めて生きるのであれば、自我や思考が取り払われ、完全に自分を丸裸にすることができるのであれば、何ものにも束縛されることも依存することもなく、私は精神的に自由な存在として生きていけるかもしれない。

D清水沢造−今野保氏が語ったある男の生き方に学ぶ

 「羆吼ゆる山」と「秘境釣行記」の著者である今野保氏は、若かりし日の私が追い求めていた本物の自然、見渡す限り続いていた鬱蒼とした手付かずの原生林、山野を跋渉していたアイヌ民族の血を引く狩猟者、そして激しく美しい渓谷、もしかしたら人跡未踏かもしれない地図上の空白地帯が存在した時代の夢物語を自ら体験し、激的な体験の一部を書き残していただいた方である。
 特に両著の中でいきいきと語られる、アイヌ民族の血を引く猟師「清水沢造」という人物に、私は心が惹かれるのだ。「清水沢造」がいつどこで生まれ、いつこの世を去ったのかはさっぱりわからない。今野氏は昭和7年にメナシベツ川で農屋に住んでいるという真っ黒な鬚をはやした大男である彼に初めて出会い、昭和11年にコイカクシュシベチャリ川上流域を一緒に踏査している。「羆吼ゆる山」と「秘境釣行記」よりも以前に、今野氏によって発行された「染退川追憶」と「渓流の想い出」にも、残念ながら「清水沢造」についての新しい物語を知ることはできなかった。「清水沢造」は、たぶん自然の真っ只中でただただ生きるために生き、そしてこの世を去っていったのであろうと思う。
 私は知床で出会う巨木たちにも「清水沢造」と同じように心惹かれているのだが、恐らくは、この世に生を受け、大地にしっかり根を張り、厳しい環境に耐え、周囲の植物と調和し、木の実や花の蜜などの食料や住処を動物達に与え、誰のために生きるわけでもなく、名があるわけでもなく、生きた証を残すわけでもなく、誰にも知られずに、やがては朽ち果てていく運命にあるにもかかわらず、限られた環境の中で、ただただ自らの一生を生き続ける姿が重なるからであろう。
 「羆吼ゆる山」と「秘境釣行記」は、単なる昔語りや懐古趣味とは一線を画す名著であると私は確信している。ズタズタに破壊され尽くした静内川流域の今の姿を多少なりとも知っている者であれば、あとがきに記されている今野氏の心と体の奥底から噴出した憤りに、きっと胸が張り裂けるような想いに駆られることだろう。
 今野氏が世に問うた「我々はいったい何を得、何を失いつつあるのだろうか」という問いの答えを真剣に問い続けようとする人が、今の世の中にどれほどいるのかは定かではないが、きっとその答えは「清水沢造」という一人の人間の生き方を学んでいくことで明らかになってくると私は感じている。

E福岡正信−自然農法という実践哲学
 「わら一本の革命」の著者、故福岡正信さんが提唱する自然農法はとても魅力的だ。不耕起、無肥料、無農薬、無除草を原則とする常識外れの農法は誰もが驚かされるだろう。
 しかし、福岡さんの本意とは違って、単なる農業技術論として着目されてしまったことは本人にとってはとても心外だったと思う。
 福岡さんは自然とは何かを徹底して追及し、農耕の視点から自然を求めた哲学者であり、求道者だったと私は思う。人間の本来の自然の姿に立ち返って、真の幸福というものを味わえる真人の里の復活を目指すための具体的な方策として、福岡さんは国民皆農を唱えていた。
 だが、我々現代人ほど真の自然とかけ離れた存在はないように思う。そもそも自然とは何かを問う時、真の自然を経験したことがなければ、その問いの答えを導き出すことができないのではないかと思う。多くの現代人は、真の自然を見たことも、聞いたことも、触れたことも、感じたことも全くないだろう。
 人間によって管理され、歪められた不自然な自然しか知らない人間は、不自然な自然を、真の自然として疑うことなく生きている。ほとんどの現代人は、真の自然を必要としない暮らしを送ることによって、自然とは何かを問う必要性も全くないばかりか、人間本来の生き方を問う必要性も全く感じないまま、人生の幕を閉じることになるのではないだろうか。
 真の人間の歩むべき道である無為自然の道を歩むこと、これこそが自然農法という人参をちらつかせながら、福岡さんが世に問いかけてくれた大切な教えなのだと思う。

FE.,ウォルター−自然と冒険と人をこよなく愛した素敵な人
 薄暗い照明に照らされた彼の横顔にハッとさせられた。深く刻まれたしわ、穏やかな微笑みと語り、そっと寄り添ってくれるようなやさしい心遣い。今、この瞬間の彼を写真に写しておきたいと思った。彼と会うのは2回目だが、胃がんの手術を受けたとのことで、初めて出会った時と比べて少し痩せていた。もしかしたら、彼とはもう会えなくなってしまうのではないかとその時に無意識に感じていたようだった。
 男に惚れるというのも変だが、私にもう少しコミュニケーション能力があれば、もっともっといろいろな話が聞けたと思うし、もっともっと彼のことが好きになっていたと思う。
 しかし、その時の私は、自分の気持ちをうまく言葉にすることができず、私のささやかな望みを形に残すことはできなかった。

 人生、誰にでも太陽のように光り輝いている時期、瞬間があると私は思う。自分の内側から燃えたぎるような、熱く眩い輝きはまさに太陽の光と同じで、きっとその光の強さは、その人が持っている情熱に比例するのではないだろうかと思う。多くの人々を魅了するような輝かしい光を放つ人は少ないけれど、誰もがその人なりに光輝く、大切な人生の一時を持っていると思う。
 彼は、自然と冒険と人をこよなく愛する、とても魅力的で素敵な人だった。今にして思えば、自分の殻に閉じこもって生きてきた私の硬い殻を溶かしてくれるきっかけになったのは、間違いなく彼であったと思う。
 書斎に飾られた熊の頭骨と同じ熊が倒れて横たわっている傍らで銃を握った彼の写真を見せてもらったが、きっと若き日の彼は、よりワイルドな自然を求めて旅を続けながら、太陽のように熱く眩い情熱をたぎらせながら、光輝いていたのだと思う。
 そして、今の場所に落ち着き、静かに穏やかに暮らしながら、月のように静かに、そして美しく輝く人生を送っているのだろう。
 あの時の彼の横顔を、今も時々思い出す。彼のガイドでサーモンフィッシングを楽しむという私の夢が叶うことはもう二度とないが、私の心の中で、彼は今もずっと生き続けている。

GV.E.,フランクル−人生には意味がある!ニヒリズムからの脱却!

 全ての人の人生には何らかの意味がある。意味がないと思ってしまったら、その人の人生に意味を見出すことはできない。人生には何らかの意味があるということを信じるか信じないか、自分の心、物事の捉え方の問題である。
 人生には普遍的な価値があるのかどうかという問いも誤っている。人生は価値ある人生を送るためのチャンスなのである。価値があるとか無いとかではなく、価値ある人生を実現するために人間はどう生きていくかが問題なのである。
 より良き自分の人生を求めてこれまでずっと苦悩してきたが、そんなものは最初から答えを出すことはできなかったのである。求めれば求めるほど、本来の自分から遠ざかり、幸福から遠ざり、求めるべきものを完全に見失ってしまうだけであったのである。
 では人生に何を求めるのか?フランクルによれば、意味への意思が最も根本であり、これらが充たされないことによる空虚さを補うために無意識のうちに求めてしまうものが、心地よい麻痺を伴う快楽への意思であり、力への意思であるという。
 そう、今この瞬間を生きている私の全てを引き受ける覚悟が、完全に欠落していただけだったと、今にしてようやく私は気付いたのだった。
 もう何も迷うことは何も無い。全ては自分の人生である。過去の人生も全くの自分の人生であり、未来の人生も全くの自分の人生であり続けるであろう。人生に迷い、どう生きていけば良いのか全く分からず、途方にくれながらも、必死でもがき苦しんできた若き日のあの頃から、なんと30年もの歳月が流れてしまったが、より良い人生を生きるためには遅すぎるということは無いし、もう道に迷うことも無いだろう。ようやくニヒリズムと決別する時が来たようだ。

H自然との対話−自然と人間を考える

 四季折々に姿を変え、決してとどまることなく変化し続ける自然、特に針交混交林の木々を長年独りきりで眺めていると、「自然は人間にとってどのように役に立ち、役にたたないかによって認識されるがゆえに存在しており、人間にとって役に立たないものは、そもそもその存在を認識することができない」とする西洋哲学の流れを汲む自然観とは明らかに違う自然観が、身体の奥底から涌いてくる感覚が得られるようになってきた。
 大いなる自然の前では、肉体的な様々な苦痛や不快感、そして恐怖と好奇心に満ちている自分に容易に気付くだろう。しかし、しばしば感じられる不思議な心の安らぎの本質に気付くのに私はかなりの時間を費やしてしまった。
 うまい空気を吸い、うまい飯を食い、良い景色を眺めて、気分爽快・ストレス発散、心も身体も軽くリフレッシュされたからこそ、心の安らぎが得られるわけではない。困難なルートを突破して到達した頂上での歓喜も、ラフコンディションの荒れた海から逃げ込んだ安堵感も、一瞬のうちに消え去るものであり、心の安らぎとは全くの別物である。
 本当の心の安らぎは、憎しみ・怒り・争い・暴力・略奪・差別・貧困とは全くの無縁の世界である大いなる自然に、身も心も委ねるからこそ感じられるものである。

 オランド王女イレーネは自然と会話ができるそうだが、知床の森で出会う数々の巨木たちは黙して語らない。
 一般的には人間は万物の霊長と呼ばれるが、自然との関わりを強く意識している人々には、きっと違和感を感じていることだろう。人類の歴史を振り返ってみると、「殺戮と友愛」「破壊と創造」を繰り返してきた、とても愛すべき、しかし、どうしようもなく愚かな存在が人間であると言わざるを得ない。
 愚かで醜い自分の心に向き合いながら、大いなる自然に自分の全て委ねるてみると、自分の心が少しずつ開放されてくる。自分よりも圧倒的な存在感を持ち、威厳を放っている巨木に敬意を払うと同時に、同じ時間、同じ空間を生きている愛すべき隣人であると素直に感じられるようになってくる。
 四季折々に見せる知床の巨木たちの美しい姿や圧倒的な生命のエネルギーに触れる中で、愚かな人間と異なり、彼らは完璧な寛容さと強さを兼ね備えた存在であり、善悪の概念が無い世界で生きている素晴らしい生命体であることに気付かせてくれた。
 人間と自然がどうしようもなく切り離された時代の中で、我々はどう生きるべきかを考え抜くためには、自然との対話を重ねていくことが少なくとも私にとっては必要なようだ。


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